神谷武夫
伊東忠太は1889年に帝国大学の造家学科に入学した。岸田日出刀の『建築学者 伊東忠太』によると、当時 帝国大学 における建築史教育は、もっぱらファーガスンの建築史書が「直訳伝授」されていたとある。『近代日本建築学発達史』 (1972、丸善、p.1688) によると、その分担は、
とあるが、これは要するに、前章で述べたファーガスンの3部作を それぞれ分担したということを意味する。つまり、『世界建築史(History of Architecture in All Countries)』を小島憲之 (1857-1918) が講じ、『近世様式の建築史(History of the Modern Styles of Architecture)』を<人物年表>でコンドルの下に書いてある 辰野金吾 (1854-1919) が講じて、『インドと東方の建築史(History of Indian and Eastern Architecture)』をコンドルが担当したわけである。 『インドと東方の建築史』が 1876年に出版されて、ファーガスンの生前に この3部作が出揃った。その 1876年の秋に、<人物年表>で伊東忠太の左4人目の ジョサイア・コンドルがロンドンを旅立って、翌年の1月に日本に到着し、日本で最初の建築教育を始める。よく知られているように、コンドルには オリエンタリズム、東洋趣味があったという。浮世絵などは別として、建築の知識としては ファーガスンの本を読んでいたと考えられる。師匠であるバージェスからも示唆を受けたろうが、読むものとしては ファーガスンの本しかなかった。当然、ファーガスンの本を携えて日本に来て、建築史の講義をしたのであろう。 コンドルは日本に来て建築教育を始めると同時に、設計活動も始める。最初に設計を依頼されたのが 上野博物館であった。これが、いわゆる「インド・サラセン様式」でつくられたと言われる建物である。彼自身の処女作でもあるわけだが、なぜコンドルが、これを「インドのイスラム様式で」つくったのか というのが、ずっと 謎であると言われてきた。
上野博物館:ジョサイア・コンドル あとで詳しく触れるが、そのことをコンドル自身が、晩年に建築学会で 表彰された時に、次のように説明している。
と。つまり、日本に建てる東洋的な建築には 印度建築、あるいはサラセニック建築の要素を持ち込むのが良いと考えた、というわけである。これは晩年になっての事後説明だから、これをそのまま受け取る必要はない。というのは、コンドルが日本に来てすぐに設計依頼を受け、そこで、日本に建てる現代建築は 日本との調和をいかになすべきかと考え始めて、そこでインドの建築やサラセニック建築を思い浮かべ、そのスタイルを勉強する などという、そんな悠長なことをやっている暇はない。工部大学校での教育の仕事の合間に、直ちに、ぱっと設計しなければならない。ということは、この上野博物館においておこなった「インド・イスラーム風の」デザインというのは、ただちに やったと考えられる。
つまり、こういうスタイルを 彼は持っていたのである。だから インドにいたわけでもなく(日本に来る途次、インドに寄って いくらかは見てきたろうが)、頼りにした本はファーガスンかもしれないが、いきなり こういうものを設計したのは、つまり こういうスタイルを すでに知っていたということを意味している。(日本建築の要素を取り入れるのなら、いくらでも見に行けたはずなのに。)
ここで、言葉の定義を明確にしておかなければならない。日本で「サラセニック」という言葉が あいまいに使われて、混乱を生じているからである。 この「インディアン・サラセニック」という言葉と 「インド・サラセニック」という言葉が、混同されていることが多いのである。伊東忠太がそうで、忠太の本、あるいはノートの中に「インド・サラセン」と書いてある場合には、それが “Indian Saracenic” をさしているのか、”Indo-Saracenic” をさしているのかを見分ける必要がある。それを全部、彼はカタカナで「インド・サラセン」と書いている。それは ある程度 やむをえないことでもあって、インドのことを英語では INDIA というが、日本語ではインドというから、Indian Saracenic も Indo-Saracenic も 日本語のカタカナで書こうとすれば、どちらも「インド・サラセン」ということになりがちなので、両者を混同してしまうわけである。岸田日出刀は『建築学者・伊東忠太』の 198ページで、
と書いているが、これは忠太からの聞き書きであって、忠太の混同が受け継がれているのである。つまり、ここに言う「印度サラセン式」も、これに続いて説かれている建築も、「インディアン・サラセニック」、すなわち「インドのイスラム」建築であって、「インド・サラセン様式」の建築ではない。 では、両者がどういうふうに違うのか ということを見ていこう。まず 現代の日本人にはあまりなじみのない「サラセン」という言葉であるが、もともとは ギリシア・ローマ時代に、シリアやアラビア地方のアラブ人を指した「サラケノイ」や「サラケニ」に由来する。7世紀に起ったイスラーム勢力がアラビアから北アフリカを経てスペインに達し、さらにヨーロッパの中心部へと進攻すると、これに脅威を抱いたキリスト教徒のヨーロッパ人が、敵であるイスラーム教徒の軍勢を「サラセン帝国」と呼び、そこに 侵略者としての悪魔的イメージを含ませた。12世紀の十字軍の時代になって初めて、イスラーム文明のほうが ヨーロッパより進んでいることを悟るのだが、イスラームについては 19世紀に至るまで、そのままサラセンと称した。したがって、イスラーム建築は英語で「サラセニック・アーキテクチュア」(Saracenic Architecture) と呼んだのであるが、また別の呼称もあった。 イスラームの開祖は ムハンマド (c.570-632) であるから、イスラーム教のことを「ムハマダニズム」と呼び、イスラーム建築は「ムハマダン・アーキテクチュア」(Muhammadan Architecture)、あるいはその訛りの「モハメダン・アーキテクチュア」(Mohammedan Architecture) とも言った。また、かつてはムハンマドのことをマホメットと綴ったので、「マホメタン・アーキテクチュア」(Mahometan Architecture)、あるいは「マホメダン・アーキテクチュア」(Mahomedan Architecture)とも呼んだのである。 どの呼称を用いるかは 著作家によって異なったが、ファーガスンは、なぜか 一般的呼称と具体的記述で 別の用語を用いた。章のタイトルでは必ず「サラセニック・アーキテクチュア」と記したが、本文においては、『図説世界建築ハンドブック』の時には「マホメタン・アーキテクチュア」と呼び、『世界建築史』からは「マホメダン・アーキテクチュア」とした。ところが彼の死後に バージェスが『インドと東方の建築史』の改訂版をつくると、本文部分では これをすべて「ムハマダン・アーキテクチュア」に改めることになる。現代では もっぱら「イスラミック・アーキテクチュア」と呼び習わしている我々には、ずいぶんの混乱に見える。 インドで「サラセニック・アーキテクチュア」に代わって「イスラミック・アーキテクチュア」という言葉が大々的に使われるようになるのは、前章でもふれた、<人物年表>で忠太の右隣にいるパーシー・ブラウンが著した『インドの建築』 (1942) からである。サラセンという言葉の使用を 次第に少なくしていった E・B・ハヴェルが「インド・ムハマダン」と呼んだ建築を、ブラウンは「インド・イスラミック」と定義し直し、同時に、それまで長く使われた サラセンという言葉を追放したのだった。
しかしブラウンの本が上梓されたのは その晩年であったから、年代的にハヴェルとブラウンの中間にいた伊東忠太は、ファーガスンと 初期のハヴェルの用語法を引き継いで、もっぱら「サラセン建築」の語を イスラーム建築の意味で用いた。一方、中国ではイスラームのことを「回教」または「回回教」と呼んでいたから、日本でもイスラームは「回教」と訳されていた。忠太は大旅行後の明治44年に、雑誌『建築世界』に連載した「印度建築」の中で、 と書いている。これも、今のひとには 解りにくい言いまわしであろう。 さて、ファーガスンは『図説世界建築ハンドブック』の中では、「サラセニック・アーキテクチュア」という章を設けて イスラーム建築を解説している。そして インドに入ってきたイスラーム建築は、「インディアン・サラセニック・アーキテクチュア」というタイトルで論じている。したがって「インディアン・サラセニック・アーキテクチュア」というのは、インドでつくられたイスラーム建築 という意味である。一方、『世界建築史』においては、シリアからスペインにおよぶイスラームを「ビザンティン・サラセニック・アーキテクチュアと呼んでいるが、これはビザンティンの影響を受けた、中東のイスラーム建築という意味である。 それでは、「インド・サラセニック・アーキテクチュア」というのはどういう意味だろうか。この「インド・サラセニック」という用語は、先ほどの「インド・ムハマダン」や「インド・イスラミック とよく似た用語のように見えながら、実はまったく別の概念を表しているのである。そして、コンドルの上野博物館は、「インド・サラセン様式」風ではあっても、全体として「インドのイスラーム建築」風であるわけではない。
<人物年表>を見ると、インドの大部分ががイギリスの植民地になったあと、右側の1856年のところに「インド大反乱」と書いてある。シパーヒーの反乱(昔はセポイの乱と言ったものだが)、つまりインド人がイギリスの植民地支配に対して 大反乱をおこす。それが鎮圧されてムガル王朝も滅びるわけだが、イギリス本国が、もうインド支配を 民間の東インド会社には まかせておけない ということになり、東インド会社を解体して インドの直接統治に乗り出すことになる。 アングロ・インディアンというのは、「英印間の」とも、「英印混血の」とも、「英国化したインドの」という意味でも用いられる。建築においては、18世紀の英国を代表するのはギリシア・ローマを範とする古典様式、とりわけパラディアニズム(16世紀イタリアの建築家・アンドレア・パラディオの作風に倣った古典主義)であったから、植民地インドの首都カルカッタ(現・コルカタ)には、そうした建物が 英国の建築家によって続々と建てられた。その代表が、チャールズ・ワイアットの設計になる、古典主義の インド総督(英国副王)官邸である。そうしたコロニアル建築は、「アングロ・インディアン」建築と呼ぶのが、最もふさわしい。そして 19世紀半ばになると、より経済的に繁栄したボンベイ(現・ムンバイ)に中心が移り、そこでは イギリス本国における建築動向を反映して、ゴチック・リヴァイヴァルの建築が主流となる。
大反乱後、ゴチック様式が盛んになるのと同時に、それまでのファーガスンやカニンガムを中心とする活動によって インドの古い建築がどういうものかということが研究され、建築家たちに知られ始めてきたということもあり、次第に インドの伝統的な要素を ヨーロッパ風のコロニアル建築の中に取り込もうという動きが活発になる。 まず ヒンドゥ建築は石造であるにもかかわらず 柱ー梁構造なので、ヨーロッパ建築とは相性が悪い。それに対して イスラーム建築は、もともと生まれが近東で ヨーロッパ建築に近い。アーチとドームを原理としているから、そのほうがヨーロッパ建築と合う。だから、インドに建てるコロニアル建築 にインドの伝統的な要素を取り入れるには、イスラーム(サラセン)建築が良い。インドのイスラーム建築というのは、ちょうど滅びたばかりの ムガル朝の建築が一番発展したのだから、ムガル建築の要素をコロニアル建築に取り入れるのが一番良い、ということを ネイピアが 1870年に主張した。その結果として、ムガル様式を取り入れたコロニアル建築が、後にインド・サラセン様式と呼ばれることになるのである。 一方、コンドルがインド・サラセン様式をやったのはなぜか ということだが、コンドルとインド・サラセン様式に橋を架けるのが、<人物年表>でコンドルの左下に書いてある、ウィリアム・エマースン (1843-1924) という建築家である。エマースンはコンドルよりも9歳上で、初め画家を志したが建築に転向し、ロンドンのキングズ・カレッジを卒業したあと、ある設計事務所に勤め、ついで ウィリアム・バージェスのアシスタントとなった。
このバージェスというのは <人物年表>で カニンガムの下に書いてあるが、第1章で触れた、インド建築史を研究して『インドと東方の建築史』を改訂・増補したジェイムズ・バージェスとは 同世代でありながら、まったく別人の、イギリスの建築家、ウィリアム・バージェス (1827-81) である。この人は ヴィクトリアン・ゴチック(ヴィクトリア女王時代の ゴチック・リヴァイヴァル建築)を代表する建築家で、後述のように、コンドルの師にも あたる。さらに、辰野金吾もイギリスへ行って、バージェスの最晩年の弟子となるのである。
イギリスの建築史家、フィリップ・デイヴィスが書いた『英領インドの建築的栄光』(Splendours of the Raj, British Architecture in India 1660-1947) という、インドにおけるコロニアル建築を研究した重要な本があるが、その中でデイヴィスは、ボンベイ美術学校案について、「13世紀のフランス・ゴチックとオリエンタル・モチーフ」で作られている と書いている。バージェスはヴィクトリアン・ゴチックの建築家であったから、ほとんどの作品をゴチック様式で設計していたのだが、その中で唯一 このボンベイ美術学校だけが、一番目立つ塔の上に、ゴチックの尖塔ではなく、ドーム屋根を戴いている。ほかにもいくつかの小ドームがある。ディテールの図面は未見だが、東洋的な要素(オリエンタル・モチーフ)で 満ちていたらしい。 フィリップ・デイヴィスは この本の中で、どこまでがバージェスの指示で、どこからが担当者のエマースンの寄与であるのかは、今となっては解らないけれども、バージェスの作品群の中で この設計だけが、オリエンタル・モチーフで満ちている と書いている。若いエマースンは、インドやオリエンタルへの興味を きわめて強くもっていたわけである。それを この設計案で推進して、この設計が完成すると、エマースンは1864年 (1865年とも) に この設計図をもって単身ボンベイへ渡る。このとき一緒に渡印したのが、ボンベイ美術学校の教師として赴任したジョン・ロックウッド・キプリングである(後の 1880年には、ラホールのメイヨー美術学校の校長となった)。このキプリングの息子が、『キム』や『ジャングルブック』を書くことになるノーベル賞作家のルディヤード・キプリングである。 残念なことには、予算の関係で、結局 このボンベイ美術学校は実現しない(後に、別の建築家の設計で建てられた)。しかしエマースンは そのままインドに残って、自分で仕事を獲得して 設計活動をする。ボンベイのクローフォード・マーケットという建物は、バージェスの カーディフ城を下敷きにした作品である。そのあといくつかを経て、大きなプロジェクトを獲得する。それが、アラハーバードのミュア・カレッジである。大いに張りきったが、その仕事をインドでやり通すのは 少々無理だということが解り、イギリスに戻ってその設計をする。彼の仲間を呼び集めて設計をするわけである。
このミュア・カレッジは 非常に大規模な仕事で、しかも 実にユニークなデザインなので、エマースンの壮年期の代表作とみなされている。写真を見てわかるように、建物群は きわめてオリエンタルな要素で満ちているが、下の方は当時の主流のゴチック様式を主とする、英国のコロニアル建築である。尖頭アーチの窓にはトレーサリーが入っていて、ゴチックの下部構造の上には ムガル建築のドーム屋根が載り、さらには エジプトのマムルーク朝時代のミナレットが建つという、まことに混成的な、オリエンタルな設計をしたのだった。
<人物年表>の右側 1873年に、「ロジャー・スミスとエマースンの様式論争」という記述がある。トマス・ロジャー・スミス (1830-1903) というのは<人物年表>の下部に ウィリアム・バージェスの右隣りに書いてあるが、バージェスと同世代の建築家で、コンドルが最初に就職して修行した設計事務所が、この親戚筋(父の従兄弟)にあたるロジャー・スミスの事務所であった。ロジャー・スミスはインドのボンベイで仕事をしたことがあったが、この人はヨーロッパ主義者で、インドに建てるコロニアル建築は、純ヨーロッパ式でいくべきである、ということを主張した。
(From "William Burges and the High Victorian Dream") そういう論争が起きた その年 (1873) に、コンドルは ロジャー・スミスの事務所からバージェスの事務所に移っている。それまで修行していたロジャー・スミスの事務所では、ロジャー・スミスがヨーロッパ主義者で、もっぱらヨーロッパの建築、古典主義で設計していた。一方、エマースンは バージェスの弟子である。コンドルは、そのエマースンが かつて在籍していたバージェスの事務所に、ちょうどこの論争があった年に移る。論争と、事務所を移ったのが、どちらが先か 定かでないが、このことから、コンドルはロジャー・スミスよりも エマースンの主張に共感を示したということが うかがわれる。つまり、植民地に建てる建物には、現地の伝統を取り入れるべきであると、そういうエマースンの主張に共感をしたのだろう。そこには、さきほどの推測、コンドルはエマースンのミュア・カレッジの設計を手伝ったのではないか、そしてエマースンからインド建築の話を熱心に聴き、その要素の取りこみ方を学んだのではないかと考えられる。その体験がもとになって、日本へ来ると、東洋的な建物を設計しようとしたのではないだろうか、そして、バージェスの事務所に移ったのも、エマースンの紹介だったのではないか、と思えるのである。 そうであるとすれば、コンドルは来日前に、すでにミュア・カレッジの仕事を手伝うことによって、インド・サラセン様式を知っていたわけである。だから日本へ来て設計依頼を受けると、すぐにそれを実行した。ただし、当時 ファーガスンの本では、日本の建築は扱われていない。それは 日本建築についての情報が まったく無かったからである。無視したわけではなく、情報が無かったので、書きようもなかったのである。『インドと東方の建築史』の序文では、次のように述べている。
バージェスにもまた 東洋趣味があったと伝えられているが、ファーガスンの本に書かれていない以上、バージェスもコンドルも、日本の建築については ほとんど何の知識も得られなかった。 さて、英語による最初の本格的な日本のガイドブックが出版されるのは、第1章で述べた ジョン・マリー出版社による「旅行ハンドブック」シリーズにおいてである。最初は中部と北部の日本について アーネスト・サトウ (1843-1929) と A・G・S・ホースとの共編著になる『中・北部日本旅行ハンドブック』 (A Handbook for Travelers in Central & Northern Japan) であって、その初版が出たのは1881年(明治14)のことである。それはコンドルがイギリスを発ってから5年後のことであった。ただし、サトウはこれをジョン・マリー社の「旅行ハンドブック」シリーズの1冊として出版することを意図し、そのスタイルで編集したものの、初版の段階ではジョン・マリーと連絡がつかなかったらしく、自費出版に近い形で ケリー商会から、横浜と上海、香港で刊行した。ロンドンでジョン・マリー社から出版されるのは 第2版からである。
サトウはイギリスの外交官にして東洋学者でもあり、コンドルよりも 16年早い 1862年(文久2)に来日し、佐藤愛之助という日本名を名乗るほどの日本通であった(萩原延寿の『遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄』で我々にも お馴染みになった サトウである)。サトウがこれを増補改訂し、多数の執筆者からなる豊かな序論を加えて ジョン・マリーから第2版を出したのは 1884年(明治17)であったが、本編は いまだ日本の中部と北部のみであった(1996年に庄田元男の翻訳で『明治日本旅行案内』として平凡社から刊行されたが、普通の大きさの活字にしているので、全3巻ものボリュームになった)。
サトウは 1883年にイギリスに戻っており、1884年の初めにシャム総領事としてバンコクに赴くことになる。その間のイギリス滞在中に、3代目のジョン・マリーと改訂第2版出版の段取りをつけたのであるが、日本を離れることによって、ハンドブックの更なる改訂は彼の手を離れることになる。それを受け継ぐのが、初版から部分的な原稿執筆をしていた バジル・ホール・チェンバレン (1850〜1935) である。
そのような時代であったから、コンドルがイギリスを出発した 1870年代というのは、まだインドから東の建築は全部、当時のイギリス人にとっては 一緒くたに見られていて、インド建築も 中国建築も 日本建築も ひとくくりにして「東洋建築(オリエンタル・アーキテクチュア)」だったのである。それだから、コンドルが日本へ来て最初に設計依頼をされて、東洋風につくろうと思った時に、思いついたのは、習い覚えたインド・サラセン様式だったわけである。ただし この「インド・サラセン様式」という言葉は、コンドルがイギリスを発った時代には、まだ使われていなかった。ファーガスンも、もちろん知らなかった。
コンドルは 1920年(大正9)に、日本の建築界への永年の貢献に対して 建築学会から「表彰」を受けた。その表彰式におけるコンドルの「答辞」の中で、上野博物館の形態設計を 次のように説明した。(『建築雑誌』402号、原文と、曾禰達蔵による (?) 訳文)
「インド・サラセン建築」 とか 「インド・サラセン様式 」 という言葉が使われ始めたのは、1880年代に入ってからである。1877年にコンドルはイギリスを出ているから、’Indo-Saracenic Architecture’ という言葉は知らなかった。知らなかったけれども、ゴチックの上にムガル・ドームやチャトリを載せるという、インド・サラセニックの初期の姿を すでに知っていた。で、言葉は知らなかったから、晩年になってそれを説明するときに、「シュード・サラセニック様式 (Pseudo-Saracenic Style)」という奇妙な言葉を使ったのである。Pseudo-Saracenic というのは 擬似サラセン、擬似イスラームという意味だが、インド・サラセニックという言葉を知らなかったコンドルは、自分で「シュード・サラセニック」という言葉を考え出さざるを得なかったのである。 以上 述べてきたように、コンドルは おそらくミュア・カレッジの設計を手伝ったことによって、すでに 初期のインド・サラセン様式を知っていた。最初の上野博物館のあとで、彼は東京帝国大学の配置設計を依頼されて、計画案にまとめている。その下敷きになっているのは、ウィリアム・バージェスが アメリカのコネティカット州、ハートフォードに計画した、ゴチック様式の トリニティ・カレッジである。J・モードーント・クルックの『ウィリアム・バージェスと盛期ヴィクトリア時代の夢』(William Burges and the High Victorian Dream) によれば、バージェスがこの設計をしたのは 1873-4年ということだから、それは コンドルがバージェスのアシスタントをしていた時期にちょうど重なる。実現したのは 計画の6分の1にすぎなかったが、当初の壮大な設計案を、おそらくコンドルは手伝ったであろう。あるいは中心的なスタッフだったかもしれない。そのトリニティ・カレッジの、広大な四角い中庭(クワドラングル)を囲むゴチック様式の建物群を、東京大学の配置計画に当てはめたのである。
ところが、トリニティ・カレッジでは キャンパスのシンボルをなす塔に、ゴチック・リヴァイヴァルらしく 天を刺すような尖塔を載せているのに、東京大学計画では 最も目立つところに ゴチックの尖塔ではなく ドーム屋根を載せているのである。これは 先述の、かつてバージェス事務所でエマースンが担当した、ボンベイ美術学校の方法である。純ヨーロッパ式ではなく、インド・サラセン様式なのである。これもまた、「建物に東洋的性質を与ふる如き形態をば、印度或は「サラセニック」建築の中に求」めたのであろうが、インドのコロニアル建築にはインドの伝統様式を取り入れるべきだというエマースンの主張に共感していながら、日本の(一種の)コロニアル建築に 日本の伝統様式を盛りこもうとしなかったのは、奇妙なことである。すなわち それは、コンドルが日本建築を知らなかった、ということを意味しているのである。
● 「インド・サラセン様式」の簡略な説明を、6年前に 新潮社の『 新潮世界美術辞典 』の改訂版のために書いたが、これは マフィアの圧力で 出版中止にされた。この HP には、図版を加えて集録してある。 ● 伊東忠太は後に上野博物館を「インド・サラセン様式」であると書いていて、それは正しく ‘Indo-Saracenic’ を意味したが、むしろ普通には、忠太は「インド・サラセン」という言葉で「インドのイスラーム建築」を意味させていた。 ● 伊東忠太の次に インド建築を見に旅をして、『印度旅行記』や 『印度仏塔巡礼記』などの著作をした建築史家・天沼俊一 (1876-1947 <人物年表>の一番右) は、イスラーム建築を回教建築と呼び、サラセンという言葉は もっぱら「インド・サラセン様式」の意味で用いた。 ●「ロジャー・スミスとエマースンの様式論争」の項で、インド・サラセン様式を推進した3人の英人建築家としてウィリアム・エマースンと チャールズ・マント、そして ロバート・フェローズ・チザムの名前を出したが、チャールズ・マントについては、建築学会誌の2002年2月号に、「インド・サラセン様式の確立」と題して 紹介したことがある。 ● ウィリアム・エマースンは インドのバヴナガルにインド・サラセン様式で タフトシンジ中央病院 (1883) や マハーラージャの宮殿 (1895) などを設計し、本国では リヴァプールのアングリカン・カテドラルのコンペに1等をとり、RIBA(王立英国建築家協会)の会長を務める名士となった。彼の晩年を飾る大作は カルカッタのヴィクトリア記念堂(1921)である。ここではインド総督カーゾン卿の要請もあり、インド・サラセン様式から離れて、古典主義のパラディアニズムに回帰している。
● コンドルは日本趣味であったと言われるが、彼はたまたま日本から招かれたので日本に来たが、日本でなく、タイであっても、インドであっても、タイ趣味あるいはインド趣味になったと思われる。インドであれば、より容易にインド・サラセン様式のデザインができたであろうが、インドには すでに多くの英人建築家が仕事をしていて、若いコンドルの入る余地はなかったろう。 ● コンドルは ロンドンのサウス・ケンジントン美術学校で学んだが、そこはまたインドにおける美術教育の教師を養成する場所でもあった。ジョン・ロックウッド・キップリング、ジョン・グリフィス、アーネスト・ビンフィールド・ハヴェルなどがそうである。ハヴェルはコンドルの9歳下であった。
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