神谷武夫
伊東忠太は若いときから、ファーガスンに対する不満を頻繁に述べている。ファーガスンの『世界建築史』に日本が扱われていないことに 学生時代から失望していたが、それをずっと いつまでも繰り返している。
と、これは伊東忠太 晩年の『白木黒木』(1942年、三笠書房)という本にある「外人の観たる日本の建築及藝術」という講演記録文だが、ファーガスンはこのような言い方をしていないし、また この時代には とっくに(20年以上前に)『インドと東方の建築史』の改訂版が出版されていて、そこでは 日本のことが 23ページも扱われている。だから、最早 こんなケチをつける必要は まったくないわけなのだが、忠太は 絶えずファーガスンを非難し続ける。しかも そこには、かなりの悪意さえ感じられる。一方、忠太の大旅行時の日誌を読むと、アジア諸国民に対して、「未開」であるとか、「無知」であるとか、「野蛮」とか、「幼稚」とか、「愚昧」とか、そういった蔑視的な言葉がつらねられている。日本が軽く扱われたり批判されたりすると非常に憤慨するのだが、自分自身は ほかのアジア諸国に対して、ファーガスンが言ったとされるようなことを 平気で書くのである。(忠太は根本的にナショナリストであり、自民族優越論者であったから、たとえばインド旅行中の8月2日の日誌には、インドのカタック知事が 忠太の英語が なかなか うまいと傍らの者に話したのを聞いて、 などと 書いている。すべてがこの調子である。)
ファーガスンにも 人種差別観があったとしても、世界建築史を書く上で 東洋を 最大限大きく扱おうとした点で、フレッチャーとは大きく異なる。フレッチャーの『建築史』の初版には東洋は含まれていなかったし、第4版で初めて 多少 東洋が扱われても、それは「歴史的発展のないもの」とされた。これはヨーロッパ側のナショナリズムであって、忠太とフレッチャーは いくぶん 合わせ鏡であったように思える。彼らに比べれば、ファーガスンのほうが ずっと進歩的であった。 サトウのハンドブックには、コンドルの設計によって竣工したばかりの 上野博物館とその展示品が紹介されている。しかし コンドルがヨーロッパに 初めて日本建築の報告をしたのは、「ハンドブック」の初版よりも3年早い 1878年であったから、サトウが「日本アジア協会」の会員同士として面識のあったコンドルに、日本建築についての解説を依頼しなかったのは 腑に落ちない。(東秀紀の『鹿鳴館の肖像』によれば、サトウはコンドルと 学部は違うが、同じロンドン大学の出身で 親友であったという。) 1884(明治17)年の『日本旅行ハンドブック』では、絵画や彫刻の章を ウィリアム・アンダーソンが執筆しているのに、建築の章は もうけられていないのである。ずっと後に ジョン・マリーの『インド旅行ハンドブック』 (A Handbook for Travellers in India Burma and Ceylon) の 第14版 (1933) では、美術の記述が7ページなのに対して、建築の解説は ずっと多く、18ページにわたっている。19世紀には、コンドルの日本建築研究は まだ本格的でない、と判断されていたのだろうか。
あるいはまた、こうも考えられる。ヨーロッパ人は無意識の内に 石造建築を木造建築の上位に置く 進歩史観をもっているので、ほとんど木造ばかりの日本建築は あまり程度の高いものとは思われなかったのかもしれない。そのことは インド建築の研究においても、もっぱら石造建築の歴史ばかりが研究されて、木造建築が等閑に付されてきたこと とも関連しているようである。バジル・ホール・チェンバレンの『日本事物誌』の「建築」の項には、次のように書かれている(高梨健吉訳)。
日本の建築は たいしたものではない、と見なされていたのである。
と書かれている。忠太のナショナリズムは、こうした西洋文化に対する反発が助長したとも言えるが、それを偏見と見るかどうかはともかく、いずれにしても日本建築についての情報は、ファーガスンの『インドと東方の建築史』の初版 (1876年) には 間に合わなかったわけである。
『インドと東方の建築史』は、ファーガスン没後の 1910年に ジョン・マリー社から改訂版が出る。この改訂版では、日本部分が 初版の半ページから、一挙に 23ページに増えた。その改訂増補をしたのは、全体の8割強を占めるインド部分が、第1章で述べたジェイムズ・バージェスであり、あとの東方部分、つまりビルマから東の部分を改訂したのは、リチャード・フネ・スパイアズという人である。この人は ファーガスンの『世界建築史』の全体をも改訂して、その第3版をつくった。
建築家の ウィリアム・バージェスは ロンドンのキングズ・カレッジで学んだあと、若い時に 建築家 M・D・ワイアット の助手を務めているが、スパイアズもまた キングズ・カレッジの卒業生で、同じ M・D・ワイアットの助手をつとめてから、バージェスのアシスタントになった。それだから、スパイアズよりも後に バージェスのアシスタントをつとめた 後輩のコンドルが、はるばる出かけて行って住み着いた日本から RIBA に寄せた 最初の日本建築の報告を、大いに歓迎した。そして スパイアズは 『インドと東方の建築史』の改訂版に それを特記しながら、日本部分を一挙に 23ページに増大させた。そこには 弟 弟子に対する、一種の 仲間意識があったことだろう。
上図は『インドと東方の建築史』改訂版における、東方部分の中の日本のページである。ここには法隆寺の五重塔の断面図が載っているが、このキャプションには「バルツァーより (From Baltzer)」 と書いてある。「最も価値ある文献」のバルツァーである。実はこの断面図は 忠太の『法隆寺建築論』に収められていた、忠太の実測図である。しかしそれをバルツァーが自分の本に使ったので、スパイアズは その本から この図を転載して、“From Baltzer” と書いたのである。
フランツ・バルツァー (Franz Baltzer 1857-1927) とは何者かというと、ジョサイア・コンドルと同じく、日本のお雇い外国人の一人であった。といっても、コンドルら明治初年の外国人とちがって、少し後の1898年(明31)に ドイツから 当時の 逓信省に派遣され、1903年(明36)まで滞在した。彼はドイツ帝国鉄道庁の鉄道技師で、後進国の技術援助指導のために来日したという。逓信省というのは、工部省と農商務省の交通・通信行政を管掌するために 1885年に設置され、1893年に鉄道事業を管轄した。バルツァーは鉄道の設計技師であったが、建築アカデミーの会員の建築家でもあったという。
バルツァ-著『日本の建築芸術』における 法隆寺
バルツァーが日本の伝統建築の研究をしたのは、東京駅の駅舎の設計案をつくることがきっかけになったようである。彼はコンドルと同じように、日本に建てる駅舎は 西洋建築そのままではなく、日本の伝統を取り入れたものにすべきだと考えた。そして、ここはコンドルと違い、入母屋屋根の和風東京駅舎を設計したのである。のちに辰野金吾 (1854-1919) は これを「赤毛の島田髷(しまだ まげ)」のようなデザインだと批判し、純ヨーロッパ風の 現存駅舎を設計した(その 戦災で失われたドーム屋根が 2012年に復元されて、大いに話題になった)。この、<人物年表>でコンドルの下に書いてある辰野金吾は、コンドルの紹介で やはりバージェスのアシスタントを務めたので、スパイアズの弟 弟子にあたる。 バルツァーが東京駅の設計をした時には、すでに日本建築のことを かなり よく知っていたが、前述のように コンドルが来日した時には、コンドルは日本建築のことは ほとんど何も知らなかったので、来日後 直ちに上野博物館を設計した時には、東洋的風姿を与えるには インド・サラセン風にすることしか思い及ばなかったのである。バルツァーの案は、むしろ現在の、「帝冠様式」と言われる東京国立博物館(1937年)に近いと言える。それ(東京国立博物館)は コンペで、審査員長の伊東忠太が「日本趣味を基調とする東洋式」として選んだ、渡辺仁の設計であった。 バルツァーは日本建築の資料収集過程で 伊東忠太を訪れ、『法隆寺建築論』などの資料を 借りていった。上述の「外人の観たる日本の建築及芸術」には、バルツァーが資料を借りにきた経緯が 書かれている。
こうして、『インドと東方の建築史』には ヴァルツァーの名が記されて、法隆寺の図面のオリジナルの著者である伊東忠太の名は 載らなかったのである。もしも 忠太が『法隆寺建築論』を英訳して、大学時代の師であるコンドルを通じて イギリスの RIBA(王立英国建築家協会)に送っていたならば、そしてコンドルの兄弟子である スパイアズにも送っていたならば、スパイアズは当然 この 甥弟子にあたる忠太の『法隆寺建築論』を大きく扱って紹介し、図版も たくさん採り上げて、 「伊東忠太より (From Chuta Ito)」 と書いていたはずである。
伊東忠太の『法隆寺建築論』(東京帝国大学紀要 工科第1冊第1号)
先述のように、この『インドと東方の建築史』は 世界中で読まれ、今でも読み継がれている本だから、もしそうなっていれば、伊東忠太の名前は このファーガスンの改訂版を通じて、世界に知られていたことだろう。日本建築史といえば チュータ・イトー、と 世界中で認識されていたに ちがいない。ところが実際には、この本に コンドルとヴァルツァーの名前はあるけれども、忠太の名前はない。忠太の図面を使っていながら、「バルツァーより」と書かれてしまった。こうしたことが、忠太にとっては非常に不満だったらしい。その不満のために、絶えずファーガスンに対して、またコンドルに対しても、非常に皮肉っぽい言い方、時には悪意のこもった言い方をする。たとえばコンドルのことを、
などというような、非常に冷淡な書き方をする。あるいはまた、前章で書いたように、「印度建築と回教建築との交渉」において、ハヴェルのファーガスン批判を、喝采しながら紹介する。(しかし よく読むと、ハヴェルが正しいようなことを ずっと書きながら、最後になって、結局 ファーガスンのほうが正しい というニュアンスの結論を出しているのではあるが。)
(From "William Burges and the High Victorian Dream" ) さて もう一度、<人物年表>の下に記された、イギリスのヴィクトリアン・ゴチックの代表的建築家である ウィリアム・バージェスに戻る。バージェスの初期の、バージェスよりも 10年ぐらい年下のアシスタントが、その右側2人めのリチャード・フネ・スパイアズである。前述のように、このスパイアズがファーガスンの没後に『世界建築の歴史』と、『インドと東方の建築史』の東方部分を 改訂増補して、日本建築の記述を コンドルなどの報告に基づいて、ページ数を一挙にふやした人である。その右側の ウィリアム・エマ−スンは 前章の、インド・サラセン様式のミュア・カレッジを設計し、後にRIBAの会長まで務める人であるが、スパイアズよりもさらに5年ぐらい若く、バージェスの事務所で スパイアズの弟弟子にあたるから、当然知り合いである。この右上にあるコンドルが また、そのエマ−スンの弟 弟子にあたり、さらに、その下に書いてある 辰野金吾は、バージェスの最後期にアシスタントを務めたから、やはり 彼らの弟 弟子にあたる。つまり年齢が5年から10年ぐらいずつ隔てた この人たちが、いわば「バージェス・スクール」を形成しているのである。 バージェスの事務所というのは大きな事務所ではなくて、きわめてアトリエ的で、メンバー同士の親密感が 非常に強かったといわれる。そこで切磋琢磨した バージェス、スパイアズ、エマ−スン、コンドル、辰野金吾という、親しい関係の 建築家であり理論家であった人たちが、「バージェス・スクール」の仲間たちである。彼らは非常に結びつきが強いので、エマ−スンの ミュア・カレッジは、ファーガスンの『近世様式の建築史』の改訂第3版において、透視図が1ページ大で載るほどに 大きく扱われた。辰野金吾の弟子だった伊東忠太は バージェスの孫弟子にあたるのだから、バージェス・スクールの関係を もっと利用すれば よかったのである。
そのバージェス・スクールの人たち全体に、大きく光を投げかけているのが、ジェイムズ・ファーガスンである。東洋趣味、日本趣味をもっていたと伝えられるバージェスは、ファーガスンの本を座右の本にしていたに違いない。彼は A・W・N・ピュージンに大きな影響を受けて、ゴチック・リヴァイヴァリストになったのであるが、第1章で述べたように、ファーガスンもまた ピュージンに傾倒した。しかしバージェスとファーガスンは 論争をしたことがあるらしい。ピュージンの思想の受け取り方に 差があったと言うべきである。
前章で述べたように、辰野金吾は帝国大学で ファーガスンの『近世様式の建築史』を教科書にして建築史を教えたから、毎年 ファーガスンの建築観を 繰り返し講じていた。
後に世界旅行をして 諸国の建築を撮影・調査してきた後でも、忠太は ファーガスンの本には ずいぶん お世話になっている。たとえば 1910年に『インドと東方の建築史』の改訂版が出ると すぐに注文して、翌年には帝国大学の蔵書にしているのだが、この本に 忠太はペンや鉛筆で 多くの書き込みをしている。その一例がタージ・マハルで、「タージ・マハール平面図」とか「断面図」とか書きこみ、スケールを 尺 で書き入れていてる。これは何のためかというと、このページを自著に使うためである。『伊東忠太建築文献』にも使われているし、「世界最美の建築 タージ・マハール」という記事などにも使われている。諸所で、この書き込みをした図版を(出典を書かずに)使う。
伊東忠太の唯一の評伝である『建築学者 伊東忠太』(1945 乾元社) は、東京帝国大学教授の岸田日出刀 (1899-1966) が、定年後に非常勤講師として出講していた 晩年の忠太に聞き書きして まとめたものである。その中のインド建築の部分には、次のように書かれている(p.195)。博士とは、伊東忠太のことである。
例によって忠太は ファーガスンをこきおろし、自分をえらく見せようとしているのだが、岸田日出刀が ただただ その受け売りで、ファーガスンの著書などを何ら確認せずに 忠太を賞賛するばかりなのは 感心しない。忠太はインドを旅行するにあたって、もっぱらファーガスンの『インドと東方の建築史』を頼りにしたのだから、ずいぶん 事実と反する説明の仕方であったわけだ。さらにまた (p.202)、
などと書いている。こういうものを読むと 何をか言わんや であるが、いくら先輩を称揚する本だからといって、これでは帝大教授の名が泣く、贔屓(ひいき)の引き倒しである。インド建築に関する忠太の論考は、日本においては権威があったにしても、世界的な意義は ほとんど何もないと言ってよい。インドに関するファーガスンと忠太の著作は、横綱と十両ぐらいの差がある(もちろん これはインド建築研究についての比較であって、全業績についてではない)。
インドに入る直前、忠太がビルマを旅していたときの フィールド・ノートの一部が 上図である。ビルマの最後のほうで 17ページにわたって、ファーガスンの『インドと東方の建築史』の初版を、毎日 毎日 勉強する。一生懸命読んではノートを取る。ファーガスンの本のタイトルどおりに メモをとる。上図では ヒンドゥ建築の章のところを、タイトルをメモして、その要約を書いている。こういうことを 17ページにわたって 延々とやっている。で、この ‘Hindu Architecture’ の下に、’I. Khalkyan Style’ と書いてあるが、これは実は ‘Chalkyan Style’ (チャルキヤ様式)の間違いである。K ではなくて C である。なぜ K になっているかというと、忠太は大学に入る前に 外国語学校でドイツ語を学んでいたので、どうしてもドイツ語読みしてしまったのだろう。カルキャンと発音してしまったので、英語綴りも C を K に書いてしまったのである。いずれにせよ、中世のヒンドゥ寺院を三つに分けたうちの一つの様式、’Chalkyan Style’ というのを、ファーガスンの様式分類のとおりに書いて、その要約を下に書いている。こうやって、ビルマ旅行の間 一生懸命にファーガスンの本を勉強するのである。
先述のように、伊東忠太は 卒業論文『建築哲学』という題名の「建築様式論」を書いた折に、ファーガスンの2冊の本を「引用文献」リストの中に挙げている。その内、『世界建築史』 の方は、直接 卒論の根幹に関わるので一生懸命読んだらしいが、『インドと東方の建築史』は きちんと読んでいない。「派流各論」、つまり「様式各論」の章では、インドは全部 省略している。そして「インド建築論」の章に結論として書いたのは、
と、ばっさりと、一刀両断のもとに切って捨てている。この言い回しは、どこかで聞いたことがある。それは 先ほどの、忠太がファーガスンを非難していたところで、ファーガスンが支那や日本の建築をばっさり切って捨てていると書いている(実際にはそれほどでないのだが)その言葉 あるいは言い回しと よく似ている。つまり、忠太は 日本の建築が切って捨てられると非常に憤慨するが、インドの建築については、自分自身がばっさり切って捨てていたわけである。 忠太は学生時代には、もっぱら頭脳でもって ヨーロッパの建築を理解しようと務め、その理解しえた範囲のことを 卒業論文にまとめたわけなので、もっぱら頭脳的な判断をした時に、インドの建築は評価するに値せず、と考えた。ところが、その後 実際に設計活動を始めて、さらに大旅行に出て 中国とビルマをまわっているうちに、建築というのは 頭脳ではなく、目で、感覚で見るべきものだということが だんだん解ってくる。しかも インドに入る少し前に ファーガスンの『インドと東方の建築史』によって、インド建築の各章を 毎夜詳しく読んではノートを取る。ファーガスンの本の特徴は、多量の図版が入っていることである。当時は まだ写真製版の技術が進んでいなかったので、全部 精密な木版画であった。それを逐一見ていくにつれて 忠太は、学生時代の若い時には 理論的に建築を理解しようとしていたけれども、感覚に目覚めた現在は、インドの建築の面白さに 目を開かれるのである。もともと 江戸時代の草双紙で育ち、魑魅魍魎(ちみ もうりょう)を愛した忠太であったから、インド建築が 面白くない わけはない。で、ファーガスンのインド建築史を 初めて本格的に読んで、図版を熱心に見ているうちに、インド建築に心を奪われる。これは まったく 自分のふるさとみたいな世界だと 思ったはずである。
そのビルマ編の 最後のページ、彼のフィールド・ノートには よく、最後にエンド・マークが 映画のようにつくのだが、ここでは ほかに書くことがあったので、「雑記」と記した。その左側に「印度」と題して、
と書いている。感覚的にインド建築をとらえたときに、初めてインド建築が面白い、自分自身が本来もっていた性格に ピッタリする世界だ、ということを 感じとるわけである。実際に忠太が 後につくった建築作品は どれも、かなり そういう性格が強いもので、『建築哲学』で述べていたような 建築の理想形とは、ずいぶん違うものであった。学生時代に忠太が非難した インド建築の性格、
などというところは、人によっては、忠太自身の建築をこう評価するかもしれない、と言えるような作品群である。だから、ビルマで ファーガスンを熱心に読むことによって、初めてインド建築に目を開かれ、共感を覚えた。で、いよいよインドに入る準備ができて、胸をわくわくさせるようなインド建築行脚が これから始まる。ビルマのマンダレーから船に乗って、カルカッタへと出航するのである。
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