『建築雑誌』 2002年2月号、日本建築学会
日本建築学会の機関誌『建築雑誌』が 2002年に、「建築のアジア」
という連載をしました。アジア諸国を植民地にした宗主国が、現地の
土着の建築様式をとりいれながら建てた「コロニアル建築」のシリーズです。
その2月号に、チャールズ・マントが設計して「インド・サラセン様式」を
確立した 「メイヨー・カレッジ」を 紹介しました。 ( 2002 /03/ 28 )


インド・サラセン様式の確立

メイヨー・カレッジ(アジュメール、インド)

 イギリスによるインドの植民地化は 18世紀に始まる。 彼らはインドの富を収奪しながら、一方で ヨーロッパの文明や宗教をインドにもたらすことが 善行であると考えていた。したがって、領土を増やすにつれて必要とされていった新しい建物にも、もっぱら西欧で行われていた様式を そのままインドに適用した。 それが インドの気候風土に適しているかどうかには無頓着なままに。 ところが1世紀が経過して、西洋システムの押し付けに辟易した インド人の忍耐が限界に達して 一斉に蜂起すると(インド大反乱 1857〜59)、宗主国イギリスは 大きな衝撃を受け、植民地体制を一新することになる。 それまでインドを統治していた東インド会社を解体してイギリス政府が直接統治するとともに、制度的には インドの伝統的な社会システムを尊重するようになる。

 カルカッタを中心として 西洋の古典主義で建てられていた植民地建築にも 反省の機運が生れる。インドに建てる新しい建物は 西洋建築そのままではなく、土着の建築要素を加味、折衷すべきであると。 では、いかなる土着の要素を とりいれるべきなのか? そこでオピニオン・リーダーとなったのが、臨時インド総督を務めたネイピア卿であった。 彼は建築に造詣が深く、木造建築に起源をもつ 柱・梁式のヒンドゥ寺院建築よりも、組積造のアーチやドームを原理とする サラセン(イスラム)建築のほうが ヨーロッパ建築と相性がよいから、インドの植民地建築は ムガル朝の建築と折衷させるべきである と主張した。

 それを体現したのが、若き建築家 チャールズ・マント(1840〜1881)である。 西インドのアジュメール市の郊外に建つ メイヨー・カレッジは、インドのイートン校とも呼ばれるように、イギリス政府の肝いりで ラージプート諸侯の王子たちを教育するために設立された エリート校であったが、マントは 1875年に 若干35歳でその設計案が採用されると、ここで大胆に インドの伝統様式を採り入れた。
 古典主義の建築には軒蛇腹(コーニス)はあっても 庇というものがなかったが、一年の半分が雨季であるインドの伝統建築には 必須のものであったので、腕木で支えられた石の板庇(チャッジャ)を全周にめぐらし、屋上にはムガル建築の小塔(チャトリ)を林立させた。 大きなドーム屋根こそないものの、ここに 折衷様式としての「インド・サラセン様式」が確立するのである。 しかしその奇妙な呼び名が流布するのは、この工事半ばに 41歳でマントが発狂死したあとの 1880年代である。 インド建築史を初めて体系化したジェイムズ・ファーガスンが『インドと東方の建築史』を出版したのは 1876年であったから、そこには Indian Saracenic Architecture(インドのイスラム建築)という章はあっても、Indo-Saracenic Style(インド・サラセン様式)という言葉はない。


(写真キャプション)
1.正面玄関の前にインド総督メイヨーの像が立っている。
2.総白大理石の本館脇に建つ時計塔には鉄骨造の王冠が載り、英王室の威光を象徴している。右側の棟はマントの死後にサミュエル・ジェイコブが設計した教室棟。


* チャトリは、ドーム屋根、バンガルダール屋根、シカラが混在している。
* 時計塔の頂部には奇妙な王冠を戴いているが、これは鉄骨造である。
* シャフトが八角形にくびれているのは、円形の螺旋階段を内包しているからである。