ジェイムズ・フアーガスン
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1. はじめに |
建築史家の ジェイムズ・ファーガスン (1808-86) といっても、今の日本で その名を知る人は少ない。有名なフレッチャーの『建築史』よりも 30年も早く 浩瀚な『世界建築史』(*1) を出版した人であって、その深い建築的思索と 広く読まれた著作群とによって、ローマ時代の ウィトルウィウスにも比された人物である。(*2)トロイを発掘した考古学者のシュリーマンは 晩年の大著『ティリュンス』を ファーガスンに捧げているし、RIBA(王立英国建築家協会)からは その建築史研究の業績によって ロイヤル・ゴールド・メダルを授与されている。 明治時代に 日本で最初に行なわれた建築史教育(工部大学校および 帝国大学工科大学・造家学科)においては、彼の著書が教科書として用いられた。岸田日出刀が伊東忠太に聞き書きしたところによれば、当時、建築史の「講義が 大よそファーガッソン著の建築史書 ("History of Architecture", James Fergusson, 1874) の直譯傅授であった...」(*3)とあるから、明治時代に育った日本の建築家の多くは ファーガスンの名に親しんでいたことだろう。 しかし、おそらくは 彼の著書が一冊も邦訳されなかったために、その後 フレッチャーの『建築史』(*4)が普及するとともに ファーガスンの名は忘れ去られ、建築史学の上での大きな業績にもかかわらず、彼の著作研究も ほとんどなされてこなかった。一つには、彼の著作の内容の幅が あまりにも広いがために その全体像を捉えるのが容易でないことと、一方 その最大の功績が インド建築史の体系化にあったからだと思われる。
James Fergusson 日本においては 伊東忠太と天沼俊一がインド建築に興味を示し、現地旅行をしたのであるが、その後 インド建築は日本の建築界において興味の対象外となり、インド建築史を専攻する研究者が現れなかった。そのために インド建築史と世界建築史の広がりの中に ファーガスンを位置付けることも 日本の建築史界の よくするところではなく、彰国社の『建築大辞典』にファーガスンの項目がないのも 驚くにはあたらない。近年になって アジア研究が盛んになるにつれて、ようやく ファーガスンにも 再び目が注がれるようになったのである。(*5) 本稿は ファーガスンによるインド建築史研究の内容を概観するのが目的であるが、ファーガスンの全体像が知られていない現状では、インド建築史上の細目についての論議はおいて、彼の建築思想 および全著作体系との関連づけの中で、彼が いかにインド建築史をつくっていったかを 見ていくことにする。
ファーガスンの評伝や研究書は 本国イギリスにおいても出版されていないので、私生活はもちろん、その学習・研究過程の詳細も明らかでない。多くの書物の断片的な記述をもとに再構成してみると おおよそ次のようになる。(*6) ジェイムズ・ファーガスンは 1808年に スコットランドの旧エアシャー州の州都 エアで、軍医のウィリアム・ファーガスンの次男として生まれた。父の転勤によって エディンバラで育ったが、さらに ロンドン南西部のハウンズロー私立学校に転校し、卒業後、20歳前後で インドのカルカッタにわたる。兄がパートナーをしていた フェアリー・ファーガスン会社に勤務するが、まもなく会社は倒産するので、彼はインディゴ農園を経営することとなり、また兄と カルカッタで貿易会社を起こす。このインディゴ栽培は大いに成功して一財産を築くが、さらに事業に打ち込むよりも 建築の研究者となることを選ぶ。幼時より 古い建物や異国の建築に興味をもっていたらしく、インドで暮らすうちに インドの古建築を見てまわるようになり、また 事業よりも研究者生活のほうが 自分の性にあっていると判断したらしい。 10年におよぶカルカッタでの事業に終止符を打って イギリスに戻り、ロンドンの ランガム・プレイスに居を構えたあと、彼は図書館に通って建築の研究に没頭する。 そして 1834年頃から 1843年にかけての 10年あまり、繰り返しインドに出かけては建築調査をし、膨大なフィールド・ノートをとった。その途次 ヨーロッパから中東にかけても 各地を旅行したらしい。インドの どの地方を いつ旅したのかは、記述相互間に食い違いがあって はっきりしない。
最後のインド旅行は 1845年になるが、その前、1843年に最初の論文を書き、年末に 王立アジア協会 (Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland) で発表した。これが「インドの石窟寺院論 (On the Rock-Cut Temples of India) 」であり、ファーガスン 35歳の時であった。 これ以後、彼は 10年間の蓄積をもとにしながら 絶えず世界中の建築に関する資料を収集し続け、それを 著作にまとめては発表した。77歳で没するまでに 数多くの論文や著書を世に問い、かつ それらを完成に向けて 倦むことなく 改訂増補し続けた。その著作体系は インドからヨーロッパまで、また古代から 19世紀に至るまで あまりに広範であったので、その全容がつかみにくく、ファーガスンの著作を 文献として挙げてある多くの書物が その記述に誤りや食い違いを含むという 混乱状態におちいってしまった。それらを全面的に整理すべく 筆者が作成したのが「ジェイムズ・ファーガスン 著作年表」ある。以下、これに沿って彼の著作体系を説明していくことにしよう。
まずファーガスンの著作を 四つの系統に分類する。彼が最も長い期間探究したのは イ ンド建築史であったので、これを第1の系統とするならば、第2は 古代から中世までの世界建築史系統であり、第3は近世、すなわちルネサンス時代から 19世紀までの近世の建築史である。 さて 彼の処女出版は、先ほど述べた最初の論文「インドの石窟寺院論」をテキストとして、これに実測図を加えて小型本となし、彼の原画に基づいて T・C・ディブディンが制作した B3判の大型リトグラフ 18葉と併せた『インドの石窟寺院画集 (Illustrations of the Rock-Cut Temples of India) 』という 1845年の本である。この本の序文によれば、インドの他の建築と切り離して 石窟寺院だけを出版する意図は 初めはなかったという。本来は インドの古代から近世に至る 仏教、ヒンドゥ、イスラムの建物を 100枚ぐらいのリトグラフにして出版するつもりであったというから、彼は 当初からインド建築の全体像と その主要作品をまとめて 世界に紹介しようと考えていたらしい。しかし それは費用がかかりすぎるので、まずは石窟寺院のみを まとめたのであって、独立した石造建築よりも 石窟寺院の方に より深い興味を抱いていたわけではなかった。
ファーガスンの原画による、アジャンター第19窟 それゆえに 次の出版はインドの石造建築を 24枚の大型リトグラフにして 70ページの解説をつけた『インドの古建築の ピクチュアレスクな画集 (Picturesque Illustrations of Ancient Architecture in Hindostan) 』という 1848年の豪華本で、これは再版が出るほどに好評だった。こうして2冊のインド建築の本が彼の出発点となったが、彼が目ざしていたのは インドにとどまらず、世界の建築の全体を扱うことであった。古代から近世にいたる 世界の建築文化を集大成しつつ、それらの本質と相互関連を考察していたのである。
その取り組みに大きな影響を与えたのが、1817年に トマス・リックマン (Thomas Rickman, 1776-1841)が書いた『英国建築様式を判別する試み (An Attempt to Discriminate the Styles of English Architecture) 』である。(*8)これは 建築家にして教会堂建築の研究者であったリックマンが、イギリスのゴチック建築を さらに細かく分類して、「ノルマン式」、「初期イギリス式」、「装飾式」、「垂直式」などの様式名を確立し、それぞれの様式的特徴を 明瞭に書き表した本である。すべからく 建築を分類し時代を確定するのは、何よりも 「様式」であるということを「科学的に」明らかにし、19世紀における建築史の基本概念を「様式」におくことを決定づけた書物であった。ファーガスンは この書に感銘を受け、その「様式」概念が イギリスにおいてばかりでなく、インドにおいては一層有効である とさえ考えたのである。(*9)
ファーガスンが最初に書いた 本格的な理論書は、1849年の『芸術、とりわけ建築美に関する 正しい原理への歴史的探究 (An Historical Inquiry into the True Principles of Beauty in Art, more Especially with Reference to Architecture) 』という長い題名の本である(以下、本稿では『歴史的探究』と略すことにする)。(*10) ここに注目すべきは「正しい原理 (True Principles) 」という言葉が使われていることであって、これは オーガスタス・ウェルビー・ピュージン(Augustus Welby Northmore Pugin, 1812-52)からの影響であった。 19世紀初頭、イギリスの建築界は それまで支配的であった新古典主義(新しい建物を 古代ギリシア・ローマの建築様式に基づいて設計する傾向)に異議を唱える 建築家や理論家が現れた。ピュージンはその代表で、キリスト教建築の正しい姿はゴチック様式にあり、異教世界のギリシア・ローマの古典様式は ふさわしくないと主張した。(*11)尖頭アーチを基本とするゴチック建築は、その複雑な造形的表現も 構造的合理性に基づいており、すべての装飾は それを妨げずに存在しているがゆえに価値があり、それが建築の「正しい原理」であるのだという。彼が 1841年に出版した『キリスト教建築の正しい原理 (The True Principles of Pointed or Christian Architecture) 』は、19世紀のイギリスを中心とする ゴチック・リバイバルの理論的支柱となった書物であった。ファーガスンは この考えに強く共感し、その「正しい原理」という言葉を借りるのである。
ピュージン著 『キリスト教建築の正しい原理』 ピュージンや ジョージ・ギルバート・スコット(後にボンベイ大学の講堂と図書館を設計する)など リバイバリストたちは、新しい聖堂をゴチック様式で設計し、「中世賛美」の潮流を イギリスの建築界に広めた。しかしファーガスンは、ゴチック様式を高く評価しながらも それを絶対とは考えなかったし、またその様式で現代建築を設計すべきだとも考えなかった。ファーガスンの そうした言論に対して、中世主義者たちからは非難の声があがったので、彼は 後に『世界建築史』の序文において 次のように述懐している。([ ]は訳者による補足、以下同様 )
ファーガスンは ピュージンと同じようにゴチック様式を高く評価したが、しかし中世とは社会システムも人々の心情もまったく異なった現代(ファーガスンの 19世紀)において、新しい建物に過去の様式を用いるのは誤りだ と考えた。そしてまた ゴチック様式以外にも世界各地にさまざまな様式があり、それらは その時代と社会の要求に最も合致した様式であるがゆえに美しく、価値があるのだと判断した。その正当性をこそ「正しい原理」と呼んだのである。インド建築で出発しながら 世界中の建築を学び、様式分類とその特質を探究するうちに、彼にはそうした建築観が生まれ、それを体系立てて理論的な著作を世に問おうと考えた。それが上記の『歴史的探究』である。 この『歴史的探究』に注目してくれたのは、老舗(しにせ)の出版社の社主、偶然にも ファーガスンと同年齢の、三代目ジョン・マリーであった。彼は一般書から学術書まで 幅広い出版活動をした人であるが、世界の建築資料を探究、収集していたファーガスンに、それを地理的順序で書き直すことを勧めた。ファーガスンも 高踏的な理論的著作では世に受け入れられないことを悟り、ジョン・マリーの勧めに従って 世界中の建築を、インドから始めてヨーロッパに至るまで、「もっとポピュラーな」筆致で詳説した。これがファーガスン 47歳における画期的な著作、1855年の『図解世界建築ハンドブック』上下2巻である。
正規の題名は、『すべての時代と国を代表する 様々な建築様式の、簡明にして平易な叙述からなる 図解・建築ハンドブック(The Illustrated Handbook of Architecture: Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages and Countries)』という長いものなので、本稿では これを単に『ハンドブック』と呼ぶことにする。 世界中の建築を分類し続けて 植物学のリンネにも なぞらえられたファーガスンは、(*14) この本に 可能な限り多くの図版を挿入することとした。まだ写真印刷のなかった当時、トマス・ビュイックによって発展させられ 盛んになっていた 木口木版による精密な絵と図面を 840点も制作させたので、これは世界の様々な建築様式を視覚的に示す 空前の出版となり、叙述の明快さと相まって 大好評を博した。再版もされて 大陸およびアメリカにも流布し、日本でも「工部大学校学科並諸規則」(1885) の中に 「 ... 参考書としてフェルガッソンの『造家学史』(James Fergusson: The Illustrated Handbook of Architecture) ... をあげている。」(*15) とあるから、日本の建築学生たちも これを買ったことだろう。これ以後 ファーガスンのほとんどの著書は、同じような体裁で ジョン・マリーから出版されることになる。
『ハンドブック』は 世界の建築を、インド、中国、西アジア、エジプト、ギリシア、ローマ、ペルシア、イスラムの順に上巻で扱い、下巻では ヨーロッパの中世の建築を フランス、ベルギー、ドイツ、イタリア、ポルトガル、イギリス、北欧と叙述し、最後にビザンチンを加えている。全体の半分がヨーロッパであることから、彼が ヨーロッパ中心主義者であると思われるかもしれないが、先ほどの引用文にも見られるように、当時知りうる範囲で 世界中の建築様式を扱おうとしたところは、今でいう文化相対主義者であったと言える。(*16)
『ハンドブック』は ファーガスンの著書の中でも1ページの活字量が最も多い本であり、上下巻あわせて 1,000ページを超える大部なものであったにもかかわらず、「ハンドブック」というような 軽そうな題名がついていることに 不審な感じをいだく人も いよう。これは ジョン・マリーが 世界各地のガイドブックを "Handbook for Travellers" シリーズとして出版しつつあり、(*17)その一巻として ファーガスンに執筆を依頼したのだが、これは ガイドブックであるよりは ずっと学問的な大著となったので、for travellers の字を取り去って、「ハンドブック」という名前のみを書名に残したのである。
ファーガスンは この本の前書きに、18世紀には 建築の研究がアマチュアによる趣味の仕事であったが、19世紀には 批評の原則が立てられ、哲学的、科学的に研究されるようになったこと、19世紀前半の 50年間に 大量の蓄積がなされて大きく前進したことを述べている。
50年前のヨーロッパに蔓延していたのは ギリシア・ローマの形態やオーダーの模倣 (imitation) であったが、現在(19世紀半ば)では 中世のデザインの複製 (reproduction) に移行した。これは単なるファッションの変化であって、本質的 ないし真実の芸術ではない。我々がなすべきことは、こうした表面的なものの奥に 芸術の真の定義や目的を探究することである。
前者のシステムにおける建築芸術は、それが望まれた目的に最も適した使いやすいデザインであり、各部は 用途にふさわしい品位と装飾 (ornament) をもち、かつその装飾は 建物の目的に適うと共に、その構造 (construction) に調和した表現であって、建築家は その装飾を 能うかぎり優雅 (elegant) なものにした。これは 古代エジプトやギリシア、ゴチック、ばかりでなく、怠惰なインド人の間でも、愚鈍なチベットや中国でも、野蛮なメキシコにおいてさえ、偉大で美しい建物が 建てられ続けている。このシステムによっていれば、どんなに粗野で未開の人種であろうと 建築において失敗することはなかったし、そうした正しい芸術 (true art) が行きわたっていた時代のもので 美しくない建物は一つとしてない。
ところが 後者(ルネサンス以降のヨーロッパと、その影響を受けた世界)のシステムの結果は、これとは まるで異なっている。それは この3世紀以上にわたってヨーロッパで行なわれ、建築の形態や構造技術について より多くの知識をもち、科学と芸術を結びつけて、過去のどんな民族よりも偉大な目的を達成することのできる人々によって行なわれている にもかかわらず、完全に満足すべき建物、永遠に賞賛されるべき建物は 一つとして建てられなかった。 多くの建物は かつてなかった程に壮大で 豊かに装飾されているにもかかわらず、その時のファッションに従っているだけなので すぐに時代遅れになる。それは見せかけであり、虚偽であるから 永続しないのである。
以上が、建築の歴史に対する ファーガスンの基本認識である。古代と中世の建築は 世界中どこでも「正しい原理」に基づいていたので優れていたが、ルネサンス以後のヨーロッパ建築は 過去の模倣に堕してしまったので、美しくもなければ 有用でもない というのである。ファーガスンの建築史研究は、次々と新しい事実の発見や資料の入手によって発展し、書き直されていったが、この基本認識は 終生変わらずに持ちつづけられた。
ゴチック建築が 正しい原理に基づいた高度な様式であると認めたのは、ピュージンとファーガスンに共通であった。しかし二人は 同じ前提から正反対の結論を導いたのである。ピュージンは 新しい建物にゴチック様式をあてはめようとしたが、ファーガスンは 過去の様式の模倣を激しく非難した。その詳しい建築論は ここでは省略せざるをえないが、『ハンドブック』の序章における「展望 (Prospects)」では、概略次のように述べている。(*19) 過去の様式の知識が増せば増すほど、我々を縛る鎖は強くなり、新しい進歩や独創性が封じられていく。一方、建築芸術の最も低位で散文的な土木の領域では、目覚しく急速な進歩をしている。我々が同様な進歩をとげさえすれば、ゴチックのカテドラルを あっさり取り壊し、我々の時代と知性にふさわしい、ずっと高貴な建物で たやすく置き換えることができるだろう。中世の建築家たちは、カテドラルの老化し、衰退した部分を ためらうことなく取り壊し、どんなに不調和であろうと、その時代の様式で建て直したのである、と。 ファーガスンは過激であった。 ル・コルビュジェの『伽藍が白かったとき』を思い出させもするこの主張は、1855年の建築史家というより、20世紀の前衛建築家の論理である。(*20)
彼が求めたのは過去の再現ではなく、「正しい原理」の再建であり、その予兆は この本の出版の 4年前に建てられていた、ロンドン万国博の水晶宮(Crystal Palace) にあった。それは ゴチックと同じように、芸術の正しい様式の原理が全面的に貫かれた 偉大な建物であり、そこには 最も目的に適した材料しか用いられず、必須でないような どんな部位もなく、もっぱら 各部の構成と構造の表現からなっている、と。
前著同様、木口木版によるヴィジュアルな図版が豊富に挿入された地域別建築史の記述は、記録として、資料として、十分に有用な書物であった。しかしながら、前章で述べたファーガスンの建築論からすれば、過去様式の模倣に堕してしまった ルネサンス以降のヨーロッパ建築は、ほとんどまったく価値がないはずである。事実ファーガスンは、この本の出版意図を次のように述べている。
ファーガスンは『近世様式』において、「過誤の建築史」を執筆したのである。 インドにおいても、新古典主義のあとでは ゴチック様式のコロニアル建築が建てられた。しかし それは まったくインドの気候風土にあわない。インドにゴチックの聖堂を建てるのなら、側廊を外気に開放し、トレーサリー(開口部の装飾的な石の格子)を二重にして ベネシァン・ブラインドを取り付けるなどの 種々の改良をすべきなのに、リバイバリストたちは それを許さない。一方、インド人の建設者たちは オーダーの意味もわからずに、支配者に従属して「まがいもの様式 (bastard style)」で建てている。そこでは 審美眼(taste) で裏打ちされた「尋常な判断力 (common-sense)」が失われてしまった、というのである。
では、ルネサンス以後のヨーロッパ建築は、なぜ「尋常な判断力」を失って「偽物の建築」をつくるようになってしまったのだろうか。その答としてファーガスンが注目したのが、当時勃興していた民族学、あるいは人種論であった。ヨーロッパ人が 建築的創造力を失い、模倣に終始するようになってしまったのは、アーリヤ民族としての性格が優勢になったからであり、そもそもアーリヤ人というのは 建築的(芸術的)な人種ではなかったのではないか、という考えに 彼は導かれたのである。 大航海時代以来、ヨーロッパ人がアジアやアメリカに進出するにつれて、現地の人間の社会や宗教を記述し出版するようになり、これを「民族誌 (ethnography)」と呼んだ。各地の民族誌の積み重ねが 後に民族学、あるいは人類学という科学に育っていく。18世紀末に、インドの古典語であるサンスクリット語と 古代ギリシア語、ラテン語の文法構造の類似が発見されて比較言語学への道が開けると、インド、ペルシア、ヨーロッパを結びつける「インド・ヨーロッパ語族」という概念が生まれた。 これに伴って比較神話学、比較宗教学も黎明期を迎え、これらが世界の民族や人種の分類とその相互関係の探究へと発展していった。ファーガスンが『ハンドブック』を書いた 19世紀中葉は、まさにそうした諸学の開花期であった。
インド建築で出発したファーガスンは その様式分類を考え始めた時、北インドと南インドでヒンドゥ寺院の形態が明瞭に異なっていることから、それを「北ヒンドゥ様式」と「南ヒンドゥ様式」とに分け、やはり明瞭な差異を示す 北インドのアーリヤ人種と 南インドのタミル人種とをこれに対応させ、北ヒンドゥ様式は「アーリヤ・ヒンドゥ様式」とも呼んだ。(*24) おそらくこれが出発点となって、世界建築の記述へと進む過程で 各地の民族誌を参照するようになる。建築の記述が 単なる様式の羅列であるならば、それは科学とは言えない。各様式の特質を示しながら体系だてることが必要であり、それは「建築の民族誌」であると考えた。
19世紀半ば、比較言語学を推し進め、比較宗教学を開拓しつつあったのが、インドの『リグ・ヴェーダ』の校訂本を刊行した、若きマックス・ミュラー(Friedrich Max Muller, 1823-1900)であった。言語と宗教と民族とは密接な対応関係にあるとする 彼の理論を中心に、当時の科学的(と考えられた)水準の人種分類をとりいれ、ファーガスンは『近世様式』の巻末に、36ページにわたって「建築の観点からの民族学 (Ethnology from an Architectural Point of View) 」の章を 付録として書くのである。(*26)
その骨子は こうである。 アジアとヨーロッパの人種の起原は中央アジアにあり、そこから時代をへだてながら4回にわたる民族移動が行なわれた。その四大人種を トゥラン人 (Turanian)、セム人 (Semitic)、ケルト人 (Celtic)、アーリヤ人 (Aryan) と呼び、それらの人種の純粋度と混血度が 建築の性格を決定する、というのである。この四大人種について、それぞれに宗教、政治、道徳、文学、芸術、科学の項目を設けて、その特徴を推理し、断定的に記述していった。
最も芸術的才能を発揮し、偉大な建設をなしたのはトゥラン人であって、古代エジプトやインドのタミル人 およびムガル朝は その典型である。セム人はトゥラン人とちがって絶対者としての神、造物主の宗教を生んだが、建築的には それほど偉大ではなかった。逆にケルト人は大宗教を生まず、至る所で混血したが、ヨーロッパにおいて 繊細で価値ある芸術を育んだ。
自身がアーリヤ人の一員であるはずのファーガスンが、建築の研究によって このような人種観を確立したというのは 驚くべきことである。これは アーリヤ人の自己批判であろうか。 彼の超人的な仕事は、何か不思議な「建築の力」につき動かされて、堕落した近世の建築を 再び偉大な高みに引き上げるべく、生涯をかけて建築史と建築論の著作を続けたのである。ヨーロッパであれ、インドであれ、世界のすべての地において、その時代と民族と社会システムに適合した、固有の様式が創造されるべきだと。
インドは下巻の「異教の建築 (Pagan Architecture) 」の第3部から第6部で扱われることになったが、『ハンドブック』において 周辺国とあわせて 171ページだったものが 288ページに増加し、大幅に充実した。(表2) ファーガスンがさらに意欲を燃やしたのは、このインドと、インド以東の建築史を一層精密化して、独立した巻とすることだった。1860年にインド考古調査局が設立されて アレクサンダー・カニンガム (Alexander Cunningham, 1814-93) が初代長官となると、インド考古学は大いに発展し、インドの古遺跡や古建築の調査報告書が続々と刊行されていた。インドで出発したファーガスンは、これらすべてを盛り込んで インド建築史の完成を目ざすのである。
これを実現するには、彼の世界建築史全体を再構成する必要があった。まず『近世様式』から民族誌の部分を削除し(すでに『世界建築史』に移してあった)、全般に手をいれて 1873年に第2版として刊行すると、これを「世界建築史の第4巻として」と銘うつことになる。その翌年には『世界建築史』2巻からインドと東方部分を削除して少々配列を変え、全体を改訂増補してこれも第2版とする (これが世界建築史の第 1、2巻)。
彼の没後にも 三部作はジョン・マリーから改訂版が出版される。『インドと東方』は バージェスとスパイアズによって改訂増補され、初版から 34年後の 1910年に 2巻本となって刊行され、これがその後長い間 インド建築史の決定版となった。ジェイムズ・バージェス (James Burgess, 1832-1917) の仕事は ファーガスンのオリジナルを最大限尊重し、その後の研究成果を盛り込みながら 各所の誤りを訂正する良心的なものであったが、しかし改訂版は ファーガスン自体ではないことに注意する必要がある。 『ハンドブック』で始まったインド建築史の叙述が『インドと東方』で完全に体系化されるに至るまで、その量と構成がどのように推移したかは、筆者が作成した「ファーガスンによるインド建築史の形成」によって見ることができる。
本稿では その内容の詳細を述べる余裕がないので、彼が インドにおける様式分類を いかに作っていったかを見ていくことにしよう。最初に ことわっておかねばならないのは、19世紀には まだ 古代インダス文明の存在が知られていなかったので、その文明の担い手が誰であったかという 20世紀の難問は まだ存在していなかった、ということである。
最初に書いた『ハンドブック』においては、前述のように 南インドのタミル人と 北インドのアーリヤ人という 二つの人種の区別をしていた。(*29)『世界建築史』では インドの「民族誌」の項に、インドには現在の山地部族に近い先住民がいたが、そこへ最初に移住してきたのが タミル語を話すドラヴィダ人であり、次にやって来たのが サンスクリット語を話すアーリヤ人であったとして、ここに初めて ドラヴィダ民族という語を用いる。(*30)しかし、このあと 人種よりも宗教の区別を重視した記述になるのは、実地の建築調査からの要請であった。つまり 多数の宗教が混在するインドでは、人種の区別だけでは 建築様式を規定するのがむずかしく、宗教の区別に頼る必要があった。 中世の建築の様式分類は 最も問題が多く、『世界建築史』の段階では『ハンドブック』と逆に、北ヒンドゥ様式にアーリヤの名前を使うのをやめ、南ヒンドゥ様式に「ドラヴィダ様式」の語をあてはめた。さらに第3の様式として、初めて「チャルキヤ あるいはラージプート様式」という名を使うが、ここでは 西インドのチャルキヤ朝(ソーランキー朝)とデカン地方のチャルキヤ朝とを混同していたので、ソーランキー朝のジャイナ寺院建築を これに結びつけてしまった。これは『インドと東方』で大幅に訂正される。
ファーガスンの人種論が インドに適用されて詳しく論じられるのは、『インドと東方』の序章においてであるが、その前に、最終的に彼が採用したインドの様式分類 およびグルーピングを、本文にしたがって簡単に説明しておこう。
さて、インドで出発したファーガスンの 人種と建築様式の関係論は、世界建築史で人類史的に肥大したのちに、再びインドに立ち帰る。(*31)『ヴェーダ』や『マハーバーラタ』の記述に基づいた神話的な部分は省略して、各人種の より具体的な性格づけから見ていこう。
一方、アーリヤ人は、ヒンドゥ教でいう世界周期の カリ・ユガ暦元(前 3101年)頃にインドに移住してきたが、(*32) その人種的純粋性は次第に薄れ、土着民と混交していった。 仏教を生んだのはアーリヤ人であったが、その信者となって仏教を流布させ、ストゥーパや石窟寺院を造営したのは 純粋なアーリヤ人ではなく、トゥラン人との混交種族であった。ヒンドゥ教もまた アーリヤ人によってヴェーダの宗教として始められたが(いわゆるバラモン教の時代)、建築的成果を生むのは ずっと後の(グプタ朝の時代)アーリヤ人とトゥラン人との混血種族であったという。こうしてファーガスンは 世界建築史で確立した四大人種の性格づけを インドに持ちこんでいくのである。 では、インドに土着していたのは いかなるトゥラン人種であったのか。当時の民族学者の間でも その呼称は確定していなかったというが、すでにファーガスンは サーンチーやアマラーヴァティーのストゥーパおよび彫刻を研究した、1868年の『樹木と蛇神の信仰 (Tree and Serpent Worship) 』において「ダスユ人 (Dasyus) 」の名をあげ、サーンチーその他のレリーフ彫刻に描かれている人々がそれであろう と推定していた。(*33) ダスユ人、あるいはダーサ人という名称は『リグ・ヴェーダ』に出てくるもので、アーリヤ人が征服した先住民に対する呼称である。 彼らは黒い肌をもつ鼻の低い人種で、プルと呼ばれる城塞に住み、意味のわからない言葉をしゃべる者たち、として描かれている。ファーガスンはこれを 先住のトゥラン人種と捉え、後に仏教を最初に受け入れたのは彼らであったと考えた。 ダスユ人はトゥラン人種であるから 建築的民族である。彼らが北インドにつくりあげたヒンドゥ寺院の形というのは 下図のような、方形の平面の上に砲弾状の高塔を立ち上げるものであった。そして、非芸術的なアーリヤ人は これにあまり寄与していないのだから、この建築様式の正しい呼び名は、新しい聞きなれない名称が許されるならば、「インド・アーリヤ様式」よりも「ダスユ様式」というべきものである、と書く。(*34)
ファーガスンのインド建築史といえば 誰でも『インドと東方』をバージェスが改訂した 第2版 で親しんでいるので、この「ダスユ様式」という言葉には面くらうことだろう。 ところでファーガスンは インドの中世の建築様式を「インド・アーリヤ様式」(あるいは「ダスユ様式」)と「ドラヴィダ様式」という人種名で呼んだが、両者の中間の中部インド地域で発展した様式にあてはめうる人種名は 見つけることができなかったので、中世にそこで最も栄えた王朝名によって「チャルキヤ様式」と名づけた。こうして民族名と王朝名を混在させたことが、一貫性に欠けるとして後に批判されることになる。それにファーガスンが「チャルキヤ様式」に分類した地域には チャルキヤ朝以外の多くの王朝も建造しているのである。
しかしながら、こうして人種と宗教と地理とを組み合わせて インド建築の全体を初めて体系化したファーガスンのインド建築史は、バージェスの改訂によって一層強固なものとなって、インド建築研究史上に金字塔をうちたてた。
ファーガスンの分類と命名法を徹底的に批判したのは イギリスの美術史家、E・B・ハヴェル (Ernest Binfield Havell, 1861-1934) である。彼は岡倉天心と同世代人であり、カルカッタ美術学校の校長を勤めた時代に、天心の美術運動に近い立場でインドの伝統美術の復権をはかった。それはインド美術の万世一系説 ともいうべきもので、宗教別、人種別による建築様式のちがいを強調するのは まったく無意味であるとして ファーガスンを批判した。 ファーガスンは 民族学者ではなかった。彼の建築史研究に骨格を与えるために、当時の最新の民族誌、人種論を応用したにすぎなかった。そのようにして命名された様式名は、現在のインド建築史で正式に用いられることはほとんどない。しかし彼の著作の影響は あまりに大きかったので、それらは 今でもインドの一般社会に流通しているし、P・ブラウンが踏襲したこともあって、専門家たちも しばしば ファーガスンの分類でインド建築を見てしまうのである。 (2001年 7月脱稿) |
この論文は、2000年に 東京大学の准教授・村松伸(当時は東大・生産技術研究所・助手)から、『建築史家たちのアジア発見』という本を 風響社から出版するので、インド建築とファーガスンについての論文を執筆してほしい、と 依頼されたものです。ところが、2001年の7月に原稿を渡したにもかかわらず、それから8年たった今も、出版されていません。何度も催促したにもかかわらず、彼はそれを無視し、しかも、この東大教員の無法行為について相談した 当時の生産技術研究所の 西尾茂文所長は、「大学の教員は 契約を守らなくとも、嘘をついて人の論文発表の妨害を続けようとも、自分の責任分担を放棄しようとも、研究活動の自立性のゆえに許されることだ」と主張して、村松 准教授を擁護しました。さらに 当時の東大・佐々木毅 学長に手紙を書きましたが、これはまったく返事もせずに、同じ態度を示しました。戦時中に 大政翼賛会を主導した日本の最高学府は、現在もなお 言論抑圧に手を貸している というわけです。
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