第1章
JAMES FERGUSSON, ARCHITECTURAL HISTORIAN

ジェイムズ・ファーガソン

神谷武夫


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 インド建築史を最初に体系化したのは 英国の建築史家・ジェイムズ・ファーガソン (1808-1886) であったが、彼の仕事は単にインドにとどまらずに 世界建築史の構築へと進んだ。日本における建築史教育も ファーガソンの著書で始まったのだが、その著作の全容は十分に闡明されてこなかったので、日本ばかりでなく 欧米のインド建築関係の書物における文献紹介においてさえも、その大半が 何らか誤った記載をしている。ここでは 筆者が制作した 彼の全著作年表と、インド建築史の人物年表を用いながら、彼の果たした役割をたどる。



インド建築史をつくった人々

 アジア、あるいはオリエントの建築が学問的に研究され始めたのは、アジアにヨーロッパ文化が到来してからである。それも軍事的に侵略されて 植民地になることによってだった というのは、アジア諸国にとって大いなる不幸であったが、歴史的な建物を実測して正確な図面化をするには、ヨーロッパの技術を必要としていた とも言える。

 アジアの建築文化は大きく三つの文化圏に分けることができる。西アジアのイスラーム文化圏、南アジアのインド文化圏、そして東アジアの中国文化圏である。西アジアはヨーロッパに近いことから近東とも呼ばれ、早くから文化史的な研究がなされた。18世紀末のナポレオン遠征によって エジプト学が始められたのは、その象徴である。ヨーロッパから一番遠い東アジアは、建築の学問的調査研究も 一番遅れて出発した。一方、南アジアから東南アジアにかけては、ヨーロッパ諸国が東インド会社を設立して 各地と貿易活動を行い始めてからである。

 最初の東インド会社が 1600年にイギリス人によってつくられるよりも1世紀前に、すでにポルトガルはインドのゴアを植民地にして「南国のリスボン」を建設していたが、彼らはもっぱら本国の建築スタイルで建設したのであって、インドの土着の建築を研究するということは なかった。
 東インド会社の中で 最も有力であったオランダは インドネシアを本拠地としたので、これもまたインドとの関係は薄い。イギリスの東インド会社は、ポンディシェリーを基地としたフランスを打ち破ると、次第にインド亜大陸全体を 大英帝国の領土としていった。それに伴って インドの古跡に興味をもった旅行者の報告(民族誌)も現れてくる。さらに、まだ映画や写真のなかった時代、冒険心に富んだ画家がインド亜大陸を旅して、建築を含めたエキゾチックな風物を絵に描き、本国イギリスに持ち帰って展覧会を開いたり、リトグラフ(石版画)にして出版したりするようになった。

 こうした18世紀の蓄積を経て 19世紀になると、いよいよ本格的にインド建築の歴史的な研究が始まる。そのインド建築史の形成期における代表的人物を、年表において たどっていくことにしよう。この表は<インド建築史と伊東忠太・人物年表>という題で、インド建築研究史における 伊東忠太の位置を示すことを主目的として作成したものであるが、このサイトの第1章から第3章まで、しばしば参照することになるので、以後 これを略して 単に<人物年表>と呼ぶことにする。

インド建築史と伊東忠太=人物年表

 この年表では、インド建築史の形成と関係の深い 主要な人物を 黄緑色の短冊にして、 生まれた順に並べている。このサイトの中心人物である ジェイムズ・ファーガソンと伊東忠太だけ 幅を広くしてあり、より多くの著作名を書き込んである。インド建築史と直接には関わらないが、活動時期の参照のために フレッチャー親子と岡倉天心、そしてジョサイア・コンドルを、少し幅の狭い水色の短冊で挿入した。さらに、関連する諸人物の相対位置が下の方に、名前と生没年だけで載せてあるので、時々参照することになるだろう。表の中央より少し下、青緑色のアミをかけた水平の帯は、第3章で述べる 伊東忠太の大旅行の3ヵ年を示していて、それ以前と以後の 他の人々の事績との年代関係が、一目でわかるようにしてある。

 簡単に 主な人物だけを紹介していくと、まず一番左上にラーム・ラーズという人がいる。この表で並べられている中で ただ一人のインド人である。きわめて先駆的な人であって、建築史を専攻したわけではなく バンガロール市の裁判所の判事だったが、自国の伝統建築に深い興味を抱いた。ちょうど 伊東忠太が初めて日本の伝統的建築を研究し始めて『法隆寺建築論』を書いたように、ラーム・ラーズは初めてインド建築の研究を始め、ヒンドゥ寺院の本を書いたのだった。
 インドでは、日本の「木割り」に相当するような古文献を「シルパ・シャーストラ」あるいは「ヴァースト・シャーストラ」と言う。シルパというのは広く建築から工芸、彫刻、絵画を含めた技芸を言い、シャーストラというのは「論書」、理論書ということである。ヴァーストというのは建物のことなので、建築に限ったものが「ヴァースト・シャーストラ」、もっと広く 彫刻から 工芸一般まで含めたものを「シルパ・シャーストラ」と言う。ラーム・ラーズは そうしたサンスクリット文献を初めて採り上げて、主に南インドのシルパ・シャーストラである『マーナサーラ』をもとに、寺院建築の研究をした。そして インドのヒンドゥ寺院というのはどんなものか、ということをヨーロッパ人に示すために、多くの図面を作成し、英語で本を書いた。それが、彼の死んだ翌年の1834年にロンドンで出版された ”ESSAY ON THE ARCHITECTURE OF THE HINDUS”『ヒンドゥ建築論』であって、伊東忠太の『法隆寺建築論』よりも 60年も早かった。忠太はインド旅行の途次、シムラでこの書を見つけ、熱中して読んでノートをとる。

ラーム・ラーズ著『ヒンドゥ建築論』

 これは非常に先駆的な仕事であって、直接的な彼の後継者は いなかった。このようなサンスクリット文献を研究する「文献学派」というのは、初期のインド建築史研究では少数派であった。多くのイギリス人はサンスクリット語を読めなかったので 研究しようもなかった ということもある。ラーム・ラーズのあとで 古いサンスクリット文献に基づいてインド建築の研究をした人には、ステラ・クラムリッシュや P・K・アーチャーリャというような建築史家がいるが、彼らは この黎明期の<人物年表>の範囲よりも後になるので、ここには出てこない。

 その文献派に対して、<人物年表>中の 他のすべての人々は現場派、現場主義の人たちである。その現場主義にも二つの流れがあって、一つが「建築史」の流れで、もう一つが「考古学」の流れである。海外の考古学は 日本とちがい、古代ばかりでなく 中世も近世も扱うので、古い建物の実測調査は ほとんど考古学者がやっている。近世のタージ・マハル廟も 植民地ゴアの洋風建築も、考古学者によって調査・保存されてきた。こうして英国の建築史家と考古学者とが協力したり対立したりしながらインド建築史を形成していった。その最初の傑物が、ジェイムズ・ファーガソンという建築史家であり、その右隣の アレクサンダー・カニンガムという考古学者である。

『インドと東方の建築史』

 ファーガソンについては 後でもっと詳しく見るので、今はポイントだけ述べることにする。ファーガソンの短冊の 1876年のところに “Indian and Eastern” と書いてあるが、これが彼の仕事を代表する インド建築史の著作で、「世界建築史」から独立させた本として書かれた "HISTORY OF INDIAN AND EASTERN ARCHITECTURE"『インドと東方の建築史』という大著の初版である。これが出版されたのは 19世紀の 1876年であったが、ファーガソンが世を去った後、彼の右側3番目の ジェイムズ・バージェスという人が受け継いで、20世紀に その改訂版をつくることになる。ファーガソンの没後、伊東忠太の旅行よりも もっと後の 1910年に “Indian and Eastern” の 2nd. と書いてあるのがそれで、初版本は1巻本だったのが、改訂版で2巻本になった。

 『インドと東方の建築史』の初版において 初めて、ファーガソンがインド建築史を体系化したわけだが、まだインド建築史は形成期であり 発展途上であったので、間違いもあれば、まだ知られてない事実も多くあった。そこでバージェスが 自分自身によるものを含め、その後の研究成果をとりいれて大幅に増補し、ヴォリュームを 1.5倍にしたので2巻本になったのである。これが定本となって、インド文化研究者たちには もっぱら これが使われることとなった。現在でも これはリプリントが インドで ずっと出続けていて、インド建築史を多少でも研究する人は皆 この本を購入するので、今も読み継がれている。

ファーガソン著『インドと東方の建築史』

 この<人物年表>で注意しておくべきことは、伊東忠太が旅行したときには ファーガソンの本の改訂版は まだ出ていなかったということである。忠太が旅行のときに最大限 頼りにしたのは 『インドと東方の建築史』の初版本であった。そこには まだ未成熟の部分もあったが、ともかく最初に書かれた インド建築史の通史だったのである。

 さて、この改訂版の2巻本があまりにも有名になって、誰でもこれを使うものだから、改訂版(のリプリント)は所有しているけれども 初版は見たことがない、という人が現在では ほとんどなので、いろいろな誤解を生むことになった。伊東忠太との関係でいえば、彼のフィールド・ノートに このファーガソンの引用が出てくる場合、それは初版本からであって 改訂版からではない。ファーガソンが こう書いている、と 忠太のノートにある場合にも、それを改訂版と混同してはならない。改訂版には バージェスが大幅に加筆しているので、それはファーガソンとバージェスの共著といっても良いくらいのものである。したがって、改訂版には 初版とは別のことが書いてある ということも 起こりうるのである。

 ところで ファーガソンが世を去るのは 1886年であるが、1880年から 85年まで (インドの植民地エリアを3つの管区に分けたうちの)ボンベイ管区の知事を勤めた人物が、やはりジェイムズ・ファーガソン (1832-1907) という名前である。これは同姓同名の 同じスコットランド人で、ファーガソンの故郷であるエアシャー州の議員として出発した 同郷人である。建築史のファーガソンよりは一世代あとの人だが、その人物の研究書なども出版されているので 混同しないようにしたい。先ごろのグジャラート大地震 (2001) の震源近くのブジの町に クッチ博物館を創設したのはこの人で、今もファーガソン博物館と呼ばれている。プネーにある1855年創立のファーガソン大学もそうで、知事のファーガソンが 多額の寄付をしたことによる。また1882年にコレラで死んだ Lady Fergusson というのも、知事のファーガソン(准男爵だった)の夫人である。

アレクサンダー・カニンガム

 次に、ファーガソンの右隣のアレクサンダー・カニンガム (1814-93) を見ていこう。彼もファーガソンと同じくスコットランドの出身で、英領時代に設立された 考古調査局の初代長官になったのは、ファーガソンの『図説世界建築ハンドブック』が出版された6年後の 1861年である。カニンガムとファーガソンは同世代で、お互いに協力したり対立したりしながら、非常に積極的に研究を進めていった。カニンガムも多くの著作をなしたが、一番重要なのは、彼が長官を務めていた時代の考古調査局における 約20年にわたる活動の報告書、"REPORTS OF THE ARCHAEOLOGICAL SURVEY OF INDIA, 1872- 87" で、索引を含めて 全24巻に及んだ。(A.S.I.リポートの「カニンガム・シリーズ」と呼ばれる。)各巻に多数の実測図やスケッチが載せられていて、ここに科学的、実証的な インド政府考古調査局の基礎が築かれた。

アレクサンダー・カニンガム

 カニンガムは 考古局を退官してからも研究を続け、サーンチーやバールフト、ボードガヤーなど、重要な古代仏教遺跡の本を書いている。中でも7世紀にインドに留学した 中国僧・玄奘の『大唐西域記』をたどる調査旅行を行なって、1871年に 『インドの古代地理』(Ancient Geography of India) を著したのは重要である。玄奘は7世紀のインド全域を旅して、当時すでに衰えかけていたインド仏教の各地の寺院や僧院について記録しているので、それを現在の地名と同定し、遺跡を確かめて歩いたのである。伊東忠太はインド旅行のおり、カルカッタでこの本を入手して、仏跡を訪ねて回るのに大いに重宝をした。
 ファーガソンは、「インド考古学の父」とされるカニンガムの組織的な調査報告書群に 大いに負うところがあったが、自著の中で 「考古学は建築にあらず (Archaeology is not Architecture)」などと書いているのは、カニンガムに対する対抗意識だったのだろう。

ジェイムズ・バージェス(ウェブサイトより)

 カニンガムから一人おいてジェイムズ・バージェス (1832-1917)、これがカニンガムの後をついで、考古調査局の第2代長官になった人である。考古学者ではあるが、もともと建築を学んだ建築史寄りの人で、ファーガソンの弟子といってもいいような人である。第2章に登場する 建築家のウィリアム・バージェス(<人物年表>で カニンガムの下の方に名前を掲げてある)とはまったく別人であることを頭にいれておきたい。彼は初め 西インド考古調査局を担当し、中世の建築を精力的に実測調査して 浩瀚な報告書のシリーズをつくった。したがって西インドに多いジャイナ教の建築遺構は、主にバージェスによって調査されている。本局の長官となる前の 1880年には、ファーガソンとの共著で『インドの石窟寺院』(The Cave Temples of India) という大部の書を出している。さらに先述のように、『インドと東方の建築史』を、ファーガソンの没後に増補改訂したのも、この人である。

 バージェスから3人おいて書いてあるのが ヘンリー・クーセンス (1854-1934) で、これが バージェスの片腕になった考古調査局の主任である。考古学者だが、これも建築史寄りの人で、西インドと南インドの建築について 大部の調査報告書を何冊も執筆・刊行した。
 そのあと、バージェスの退官とともに 考古局は いったん閉じられてしまうのだが、下欄に名のある カーゾン卿がインド総督になると、これを復活させることになる。あとを継いだのが、<人物年表>の一番右から二人目の 若きジョン・マーシャルで、1902年に考古調査局の第3代長官になった。彼は純粋に考古学畑の人で、サーンチー、タキシラ、モヘンジョ・ダーロなどの詳細な発掘調査で 大きな業績をあげる。インダス文明は マーシャルが中心となって発掘したわけで、忠太が旅行していた頃には、まだインダス文明というのは知られていなかった。ファーガソンも インダス文明の存在は知らなかったから、彼のインド建築史には ハラッパーもモヘンジョ・ダーロも出てこないのである。また、一番右下に名前だけ書いてあるアーナンダ・K・クーマラスワーミが、非英国人としての最初の 優れた美術史家である(スリランカ生まれ)。

パーシー・ブラウン著『インドの建築』上巻 1942年

 建築史のほうでは、<人物年表>のマーシャルの左側にパーシー・ブラウン (1872-1955) という人がいる。ブラウンは美術史と建築史にまたがる人で、ファーガソンの建築史を もっと詳しくした 2巻本の『インドの建築』(Indian Architecture) を、その晩年に出版した。上巻が 仏教、ヒンドゥ教、ジャイナ教の建築史で、下巻がインドのイスラーム建築史である。ファーガソンの本の改訂版以後にも新しい発見や調査がたくさんがあったわけで、その後の情報を盛り込んで大幅に精密化させている。これがインド建築史の教科書的存在となり、非常に詳しいので、今でも版を重ねて 読まれている。ただ 全体のインド建築史観の骨格については ファーガソンそのままなので、新しい、独創的な学者では全然なかった。

アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル(ウェブサイトより)

 その点、独創的というか、ファーガソンに対抗した人は、この<人物年表>の中でただ一人、忠太の左側二人目にいる美術史家、アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル (1861-1934) という人物である。ハヴェルだけがファーガソンに対抗する論陣を張ったので、インド建築史というと、ファーガソンとハヴェルの名前が しばしば並べられる。何を対抗したかというと、ファーガソンが主に宗教別に、仏教建築、ジャイナ教建築、ヒンドゥ教建築、イスラーム建築という順に章を設けて書いていったのに対して、ハヴェルは そういう区別は無意味であるとした。インドの美術、インドの建築は万世一系である ということを主張した人で、インド人ではないのだが、インド人のナショナリズムを代弁した人だと言える。

 それまでのインド文化の研究は考古学主導であったので、カニンガムらによる 古代の仏教遺跡の発掘に力点がおかれたし、ガンダーラ美術にギリシアの影響が認められるがゆえに、インド美術全体がヨーロッパの亜流のように見なされ、中世のヒンドゥ美術や近世のイスラーム美術が際物(きわもの)的に扱われてしまうことに ハヴェルは異議を唱え、インドの美術は ヨーロッパとはまったく異なった価値をもった芸術であるということを、ヨーロッパ人のみならず、インド人自身にも認識させようとしたのである。その意味で、彼がインドで果たした役割は、明治の日本美術界における フェノロサと岡倉天心のそれに似ている(西洋画を排して、日本の伝統美術の復興を目ざしたこと)。

E.B.ハヴェル著『インド美術の理想』1911年

 そういう主張をハヴェルが最初に著作にまとめたのが、1911年の『インド美術の理想』(The Ideals of Indian Art) という本である。本来はその3年前に出版された『インドの彫刻と絵画』(Indian Sculpture and Painting) に収められるべき論考であったが、独立させて大部の単行本とした。この本のタイトルは、岡倉覚三(天心)がアジアの美術の理想を説いた『東洋の理想』 (The Ideals of the East) から影響を受けてつけられていて、本の冒頭には岡倉の名前を出している (The distinguished Japanese art-critic, Mr. Okakura, author of "The Ideals of the East") 。<人物年表>で伊東忠太の左隣の岡倉覚三は、忠太が大旅行に出る2年前にインドに渡り、カルカッタのタゴール家に滞在している間に ハヴェルとも親交を結んだという。当時、ハヴェルはカルカッタ美術学校の校長を務めていて、<人物年表>で見られるように ほとんど同年齢の2人は意気投合して、「アジアの覚醒」について語り合ったはずである。

 ところで、忠太がインド旅行をした時には ファーガソンとハヴェルの本を頼りにしたと書かれることがあるが、実際には そういうことはなくて、<人物年表>でわかるように、ハヴェルが著作活動を開始するのは 忠太の大旅行よりも 後である。それだから 忠太のインド旅行時には、ハヴェルの著作は一冊も見ていないし、その名前も知らなかったろう。ずっと後になって、帝大教授となった忠太は「印度建築と回教建築との交渉」という論文において、ファーガソンに反論するハヴェルの主張を 共感をもって紹介しているが、しかしその内容は おおむね 過度なインド主義に傾いていて、充分な裏づけに乏しい。忠太がそれを書いたのは、第3章で示すように、「反ファーガソン論」に喝采したからのようである。

 以上 見てきたように、ハヴェル以外の人たちは 誰もがファーガソンの影響下にあった。インド建築の様式区分にしろ 時代区分にしろ、おおむねファーガソン理論を踏襲している。ハヴェルただ一人が反抗をして、インドのナショナリズムの立場で、インドの美術・建築の万世一系説をとなえたのである。彼は次第に美術史の中心に建築を据え、『インド建築』上下2巻を書いたが、それらを集大成したのが 1918年出版の『古代からアクバル帝の死に至るまでのインドにおける、アーリヤ人による支配の歴史』(The History of Aryan Rule in India, from the Earliest Times to the Death of Akbar) である。

リトグラフ「エローラーのカイラーサ寺院」

 伊東忠太がインド旅行をしたのは こうした背景のもとであったから、彼が旅行をした時期には、インド建築史は まだ 十分には できあがっていない。インド建築史の通史としてはファーガソンの本が一冊あっただけで、パーシー・ブラウンの通史が書かれるのは 40年も先のことであるし、ハヴェルのインド建築史もまだ書かれていなかった。忠太はインド建築史の形成期に位置していたわけなので、仮に彼がインド建築史の専門家であったとすれば、十分に他の人たちと競合できる時代的な位置にいたとは 言うことができよう。(社会的にも意欲的にも、その基盤はなかったが。)


ジェイムズ・ファーガソン

 インド建築史を形成していった人たちの中で 最も重要なのは、ジェイムズ・ファーガソン である。その著作の体系を<ジェイムズ・ファーガソンの著作年表>をもとに説明していくことにしよう。先述のように 『インドと東方の建築史』の改訂版が今も読まれ続けていて、ファーガソンといえばインド建築史の専門家と目されているが、実は 彼はインド建築史だけでなくて、世界建築史を目ざした人であった。生涯に大量の著作を残していて、それらが順々に発展をしていくので、一つの内容が何度も 拡大されたり、題名が変えられたり、部分が独立していったり、版を新たにしたりしている。このことが、彼の仕事を理解する上で大きな混乱を招いている。

 おそらく、彼のすべての著作がそろっている図書館というのは どこにもないだろうし、いまだ彼の評伝も書かれていないので、全著作の一覧表も作られてこなかった。そのために さまざまな本において、特にインド建築史の本はそうなのだが、ファーガソンの本を引用したり、参考文献に出したりしているものの、それらが ほとんど皆 お互いに食い違うことになってしまった。どれもが どこかで 多かれ少なかれ間違えている という状況を生んでいる。非常に複雑な著作体系になってしまい、時にはファーガソン自身が記憶ちがいを書いたりしているので 無理もないが、それらを全部 明らかにして整理しようとしたのが、この<ジェイムズ・ファーガソン著作年表>である(ただし、小論文は ここには書ききれないので、多少省略してあるが)。以後、これを単に<著作年表>と呼ぶことにする。

ジェイムズ・ファーガソン= 著作年表

 まず そうした誤りの典型例をあげると、『インドと東方の建築史』の初版本は1巻本で、改訂版が2巻本なのだが、2巻本しか見たことがない人が多いものだから、初版から2巻本だったと思い込んでしまう人が多い。スーザン・ハンティントンという米国の美術史家が 立派なインド美術史の本 (The Art of Ancient India) を書いたときに、巻末の文献目録で 誤った記述をしている。彼女はこのファーガソンの本について、初版から2巻本であり、第1巻がロンドンで出版され、第2巻がニューヨークで出版されたと 書いてしまった。それを 多くの人が引き写してしまい、そういう間違いが流布してしまったのである。これと同じようなことが、ファーガソンには 他の著作でもたくさんあって、混乱をきわめているのが現状である。

 この<著作年表>の構成は、左右の端部に西暦年号があって、右側に日本の年号を添え、左はじにファーガソンの年齢が書いてある。彼はまったくの19世紀人であって、1808年に生まれ、1886年に 77歳で世を去った。その没年を紫色のアミをかけた横帯にしてあり、彼の生前と没後とが はっきりわかるようにしてある。彼の没年は、ちょうど 日本で工部大学校が帝国大学の工科大学になった年である。つまり、日本で最初の建築教育を行なった工部大学校の「造家学科」が、東京大学理学部の一部(工学関係の学科が独立して工芸学部となったばかりの部門)と合体して、帝国大学・工科大学の造家学科となるのであり、この年にファーガソンは世を去った(造家学科が建築学科と改称されるのは、この 12年後になる)。

 この<著作年表>では、ファーガソンの著作を四つの系統に分類して、縦の列に並べてある。左から2番目が「インド建築」関係の著作(Indian and Eastern Architecture)である。その右側が「世界建築史」(History of Architecture)関係の著作、一番右側には Modern Styles of Architecture、ということは ルネサンス以後、ファーガソンが生きていた19世紀までの建築という意味で、現代でいう「近世の建築」に関する著作である。これは量が少なめなので、その右半分に 一般史の事項を挿入してある。
 以上が ファーガソンの主要3部作の系統であるが、それ以外の主題の著書(何冊もの大冊があるが)や、3系統に含まれるものであっても 雑誌論文などは 一緒にして 一番左側の列にまとめて、「種々の論」 (Miscellaneous) に分類してある。また、世界、近世、インドの主要3部作のみ、目立つように 赤の太字にしておいた。それぞれの初版、第2版、第3版が、出版年度に書いてある(「インドと東方」は第2版が最後)。

 ファーガソンは 1808年にスコットランドの 旧・エアシャー州の州都 エアで、軍医のウィリアム・ファーガソンの次男として生まれた(ちなみに、エアというのは グラスゴーの 50kmばかり南にある都市であり、マッキントッシュがグラスゴーの美術学校で学び始めるのは、ファーガソンが没する2年前のことである)。ファーガソンは 20歳頃に兄の事業を手伝うべく カルカッタに渡るが、会社が倒産し、弟とともに インディゴ栽培の事業を起こす。これが当たって一財産を築く間に インド各地を旅するうち、次第に建築に傾倒して、ついに 一生を建築史の研究と著作に捧げようと決心する。

 インド各地の旅行では、後の伊東忠太と同じように 膨大なフィールド・ノートを作り、古建築を絵に描いた という(そのフィールド・ノートは どこかに保存されているのだろうか ?)。のちに これを原画として、版画家・トマス・コールマン・ディブディン(Thomas Coleman Dibdin)にリトグラフにしてもらって 出版することになるが、当時のインドを描いた画家たちの絵を見比べると、ウィリアム・シンプソンを別格とすれば、ファーガソンの絵が 建築を最も正確で 立体感あふれるものに描いているのがわかる。美術学校で絵や建築を学んだわけではないのに、彼は天性の建築的感性を備えていたように思われる。

ファーガソン著『インドの石窟寺院画集』

 ファーガソンがイギリスに戻って 最初に出版したのは、<著作年表>のインド建築の欄における 1845年、『インドの石窟寺院画集』(Illustrations of the Rock-cut Temples of India) という本である。当時ヨーロッパで知られ始めた 石窟寺院についての調査を論文にまとめて、ロンドンの王立アジア協会(Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland)で 1843年に発表したところ、大きな反響を呼び、翌年、東インド会社は それらの保存と、アジャンターの壁画の模写に乗り出すことになる。ファーガソンは この論文に図面を加えて小型本となし、彼の原画に基づくB3判の大型リトグラフ(石版画)18葉に付して 出版をした。37歳の処女出版である。

 しかし この本の「はしがき」によれば、本来彼は インドの他の建築と切り離して 石窟寺院だけの本を出版するという気は なかったという。彼の意図は 古代から近代に至る 仏教、ヒンドゥ、イスラームの建物を 100枚ほどのリトグラフにして、インドの建築の全体像を紹介するつもりなのであったが、それには費用がかかりすぎるので、実験的に 石窟寺院のみをまとめて 出版することにしたのだという。美術家にとっても 好古家にとっても、独立した石造建築の方が 石窟寺院よりも美しく興味深いのだから、そういう事情でなければ 石窟を第一に選びはしなかったろう という。ファーガソンは 当初からインド建築の全体を描くことを 望んでいたのだといえる。

 ところで この画集のリトグラフは、ファーガソンが 1838年から翌年にかけて インド各地の石窟寺院を訪ねて調査した時に描いたスケッチをもとに、版画家のディブディンが リトグラフにしたものであるが、ウィリアム・ホッジスやトマス・ダニエル以来の オリエンタリストの風景画家による遺跡画よりも、はるかに建築的な正確さをもって描かれている。建築的正確さへの ファーガソンの執念を最もよく示しているのは、カールリーの石窟寺院の絵であろう。

リトグラフ「カールリーの石窟寺院」

 この見事な絵は さらに木版画にされて、後の『図説世界建築ハンドブック』から『インドと東方の建築史』に至るまで 何度も用いられている。実は これはファーガソンの通常のスケッチではなく、カメラ・ルシダ(Camera Lucida)と呼ばれる「写生機」によって描かれた画像を もとにしている。写真機が本格化する前の、プリズムを利用して 写実的な(透視図法の)作図をする道具であった。彼は これを積極的に利用するが、後に写真機が実用化されると いち早くこれを手に入れて インド建築の撮影をするのである。このように、正確さに対する あくことなき探求が、彼の これ以後の著書においても 根幹をなしている。
 この本の成功に気をよくしたファーガソンは、石窟寺院ばかりでなく インド建築全体を 100枚ぐらいの大型リトグラフにして出版することを意図するが、これは あまりにも高価になってしまうので、結局 24葉の淡彩リトグラフに70ページの解説をつけて、『インドの古建築のピクチュアレスクな画集』(Picturesque Illustrations of Ancient Architecture in Hindostan) として 1848年に出版した(表紙のリトグラフには 1847年と刷ってあるが、実際の出版は翌年である)。これは さらに評判となって、その4年後には 再版も出た。

 こうしてファーガソンは インド建築の研究と著作で出発したが、1845年に最後のインド訪問をするとともに 中東からヨーロッパ諸国を旅行すると、以後は もっぱら図書館に通って独学し、インドばかりでなく 世界の建築の研究に没頭するのである。

トマス・リックマン著『英国建築様式を判別する試み』

 <人物年表>の右上、1817年のところに トマス・リックマンの『英国建築様式を判別する試み』が出版されたことを記載してある。正確なタイトルは ”AN ATTEMPT TO DISCRIMINATE THE STYLES OF ENGLISH ARCHITECTURE FROM THE CONQUEST TO THE REFORMATION”(ノルマン征服より宗教改革に至るイギリスの建築様式を判別する試み)という。これは建築家にして教会堂建築の研究者であったリックマン(1776〜1841)が、イギリスのゴチック建築を さらに細かく分類して、「初期イギリス式」、「装飾式」、「垂直式」などの様式名を確立し、それぞれの様式特徴を 明瞭に書き表した本である。すべからく 建築を分類し時代を確定するのは 何よりも「様式」であるということを 科学的に明らかにし、19世紀における建築史の基本概念を「様式」におくことを決定づけた書物であった。ファーガソンは この書に大きな影響を受け、その方法を学んだ。そして、リックマンが判別しようとしたのは イギリスの建築様式であったが、ファーガソンは 世界の建築様式を判別しようと考えたのである。

ピュージン著『キリスト教建築の正しい原理』

 ファーガソンが最初に自己の建築思想を書いた本は、<著作年表>の世界建築史の欄における1849年、『芸術、とりわけ建築美に関する正しい原理への歴史的探求』(An Historical Inquiery into the True Principles of Beauty in Art, more Especially with Reference to Atchitecture) という長い題名の本である。ここに注目すべきは、「正しい原理」(True Principles) という言葉が使われていることである。<著作年表>の右上 1841年のところに、ピュージンが『キリスト教建築の正しい原理』を出版 とあるが、その原題は "THE TRUE PRINCIPLES OF POINTED OR CHRISTIAN ARCHITECTURE という。著者 オーガスタス・ウェルビー・ピュージン (1812-52) は イギリスの建築家で、キリスト教建築の正しい姿は ゴチック様式にあり、ギリシア・ローマの古典様式は ふさわしくない、ということを主張した。尖頭アーチを基本とするゴチック建築は、その複雑な造形的表現も 構造的合理性に基づいており、すべての装飾は それを妨げずに存在しているがゆえに価値があり、それが建築の「正しい原理」であるのだ という。これは 19世紀のイギリスを中心とする ゴチック・リバイバルの理論的支柱となった書物であり、ファーガソンは(後にボンベイ大学の講堂と図書館を設計する ジョージ・ギルバート・スコットと同じように)この考えに 強く共感したのだった。

ファーガソン著『正しい原理への歴史的探求』

 ピュージンは こうした考えを ヨーロッパにおけるキリスト教建築について書いたのだったが、ファーガソンは それだけでなくて、世界のどこにおいても、中世の建築は正しい原理でつくられていた と考え、ピュージンが使った 「正しい原理」という言葉を、世界建築に関する 彼の最初の著作の表題に使ったのである。中世の建築までは 正しい原理でつくられていたのに、ルネサンス以後の建築は 猿まね建築になってしまったと言い、これを彼は「モンキー・スタイル」と呼ぶ。その『正しい原理への歴史的探求』の表題のもとに 世界建築史を記述しようとし、 全3巻の予定で、第1巻を自費出版で出す。しかしながら、それはたった4冊しか売れなかったので、以後の続刊を断念せざるをえなかった。

ジョン・マリー出版社

3代目のジョン・マリー

 ところが この本に注目してくれた人がいた。老舗(しにせ)出版社のジョン・マリーである。ジョン・マリー社というのは 1768年に事業を始めた書籍商で、初代ジョン・マリー以来、代々 出版者一家をなすようになり、一般書から学術書まで 幅広く出版活動をした。この HP の「リュキア建築紀行」で紹介した チャールズ・フェローズの『小アジア紀行』(1839) や『リュキアにおける発見の報告』(1841) なども、この出版社から出されたものである。インド関係では、ボンベイ管区知事を務めた マウントスチュアート・エルフィンストンによる 名高い『インド史』(1841) や、考古学者のカニンガムの兄、ジョセフ・デイヴィ・カニンガムが書いた『シク教の歴史』(1849) などを出していた。

 のちには 先述のハヴェルの本も、『インド美術の理想』(1911) をはじめとして、その多くを出版することになる。ハヴェルが影響を受けた 岡倉覚三(天心)の『東方の理想』(1903) の出版もまた、ジョン・マリーからであった。余談になるが、岡倉の本がジョン・マリー社から出版されたのは、岡倉が親交を結んだ ヴィヴェカーナンダの弟子の シスター・ニヴェディータ(本名をマーガレット・エリザベス・ノーブルという アイルランド人女性)の紹介であって、彼女は『東方の理想』の序文をも書いている。これら岡倉やハヴェルの本を手がけるのは4代目の ジョン・マリーであるが、ファーガソンに声をかけたのは その父の、最も有能なにして、偶然にもファーガソンとちょうど年齢を同じくする、3代目ジョン・マリー (1808-92) であった。彼が ダーウィンの『種の起源』を出版するのは、ファーガソンの本の4年後の 1859年である。

 ジョン・マリーはファーガソンに、挫折した本の内容を書き改めて、世界の建築を 歴史的にではなく、地理的順序で叙述してはどうか と勧める。その勧めにしたがってファーガソンが書いたのが、<著作年表>の「世界建築史」の欄の 1855年にある『図説世界建築ハンドブック』(The Illustrated Handbook of Architecture) である。当時の本の題名は 今とちがって長たらしいものが多く、ほとんど内容案内のようになっていて、題名の各部の重要度に応じて その部分の活字の大きさを変えていたりする。このファーガソンの本もそうで、タイトル全文は『すべての時代と国を代表するさまざまな建築様式の、簡明にして平易な叙述からなる図解・建築ハンドブック』(The Illustrated Handbook of Architecture: being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages and Countries) というものである。これではあまりに長いので、単に『ハンドブック』と略される場合も多いが、本稿ではコロンの前の部分の『図説世界建築ハンドブック』と呼ぶことにしよう。

ファーガソン著『図説世界建築ハンドブック』

 この『図説世界建築ハンドブック』こそが、1855年に ファーガソンがジョン・マリーから初めて出版し、上巻のインドから説き起こして 下巻のヨーロッパに至るまで、世界の建築を国別に叙述した 記念すべき著作である。上下2冊合わせた記述は 1,000ページを超え、しかも 図版を 840点も載せた大部の書であった。これは非常によく売れて 世界中で読まれ、4年後には再版も出た(当時の再版というのは、活版印刷の時代であったから、内容は同じであっても 単なる増刷ではなく、すべての活字を植字工が拾い直した 新しい版という意味である)。その中に、インド部分は 145ページ、東方部分(というのは ビルマから東という意味だが)は 35ページあった。内容は まだ充分に熟していなかったにしても、ともかく ここでインド建築の歴史が、初めて 145ページにわたって書かれたのである。ファーガソン 47歳のときであった。

 ところで、この本の図版は すべて木版画である。木版といえば 普通は日本の浮世絵のような 板目(いため)木版をさすが、ヨーロッパでは 18世紀末に、イギリスのトマス・ビューイック (1753-1828) が 小口(こぐち)木版の技法を開発した。柘植(つげ)や楓(かえで)の小口に 緻密な線刻をするもので、まるで銅版画のような 鋭い線と陰影をほどこすことができる。ファーガソンがインド各地を旅して建築調査をした折には、初めはスケッチによるフィールドノートを作成していたが、当時 写真機が実用化されてきた。当然ながら 写真はスケッチよりも はるかに正確に建物や遺跡の姿を写すことができるので、彼はこれを大いに利用することにした。しかし出版の段階になると、まだ 写真製版のなかった時代なので、これらの写真やスケッチをもとに、版画家が小口木版で 印刷の版下を制作したのである。

 もちろん インドはこの本の一部であるにすぎないから、世界建築の他の図版は さまざまな資料や報告書、旅行記などの図版から とられた。これをすべて、彫り師・ロバート・ブランストン (Robert Branston) が 統一した画風の木版画にした。これによって、まるで写真のような立体的な絵でありながら、すべて線刻によるがゆえに 建築図面のような くっきりとした図版が 全編を飾ることになった。これ以後、ファーガソンの本には すべて木版による大量の図版が挿入されて、まだ映画もテレビも発達していない時代に、 ヴィジュアルな本の最先端をいって 読者を満足させたのである。建築の本として、これは画期的なことであったろう。

『世界建築史』への道

 これ以後、ファーガソンの本は ほとんどがジョン・マリーから出版されることとなる。彼の本を知る人なら、しばしば その扉の下部に、London:John Murray, Albemarle Street (ジョン・マリー、ロンドン市 アルベマール街)と書かれているのを 記憶していることだろう。ついでながら、英領時代におけるインドの最良のガイドブックは、ジョン・マリーが出していた『インド旅行ハンドブック』(A Handbook for Travellers in India) であって、インド独立後の 1978年版(第23版)まで改訂され続けた ベストセラーであった。その最初の版は ボンベイとマドラスとベンガルの3管区の分冊になっていて、1859年(インド大反乱の終わった年)にボンベイとマドラスの2管区、ベンガル管区のみ遅れて 1882年に、出版された。これらの内容が、ファーガソンの『図説世界建築ハンドブック』(1855) と『インドと東方の建築史』(1876) に大きく負っていることは 言うまでもない。ヨーロッパにおける旅行ガイドブックにおいて おおむね建築の記述が充実しているのは、ジョン・マリーの「旅行ハンドブック」シリーズに発しているのである。

リトグラフ「ブンディの町と宮殿」

 この『図説世界建築ハンドブック』はきわめて好評だったので、ファーガソンはその続編を書く気になる。続編といっても、ここからは「ハンドブック」シリーズとしてではなく、「ファーガソンの本」のシリーズとでもいうべきものになる。それが<著作年表>の右側、近世建築の欄の 1862年に赤字で書かれた『近世様式の建築史』 (History of the Modern Styles of Architecture) の初版である。ここでモダーンというのは 現代で言うモダニズムではなく、ファーガソンの時代におけるモダーンである。つまり『図説世界建築ハンドブック』で扱っていたのが古代と中世の建築であったのに対し、ここでは近世の建築、つまりルネサンス以後の建築を記述したのである。

 彼はここでも ヨーロッパだけでなく 世界各地の近世の建築を集成しようとした。しかし ヨーロッパ以外は資料が乏しかったので、実際には 大半がヨーロッパとなってしまったが。それに インドとトルコ、アメリカの章を加え、さらに新しい種類の建築として 劇場建築などの章を設けた。『図説世界建築ハンドブック』は上下2巻だったので、これはその第3巻として出版された。
 先ほど記したように、ファーガソンはルネサンス以後を 堕落した建築の時代と考えていたから、これをあまり肯定的には書いていない。そのために、彼の死後『近世様式の建築史』を増補改訂したロバート・カー (Robert Ker, 1823-1904) は、ファーガソンの原著に対する批判的見解を 至るところに書き加えて2巻本にするのである。

 こうして『図説世界建築ハンドブック』全3巻は 長い原題どおりに、「すべての時代と国を代表するさまざまな建築様式の、簡明にして平易な叙述からなる」建築書となった。しかし これは世界の建築を地理的順序で書き並べていたので、世界建築史をめざしていたファーガソンは、これを配列し直して 歴史的順序に並べ替え、さらに詳細に叙述した本にすることを意図した。それが、<著作年表>の 1865年に赤字で書かれた『世界建築史』 (History of Architecture) 全2巻である。その過半の記述は『図説世界建築ハンドブック』のままであったが、一般的には これが ファーガソンの最初の世界建築史の本であるとされている。

 一方、ファーガソンは やはりインドに非常にこだわっていたので、この世界建築史の中から インド部分を独立させようと考える。『図説世界建築ハンドブック』の時には 145ページだったインド部分が、『世界建築史』の初版では 250ページに増大していたのだが、さらにそれを もっと詳しく書いて 独立した本にしようと意図する。それが、<著作年表>のインド建築の欄の1876年のところに赤字で書かれた『インドと東方の建築史』(775ページ)である。
 それと同時に『世界建築史』からインドと東方部分を取り除いて 全体を改訂増補しようとする。『近世様式の建築史』のほうも、当初は『図説世界建築ハンドブック』の続編として書かれたので、これを新たに改訂増補しようと意図する。こうした意図の元に、それら全部が出版されたのは 1870年代である。最初に『近世様式の建築史』の第2版が 1873年に出され、その翌年に『世界建築史』の第2版が2巻本で出る。ここから独立させた『インドと東方の建築史』の初版が出たのが、先述のように 1876年である。これで ついに ファーガソンの主著3部作が出揃うわけである。この時彼は 67歳であった。

 興味深いことに、この3部作は ファーガソンが死んだ後にも、さらに改訂版がつくられる。最初に『近世様式の建築史』の改訂版が ロバート・カーという、ロンドンのキングス・カレッジ教授であった建築家によって増補加筆されて2巻本になる。これが<著作年表>の 1891年の赤字書いた版で、その2年後の<著作年表>の1893年には、赤字の『世界建築史』が、リチャード・フネ・スパイアズによって改訂版がつくられる。一方、『インドと東方の建築史』のほうは だいぶ遅れて、というのはジョン・マリーから改訂を依頼されたジェイムズ・バージェスが 考古局の長官の任にあったので、多忙のため なかなかとりかかれず、1892年に職を退いた後、1901年に やっと着手したのであった。これが2巻本となって出たのは だいぶ後の、<著作年表>の 1910年のところに 赤字で示した改訂版である。先述のように、これが『インドと東方の建築史』の決定版となる。したがって、ファーガソン没後に 主著3部作の第3版(『インドと東方の建築史』だけは第2版)が出そろうのは 1910年のことであって、最終的に 全部で6冊の大著作になったのである。

ファーガソン著『世界建築史』全6冊

 ファーガソンの生前には、自身で書いた この主著は 全4巻であった。『世界建築史』が2巻、『近世様式の建築史』が1巻、『インドと東方の建築史』が1巻で、それぞれの扉には 全4巻というふうに一応書いてあるのだが、それぞれは独立した本と見なすことも できた。最終改訂版は全6冊となったが、しかし それぞれの独立性が強いので、これを全6巻とは呼ばなくなった。
 以上たどってきたところが、ファーガソンの主な著作(3部作)の体系である。

 『建築史学の興隆』を書いたワトキンによると、『図説世界建築ハンドブック』を歴史的順序で書き直した『世界建築史』は、「英語で書かれた 最初の真面目な世界建築史」だと書いてある(桐敷真次郎訳)。「真面目な」というのは変な言い方なので、「本格的な」と訳したほうが良いのではないかと思うが、「英語で書かれた最初の本格的な世界建築史」が、ファーガソンの『世界建築史』である というわけである。 ここで留意すべきは、先述のように、1865年の初版においても、 インド部分が 250ページ、東方部分が 70ページ記述されていた ということである。
 <人物年表>で バージェスの右隣の、広く知られた バニスター・フレッチャー (1833-99) によって建築史が書かれるのは、この 30年後である。その 最初の『フレッチャー建築史』には、東洋部分が まったくなかった。東洋建築が加えられるのは、さらに5年後の1901年に出版された 第4版からである。一方、「英語で書かれた最初の本格的な世界建築史」である ファーガソンの本には、インド部分が 250ページもあり、それより東の部分が、少ないけれども 70ページあった。当時のイギリスの建築史家、あるいは建築家たちは 皆この本を読んだわけだから、その当時から イギリスの建築界では、建築史といえば、インドや東洋にも目を注ぐという傾向が、ファーガソンの本によって作られていたわけである。建築における当時の(良い意味での)「オリエンタリズム」は、ファーガソンによってもたらされた と言って過言でない。
 ただ、ファーガソンの著作は多方面にわたっていたので、それを読む角度も様々であった。興味深いのは ニコラス・ペヴスナー (1902-83) が、ファーガソンの本で一番重要 (his most important book) なのは『近世様式の建築史』だと『19世紀の建築著作家たち』(Some Architectural Writers of the Nineteenth Century, 1972, Oxford) に書いていることだった。


日本の 工部大学校とファーガソン

 『近代日本建築学発達史』(1972 丸善) によれば、工部大学校が帝国大学になる前年の明治18年、最後の『工部大学校 学科並諸規則』には、次のように書かれていたという(p.1688)。

「参考書としてフェルガッソンの『造家学史』(James Fergusson : The Illustrated Handbook of Architecture, 2巻, London, 1855)・・・・をあげている。 ・・・・また参考書として学生の座右にあったファーガッソンのハンドブックが、諸様式を通史的に叙述しているとしても、建築の設計に直接必要な知識として修得されたのであった。」

ここで言う『造家学史』とは、『世界建築史』の前身である『図説世界建築ハンドブック』である。この記述が正しければ、工部大学校の終わりの頃、あるいは帝国大学の初めの頃に、建築の学生たちは 主にファーガソンの『図説世界建築ハンドブック』の方を読んでいたことになる。すでに『世界建築史』全4巻が出ていたのだが、それを全部買うと高額になるので、学生には その前身の『図説世界建築ハンドブック』の利用を勧めたようである。

フレッチャー著『建築の歴史』

 フレッチャーの『建築の歴史』は 彼の死後に、もともと共著者であった息子の建築家、同名のバニスター・フレッチャー (1866-1953) が 改訂と増補を続けた。息子の死後も さらに改訂され続けて、現在 20版に達している。日本でも その翻訳が 1919年(大正8)に第5版が、そして1996年には第19版の翻訳が 出版されているので、その名前はよく知られている。それに比して ファーガソンは、1910年以降には さらなる改訂版が出るということはなく、日本では ついに翻訳されることもなかったので、その名前は ほとんど忘れ去られてしまった。しかし、独力で あれだけの著作を成し遂げた彼の業績は もっと評価されていい。

 トロイアの遺跡の発掘で わが国にもよく知られている大考古学者 シュリーマン (1822-90) は、ファーガソンより14歳若かった。建築史と考古学という違いはあったが、苦労して財産をつくると、あとは若い時の夢の実現のために フリーな立場で研究生活にうちこんだ という 似た境遇から、ファーガソンを深く敬愛していた。シュリーマンが晩年に書いた大著『ティリュンス』は、ファーガソンに献じられている。



この稿をもとに、ファーガソンによるインド建築史形成について詳述したのが、この HP にある「ジェイムズ・ファーガソンとインド建築」です。


『インドと東方の建築史』を改訂増補したウィリアム・バージェスが、インド政府考古調査局で出版した報告書については、「古書の愉しみ」の第12回、「グジャラート地方のイスラーム建築」で紹介しました。


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