JAMES FERGUSSON and INDIAN ARCHITECTURE
 
ジェイムズファーガソン
と インド建築

神谷武夫

ファーガソン


James Fergusson and Indian Architecture
風響社版『建築史家たちのアジア「発見」』2001 より。
この本は、マフィアと東京大学の妨害により、いまだに出版されていません。

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1. はじめに

 建築史家の ジェイムズ・ファーガソン (1808-86) といっても、今の日本で その名を知る人は少ない。有名なフレッチャーの『建築史』よりも 30年も早く 浩瀚な『世界建築史』(*1) を出版した人であって、その深い建築的思索と 広く読まれた著作群とによって、ローマ時代の ウィトルウィウスにも比された人物である。(*2)トロイを発掘した考古学者のシュリーマンは 晩年の大著『ティリュンス』を ファーガソンに捧げているし、RIBA(王立英国建築家協会)からは その建築史研究の業績によって ロイヤル・ゴールド・メダルを授与されている。

 明治時代に 日本で最初に行なわれた建築史教育(工部大学校および 帝国大学工科大学・造家学科)においては、彼の著書が教科書として用いられた。岸田日出刀が伊東忠太に聞き書きしたところによれば、当時、建築史の「講義が 大よそファーガッソン著の建築史書 ("History of Architecture", James Fergusson, 1874) の直譯傅授であった...」(*3)とあるから、明治時代に育った日本の建築家の多くは ファーガソンの名に親しんでいたことだろう。

 しかし、おそらくは 彼の著書が一冊も邦訳されなかったために、その後 フレッチャーの『建築史』(*4)が普及するとともに ファーガソンの名は忘れ去られ、建築史学の上での大きな業績にもかかわらず、彼の著作研究も ほとんどなされてこなかった。一つには、彼の著作の内容の幅が あまりにも広いがために その全体像を捉えるのが容易でないことと、一方 その最大の功績が インド建築史の体系化にあったからだと思われる。

Lithograph
James Fergusson

 日本においては 伊東忠太と天沼俊一がインド建築に興味を示し、現地旅行をしたのであるが、その後 インド建築は日本の建築界において興味の対象外となり、インド建築史を専攻する研究者が現れなかった。そのために インド建築史と世界建築史の広がりの中に ファーガソンを位置付けることも 日本の建築史界の よくするところではなく、彰国社の『建築大辞典』にファーガソンの項目がないのも 驚くにはあたらない。近年になって アジア研究が盛んになるにつれて、ようやく ファーガソンにも 再び目が注がれるようになったのである。(*5)

 本稿は ファーガソンによるインド建築史研究の内容を概観するのが目的であるが、ファーガソンの全体像が知られていない現状では、インド建築史上の細目についての論議はおいて、彼の建築思想 および全著作体系との関連づけの中で、彼が いかにインド建築史をつくっていったかを 見ていくことにする。




2.ファーガソンの著作体系


 ジェイムズ・ファーガソンは 19世紀を代表する建築史家の一人となり、多くの栄誉に浴した。ウィリアム・ホワイトの紹介文では、インド帝国勲爵士、英国学士院会員、オクスフォード大学法学博士、エディンバラ大学法学博士、王立アジア協会副会長、王立英国建築家協会副会長など、10近い肩書きが連なっている。
 しかし彼は 大学で建築を学んだのではなく、ロンドンの高校を卒業したあとは 全く独学で建築を学び、自費で世界の建築を調査研究した著作家である。アカデミズム出身の建築史家ではないわけだが、しかし当時は 建築家になるのもまた 大学においてよりは 建築家のアトリエで徒弟修業したことを考えれば、それほど不思議なことではない。そしてまた そのことが彼に自由な精神を与えた。アカデミズムの定説や建築界の慣習にとらわれることなく、自分の目で建築を見、自分の頭で考え、時流に反しても 自説を貫いたのである。

ファーガソンの原画による リンガラージャ寺院

 ファーガソンの評伝や研究書は 本国イギリスにおいても出版されていないので、私生活はもちろん、その学習・研究過程の詳細も明らかでない。多くの書物の断片的な記述をもとに再構成してみると おおよそ次のようになる。(*6)

 ジェイムズ・ファーガソンは 1808年に スコットランドの旧エアシャー州の州都 エアで、軍医のウィリアム・ファーガソンの次男として生まれた。父の転勤によって エディンバラで育ったが、さらに ロンドン南西部のハウンズロー私立学校に転校し、卒業後、20歳前後で インドのカルカッタにわたる。兄がパートナーをしていた フェアリー・ファーガソン会社に勤務するが、まもなく会社は倒産するので、彼はインディゴ農園を経営することとなり、また兄と カルカッタで貿易会社を起こす。このインディゴ栽培は大いに成功して一財産を築くが、さらに事業に打ち込むよりも 建築の研究者となることを選ぶ。幼時より 古い建物や異国の建築に興味をもっていたらしく、インドで暮らすうちに インドの古建築を見てまわるようになり、また 事業よりも研究者生活のほうが 自分の性にあっていると判断したらしい。

 10年におよぶカルカッタでの事業に終止符を打って イギリスに戻り、ロンドンの ランガム・プレイスに居を構えたあと、彼は図書館に通って建築の研究に没頭する。 そして 1834年頃から 1843年にかけての 10年あまり、繰り返しインドに出かけては建築調査をし、膨大なフィールド・ノートをとった。その途次 ヨーロッパから中東にかけても 各地を旅行したらしい。インドの どの地方を いつ旅したのかは、記述相互間に食い違いがあって はっきりしない。

 最後のインド旅行は 1845年になるが、その前、1843年に最初の論文を書き、年末に 王立アジア協会 (Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland) で発表した。これが「インドの石窟寺院論 (On the Rock-Cut Temples of India) 」であり、ファーガソン 35歳の時であった。
 イギリスのテイラー将軍によって サーンチーの仏教遺跡が発見されたのが 1818年、その翌年には 士官ジョン・スミスによってアジャンターの石窟寺院群と その古代壁画群が発見されて以来、仏教時代のインド考古学が盛んになっていた。ファーガソンは この発表で各地の石窟寺院を 初めて系統だてて紹介し 論じたので、彼はインド建築研究者として イギリスで広く知られることになる。 また この発表は反響を呼び、イギリス政府は その保存と、アジャンターの壁画の模写に乗り出すことになる。(*7)

 これ以後、彼は 10年間の蓄積をもとにしながら 絶えず世界中の建築に関する資料を収集し続け、それを 著作にまとめては発表した。77歳で没するまでに 数多くの論文や著書を世に問い、かつ それらを完成に向けて 倦むことなく 改訂増補し続けた。その著作体系は インドからヨーロッパまで、また古代から 19世紀に至るまで あまりに広範であったので、その全容がつかみにくく、ファーガソンの著作を 文献として挙げてある多くの書物が その記述に誤りや食い違いを含むという 混乱状態におちいってしまった。それらを全面的に整理すべく 筆者が作成したのが「ジェイムズ・ファーガソン 著作年表」ある。以下、これに沿って彼の著作体系を説明していくことにしよう。

ジェイムズ・ファーガソン=著作年表

 まずファーガソンの著作を 四つの系統に分類する。彼が最も長い期間探究したのは イ ンド建築史であったので、これを第1の系統とするならば、第2は 古代から中世までの世界建築史系統であり、第3は近世、すなわちルネサンス時代から 19世紀までの近世の建築史である。
 その三系統の代表作『世界建築史 (A History of Architecture in All Countries) 』、『インドと東方の建築史 (History of Indian and Eastern Architecture) 』、『近世様式の建築史 (History of Modern Styles of Architecture) 』が 彼の三部作というべきもので、最も人口に膾炙(かいしゃ)した書物である。それ以外の著作や、三系統に含まれるものであっても 雑誌論文などは まとめて Miscellaneous(その他) の欄に配列してある。三部作は 彼の没後にも改訂版が出され、中でも『インドと東方の建築史』は 今でもインドでリプリントが版を重ねていて、インド文化研究者の間で読まれ続けている。

 さて 彼の処女出版は、先ほど述べた最初の論文「インドの石窟寺院論」をテキストとして、これに実測図を加えて小型本となし、彼の原画に基づいて T・C・ディブディンが制作した B3判の大型リトグラフ 18葉と併せた『インドの石窟寺院画集 (Illustrations of the Rock-Cut Temples of India) 』という 1845年の本である。この本の序文によれば、インドの他の建築と切り離して 石窟寺院だけを出版する意図は 初めはなかったという。本来は インドの古代から近世に至る 仏教、ヒンドゥ、イスラムの建物を 100枚ぐらいのリトグラフにして出版するつもりであったというから、彼は 当初からインド建築の全体像と その主要作品をまとめて 世界に紹介しようと考えていたらしい。しかし それは費用がかかりすぎるので、まずは石窟寺院のみを まとめたのであって、独立した石造建築よりも 石窟寺院の方に より深い興味を抱いていたわけではなかった。

ファーガソンの原画による、アジャンター第 19窟

 それゆえに 次の出版はインドの石造建築を 24枚の大型リトグラフにして 70ページの解説をつけた『インドの古建築の ピクチュアレスクな画集 (Picturesque Illustrations of Ancient Architecture in Hindostan) 』という 1848年の豪華本で、これは再版が出るほどに好評だった。こうして2冊のインド建築の本が彼の出発点となったが、彼が目ざしていたのは インドにとどまらず、世界の建築の全体を扱うことであった。古代から近世にいたる 世界の建築文化を集大成しつつ、それらの本質と相互関連を考察していたのである。

 その取り組みに大きな影響を与えたのが、1817年に トマス・リックマン (Thomas Rickman, 1776-1841)が書いた『英国建築様式を判別する試み (An Attempt to Discriminate the Styles of English Architecture) 』である。(*8)これは 建築家にして教会堂建築の研究者であったリックマンが、イギリスのゴチック建築を さらに細かく分類して、「ノルマン式」、「初期イギリス式」、「装飾式」、「垂直式」などの様式名を確立し、それぞれの様式的特徴を 明瞭に書き表した本である。すべからく 建築を分類し時代を確定するのは、何よりも 「様式」であるということを「科学的に」明らかにし、19世紀における建築史の基本概念を「様式」におくことを決定づけた書物であった。ファーガソンは この書に感銘を受け、その「様式」概念が イギリスにおいてばかりでなく、インドにおいては一層有効である とさえ考えたのである。(*9)




3.ファーガソンの建築論

ファーガソン著 『歴史的探究』 第1巻の扉

 ファーガソンが最初に書いた 本格的な理論書は、1849年の『芸術、とりわけ建築美に関する 正しい原理への歴史的探究 (An Historical Inquiry into the True Principles of Beauty in Art, more Especially with Reference to Architecture) 』という長い題名の本である(以下、本稿では『歴史的探究』と略すことにする)。(*10) ここに注目すべきは「正しい原理 (True Principles) 」という言葉が使われていることであって、これは オーガスタス・ウェルビー・ピュージン(Augustus Welby Northmore Pugin, 1812-52)からの影響であった。

 19世紀初頭、イギリスの建築界は それまで支配的であった新古典主義(新しい建物を 古代ギリシア・ローマの建築様式に基づいて設計する傾向)に異議を唱える 建築家や理論家が現れた。ピュージンはその代表で、キリスト教建築の正しい姿はゴチック様式にあり、異教世界のギリシア・ローマの古典様式は ふさわしくないと主張した。(*11)尖頭アーチを基本とするゴチック建築は、その複雑な造形的表現も 構造的合理性に基づいており、すべての装飾は それを妨げずに存在しているがゆえに価値があり、それが建築の「正しい原理」であるのだという。彼が 1841年に出版した『キリスト教建築の正しい原理 (The True Principles of Pointed or Christian Architecture) 』は、19世紀のイギリスを中心とする ゴチック・リバイバルの理論的支柱となった書物であった。ファーガソンは この考えに強く共感し、その「正しい原理」という言葉を借りるのである。

 ピュージンやジョージ・ギルバート・スコット(後にボンベイ大学の講堂と図書館を設計する)など リバイバリストたちは、新しい聖堂をゴチック様式で設計し、「中世賛美」の潮流を イギリスの建築界に広めた。しかしファーガソンは、ゴチック様式を高く評価しながらも それを絶対とは考えなかったし、またその様式で現代建築を設計すべきだとも考えなかった。ファーガソンの そうした言論に対して、中世主義者たちからは非難の声があがったので、彼は 後に『世界建築史』の序文において 次のように述懐している。([ ]は訳者による補足、以下同様 )

 「[ヨーロッパの]中世芸術が 他の何よりも優れているのだという私の思い込みは、[インドの]アーグラやデリーにおける パターン朝やムガル朝の皇帝による すばらしい建築作品群に親しく接した時、そして そこにはヨーロッパ中世の美術が(尖頭式でさえ)いささかも用いられていない ということに気づいた時、初めて動揺させられた。
 [インドの]ヒンドゥたちが尖頭アーチを用いないばかりか、そもそもアーチというものを全く用いずに、どれほど豊かで多様性に富んだ建築を築きあげてきたかを見た時、[ヨーロッパ中世の優位性という]私の思い込みは 一層弱められた。 そして[エジプトの] テーベや[ギリシアの]アテネの遺跡群を実地に観察した時、[ヨーロッパやインドと]少なくとも同程度の美が、[ヨーロッパの]中世の建築家たちによって用いられたのとは全く違う方法で 得られていることを認めるにおよんで、私は その思い込みを すっかり捨て去ったのである。
 こうした 広範な実地調査のあとでは、建築美というものが 尖頭形や半円形のアーチにあるのではなく、腕木状の柱頭や[その上の]水平のアーキトレーヴにあるのでもなく、思慮深い適切なデザインや、知的で優美なディテールにあるのだということを認識するのは 容易だった。私は、いかなる形態も それ自体が他の形態よりも優れている ということはなく、また あらゆる場合において、それが適用されている目的に最も適切な形態が 最良なのだ、ということを確信するに至ったのである。」
(*12)

 ファーガソンは ピュージンと同じようにゴチック様式を高く評価したが、しかし中世とは社会システムも人々の心情もまったく異なった現代(ファーガソンの 19世紀)において、新しい建物に過去の様式を用いるのは誤りだ と考えた。そしてまた ゴチック様式以外にも世界各地にさまざまな様式があり、それらは その時代と社会の要求に最も合致した様式であるがゆえに美しく、価値があるのだと判断した。その正当性をこそ「正しい原理」と呼んだのである。インド建築で出発しながら 世界中の建築を学び、様式分類とその特質を探究するうちに、彼にはそうした建築観が生まれ、それを体系立てて理論的な著作を世に問おうと考えた。それが上記の『歴史的探究』である。
 けれども、世の大勢に逆らった 独自の建築思想を表明した本を 商業的に出版してくれるところはなかったので、自費出版で ロングマン出版社から上梓することにした。 これは 全3巻の構想の第1巻であったが、果せるかな、わずか4冊しか売れなかったので 彼は続刊を断念し、これは未完の書物となった。ファーガソン 41歳の時である。(*13)

 この『歴史的探究』に注目してくれたのは、老舗(しにせ)の出版社の社主、偶然にも ファーガソンと同年齢の、三代目ジョン・マリーであった。彼は一般書から学術書まで 幅広い出版活動をした人であるが、世界の建築資料を探究、収集していたファーガソンに、それを地理的順序で書き直すことを勧めた。ファーガソンも 高踏的な理論的著作では世に受け入れられないことを悟り、ジョン・マリーの勧めに従って 世界中の建築を、インドから始めてヨーロッパに至るまで、「もっとポピュラーな」筆致で詳説した。これがファーガソン 47歳における画期的な著作、1855年の『図解世界建築ハンドブック』上下2巻である。

ファーガソン著『図解世界建築ハンドブック』上巻の扉

 正規の題名は、『すべての時代と国を代表する 様々な建築様式の、簡明にして平易な叙述からなる 図解・建築ハンドブック(The Illustrated Handbook of Architecture: Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages and Countries)』という長いものなので、本稿では これを単に『ハンドブック』と呼ぶことにする。

 世界中の建築を分類し続けて 植物学のリンネにも なぞらえられたファーガソンは、(*14) この本に 可能な限り多くの図版を挿入することとした。まだ写真印刷のなかった当時、トマス・ビュイックによって発展させられ 盛んになっていた 小口木版による精密な絵と図面を 840点も制作させたので、これは世界の様々な建築様式を視覚的に示す 空前の出版となり、叙述の明快さと相まって 大好評を博した。再版もされて 大陸およびアメリカにも流布し、日本でも「工部大学校学科並諸規則」(1885) の中に 「 ... 参考書としてフェルガッソンの『造家学史』(James Fergusson: The Illustrated Handbook of Architecture) ... をあげている。」(*15) とあるから、日本の建築学生たちも これを買ったことだろう。これ以後 ファーガソンのほとんどの著書は、同じような体裁で ジョン・マリーから出版されることになる。

 『ハンドブック』は 世界の建築を、インド、中国、西アジア、エジプト、ギリシア、ローマ、ペルシア、イスラムの順に上巻で扱い、下巻では ヨーロッパの中世の建築を フランス、ベルギー、ドイツ、イタリア、ポルトガル、イギリス、北欧と叙述し、最後にビザンチンを加えている。全体の半分がヨーロッパであることから、彼が ヨーロッパ中心主義者であると思われるかもしれないが、先ほどの引用文にも見られるように、当時知りうる範囲で 世界中の建築様式を扱おうとしたところは、今でいう文化相対主義者であったと言える。(*16)
 それでも 彼が古代ギリシアと中世ヨーロッパの建築を とりわけ優れたものと感じていたらしいことは、どの著作からも うかがえる。インドは 周辺国を含めて 171ページにわたって叙述され、まだ十分に熟成してはいなかったが、ここに初めて インド建築が全体として論じられたのである。(表 2)

ファーガソンの原画による、デリーの金曜モスク

 『ハンドブック』は ファーガソンの著書の中でも1ページの活字量が最も多い本であり、上下巻あわせて 1,000ページを超える大部なものであったにもかかわらず、「ハンドブック」というような 軽そうな題名がついていることに 不審な感じをいだく人も いよう。これは ジョン・マリーが 世界各地のガイドブックを "Handbook for Travellers" シリーズとして出版しつつあり、(*17)その一巻として ファーガソンに執筆を依頼したのだが、これは ガイドブックであるよりは ずっと学問的な大著となったので、for travellers の字を取り去って、「ハンドブック」という名前のみを書名に残したのである。

 ファーガソンは この本の前書きに、18世紀には 建築の研究がアマチュアによる趣味の仕事であったが、19世紀には 批評の原則が立てられ、哲学的、科学的に研究されるようになったこと、19世紀前半の 50年間に 大量の蓄積がなされて大きく前進したことを述べている。
 彼の未完の『歴史的探究』のエッセンスというべき建築論は、33ページにわたる序章において展開されていて、それはまず、建築の「正しい原理」とは何か、ということから説き起こされている。(*18)

 50年前のヨーロッパに蔓延していたのは ギリシア・ローマの形態やオーダーの模倣 (imitation) であったが、現在(19世紀半ば)では 中世のデザインの複製 (reproduction) に移行した。これは単なるファッションの変化であって、本質的 ないし真実の芸術ではない。我々がなすべきことは、こうした表面的なものの奥に 芸術の真の定義や目的を探究することである。
 まずは世界史の上で 古くから存在する、建築の「二つのシステム」を心に留めておかねばならない。一つは 古代から中世にかけてのヨーロッパ建築と、ヨーロッパの影響が及んでいない世界の諸地域の諸様式であり、もう一つは 宗教改革期(つまり ルネサンス)以降のヨーロッパと、そのヨーロッパの影響を受けた世界の様式である。

 前者のシステムにおける建築芸術は、それが望まれた目的に最も適した使いやすいデザインであり、各部は 用途にふさわしい品位と装飾 (ornament) をもち、かつその装飾は 建物の目的に適うと共に、その構造 (construction) に調和した表現であって、建築家は その装飾を 能うかぎり優雅 (elegant) なものにした。これは 古代エジプトやギリシア、ゴチック、ばかりでなく、怠惰なインド人の間でも、愚鈍なチベットや中国でも、野蛮なメキシコにおいてさえ、偉大で美しい建物が 建てられ続けている。このシステムによっていれば、どんなに粗野で未開の人種であろうと 建築において失敗することはなかったし、そうした正しい芸術 (true art) が行きわたっていた時代のもので 美しくない建物は一つとしてない。

 ところが 後者(ルネサンス以降のヨーロッパと、その影響を受けた世界)のシステムの結果は、これとは まるで異なっている。それは この3世紀以上にわたってヨーロッパで行なわれ、建築の形態や構造技術について より多くの知識をもち、科学と芸術を結びつけて、過去のどんな民族よりも偉大な目的を達成することのできる人々によって行なわれている にもかかわらず、完全に満足すべき建物、永遠に賞賛されるべき建物は 一つとして建てられなかった。 多くの建物は かつてなかった程に壮大で 豊かに装飾されているにもかかわらず、その時のファッションに従っているだけなので すぐに時代遅れになる。それは見せかけであり、虚偽であるから 永続しないのである。
 ギリシア、ローマの古典芸術を成立させた状況や人々の感情を 再び現実のものとすることはできないし、ゴチック芸術は 現在とは全く異なった社会に属するのだから、そうした時代の建物を複製するのは、よくて 仮装舞踏会であるに過ぎない。

 以上が、建築の歴史に対する ファーガソンの基本認識である。古代と中世の建築は 世界中どこでも「正しい原理」に基づいていたので優れていたが、ルネサンス以後のヨーロッパ建築は 過去の模倣に堕してしまったので、美しくもなければ 有用でもない というのである。ファーガソンの建築史研究は、次々と新しい事実の発見や資料の入手によって発展し、書き直されていったが、この基本認識は 終生変わらずに持ちつづけられた。
 彼が そのように同時代の建築家や建築史家たちと まるで異なった認識を獲得した原因は、彼がインドに住んで インド建築で出発した、という事実に求めねばならない。当初からヨーロッパで建築を学んでいれば、当時のヨーロッパ建築界の価値観を身につけてしまったはずである。若い時をインドで過ごし、インド建築の研究から 世界の建築へと範囲を広げていった時に、過去の様式を次から次へと模倣し続ける近世ヨーロッパ建築に 違和感を覚えたはずだろう。おそらくはまた、インドにおけるコロニアル建築が 当時はヨーロッパの古典主義建築の引き写しであり、インドの気候風土や生活形式と 何の関係もなく建てられていた故に、それらに拒否感をもったことであろう。

ゴチック様式のカテドラル、カルカッタ

 ゴチック建築が 正しい原理に基づいた高度な様式であると認めたのは、ピュージンとファーガソンに共通であった。しかし二人は 同じ前提から正反対の結論を導いたのである。ピュージンは 新しい建物にゴチック様式をあてはめようとしたが、ファーガソンは 過去の様式の模倣を激しく非難した。その詳しい建築論は ここでは省略せざるをえないが、『ハンドブック』の序章における「展望 (Prospects)」では、概略次のように述べている。(*19)

 過去の様式の知識が増せば増すほど、我々を縛る鎖は強くなり、新しい進歩や独創性が封じられていく。一方、建築芸術の最も低位で散文的な土木の領域では、目覚しく急速な進歩をしている。我々が同様な進歩をとげさえすれば、ゴチックのカテドラルを あっさり取り壊し、我々の時代と知性にふさわしい、ずっと高貴な建物で たやすく置き換えることができるだろう。中世の建築家たちは、カテドラルの老化し、衰退した部分を ためらうことなく取り壊し、どんなに不調和であろうと、その時代の様式で建て直したのである、と。
 ファーガソンは過激であった。 ル・コルビュジェの『伽藍が白かったとき』を思い出させもするこの主張は、1855年の建築史家というより、20世紀の前衛建築家の論理である。(*20)

 彼が求めたのは過去の再現ではなく、「正しい原理」の再建であり、その予兆は この本の出版の 4年前に建てられていた、ロンドン万国博の水晶宮(Crystal Palace) にあった。それは ゴチックと同じように、芸術の正しい様式の原理が全面的に貫かれた 偉大な建物であり、そこには 最も目的に適した材料しか用いられず、必須でないような どんな部位もなく、もっぱら 各部の構成と構造の表現からなっている、と。
 しかしファーガソンは ここにも満足してはいなかった。芸術は、水晶宮のような仮設的 (ephemeral) な建物や、マンチェスターの散文的な倉庫群や、その他 エンジニアによる実用本位の建物では達成されない。「正しいシステム」で 底辺から始めることによってのみ、ついには我々の宮殿や聖堂に到達するのである。長く続いた「誤ったシステム」による彷徨のあとで、光明が再び我々の道を照らしてくれるであろう、と。




4.建築における民族誌


 『ハンドブック』が対象とした建築は、時代的には もっぱら古代と中世であったので、ファーガソンは その続編として、近世における 世界の建築の歴史を書くことにする。これが、7年後の 1862年に出版された『近世様式の建築史 (History of the Modern Styles of Architecture) 』で、これは『ハンドブック』の第3巻とみなしてもよいし、独立した著作とみなしてもよい、と冒頭に書いている(以下、本稿ではこれを『近世様式』と略すことにする)。
 その内容は ルネサンス以後のヨーロッパ建築の各国史、および その影響を受けたアジアや南北アメリカの、いわば「洋風建築」の各国史、そして新しい建物種別としての劇場建築、最後に土木 (civil and military engineering) の発展、を論じている。 事の性質上、全体の8割がヨーロッパに充てられているのは 当然のなりゆきであった。(*21)

 前著同様、小口木版によるヴィジュアルな図版が豊富に挿入された地域別建築史の記述は、記録として、資料として、十分に有用な書物であった。しかしながら、前章で述べたファーガソンの建築論からすれば、過去様式の模倣に堕してしまった ルネサンス以降のヨーロッパ建築は、ほとんどまったく価値がないはずである。事実ファーガソンは、この本の出版意図を次のように述べている。

「本書を執筆したのは、現在の芸術が おちいっている過誤のシステムを暴露することによって、何らかの改善がもたらされるであろうことを 何よりも期待してのことである。それが成功するかどうかは 本書を読む人々次第であり、本書を熟読することによって、近世の建築が いかに過誤と欺瞞に満ちた原則に基づいているか、また逆に、本書が扱っている歴史に先立つ すべての時代とすべての国々において、[建築に]完全さをもたらしていた道筋と同じ道を行くことにしさえすれば、いとも たやすく成功するということに気づくことだろう。」(*22)

 ファーガソンは『近世様式』において、「過誤の建築史」を執筆したのである。
 世界のいかなる様式も、それが「正しい原理」に則っている限り、様式相互に優劣の関係はない。しかし、教育によって過去の歴史や様式を学び、ひたすら その反復をするようになったルネサンス以後の建築史は 過誤の歴史なのである。そして その誤った原理に基づく様式が ヨーロッパ以外の諸国に伝えられると、その国の伝統をも破壊してしまう。たとえばインドの場合を見てみよう。(*23)

 インドにおいても、新古典主義のあとでは ゴチック様式のコロニアル建築が建てられた。しかし それは まったくインドの気候風土にあわない。インドにゴチックの聖堂を建てるのなら、側廊を外気に開放し、トレーサリー(開口部の装飾的な石の格子)を二重にして ベネシァン・ブラインドを取り付けるなどの 種々の改良をすべきなのに、リバイバリストたちは それを許さない。一方、インド人の建設者たちは オーダーの意味もわからずに、支配者に従属して「まがいもの様式 (bastard style)」で建てている。そこでは 審美眼(taste) で裏打ちされた「尋常な判断力 (common-sense)」が失われてしまった、というのである。

インドにおける「まがいもの様式」の例

 では、ルネサンス以後のヨーロッパ建築は、なぜ「尋常な判断力」を失って「偽物の建築」をつくるようになってしまったのだろうか。その答としてファーガソンが注目したのが、当時勃興していた民族学、あるいは人種論であった。ヨーロッパ人が 建築的創造力を失い、模倣に終始するようになってしまったのは、アーリヤ民族としての性格が優勢になったからであり、そもそもアーリヤ人というのは 建築的(芸術的)な人種ではなかったのではないか、という考えに 彼は導かれたのである。

 大航海時代以来、ヨーロッパ人がアジアやアメリカに進出するにつれて、現地の人間の社会や宗教を記述し出版するようになり、これを「民族誌(ethnography)」と呼んだ。各地の民族誌の積み重ねが 後に民族学、あるいは人類学という科学に育っていく。18世紀末に、インドの古典語であるサンスクリット語と 古代ギリシア語、ラテン語の文法構造の類似が発見されて比較言語学への道が開けると、インド、ペルシア、ヨーロッパを結びつける「インド・ヨーロッパ語族」という概念が生まれた。 これに伴って比較神話学、比較宗教学も黎明期を迎え、これらが世界の民族や人種の分類とその相互関係の探究へと発展していった。ファーガソンが『ハンドブック』を書いた 19世紀中葉は、まさにそうした諸学の開花期であった。

 インド建築で出発したファーガソンは その様式分類を考え始めた時、北インドと南インドでヒンドゥ寺院の形態が明瞭に異なっていることから、それを「北ヒンドゥ様式」と「南ヒンドゥ様式」とに分け、やはり明瞭な差異を示す 北インドのアーリヤ人種と 南インドのタミル人種とをこれに対応させ、北ヒンドゥ様式は「アーリヤ・ヒンドゥ様式」とも呼んだ。(*24) おそらくこれが出発点となって、世界建築の記述へと進む過程で 各地の民族誌を参照するようになる。建築の記述が 単なる様式の羅列であるならば、それは科学とは言えない。各様式の特質を示しながら体系だてることが必要であり、それは「建築の民族誌」であると考えた。
 民族誌という言葉が使われ始めたのは 19世紀初めであり、ファーガソンは この言葉を好んで用いたが、それは民族学や人種論と ほとんど同義であった。1855年の『ハンドブック』の序章では 第 12節を「民族誌」とし、この時は わずか半ページの記述にすぎなかったが、その中に次のように書いていた。

「我々は 古い建物を見れば、その建設者たちが いかなる状態の文明に生きていたか、芸術において どれほどの進歩をなしとげたかを言うことができるばかりでなく、彼らが どんな人種に属していたか、そして それが人類の他の種族と いかなる類縁関係にあったかも ほぼ言うことができる。私の知識の及ぶかぎり、この原則から はずれるものは一つとしてない。また 私が考えるかぎり、建築というのは いかなる場合も 言語と同じように、人種を判断する的確な手段であると確信している。言語は 変化し混合するので、ひとたび変質してしまうと その元をたどって 構成要素を解きほぐすのは困難であるが、建物は ひとたび建設されると、それが建てられた時代の 変わらぬ証拠として存在し、建設者たちの感情や目的は いつまでもそこに刻印され続けるのである。」(*25)

ファーガソン著『ニネヴェとペルセポリスの宮殿』

 19世紀半ば、比較言語学を推し進め、比較宗教学を開拓しつつあったのが、インドの『リグ・ヴェーダ』の校訂本を刊行した、若きマックス・ミュラー(Friedrich Max Muller, 1823-1900)であった。言語と宗教と民族とは密接な対応関係にあるとする 彼の理論を中心に、当時の科学的(と考えられた)水準の人種分類をとりいれ、ファーガソンは『近世様式』の巻末に、36ページにわたって「建築の観点からの民族学 (Ethnology from an Architectural Point of View) 」の章を 付録として書くのである。(*26)
 今となっては 全く用いられない理論であるが、ファーガソンは これを まことに明快に秩序だてて論述し、建築史の根底に据えようとした。そして この理論には かなりの自信をもっていたらしく、後述の『世界建築史』には これに若干の手をいれながら、ほとんどそのままに 序章の「パート3」としてこれを組み込み、表題を「建築芸術に適用された民族誌 (Ethnography as Applied to Architectural Art) 」と改める。 これはそのまま 第2版、第3版にも用いられて、多くの人に読まれた。

 その骨子は こうである。 アジアとヨーロッパの人種の起原は中央アジアにあり、そこから時代をへだてながら4回にわたる民族移動が行なわれた。その四大人種を トゥラン人 (Turanian)、セム人 (Semitic)、ケルト人 (Celtic)、アーリヤ人 (Aryan) と呼び、それらの人種の純粋度と混血度が 建築の性格を決定する、というのである。この四大人種について、それぞれに宗教、政治、道徳、文学、芸術、科学の項目を設けて、その特徴を推理し、断定的に記述していった。
 トゥラン人というのは 一番わかりにくい概念であるが、これは 石器時代の主民族であり、アジアからアフリカにかけて 広く分布した。エジプト人、中国人、日本人、メキシコ人、タミル人、トルコ人、マジャール人、等々がこれに属する。次のセム人は 中東方面に移動し、アッカド人、アラム人、ヘブライ人、アラビア人、エチオピア人がこれに属する。青銅器を導入したのはケルト人で、これは西ヨーロッパに移住した。一番遅く移動したのが、鉄器をもたらしたアーリヤ人で、これはヨーロッパ、ペルシアとインドに侵攻し、先住のトゥラン人を征服して これを支配した。

 最も芸術的才能を発揮し、偉大な建設をなしたのはトゥラン人であって、古代エジプトやインドのタミル人 およびムガル朝は その典型である。セム人はトゥラン人とちがって絶対者としての神、造物主の宗教を生んだが、建築的には それほど偉大ではなかった。逆にケルト人は大宗教を生まず、至る所で混血したが、ヨーロッパにおいて 繊細で価値ある芸術を育んだ。
 アーリヤ人は最も知的な人種であるが、建築的には最悪であった。利便性本位であって、常に 手軽で安易な手段に頼った。他者と張りあって建設に従事する場合も 建物を ただ装飾的にするほかなく、かつて成功したものを好んで模倣する。彼らは建築に金もエネルギーも注ぎこもうとはしないが、それなくして偉大で立派な芸術は決して成就しないのである。彼らの信仰の非物質性が 建築へ向かうことを妨げたのかもしれない。トゥラン人やケルト人が 常に典礼を重視し、それに伴って建築的壮麗さを必要としたのとは 対照的である。
 アーリヤ人種のペルシア人は 寺院(神殿)建築をもたなかった。ギリシア人はアーリヤ人種であるが、ギリシア建築が偉大であるのは、アーリヤ人が侵入した時の原住民であるトゥラン人種のペラスギ人と混血したおかげである。ヨーロッパにおいては、ケルト人種が優勢であった時代に芸術が栄えたが、アーリヤ人種の影響が強くなると 芸術は衰退してしまった、
というのである。

 自身がアーリヤ人の一員であるはずのファーガソンが、建築の研究によって このような人種観を確立したというのは 驚くべきことである。これは アーリヤ人の自己批判であろうか。
 しかし ここには 別の穿(うが)った見方をする余地もないわけではない。彼は ファーガソンという名前が示すように生粋のスコットランド人であったから、その祖先とされるケルト文化を高く評価し、近世建築の衰退の責をアーリヤ人に負わようとしたのではないか と。(*27) おりしも 19世紀中葉、スコットランドには イングランドによる支配から脱しようという ナショナリズムが台頭していた。ファーガソンの心の深層にも そのような感情があったかもしれない。しかし 彼の膨大な世界建築の探究の動機を、そうした「ナショナリズム」に求めるわけにはいかないだろう。

 彼の超人的な仕事は、何か不思議な「建築の力」につき動かされて、堕落した近世の建築を 再び偉大な高みに引き上げるべく、生涯をかけて建築史と建築論の著作を続けたのである。ヨーロッパであれ、インドであれ、世界のすべての地において、その時代と民族と社会システムに適合した、固有の様式が創造されるべきだと。

ファーガソン著『世界建築史』下巻





5.インド建築史の体系化


 『ハンドブック』を刊行してから 10年の間に、世界の建築に関する新しい報告や資料が続々と集まるにつれて、ファーガソンは それらを盛り込んだ新しい版をつくる必要を感じた。その際、『ハンドブック』は 世界の建築を地理的順序で記述していたので、これを歴史的順序に配列し直し、大幅に書き改めて、文字通り 建築史の書物とすることにする。これが「全世界の建築の歴史を叙述する最初の試み」(*28)と自負した『世界建築史 (A History of Architecture in All Countries, from the Earliest Times to the Present Day) 』上下2巻である。
 上巻が出版されたのは 1865年、その翌年に刊行する予定だった下巻が 1867年にずれこんで、ファーガソンは 59歳となっていた。上下あわせて 1.500ページを超え、小口木版の図版は 1,180点に及ぶという大冊である。このうち 約半分が『ハンドブック』の記述そのままであり、半分が改訂 および増補なのだが、ファーガソンの建築史観自体は変わっていない上に、中世建築の国別の記述方法も『ハンドブック』を踏襲しているので、『ハンドブック』が現れた時ほどの衝撃ではない。全体の叙述を詳細にし、緻密化したもの というべきである。
 しかし、『ハンドブック』の第3巻として書かれた『近世様式』は、これ以後 『世界建築史』の第3巻とされ、ここに 世界建築史を完成させた歴史家として、ファーガソンの名声は とみに高まった。

 インドは下巻の「異教の建築 (Pagan Architecture) 」の第3部から第6部で扱われることになったが、『ハンドブック』において 周辺国とあわせて 171ページだったものが 288ページに増加し、大幅に充実した。(表2) ファーガソンがさらに意欲を燃やしたのは、このインドと、インド以東の建築史を一層精密化して、独立した巻とすることだった。1860年にインド考古調査局が設立されて アレクサンダー・カニンガム (Alexander Cunningham, 1814-93) が初代長官となると インド考古学は大いに発展し、インドの古遺跡や古建築の調査報告書が続々と刊行されていた。インドで出発したファーガソンは、これらすべてを盛り込んで インド建築史の完成を目ざすのである。

 これを実現するには、彼の世界建築史全体を再構成する必要があった。まず『近世様式』から民族誌の部分を削除し(すでに『世界建築史』に移してあった)、全般に手をいれて 1873年に第2版として刊行すると、これを「世界建築史の第4巻として」と銘うつことになる。その翌年には『世界建築史』2巻からインドと東方部分を削除して少々配列を変え、全体を改訂増補してこれも第2版とする (これが世界建築史の第 1、2巻)。
 そして念願の『インドと東方の建築史 (History of Indian and Eastern Architecture) 』(以下『インドと東方』と略す)の初版を 775ページの大冊として出版するのが 2年後の 1876年で、これを世界建築史の第3巻としたのである。これで、大発展した彼の建築史三部作が完成し、全4巻あわせて約 2,600ページもの大著作となる。 ファーガソン 68歳の時であった。

ファーガソン著『インドと東方の建築史』

 彼の没後にも 三部作はジョン・マリーから改訂版が出版される。『インドと東方』は バージェスとスパイアズによって改訂増補され、初版から 34年後の 1910年に 2巻本となって刊行され、これがその後長い間 インド建築史の決定版となった。ジェイムズ・バージェス (James Burgess, 1832-1917) の仕事は ファーガソンのオリジナルを最大限尊重し、その後の研究成果を盛り込みながら 各所の誤りを訂正する良心的なものであったが、しかし改訂版は ファーガソン自体ではないことに注意する必要がある。

 『ハンドブック』で始まったインド建築史の叙述が『インドと東方』で完全に体系化されるに至るまで、その量と構成がどのように推移したかは、筆者が作成した「ファーガソンによるインド建築史の形成」によって見ることができる。

ファーガソンによる インド建築史の形成

 本稿では その内容の詳細を述べる余裕がないので、彼が インドにおける様式分類を いかに作っていったかを見ていくことにしよう。最初に ことわっておかねばならないのは、19世紀には まだ 古代インダス文明の存在が知られていなかったので、その文明の担い手が誰であったかという 20世紀の難問は まだ存在していなかった、ということである。

 最初に書いた『ハンドブック』においては、前述のように 南インドのタミル人と 北インドのアーリヤ人という 二つの人種の区別をしていた。(*29)『世界建築史』では インドの「民族誌」の項に、インドには現在の山地部族に近い先住民がいたが、そこへ最初に移住してきたのが タミル語を話すドラヴィダ人であり、次にやって来たのが サンスクリット語を話すアーリヤ人であったとして、ここに初めて ドラヴィダ民族という語を用いる。(*30)しかし、このあと 人種よりも宗教の区別を重視した記述になるのは、実地の建築調査からの要請であった。つまり 多数の宗教が混在するインドでは、人種の区別だけでは 建築様式を規定するのがむずかしく、宗教の区別に頼る必要があった。
 インドで栄えた宗教には、古代では仏教、中世ではジャイナ教とヒンドゥ教、そして近世のイスラム教があり、宗教ごとに 異なった様式を用いたと考えて、『ハンドブック』以来、インド建築を宗教別に叙述していた。これを いかに人種論に結びつけるかが ファーガソンの課題であった。
 アーリヤ人についてだけは『近世様式』に付した「民族誌」の段階で 結論が出ていた。彼らは非建築的民族であるがゆえに、『ヴェーダ』の宗教をつくりはしたが、建物は 古代に何一つ残さなかったのだ と。

 中世の建築の様式分類は 最も問題が多く、『世界建築史』の段階では『ハンドブック』と逆に、北ヒンドゥ様式にアーリヤの名前を使うのをやめ、南ヒンドゥ様式に「ドラヴィダ様式」の語をあてはめた。さらに第3の様式として、初めて「チャルキヤ あるいはラージプート様式」という名を使うが、ここでは 西インドのチャルキヤ朝(ソーランキー朝)とデカン地方のチャルキヤ朝とを混同していたので、ソーランキー朝のジャイナ寺院建築を これに結びつけてしまった。これは『インドと東方』で大幅に訂正される。

 ファーガソンの人種論が インドに適用されて詳しく論じられるのは、『インドと東方』の序章においてであるが、その前に、最終的に彼が採用したインドの様式分類 およびグルーピングを、本文にしたがって簡単に説明しておこう。
 まず、古代においては ほとんど仏教の遺跡しか残っていないので、第1部は仏教建築である。仏教の兄弟宗教であるジャイナ教の建築は第2部で扱い、それが花開くのは中世であっても、初期には仏教建築と同形であったと考えていた。第3部では、インドの平原部とは異なった様式のヒマラヤ地方の建築を扱う。
 次いでインド建築史の中心をなす 中世のヒンドゥ建築を論じるのだが、それまでの試行錯誤に決着をつけ、三つの様式名を確立した。まず第4部では南部の「ドラヴィダ様式 (Dravidian style) 」、次いで第5部では中部の「チャルキヤ様式 (Chalkyan style) 」、そして第6部では北部の「インド・アーリヤ様式 (Indo-Aryan style) 」である。
 13世紀以降は 外来のイスラム建築(当時はサラセン建築と呼ばれた)が さかんとなるので、これを 大きな第7部で扱う。そこでは デリーのスルタン朝時代の建築を「パターン様式 (Pathan style) 」と呼んで ムガル朝時代の建築と区別し、さらに各地方のイスラム建築を 地方様式として 順に論じている。
 第 8部はインド以東のビルマ、シャム、ジャワ、カンボジアである。

三様式の区分地図

 さて、インドで出発したファーガソンの 人種と建築様式の関係論は、世界建築史で人類史的に肥大したのちに、再びインドに立ち帰る。(*31)『ヴェーダ』や『マハーバーラタ』の記述に基づいた神話的な部分は省略して、各人種の より具体的な性格づけから見ていこう。
 ドラヴィダ人は トゥラン人種に属するとされるが、これが移住民なのか南方起原の土着民なのかは判然としない。移住民だとしても、その起原は中央アジアではなく、南のバビロニア方面ではないかという。ドラヴィダ人はアーリヤ人に比べて知的に劣るが、純粋な血統と民族性を保持した。トゥラン人種であるから 中世に偉大な寺院建築を発展させてきたので、これを「ドラヴィダ様式」と呼ぶ。

ドラヴィダ様式の寺院形

 一方、アーリヤ人は、ヒンドゥ教でいう世界周期の カリ・ユガ暦元(前 3101年)頃にインドに移住してきたが、(*32) その人種的純粋性は次第に薄れ、土着民と混交していった。 仏教を生んだのはアーリヤ人であったが、その信者となって仏教を流布させ、ストゥーパや石窟寺院を造営したのは 純粋なアーリヤ人ではなく、トゥラン人との混交種族であった。ヒンドゥ教もまた アーリヤ人によってヴェーダの宗教として始められたが(いわゆるバラモン教の時代)、建築的成果を生むのは ずっと後の(グプタ朝の時代)アーリヤ人とトゥラン人との混血種族であったという。こうしてファーガソンは 世界建築史で確立した四大人種の性格づけを インドに持ちこんでいくのである。

 では、インドに土着していたのは いかなるトゥラン人種であったのか。当時の民族学者の間でも その呼称は確定していなかったというが、すでにファーガソンは サーンチーやアマラーヴァティーのストゥーパおよび彫刻を研究した、1868年の『樹木と蛇神の信仰 (Tree and Serpent Worship) 』において「ダスユ人 (Dasyus) 」の名をあげ、サーンチーその他のレリーフ彫刻に描かれている人々がそれであろう と推定していた。(*33) ダスユ人、あるいはダーサ人という名称は『リグ・ヴェーダ』に出てくるもので、アーリヤ人が征服した先住民に対する呼称である。 彼らは黒い肌をもつ鼻の低い人種で、プルと呼ばれる城塞に住み、意味のわからない言葉をしゃべる者たち、として描かれている。ファーガソンはこれを 先住のトゥラン人種と捉え、後に仏教を最初に受け入れたのは彼らであったと考えた。

 ダスユ人はトゥラン人種であるから 建築的民族である。彼らが北インドにつくりあげたヒンドゥ寺院の形というのは 下図のような、方形の平面の上に砲弾状の高塔を立ち上げるものであった。そして、非芸術的なアーリヤ人は これにあまり寄与していないのだから、この建築様式の正しい呼び名は、新しい聞きなれない名称が許されるならば、「インド・アーリヤ様式」よりも「ダスユ様式」というべきものである、と書く。(*34)

ダスユ様式の寺院形

 ファーガソンのインド建築史といえば 誰でも『インドと東方』をバージェスが改訂した 第2版 で親しんでいるので、この「ダスユ様式」という言葉には面くらうことだろう。
 実は、初版にあったこの記述を、バージェスが改訂版で削除してしまったのである。ファーガソンの後継者であり、考古調査局の第2代長官を勤めて考古学と建築史の研究を推し進めたバージェスではあるが、20世紀の初めにファーガソンの改訂版をつくるに当たって、「インド・アーリヤ様式」よりも「ダスユ様式」という呼称がふさわしいというファーガソンの意見は 抹消すべきものであったらしい。

 ところでファーガソンは インドの中世の建築様式を「インド・アーリヤ様式」(あるいは「ダスユ様式」)と「ドラヴィダ様式」という人種名で呼んだが、両者の中間の中部インド地域で発展した様式にあてはめうる人種名は 見つけることができなかったので、中世にそこで最も栄えた王朝名によって「チャルキヤ様式」と名づけた。こうして民族名と王朝名を混在させたことが、一貫性に欠けるとして後に批判されることになる。それにファーガソンが「チャルキヤ様式」に分類した地域には チャルキヤ朝以外の多くの王朝も建造しているのである。

 しかしながら、こうして人種と宗教と地理とを組み合わせて インド建築の全体を初めて体系化したファーガソンのインド建築史は、バージェスの改訂によって一層強固なものとなって、インド建築研究史上に金字塔をうちたてた。
 後に美術・建築史家のパーシー・ブラウン (Percy Brown, 1872-1955) が 1942年に出版した『インド建築史 (Indian Architecture) 』上下2巻は、その後の成果をとりいれた詳細さによって、インド建築史の教科書的立場をファーガソンから奪ったが、しかしその中身はまったくファーガソンの体系の延長上にあり、様式分類名もほとんどすべてファーガソンの踏襲であった。しかもそこには彼自身の「民族誌」の記述がないので、ファーガソンの 66年後になってもそうした様式名を採用した根拠が明らかでない。

 ファーガソンの分類と命名法を徹底的に批判したのは イギリスの美術史家、E・B・ハヴェル (Ernest Binfield Havell, 1861-1934) である。彼は岡倉天心と同世代人であり、カルカッタ美術学校の校長を勤めた時代に、天心の美術運動に近い立場でインドの伝統美術の復権をはかった。それはインド美術の万世一系説 ともいうべきもので、宗教別、人種別による建築様式のちがいを強調するのは まったく無意味であるとして ファーガソンを批判した。
 ところがハヴェルは 晩年の 1918年に、美術史を中心としたインド史、『アーリヤ人によるインド統治の歴史 (The History of Aryan Rule in India) 』を書く。そこでは インドを古代から現代まで統治したのが常にアーリヤ人と、そこから派生した原理であるとして、インド・アーリヤ人の来住からムガル朝のアクバル帝までの文化史を「アーリヤ史観」で記述し、それをもってアーリヤ人としてのイギリス人によるインド支配を肯定したのである。
 これもまた、ファーガソンがアーリヤ人を非芸術的民族として貶(おとし)めたことへの対抗であったとも言えるだろうが、ファーガソンのナイーブな人種論から ナチスの差別的人種論へと流れゆく 時代の推移の反映であった とも言える。

 ファーガソンは 民族学者ではなかった。彼の建築史研究に骨格を与えるために、当時の最新の民族誌、人種論を応用したにすぎなかった。そのようにして命名された様式名は、現在のインド建築史で正式に用いられることはほとんどない。しかし彼の著作の影響は あまりに大きかったので、それらは 今でもインドの一般社会に流通しているし、P・ブラウンが踏襲したこともあって、専門家たちも しばしば ファーガソンの分類でインド建築を見てしまうのである。

(2001年 7月脱稿) 




 この論文は、2000年に 東京大学の准教授・村松伸(当時は東大・生産技術研究所・助手)から、『建築史家たちのアジア発見』という本を 風響社から出版するので、インド建築とファーガソンについての論文を執筆してほしい、と 依頼されたものです。ところが、2001年の7月に原稿を渡したにもかかわらず、それから8年たった今も、出版されていません。何度も催促したにもかかわらず、彼はそれを無視し、しかも、この東大教員の無法行為について相談した 当時の生産技術研究所の 西尾茂文所長は、「大学の教員は 契約を守らなくとも、嘘をついて人の論文発表の妨害を続けようとも、自分の責任分担を放棄しようとも、研究活動の自立性のゆえに許されることだ」と主張して、村松 准教授を擁護しました。さらに 当時の東大・佐々木毅 学長に手紙を書きましたが、これはまったく返事もせずに、同じ態度を示しました。戦時中に 大政翼賛会を主導した日本の最高学府は、現在もなお 言論抑圧に手を貸している というわけです。
 その詳しい経過は、「東大の常識は世間の非常識」に記録してありますので、お読みいただければ幸いです。  (2009年 7月 25日)


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