メイヨー・カレッジ(アジュメール、インド) イギリスによるインドの植民地化は 18世紀に始まる。 彼らはインドの富を収奪しながら、一方で ヨーロッパの文明や宗教をインドにもたらすことが 善行であると考えていた。したがって、領土を増やすにつれて必要とされていった新しい建物にも、もっぱら西欧で行われていた様式を そのままインドに適用した。 それが インドの気候風土に適しているかどうかには無頓着なままに。 ところが1世紀が経過して、西洋システムの押し付けに辟易した インド人の忍耐が限界に達して 一斉に蜂起すると(インド大反乱 1857〜59)、宗主国イギリスは 大きな衝撃を受け、植民地体制を一新することになる。 それまでインドを統治していた東インド会社を解体してイギリス政府が直接統治するとともに、制度的には インドの伝統的な社会システムを尊重するようになる。 カルカッタを中心として 西洋の古典主義で建てられていた植民地建築にも 反省の機運が生れる。インドに建てる新しい建物は 西洋建築そのままではなく、土着の建築要素を加味、折衷すべきであると。 では、いかなる土着の要素を とりいれるべきなのか? そこでオピニオン・リーダーとなったのが、臨時インド総督を務めたネイピア卿であった。 彼は建築に造詣が深く、木造建築に起源をもつ 柱・梁式のヒンドゥ寺院建築よりも、組積造のアーチやドームを原理とする サラセン(イスラム)建築のほうが ヨーロッパ建築と相性がよいから、インドの植民地建築は ムガル朝の建築と折衷させるべきである と主張した。
それを体現したのが、若き建築家 チャールズ・マント(1840〜1881)である。 西インドのアジュメール市の郊外に建つ メイヨー・カレッジは、インドのイートン校とも呼ばれるように、イギリス政府の肝いりで ラージプート諸侯の王子たちを教育するために設立された エリート校であったが、マントは 1875年に 若干35歳でその設計案が採用されると、ここで大胆に インドの伝統様式を採り入れた。
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