第3章
CHUTA ITO & INDIAN ARCHITECTURE

伊東忠太とインド建築

神谷武夫

伊東忠太


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日本で最初の建築史家であり 建築家でもあった伊東忠太 (1867ー1954) は、夏目漱石と同年の、明治を迎える直前の慶応3年に生まれた。しかし漱石が 50歳にもならない大正5年 (1916) に没したのに対し、忠太は漱石よりも 40年近く長生きをして、太平洋戦争後の昭和 29年まで生きた。少し年長の岡倉天心が 51歳で没したのに比べても、かなり長命であった(享年 86歳)。そのおかげで 国内のあらゆる名誉に浴したが、逆に戦後は、戦中の言行のゆえに さまざまな批判、非難も受けることとなった。この章では、それよりも ずっと前の時代における「若き忠太」の、インドとの関わりを論じる。



伊東忠太の憤慨

 伊東忠太は若いときから、ファーガソンに対する不満を頻繁に述べている。ファーガソンの『世界建築史』に日本が扱われていないことに 学生時代から失望していたが、それをずっと いつまでも繰り返している。

 「支那の建築は・・・千篇一律で、少しの変化もなく、面白みのないものであるとなし、支那人が斯ういう低劣な建築を造るのは、支那に哲学も文学もないからだ、と臆面もなく書き立て、こんな民族に建築の出来る筈はないとまで極言している・・・次に日本の建築に就ては僅か数行しか書いてない。・・・「支那の東に日本という国があるが、その日本の文化は総て支那の模倣である、日本の建築も支那建築の模倣だから、最早語る必要はない」と一蹴している。私は非常に憤慨したが・・・」

と、これは伊東忠太 晩年の『白木黒木』(1942年、三笠書房)という本にある「外人の観たる日本の建築及藝術」という講演記録文だが、ファーガソンはこのような言い方をしていないし、また この時代には とっくに(20年以上前に)『インドと東方の建築史』の改訂版が出版されていて、そこでは 日本のことが 23ページも扱われている。だから、最早こんなケチをつける必要はまったくないわけなのだが、忠太は 絶えずファーガソンを非難し続ける。しかも そこには、かなりの悪意さえ感じられる。一方、忠太の大旅行時の日誌を読むと、アジア諸国民に対して、未開であるとか、無知であるとか、野蛮とか、幼稚とか、愚昧とか、そういった蔑視的な言葉がつらねられている。日本が軽く扱われたり批判されたりすると非常に憤慨するのだが、自分自身は ほかのアジア諸国に対して、ファーガソンが言ったとされるようなことを 平気で書くのである。(忠太は根本的にナショナリストであり、自民族優越論者であったから、たとえばインド旅行中の8月2日の日誌には、カタック知事が 忠太の英語が なかなかうまいと傍らの者に話したのを聞いて、

「日本の名誉ある博士が 印度の知事に誉められることは、むしろ不名誉なるべし」

などと 書いている。すべてがこの調子である。)

  ファーガソンにも 人種差別観があったとしても、世界建築史を書く上で 東洋を 最大限大きく扱おうとした点で、フレッチャーとは大きく異なる。フレッチャーの『建築史』の初版には東洋は含まれていなかったし、第4版で初めて 多少東洋が扱われても、それは歴史的発展のないものとされた。これはヨーロッパ側のナショナリズムであって、忠太とフレッチャーは いくぶん合わせ鏡であったように思える。彼らに比べれば、ファーガソンのほうがずっと進歩的であった。
 ファーガソンが『世界建築史』や『インドと東方の建築史』の初版で 日本のことをほとんど書かなかったのは、第2章で述べたように、その当時は 日本建築の情報が まったく得られなかったからである。ヨーロッパに日本文化の情報がもたらされるのは、アーネスト・サトウらによる『日本旅行ハンドブック』の第2版が ジョン・マリー社から出版された 1884(明治17)年であり、日本全体が紹介されたのは、バジル・ホール・チェンバレンによる第3版が出た 1891年(明治24)である。

 サトウのハンドブックには、コンドルの設計によって竣工したばかりの 上野博物館とその展示品が紹介されている。しかし コンドルがヨーロッパに 初めて日本建築の報告をしたのは、「ハンドブック」の初版よりも3年早い 1878年であったから、サトウが「日本アジア協会」の会員として面識のあったコンドルに、日本建築についての解説を依頼しなかったのは 腑に落ちない。(東秀紀の『鹿鳴館の肖像』によれば、サトウはコンドルと学部は違うが、同じロンドン大学の出身で 親友であったという。)『日本旅行ハンドブック』では、絵画や彫刻の章を ウィリアム・アンダーソンが執筆しているのに、建築の章が もうけられていないのである。ジョン・マリーの『インド旅行ハンドブック』 (A Handbook for Travellers in India Burma and Ceylon) の第14版では、美術の記述が7ページなのに対して、建築の解説は ずっと多く、18ページにわたる。コンドルの日本建築研究は、まだ本格的でないと判断されたのだろうか。

ジョン・マリ-社の「旅行ハンドブック」シリ-ズ インド編

 あるいはまた、こうも考えられる。ヨーロッパ人は無意識の内に 石造建築を木造建築の上位に置く 進歩史観をもっているので、ほとんど木造ばかりの日本建築は あまり程度の高いものとは思われなかったのかもしれない。そのことは インド建築の研究においても、もっぱら石造建築の歴史ばかりが研究されて、木造建築が等閑に付されてきたこと とも関連しているようである。チェンバレンの『日本事物誌』の「建築」の項には、次のように書かれている(高梨健吉訳)。

 「日本人の天才的資質は、小さな物において完全の域に達する。(中略)堂々たるもの、広大なるもの、雄大なるものは、日本人の気性に合っていない。したがって、他の芸術におけるよりも、建築において成功することが少ない。」
「われわれヨーロッパ人が アーキテクチャーという語を理解している意味において

日本の建築はたいしたものではない、と見なされていたのである。
これはチェンバレン一人の感想ではなく、日本に来た西洋人に共通の 日本建築観であったろう。岡倉天心の『茶の本』においても(茶室の項で)、

「石と煉瓦で建てる伝統で育ったヨーロッパの建築家にとって、わが日本の 木と竹によって建てる方法は、ほとんどアーキテクチュアとして位置づけるに値しないと見えるようだ。」

と書かれている。忠太のナショナリズムは、こうした西洋文化に対する反発が助長したとも言えるが、それを偏見と見るかどうかはともかく、いずれにしても日本建築についての情報は、ファーガソンの『インドと東方の建築史』の初版 (1876年) には 間に合わなかったわけである。
 ちなみに、コンドルがイギリスの RIBA(王立英国建築家協会)に日本建築の報告を送って、それが発表されたのは、第1回が1878年3月で「日本建築についてのノート」、第2回が1876年で「日本建築についての さらなるノート」、第3回は1887年に「日本の住宅建築」で、これは イギリスに帰国していたコンドル本人が行ったのかもしれない という。


リチャード・フネ・スパイアズ

 『インドと東方の建築史』は、ファーガソン没後の 1910年に ジョン・マリー社から改訂版が出る。この改訂版では、日本部分が 初版の半ページから、一挙に 23ページに増えた。その改訂増補をしたのは、全体の8割強を占めるインド部分が、第1章で述べたジェイムズ・バージェスであり、あとの東方部分、つまりビルマから東の部分を改訂したのは、リチャード・フネ・スパイアズという人である。この人は ファーガソンの『世界建築史』の全体をも改訂して、その第3版をつくった。
 スパイアズは 建築家と歴史家の二足のわらじをはいた人で、のちにロイヤル・アカデミーの会長を務めることになる学者でもあった。実は、インド部分を改訂したバージェスとは同じ名のバージェスであっても別人の、<人物年表>でファーガソンの右下に書いてある 建築家のウィリアム・バージェスの助手をつとめた人(建築家)で ある。

『インドと東方の建築史』
『インドと東方の建築史』 改訂版 1910

 建築家の ウィリアム・バージェスは ロンドンのキングズ・カレッジで学んだあと、若い時に 建築家・M・D・ワイアット の助手を務めているが、スパイアズもまた キングズ・カレッジの卒業生で、同じ M・D・ワイアットの助手をつとめてから、バージェスのアシスタントになった。それだから、彼よりも後に バージェスのアシスタントをつとめた 後輩のコンドルが、はるばる出かけて行って住み着いた日本から RIBA に寄せた 最初の日本建築の報告を、大いに歓迎した。そして スパイアズは 『インドと東方の建築史』の改訂版に それを特記しながら、日本部分を一挙に 23ページに増大させた。そこには 弟 弟子に対する、一種の 仲間意識があったことだろう。
 スパイアズは『インドと東方の建築史』の改訂版において、当時参照することができた 日本建築関係の文献を挙げている。最も価値ある文献としては バルツァーの著書、そして RIBA の会報への コンドルの寄稿を挙げている。他には B・H・チェンバレンの『日本旅行ハンドブック』第8版(1907)、E・S・モースの 『日本人のすまい』(Japanese Homes and their Surroundings, 1885)、M・ティチングの 『日本の図像、将軍家の記憶』(Illustrations of Japan; Memoirs of the Djogouns, 1822)、ラルフ・A・クラムの 『日本の建築と関連美術の印象』(Impressions of Japanese Architecture and the Allied Arts, 1905)、そしてドレッサーの 『日本ーその建築、美術、工芸』(Japan, its Architecture, Art, and Art Manufactures, 1882) である。しかし、ここに伊東忠太の名前はない。

法隆寺五重塔の断面図

 上図は『インドと東方の建築史』改訂版における、東方部分の中の日本のページである。ここには法隆寺の五重塔の断面図が載っているが、このキャプションには「バルツァーより (From Baltzer)」 と書いてある。「最も価値ある文献」のバルツァーである。実はこの断面図は 忠太の『法隆寺建築論』に収められていた、忠太の実測図である。しかしそれをバルツァーが自分の本に使ったので、スパイアズは その本から この図を転載して、“From Baltzer” と書いたのである。

 フランツ・バルツァー (Franz Baltzer 1857-1927) とは何者かというと、ジョサイア・コンドルと同じく、日本のお雇い外国人の一人であった。といっても、コンドルら明治初年の外国人とちがって、少し後の1898年(明31)に ドイツから 当時の 逓信省に派遣され、1903年(明36)まで滞在した。彼はドイツ帝国鉄道庁の鉄道技師で、後進国の技術援助指導のために来日したという。逓信省というのは、工部省と農商務省の交通・通信行政を管掌するために 1885年に設置され、1893年に鉄道事業を管轄した。バルツァーは鉄道の設計技師であったが、建築アカデミーの会員建築家でもあったという。
 日本に滞在した5年の間に、新橋〜東京駅間の高架線の設計に従事しながら 日本建築について資料を集め、帰国後に日本の建築と住宅に関する2冊の本を出版した。1903年の『日本の住宅』(Das Japanische Haus) と、1907年の、 かなり充実した内容の『日本の建築芸術』(Die Architectur der Kultbauten Japans) である。

  
バルツァ-著『日本の建築芸術』における 法隆寺

 バルツァーが日本の伝統建築の研究をしたのは、東京駅の駅舎の設計案をつくることがきっかけになったようである。彼はコンドルと同じように、日本に建てる駅舎は 西洋建築そのままではなく、日本の伝統を取り入れたものにすべきだと考えた。そして、ここはコンドルと違い、入母屋屋根の和風東京駅舎を設計したのである。のちに辰野金吾 (1854-1919) は これを「赤毛の島田髷(しまだ まげ)」のようなデザインだと批判し、純ヨーロッパ風の 現存駅舎を設計した(その 戦災で失われたドーム屋根が 2012年に復元されて、大いに話題になった)。この、<人物年表>でコンドルの下に書いてある辰野金吾は、コンドルの紹介で やはりバージェスのアシスタントを務めたので、スパイアズの弟 弟子にあたる。


フランツ・バルツァ- による 東京駅の設計案
(『東京駅誕生』島秀雄編、1990、鹿島出版会 より

 バルツァーが東京駅の設計をした時には、すでに日本建築のことを かなり よく知っていたが、前述のように コンドルが来日した時には、彼は日本建築のことは ほとんど何も知らなかったので、来日後 直ちに上野博物館を設計した時には、東洋的風姿を与えるには インド・サラセン風にすることしか思い及ばなかったのである。バルツァーの案は、むしろ現在の、「帝冠様式」と言われる東京国立博物館(1937年)に近いと言える。それはコンペで、審査員長の伊東忠太が「日本趣味を基調とする東洋式」として選んだ、渡辺仁の設計であった。

 バルツァーは日本建築の資料収集過程で伊東忠太を訪れ、『法隆寺建築論』などの資料を借りていった。上述の「外人の観たる日本の建築及芸術」には、バルツァーが資料を借りにきた経緯が書かれている。

 「外人として始めて日本の建築を、たとひ皮相的にもせよ、比較的よく理解し、それに対する著書を初めて公表したのは、独逸のバルツェルという人であったと思ふ。彼は明治30年頃、逓信省の御雇顧問として招聘された 鉄道に関する専門家で、日本の神社建築に非常に興味を有し、それを研究し出したのであるが、私が日本建築を研究して居たので、頻繁に私の所へ来て、神社及び神社建築に関する資料を要求し、可なり長い年月を費やして纏め上げたのが Die Japanische Kultbauten と銘を打った一冊の書籍で、そのほかにも日本の建築に関する一冊が出来た。」

 こうして、『インドと東方の建築史』には ヴァルツァーの名が記されて、法隆寺の図面のオリジナルの著者である伊東忠太の名は載らなかったのである。もしも忠太が『法隆寺建築論』を英訳して、大学時代の師であるコンドルを通じて イギリスの RIBA(王立英国建築家協会)に送っていたならば、そしてコンドルの兄弟子である スパイアズにも送っていたならば、スパイアズは当然 この 甥弟子にあたる忠太の『法隆寺建築論』を大きく扱って紹介し、図版も たくさん採り上げて、 「伊東忠太より (From Chuta Ito)」 と書いていたはずである。

  
伊東忠太の『法隆寺建築論』(東京帝国大学紀要 工科第1冊第1号)

 先述のように、この『インドと東方の建築史』は 世界中で読まれ、今でも読み継がれている本だから、もしそうなっていれば、伊東忠太の名前は このファーガソンの改訂版を通じて、世界に知られていたことだろう。日本建築史といえば チュータ・イトー、と 世界中で認識されていたに ちがいない。ところが実際には、この本に コンドルとヴァルツァーの名前はあるけれども、忠太の名前はない。忠太の図面を使っていながら、「バルツァーより」と書かれてしまった。こうしたことが、忠太にとっては非常に不満だったらしい。その不満のために、絶えずファーガソンに対して、またコンドルに対しても、非常に皮肉っぽい言い方、時には悪意のこもった言い方をする。たとえばコンドルのことを、

「コンダー先生は・・・ポカッと日本へ来て、日本の事情などは少しも判らぬままに、・・・」

などというような、非常に冷淡な書き方をする。あるいはまた、前章で書いたように、「印度建築と回教建築との交渉」において、ハヴェルのファーガソン批判を、喝采しながら紹介する。(しかし よく読むと、ハヴェルが正しいようなことを ずっと書きながら、最後になって、結局 ファーガソンのほうが正しい というニュアンスの結論を出しているのではあるが。)
 こうしたこと(ファーガソンに対する忠太の言説)の原因が、ファーガソンの本への反発、ファーガソン自身ではないのだが、『インドと東方の建築史』の改訂版において、スパイアズが法隆寺の断面図を載せながら、忠太の名を出さなかったことに 恨みを持ったせい としか 考えられないのである。

バージェス・スクール

ウィリアム・バージェス
(From "William Burges and the High Victorian Dream" )

 さて もう一度、<人物年表>の下に記された、イギリスのヴィクトリアン・ゴチックの代表的建築家である ウィリアム・バージェスに戻る。バージェスの初期の、10年ぐらい年下のアシスタントが、その右側2人めのリチャード・フネ・スパイアズである。このスパイアズがファーガソンの没後に『世界建築の歴史』と、『インドと東方の建築史』の東方部分を改訂増補して、日本建築の記述を コンドルなどの報告に基づいて ページ数を一挙にふやした人である。その右側の ウィリアム・エマーソンは 前章の、インド・サラセン様式のミュア・カレッジを設計し、後にRIBAの会長まで務める人であるが、スパイアズよりもさらに5年ぐらい若く、バージェスの事務所でスパイアズの弟弟子にあたるから、当然知り合いである。この右上にあるコンドルが またエマーソンの弟弟子にあたり、さらに、その下に書いてある辰野金吾は バージェスの最後期にアシスタントを務めたから、やはり 彼らの弟弟子にあたる。つまり年齢が5年から10年ぐらいずつ隔てた この人たちが、いわば「バージェス・スクール」を形成しているのである。

 バージェスの事務所というのは大きな事務所ではなくて、きわめてアトリエ的で、メンバー同士の親密感が非常に強かったといわれる。そこで切磋琢磨した バージェス、スパイアズ、エマーソン、コンドル、辰野金吾という、親しい関係の 建築家であり理論家であった人たちが、「バージェス・スクール」の仲間たちである。彼らは非常に結びつきが強いので、エマーソンの ミュア・カレッジは、ファーガソンの『近世様式の建築史』の改訂第3版で、パースが1ページ大で載るほどに 大きく扱われた。辰野金吾の弟子だった伊東忠太は バージェスの孫弟子にあたるのだから、バージェス・スクールの関係を もっと利用すればよかったのである。

ミュア・カレッジ、W. エマ-ソン設計

 そのバージェス・スクールの人たち全体に、大きく光を投げかけているのが、ジェイムズ・ファーガソンである。東洋趣味、日本趣味をもっていたと伝えられるバージェスは、ファーガソンの本を座右の本にしていたに違いない。彼は A・W・N・ピュージンに大きな影響を受けて、ゴチック・リヴァイヴァリストになったのであるが、第1章で述べたように、ファーガソンもまたピュージンに傾倒した。しかしバージェスとファーガソンは論争をしたことがあるらしい。ピュージンの思想の受け取り方に 差があったというべきである。
 ピュージンの主著はふたつあり、ひとつは『対比』 (Contrusts) (1836) であり、もうひとつは第1章で述べた『キリスト教建築の正しい原理』 (1841) である。前者では、ゴチック様式は 正しくローマ・カトリックの建築であるが、一方 ギリシア・ローマの古典様式は異教の建築である と主張した(つまり、キリスト教の聖堂建築はゴチック様式で建てるべきであって、古典様式で建てるべきではないと)。後者においては、ゴチックは単なる様式ではなく、真の建築の原理であると主張した。そこでは、建築の形態や構造が 道徳・倫理と重ね合わされていて、建築の美とは、それが求められている目的に合致するものでなければならず、その用途が一目でわかるようでなければならない、と。
 バージェスは前著に強く惹かれて それを実践したが、ファーガソンは後著を高く評価して その考えを推し進めたのである。それは 後の「機能主義」にも近く、ファーガソンは合理主義者であり、機能主義者であったとも言える。その意味では、ヴィオレ・ル・デュクとも親近性があったのである。

ファーガソンと忠太

 前章で述べたように、辰野金吾は帝国大学で ファーガソンの『近世様式の建築史』を教科書にして建築史を教えたから、毎年 ファーガソンの建築観を 繰り返し講じていた。
 辰野の講義をはじめ、小島憲之やコンドルによる ファーガソンの建築史書の「直訳伝授」を受けた伊東忠太は、学生時代の最後に、卒業論文『建築哲学』という題名の「建築派流論」すなわち「建築様式論」を書いた。この卒論のための引用文献として30数冊の書名をあげているが(当然、工部大学校の蔵書であった)、その第1、2番目はヴィオレ・ル・デュクの『建築講話』と『人間の住居の歴史』であり、第3、4番目はファーガソンの書である。すなわち『世界建築史』と、『インドと東方の建築史』で、どちらも初版であった。当時、世界建築史の通史はファーガソンしか書いていなかったのだから、まだ外国に行ったことのない忠太が「建築様式論」を書くためには、ファーガソンの本に 全面的に頼るほかは なかった。

 後に世界旅行をして 諸国の建築を撮影・調査してきた後でも、忠太は ファーガソンの本には ずいぶんお世話になっている。たとえば 1910年に『インドと東方の建築史』の改訂版が出ると すぐに注文して、翌年には帝国大学の蔵書にしているのだが、この本に 忠太はペンや鉛筆で 多くの書き込みをしている。その一例がタージ・マハルで、「タージ・マハール平面図」とか「断面図」とか書きこみ、スケールを 尺 で書き入れていてる。これは何のためかというと、このページを自著に使うためである。『伊東忠太建築文献』にも使われているし、「世界最美の建築 タージ・マハール」という記事などにも使われている。諸所で、この書き込みをした図版を(出典を書かずに)使う。
 ファーガソンの本の東南アジアの章への たくさんの書き込みは、翌 1912年に仏領印度支那への長期出張のための下調べだったのだろう。そのように 忠太は、ファーガソンには 非常にお世話になっていて、インドの旅行中も 絶えずファーガソンの本を座右に置いて、その本にしたがって旅をしたのだった。にもかかわらず、文章を書くと冷淡な言い方をする、というより、ファーガソンの悪口を言い続けたのである。

       
ファ-ガソンの本への、忠太の書き込み    『建築学者 伊東忠太』乾元社   .

 伊東忠太の唯一の評伝である『建築学者 伊東忠太』(1945 乾元社) は、東京帝国大学教授の岸田日出刀 (1899-1966) が、定年後に非常勤講師として出講していた 晩年の忠太に聞き書きしてまとめたものである。その中のインド建築の部分には、次のように書かれている(p.195)。博士とは、伊東忠太のことである。

 印度の建築は、およそ如何なるものか。博士が印度建築を実地に調査研究しようとした明治36, 7年の頃、日本に紹介されてゐた印度建築に關する參考書としては、わずかにファーガッソンの建築史中に、印度建築について記述した部分があった程度であり、且つ それも決して権威ある内容のものではなかった。かような状態であったから、博士の印度建築に關する予備知識も、そう充分とはいえなかったから、印度の地を踏んで、博士はまづその実地見学調査の方針を樹てるのに、相応の苦心を払わねばならなかった。

 例によって忠太は ファーガソンをこきおろし、自分をえらく見せようとしているのだが、岸田日出刀が ただただ その受け売りで、 ファーガソンの著書などを何ら確認せずに 忠太を賞賛するばかりなのは 感心しない。忠太はインドを旅行するにあたって、もっぱらファーガソンの『インドと東方の建築史』を頼りにしたのだから、ずいぶん 事実と反する説明の仕方であったわけだ。さらにまた (p.202)、

(『伊東忠太建築文献、東洋建築の研究』下巻に集録してある諸論文は、)
東洋建築とその歴史を広く正しく論述したもののうち、我が邦に於いて最も権威あるものであるばかりではなく、更に世界においても最も価値ある貴重な論文として特筆大書さるべく、それらはすべて博士自身による実地の調査研究と、文献的考証とから大成されたものである点で、特殊の意義をもっている。

などと書いている。こういうものを読むと 何をか言わんや であるが、いくら先輩を称揚する本だからといって、これでは帝大教授の名が泣く、贔屓(ひいき)の引き倒しである。インド建築に関する忠太の論考は、日本においては権威があったにしても、世界的な意義はほとんど何もないと言ってよい。インドに関するファーガソンと忠太の著作は、横綱と十両ぐらいの差がある(もちろん これはインド建築研究についての比較であって、全業績についてではない)。

フィ-ルドノ-ト より

 インドに入る直前、ビルマを旅していたときのフィールド・ノートの一部が上図である。ビルマの最後のほうで 17ページにわたって、ファーガソンの『インドと東方の建築史』の初版を、毎日 毎日 勉強する。一生懸命読んではノートを取る。ファーガソンの本のタイトルどおりにメモをとる。上図では ヒンドゥ建築の章のところを、タイトルをメモして、その要約を書いている。こういうことを 17ページにわたって延々とやっている。で、この ‘Hindu Architecture’ の下に、’I. Khalkyan Style’ と書いてあるが、これは実は ‘Chalkyan Style’ (チャルキヤ様式)の間違いである。K ではなくて C である。なぜ K になっているかというと、忠太は大学に入る前に外国語学校でドイツ語を学んでいたので、どうしてもドイツ語読みしてしまったのだろう。カルキャンと発音してしまったので、英語綴りも C を K に書いてしまったののである。いずれにせよ、中世のヒンドゥ寺院を三つに分けたうちの一つの様式、’Chalkyan Style’ というのを、ファーガソンの様式分類のとおりに書いて、その要約を下に書いている。こうやって、ビルマ旅行の間 一生懸命にファーガソンの本を勉強するのである。

忠太の インド建築開眼

 先述のように、伊東忠太は 卒業論文『建築哲学』という題名の「建築様式論」を書いた折に、ファーガソンの2冊の本を「引用文献」リストの中に挙げている。その内、『世界建築史』 の方は、直接 卒論の根幹に関わるので一生懸命読んだらしいが、『インドと東方の建築史』は きちんと読んでいない。「派流各論」、つまり「様式各論」の章では、インドは全部 省略している。そして「インド建築論」の章に結論として書いたのは、

 「以上論ズル所ヲ総括シテ 之ヲ反言スレバ、印度建築ニ於テハ 未ダモッテ 美ト名ヅケルニ足ルモノ無ク、諧調ト清爽トヲ具有セズ。タダ一種異常ノ特性ヲ 発揮センコトヲ努メタルノミ。之ヲ美学ノ原理ニ訴エレバ、吾人ハ 毫モ其ノ建築術タルノ価値ヲ 発見スル所ナキナリ」 (『建築哲学』 第3編、第2款)

と、ばっさりと、一刀両断のもとに切って捨てている。この言い回しは、どこかで聞いたことがある。それは 先ほどの、忠太がファーガソンを非難していたところで、ファーガソンが支那や日本の建築をばっさり切って捨てていると書いている(実際にはそれほどでないのだが)その言葉 あるいは言い回しと よく似ている。つまり、忠太は 日本の建築が切って捨てられると非常に憤慨するが、インドの建築については、自分自身がばっさり切って捨てていたわけである。

 忠太は学生時代には、もっぱら頭脳でもってヨーロッパの建築を理解しようと務め、その理解しえた範囲のことを 卒業論文にまとめたわけなので、もっぱら頭脳的な判断をした時に、インドの建築は評価するに値せず、と考えた。ところが、その後 実際に設計活動を始めて、さらに大旅行に出て 中国とビルマをまわっているうちに、建築というのは 頭脳ではなく、目で、感覚で見るべきものだということが だんだん解ってくる。しかも インドに入る少し前に ファーガソンの『インドと東方の建築史』によって、インド建築の各章を 毎夜詳しく読んではノートを取る。ファーガソンの本の特徴は、多量の図版が入っていることである。当時は まだ写真製版の技術が進んでいなかったので、全部 精密な木版画であった。それを逐一見ていくにつれて 忠太は、学生時代の若い時には理論的に建築を理解しようとしていたけれども、感覚に目覚めた現在は、インドの建築の面白さに目を開かれるのである。もともと 江戸時代の草双紙で育ち、魑魅魍魎(ちみ もうりょう)を愛した忠太であったから、インド建築が 面白くない わけはない。で、ファーガソンのインド建築史を 初めて本格的に読んで、図版を熱心に見ているうちに、インド建築に心を奪われる。これは まったく 自分のふるさとみたいな世界だと 思ったはずである。

フィールドノートより、「雑記」

 そのビルマ編の 最後のページ、彼のフィールド・ノートには よく、最後にエンド・マークが 映画のようにつくのだが、ここでは ほかに書くことがあったので、「雑記」と記した。その左側に「印度」と題して、

「印度建築の複雑は、殆ど糾問的なるが、実に面白し」

と書いている。感覚的にインド建築をとらえたときに、初めてインド建築が面白い、自分自身が本来もっていた性格にピッタリする世界だ、ということを 感じとるわけである。実際に忠太が 後につくった建築作品は どれも、かなり そういう性格が強いもので、『建築哲学』で述べていたような 建築の理想形とは、ずいぶん違うものであった。学生時代に忠太が非難した インド建築の性格、

「一種 異常ノ特性ヲ発揮センコトヲ努メタルノミ」

などというところは、人によっては、忠太自身の建築をこう評価するかもしれない、と言えるような作品群である。だから、ビルマで ファーガソンを熱心に読むことによって、初めてインド建築に目を開かれ、共感を覚えた。で、いよいよインドに入る準備ができて、胸をわくわくさせるようなインド建築行脚が これから始まる。ビルマのマンダレーから船に乗って、カルカッタへと出航するのである。

「伊東忠太の世界展」2003年、パンフレット


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バヴァニ寺院・天井

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