第3章
FUSION OF STONE AND WOOD
石造と木造融合

神谷武夫

ハトコティのシヴァ寺院

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ヒマラヤ中腹部の ヒマーチャル・プラデシュ州

 前回紹介したラダック地方はインドの最北部で、標高 3,000〜4,000メートルもの高地であったが、そこから南へ下ってくると ヒマラヤの中腹部から裾にかけて広がるヒマーチャル・プラデシュ州となる。ここは 山また山の山岳地帯であって、平野はない。ラダック地方が ほとんど雨の降らない砂漠のような風土であるのに対して、ここは一年を通じて雨が多く、いたる所 ヒマラヤ杉や松に覆われていることが 下界のインド平原とも大いに違う。
 現在も鉄道は ほとんどなく、峡谷ぞいの曲がりくねった道が ほとんどなので、きわめて交通不便であり、地図の上で近そうに見える所に行くのにも、実際には たいそう時間がかかる。そうした地方なので 大きな都市はなく、西隣りのカシュミール地方やパンジャーブ地方が 歴史上の重要な舞台となってきたのに対して、静かな辺境の地であった。今も あまり観光化していないから、古くからの山村の文化をよく保っていて、人あたりも柔らかである。

  
サトレジ渓谷のチョラ村と、ヴァシシュト村のラグナータ寺院

 歴史的には 紀元前 3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王がインドの大部分を征服した時、ヒマラヤ地方も その支配下に入った。カシュミール地方には 仏教文化が栄えたが、しかし交通不便なヒマーチャル・プラデシュまでは 十分な支配が行き届かずに、各地の部族が 山地民族として暮らしていた。
 もちろん各部族は マウリヤ朝やクシャーナ朝に朝貢していたから、仏教も伝えられたにちがいないが、しかしここでは 仏教やヒンドゥ教よりも、山国の土俗信仰が行われていたようである。当時の遺構は何一つ残っていず、ただ発掘された貨幣が カシュミールやインド平原との関係を ある程度物語るのみである。
 その後もヒマーチャル地方の歴史は あまり はっきりしない。グプタ朝のチャンドラグプタ2世は4世紀末にヒマーチャル地方を支配下においていたらしいが、パンジャーブ地方やガンダーラ地方には フーナ(エフタル)族が5世紀から侵入して グプタ朝を衰亡させた。ヒマーチャル・プラデシュに インド平原の宗教と文化が強くもたらされたことを 今もはっきりと見ることができるのは、プラティハーラ朝の時代からである。
 8世紀にカナウジを首都として成立した グルジャラ族のプラティハーラ朝は 北インド一体を征服し、9世紀にはヒマラヤ地方まで支配する帝国となった。すでに1世紀頃にはヒンドゥ教が浸透していたと考えられる ヒマーチャル地方は、9世紀以降プラティハーラ朝のヒンドゥ文化を受け入れて 盛んな造寺活動を始めるのである。

  
ナガルの木造小祠堂と、ニルマンドの石造小祠堂


オーソドックスな ヒンドゥ教の石造建築様式の伝来

 ヒマーチャル・プラデシュは深い森に覆われていて 木材が豊富なので、インド平原部から石造の寺院様式が伝えられる以前から 木造の宗教建築(ヒンドゥ教であるにせよ、ないにせよ)が多く建てられてきたはずだが、古い木造寺院は ほとんど残っていない。火事や地震、落雷や腐朽によって失われてしまったのである。
 これに対して 不燃で堅固な石造建築は 新しい文明の到来を象徴するものであったろう。それは 800年頃に始まった。まずカングラの近くのマスルルに 大胆な石彫寺院が造営された。ヒマラヤ地方には石窟寺院がなく、いきなり石彫寺院がもたらされ、これがグプタ美術の名残を含む プラティハーラ朝建築の、ヒマラヤにおける最初の実現である。

マスルルの石彫寺院

 次いで 9世紀初期に ジャガツクの小さなガウリー・シャンカラ寺院と バージャウラーのヴィシュヴェーシュワラ寺院が、本格的な石造建築の技法と美学をもたらした。バージャウラーの寺院は マンダパ(拝堂)のない単室型の寺院であるが、ガルバグリハ(聖室)の上に 高くシカラ(塔状部)を立ち上げ、頂部にアーマラカと呼ばれる 溝付き円盤をいただき、北方型のヒンドゥ寺院のスタイルを あますところなく伝えている。聖室内に祀られているのは、シヴァ神を象徴するリンガ(男根)である。

  
バージャウラーとウダイプルの寺院

 これ以後、大小のシカラ型ヒンドゥ寺院が 各地に建てられるようになる。最も規模の大きいのはバイジュナートのヴァイディヤナータ寺院で、後世に至るまで ヒマラヤにおけるシヴァ信仰の拠点として崇められた。

 ところで石造寺院がもたらされる以前から ヒマーチャル地方には木造建築の伝統があり、多くの木造寺院が建てられていたわけであるが、現在に残る中世の木造寺院は わずか3寺院のみである。バルモール(ブラフモール)ラクシャナー・デヴィー寺院、チャトラーリの シャクティ・デヴィー寺院、そしてウダイプルの マルクラー・デヴィー寺院で、いずれも女神(デヴィー)に捧げられている。バルモールの寺院が最も古く、その内部は 700年頃にさかのぼる。しかし創建当時のままとみられる内部の彫刻は、やはりグプタ美術の影響の残るプラティハーラ様式からなり、石造建築が到来する以前に そうした様式や技法が伝えられていたことがわかる。




ヒマラヤにおける木造寺院と石造寺院の比較

 ヒマーチャル・プラデシュ地方においては、インド平原から伝えられた古典的な石造寺院と 土着の木造寺院とが共存することになる。それは次第に融合していくことになるのだが、純粋な木造寺院と石造寺院の細部を比較してみると、意外にも きわめてよく似ていることがわかる。
  インド平原の石造建築というのも、もともとは 木造に起源があり、石を木のように使って 軸組み構造の寺院を発展させたのである。そしてヒマラヤの木造建築もまた グプタ美術やプラティハーラ様式が伝えられると、その彫刻スタイルを木部に応用したので、インド平原の石彫と よく似たものとなった。

  
左:バルモールのラクシャナー・デヴィー寺院(木造)
右:バイジュナートのヴァイディヤナータ寺院(石造)のマンダパ天井

 ここに示すのは チャンバ渓谷のバルモール(ブラフモール)に残る最古の木造寺院である ラクシャナー・デヴィー寺院と、カングラ渓谷のバイジュナートにある 石造のヴァイディヤナータ寺院である。前者の外周部は 後世のものであるが、内部は 700年頃に創建されたままの姿を保っている。後者の創建は9世紀とも 12世紀ともいわれるが、この写真は 13世紀頃に増築されたマンダパ(拝堂)の内部である。
 どちらも 柱・梁構造であり、柱頭の「壷葉飾り」彫刻や 腕木、そして天井のデザインが そっくりであることがわかる。これらの天井は、正方形に架け渡された梁と対角方向に「火打ち梁」を架けて 小型の正方形をつくり、これを繰り返して 小さくなった中央部を一枚板でふさぐという方法で、これをドイツ語では「ラテルネンデッケ」と呼ぶ。
  インドから西アジアにかけて分布する架構法であるが、木造と石造のどちらに起源があるのかは 不明である。 ただ、曲げに弱い石を梁として用いるのは 本来無理があるので、このバイジュナートの寺院でも 梁にひびが入ってしまい、今は鉄骨補強で支えられている。




菅笠型の寺院


ラクシュミー・ナーラーヤナ寺院群、チャンバ

 ヒマラヤ地方には雨や雪が多く 木材が豊富であるので、建物が原則として木造であり、勾配屋根が架けられてきたのは 日本と同じである。屋根材には、これもまた豊富に産出する片岩のスレートが 瓦のように用いられてきた。そしてまた多雨地域では 庇で保護されていないと壁が傷むのは 石造も例外ではない。
  そこでヒマーチャル地方では、インド平原からもたらされた石造寺院にも 屋根を架けるようになる。チャンバのラクシュミー・ナーラーヤナ寺院群に見られるように、シカラの頂部に、まるで菅笠のような屋根を架けて スレートで葺き、壁面を保護したのである。
 下界の石造寺院を見慣れた目には ずいぶんと奇異に映るが、それが 巧みな造形効果を生んでもいる。こうした「菅笠型」の屋根の平面形は 四角形または八角形をしていて、シカラ本体とアーマラカの2段に架けられると 複雑さが増す。時にはバルコニーのような 立体的な形をとることもあるのは、民家形式の影響であろう。

 こうして石と木とが結合されるようになると、もっと積極的に混用されるようになる。 ハトコティのシヴァ寺院では すでに菅笠型をこえて、初めから 聖室を石造とし、屋根を木造とする設計であったように見える。その深い軒の出と反りをもった屋根造形は 魅力的である。一方、バラッグのシヴァ寺院では、菅笠のついた石造のシカラの手前に 木造のマンダパが増築されて、ユニークな構成をしている。

  
スングラの双塔寺院と、ウカ・デヴィ寺院の壁面


石造と木造の融合

 ヒマラヤ地方では 地震が少なくないので、建物には 耐震性をもたせなければならない。その意味もあって、この地方では石造と木造が 意外な形で融合することとなった。それは 木材を水平材として用い、石と交互に積んで壁をつくるのである。コンクリートの中に鉄筋をいれて補強するように、木の横材と石とを組み合わせることによって、単なる組積造よりも ずっと強度の高い壁面を得ることができる。



W・シンプスンによる木の枠組みのスケッチ
(From "Architecture in the Himalaya" by William Simpson)

 上図の ウィリアム・シンプスンのスケッチが示すように、まず木を井桁のように組み、その中に石材を詰めていく。コーナー部では木が重なり合うために、遠目には柱のように見えるが、実際には 垂直材は無い。ナガルの領主の館が 今はホテルになっているが、これは その古い実例である。その後この形式は 民家から城塞、そして寺院塔へと 広く利用されるようになり、そのストライプ状の壁面が ヒマーチャル地方の建物の基本的な要素となった。その高層化した寺院塔の実例は、回を改めて紹介する予定である。

  
センジのテオッグ国王宮と、内部吹き抜け見上げ

 もう一つの融合のしかたは、センジのテオッグ国王宮に見られるような、建物の下層を堅固な石造とし、上層を軽い木造とする方法である。これも耐震性には有効であるが、こうした大きな建物は あまり残っていない。この王宮は 本来祭礼のための施設であったというが、内部の吹き抜け大ホールを囲む空間構成は なかなか魅力的である。


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