聖者廟(マザール、ダールガー) |
イスラーム建築において、モスクに次いで幾多の名作を生んだのが 墓廟建築である。墓の上に屋根をかけたものを 廟と呼んでいるが、東方イスラーム圏においては、金曜モスクよりも 壮大に、豪華につくられたものが 少なくない。廟には2種類あり、聖者信仰による参詣(ジヤーラ)の対象としての聖者廟は 宗教建築とみなせるが、王侯貴族の権威づけや顕彰のための廟は 世俗建築である。しかし 両者のあいだにスタイルの区別はなく、しかもモスクやマドラサとも ほとんど同じ語彙によって組み立てられるので、王侯の廟でさえも 宗教建築のような姿をしている。
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イスラームが 廟建築をつくるようになったのは、多分に キリスト教の影響であったのだが、そのキリスト教においては、初期には 各地に殉教者廟(マルチリウム)を建てたものの、後には 聖人のためであれ 王侯のためであれ、偉大な廟建築を発展させるということが なかったのと比べると、イスラームにおける 廟建築への傾倒は、少々異様に見えるほどである。なぜムスリムは それほどに墓廟を愛好したのだろうか。しかも ムハンマドはそれを好まず、最初期のイスラームにおいては 墓廟の建設や墓参が禁止されていたというのに。 イスラームでは火葬をせず(それは 地獄で業火に焼かれるのと同じことだから)必ず土葬にするので、その上に土を盛りあげる 墓だけは必要となる。これが石棺となれば 地表に平らな墓石が見え、頭部には 墓標を立てるようになる。トルコのアフラトには セルジューク朝時代からの広大な墓地があり、無数の墓標が すべて同じ方向を向いている。イスラームでは 遺体の右の脇腹を下にし、顔をマッカの方向(キブラ)に向ける決まりに なっているからである。アフラトは アナトリア東方のヴァン湖に南面する ローマ時代からの古都で、11世紀にはセルジューク朝の支配を受けたが、 アルメニア風の文化を 色濃く伝えている。
![]() ムハンマドの墓もまた そうしたものだった。632年に没すると、マディーナの家の一室の下に、特別な飾りもなしに 埋葬された。それが、神の前には すべての人間が平等であるという、イスラームの理念の実践なのだった。彼の墓が立派なものとなるのは、706年に ウマイヤ朝のハリーファ・ワリード1世が ムハンマドの家(最初のモスク)を、大規模な「預言者のモスク」に建てなおす時である。現在の巨大なマディーナのモスクにおいても、内部に ムハンマドの廟が設けられていて、マッカの巡礼者は 必ずマディーナに行き、ムハンマドの意思とは逆に、この廟に参詣をする。
このように イスラームで墓廟建築が盛んになった原因は、まず イスラーム以前からの聖者信仰の習慣があったこと、モスクは主に男性用であったから、女性はマザール(トルコ語ではチュルベ)と呼ばれる 聖者廟に参詣したこと、スーフィズムの発展によって 尊崇すべきスーフィーの墓所が 各地につくられたこと、そしてモスクにおいては もっぱら神を礼拝したのであるから、願いや祈りの現世利益を求める相手は 神ではなく、霊力を備えた聖者の廟であったこと、等が考えられる。
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