第5章
TEMPLE TOWERS IN THE HIMALAYA
ヒマラヤ寺院塔

神谷武夫

北のサラハンの ビーマカーリー寺院


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寺院塔との出会い

 もう8年くらい前になるが、カシュミールからラダックにかけて旅をする予定だったのに、紛争のためにカシュミールに入域できず、ヒマーチャル・プラデシュ州をまわってから ラダックに行くことになった。まずチャンバに着いたのだが、この州はインドの中でも あまり観光化していなくて、本にも ろくに目にしないので、たいして見るべきものがないのだとばかり思っていた。ところがチャンバのホテルで 思いがけない写真を目にすることになった。
 それは 高山の上に建つ寺院で、低層の建物に囲まれた中庭に 塔状の建物が立ち、それらすべてが 反りのついた「入り母屋造り」の屋根をいただく、実に魅力的な、しかも 初めて目にするタイプの建築であった。これは一体どこの建物なのかと尋ねると、ヒマーチャル・プラデシュ州でも 中国に近い方の サラハンという所にある ヒンドゥ教の寺院 だという。インドには まだ未知の建築文化があるのだということに興奮し、これがヒマラヤの木造建築にのめりこむきっかけとなった。

  
森の中のカダラン村と ライレムール寺院の角塔

 すべてが山の中にあるこの州は ヒマラヤ杉と松で覆われた木造文化圏であり、カシュミール地方のモスクが木造であるように、この地域のヒンドゥ寺院が 独特の木造であることを知ったのは 大きな驚きであった。
 その木造建築のなかでも 最も興味深いのは「角塔型」の寺院である。それは 前回紹介した多層の「パゴダ型」寺院とは 全く異なっている。水平に積まれた木と石がストライプ状の壁をつくるのは ヒマーチャル地方全体に共通するのだが、東部地域においては それが大きな壁面を見せて高く伸び上がり、その上にバルコニーが張り出し、スレートで葺かれた 入り母屋造りの屋根を架けるのである。当初の旅程にはなかったのだが、ぜひとも そのサラハンを訪ねようと思ったのだった。

バドリナータ寺院、カムル


寺院塔とは何か

 この角塔型の「寺院塔」には謎が多い。その起源も機能も形態も、はっきりと解き明かした本が まだ出版されていない。ひとつには、交通不便なために それらを訪ねるのが容易でなく、まだ ほとんど実測されていないこと、そして これらの寺院塔の内部には 異教徒が入ることが許されないことである。さらに、本来これは 世俗建築であるのか宗教建築であるのか、という問題がある。
 古来ヒマーチャル地方では、木造の宮殿や館が 後に寺院に転用されることが珍しくないので、形態だけからは その区別があいまいである。まず考えられるのは、民家形式の高層化ではないかということで、この地方の民家は下階が石と木による堅固な壁で囲われ、その上に木造の居住部がバルコニー状に張り出している。下階は玄関のほかに 家畜と物置のスペースにあてられる。

チェッラの近くの小規模な寺院塔

 チェッラの近くにある ごく小さな寺院塔を見ると、階段が外についていることを除けば、ほとんど同じ原理であることが わかる。カムルの大規模な寺院塔も この巨大化だとみることができ、しかもカムルは バシャール王国の都がサラハンに移されるまで 首都の城塞であったという。とすれば、本来この寺院塔は 城の天守閣であったとも考えられるが、それと寺院機能との関係がはっきりしない。

 マナンには、前回紹介した「パゴダ型」の ドゥルガー寺院 の近くの丘の上に マナネーシュワラ寺院 がそびえている。インド圏の木造建築を研究しているベルニエによれば、これはドゥルガー寺院の「バンダール」であり、周囲の建物はマタ(僧院)か 参詣者の休息所であったのではないかという。
 バンダールというのは 祭器庫、あるいは宝蔵であるが、西インドには バンダールと呼ばれるジャイナ教の施設が いくつかあり、そこでは 古い写本が集められ保存されている。それは一種の図書館、あるいは文書館というべきもので、特に ジャイサルメルのバンダールが有名である。ヒマラヤでは 本来は穀物倉であり、寺院への捧げ物を納めたのだろうという。

多くのモフラが取り付けられた神輿

 ここにはまた 聖像や「モフラ」が収蔵されている。ヒマーチャル地方に特有のモフラ(仮面)というのは、神を含めた信仰の対象を意味する「デヴァター」とも呼ばれ、銀や真鍮でつくられている。しかし実際に顔につける仮面ではなく(目や鼻の穴もあいていない)、ダシャーラや シヴァラートリなどの祭礼の時にのみ ラタ(みこし)に載せられて祭礼場まで運ばれ、公開される。
 筆者は まだ出くわしたことがないが、その地区の諸寺院のモフラが一同に集められるのは 壮観であるらしい。ここにも 下界のインド平原とは異なった、ヒマラヤの独自の民間信仰と結合した ヒンドゥ教がかいまみえる。
 それにしても、バンダールの方が 寺院本体よりも雄大でモニュメンタルにつくられるというのは 理解しがたい。とりわけカダランや スングラ では バンダールが村全体を睥睨(へいげい)するように抜きんでている。それは 南インドのドラヴィダ様式の寺院において、本堂よりも ゴプラ(寺門)の方が偉大に造られたのと 同じ精神なのだろうか。

  
北のサラハンのビーマカーリー寺院と、サムシェル・シング王


北と南のサラハンの寺院

 サラハンという地名は ヒマーチャル・プラデシュ州に多いが、重要な寺院があるのは サトレジ渓谷のサラハンと チョパール渓谷のサラハンなので、これを区別して 北のサラハンと南のサラハンと呼ぶことにする。
 北のサラハンは バシャール王国の首都である 交易都市のラーンプルから 1,000メートルも山を登った標高 1920メートルの高地にある。ここに威容を誇る ビーマカーリー寺院 は、A・H・フランケが 1909年に シムラからキンノール、ラダックを経由してカシュミールに至る大旅行をした時には 王国の夏の宮殿であった。 当時 70歳になる サムシェル・シング王が ここに住んでいて、その居城の美しさを自慢したという。たしかに、これはインドのヒマラヤで 最も雄大で魅力的な建物である。その城郭が、現在は すべてビーマカーリー寺院の境内となっている。

  
北のサラハンの旧王宮の現状(王家の末裔)

 城と寺院との関係は いまだ詳らかでないが、おそらく 当時から祭政一致の王国で、両者が一体化していたのだろう。寺院塔は天守閣の役割を果たしてもいたのだろうが、そのフランケの撮影した写真では、大きな寺院塔はひとつだけであって、その脇に建つ小さめの塔とブリッジで結ばれていた。
 その写真によって、新堂は 20世紀になってから建設されたのだということがわかる。古い寺院塔が老朽化して傾いてきたので、小さめの塔を取り壊して、新しい寺院塔を建て、カーリー女神を移したのである。旧堂はバンダールとなった。

南のサラハンのビジャト寺院

 一方、南のサラハンの寺院はずっと遠い山奥にあり、ビジャト神を祀っている。ここでは ほとんど同形の寺院塔が二棟建ち並んでいて、その間が中庭への入り口となる特異な構成をしていて、訪問者を驚かせる。しかしこれも 左側の棟が あとから建てられて、ビジャト神(ヴィシュヌ神)が移されたのだという。これは寺院本体であって、バンダールではない。しかも M・J・シングによれば、これは釘を用いない伝統的な構法で建てられているという。

寺院塔の起源

 ヒマーチャル・プラデシュ州の北部のマナーリから、さらに標高約 4,000mのロータン峠を越えて ラダック地方への道をとると、ゴンドラーという小さな町がある。かつてはインドとチベット、そしてシルクロードとを結ぶ隊商路の交易都市であった。
 ここに 18世紀初めの古い城塞があり、それが これまで見てきた寺院塔の原型のような形をしている。石と木を水平に積んだ大規模な角塔の最上層に 木造の居住部がバルコニー状に張り出して スレート葺きの入り母屋屋根をいただいているのである。

    
ゴンドラーの町の古い要塞

 現在は荒廃して 内部に入れないが、かつては この地域を守る砦であり、領主の館であった。1870年のハーコートの報告では、全体が6階か7階建てで、内部には柱で支えられた大きな部屋があり、100人もの人が住むことができたという。最上階には 仏堂が二つもあって、チベットのラサやシガツェから持ってこられた仏像が祀られていたらしい。これは住居であり 防御施設であり、物見塔でもあった。
 この原初的な塔建築が クル渓谷からシムラ渓谷、サトレジ渓谷へと伝えられて 城の天守閣や寺院のバンダールになったのではないか とも考えられる。今は現存しないが、東方のチニにあったという きわめて高層のヨーギニー寺院ともよく似ている(O・C・ハンダのスケッチ)。では、ゴンドラーの塔の起源はどこにあるのか、となると よくわからない。

O.C. ハンダのスケッチによる、チニのヨーギニー寺院(現存せず)
(From "Art and Architecture of Himachal Pradesh" by M.G. Singh, 1983)

 似たような形状の塔としては、遠くコーカサス地方の グルジアの住居 が思い起こされる。あのバーナード・ルドフスキーの『建築家なしの建築』にも紹介されている 城塞化した塔状住居である。はたしてそれが、中央アジアを経由して ヒマラヤまで伝えられたものかどうか、両者をつなぐ軌跡は見当たらないのである。
 塔状住居は 階段の登り降りだけでも苦労なのだから、防御の目的がなければ建てないし、下部を主に石で造るのも 防御姿勢の表れである。ヒマーチャル地方では 村全体を周壁で囲んで要塞化することは希(まれ)であったから、個々の住居や寺院が それぞれに身を守らねばならない。
 下階を石造またはレンガ造として 上階を木造の居住部とすることが 古代から行われていたことは、サーンチーのトラナにほどこされたレリーフ彫刻などを見れば わかる。往古の豪族は塔状の住居に住んでいたともいうから、寺院塔は古代インドの住居形式を受けついでもいるのだろう。

優美な入り母屋造りの寺院塔、マナン

 ところで、この地方の木造建築のもつ大きな謎は、屋根の「反り」にもある。これを中国の影響と考える人もいるが、それにしてはネパールでもカシュミールでも、そして西部ヒマーチャル・プラデシュでも屋根は直線であるのだから、それには同意しがたい。
 屋根の反りの源泉は外部の建築の影響ではなく、ヒマーチャル・プラデシュ地方の自然にあったのではないか。つまりヒマラヤ杉の枝葉の「反り」が建築形態に反映したのではないだろうか。ヒマラヤ杉は英語でデオダルというが、これはサンスクリット語のデーヴァダラ(神々の木)からきている。この聖なる木々に囲まれて生きるヒマラヤの人々は、その住まいや寺院の屋根にもその優美な反りを取り入れたように思えるのである。




上記の、高層の チニのヨーギニー寺院が、チャイニ・コティ
という村に現存しているのを 1998年に発見し、日本建築学会の
『建築雑誌』 1999年11月号「建築奇想天外」に載せました。


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