第1章
PROLOGUE, RUSSIA

プロローグ

神谷武夫

A・ヴィトベルクによる「救世主聖堂」計画案

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 ロシアの若い建築家で、日本にも滞在歴の長い リシャット・ムラギルディンが 大量の資料を駆使してまとめた『ロシア建築案内』が、TOTO出版から刊行されたのは 昨年末のことである。三脚と あおり付レンズを使っていないので 建築写真としてはイマイチであるのと、地名索引のないこと、図面や航空写真などの出典が記されていないこと、などが 少々気になるところであるが、しかし世界最初の ロシア建築の全体的な紹介書が 日本で出版されたということは 大いに誇れることである。TOTOによる メセナ的な出版活動によって初めて可能になったことであり、通常の商業出版では不可能に近いだろう。

R・ムラギルディン『ロシア建築案内』

 さて、この浩瀚な本をひろい読みしていたところ、80〜81ページの記事に 私の目は釘付けになった。そして 若い日の記憶が呼びさまされて、深い感慨に捕えられた。その2ページに 何が書かれていたのかというと、モスクワ市 中心部に立つ「救世主聖堂」と、それに関連した「ソヴィエト大宮殿」についての解説である。その内容は 歴史的な紆余曲折があって錯綜しているが、それを要約すると 次のようになるだろう。

 ナポレオンがモスクワに攻め入ったのは 1812年のことであるが、ロシアの雪と寒さに耐えることができなかった。補給路を断たれたナポレオン軍は その冬に撤退を余儀なくされ、追撃を受けながら パリまで敗走する。戦勝したロシアは、この時の戦没者を慰霊するための「救世主」大聖堂を、モスクワ南西郊外の ヴァラビョーヴィ丘に建設することとし、1824年に 大コンペティションを開催する。その時一等を獲得したのが、80ページの下に 小さい図 のある A・ヴィットベルグの設計案である。ところが 彼は 「建設の初期段階で 経験不足による経理上のミスを犯し、ヴャトカという街へ 流刑されてしまう。」その後 地盤条件の悪さもあって、この建設は凍結されてしまった という。
 19世紀も末になって、この計画を引き継いだ建築家 K・トンによる別の設計で ネオ・ロシア様式による「救世主聖堂」が、敷地を クレムリン向かいの現在地に移して建設されることになる。それはヴィットベルグの新古典派様式に対して、基本的にはロシア・ビザンチン様式の延長上にあるものと見なせる。20世紀を迎えるという時期にしては 古臭いデザインで建設された。 

『ロシア建築案内』の中の2ページ

 ところが ロシア革命の後、スターリンは宗教弾圧を強めて、1931年に この聖堂を爆破してしまう。ソ連邦の首都モスクワを、ローマやパリに匹敵するような都市にしようとする 新たな「モスクワ再建計画」に基づき、この敷地には 聖堂に代わって、国家を象徴する「ソヴィエト大宮殿」を建設することとし、またしても一大国家コンペを催すのである。
 しかしこのコンペは 錯綜をきわめた。外国からの 24の応募作を含め、160作品が競い合ったが、審査会は実施案を選ぶことができず、ロシア人 2人(イオファンと ジョルト-フスキ-)と アメリカ人 1人(G.O.ハミルトン)の 3案を同等に優秀作としたのみであった。 翌 1932年に 第 3段階 (?) のコンペが行われ 15の案が競ったが、やはり 実施案は選ばれなかった。そして この年の秋から翌年にかけて、さらに第 4段階のコンペが行われた結果、イオファンの作品をベースに 多少の変更を加えた、クラシシズムの建物が建設されることに最終決定した。
 ところが、これまた第2次大戦による工事中断ののち、種々の問題が重なって完成されず、基礎工事部分が市民プールとして使われる はめになった。結局 このソヴィエト大宮殿の建設計画は 放棄されてしまう。
 さらに時が流れて、かつての大聖堂の爆破から 68年後の 2000年に、爆破された その聖堂が復元されて再建された、というのである。一つの聖堂の建設計画が 国家の体制の度重なる変化によって翻弄され、2世紀にわたる紆余曲折をへた後に、さして傑作とも思われない作品が 復元されて建っているというのには、驚きを禁じえない。

メルニコフによる「人民宮殿」コンペ案

 しかし、ムラギルディンによる このソヴィエト大宮殿のコンペの記述は、いささか わかりにくい。Cees de Jong と Erik Mattie が書いた ”ARCHITECTURAL COMPETITIONS 1792-1949” (1994, V + K Publishing, The Netherlands) には もっと詳しい記述があるので、これによって 再度見ていくことにしよう。それによると、このコンペは、まだ レーニンが存命していた 1923年に開催された「人民宮殿」のコンペに端を発するという。コンスタンチン・メルニコフや ヴェスニン兄弟ら 構成主義者が参加したこのコンペの段階では、それは ソヴィエト ”人民” を讃えるための施設計画であり、革命的なモダニズムの設計案こそ ふさわしかったのだが、実際に入選したのは ”カメレオン” 建築家・トロツキーの 新古典主義のデザインだった。その建物は資金不足のために 実現しないのであるが。

 「ソヴィエト・パレス」のコンペが始まるのは、その8年後の 1931年である。この時、すでに革命は スターリニズムの段階にはいりかけていて、コンペの対象は 人民のための宮殿であるよりも、ソヴィエト ”国家” を記念するモニュメントに すりかわっていた。ヒトラー付きの建築家・シュペーアがナチスのためにつくった「首都ベルリン計画」に相当するような「モスクワ改造計画」が推し進められ、芸術の世界を支配するのは ”社会主義レアリスム” となっていく。しかし、モダニズムの建築家たちは、まだ そのことに気がついていない。
 最初に 非公式の予備的なコンペが、15案の応募で行われたらしい。本式のコンペは ”2段階コンペ” として公募された。第1段階は 272案>(その内 112案は部分的なものであったから、全体計画案は 160案)を集めて行われた。第2段階は、そこから選ばれた 12人と、他に招待された 10人をあわせた 22人の建築家による 指名コンペとなった。ところが ここで最優秀案は決定されず、審査会は彼らの提出案をもとに、これを5つの設計チームに編成し直して、さらに案を練らせる 第3段階のコンペを実施することにした。その結果、最終的にイオファン (1891-1976) が主任建築家、シューコとゲリフレイフの2人が その協力者となることに 決定したのだという。

 こうしたことは ともかくとして、『ロシア建築案内』には もっと重要なことが 記されていないのが不思議である。このコンペは、人民宮殿コンペの時以来、終始 モダニスト建築家たちと 保守派の様式主義建築家たちとの戦いであった。 最終的にモダニズムは却下され、大時代的な社会主義レアリスムへと進んでいくのであるが、この戦いを象徴するのが 第1段階のコンペである。ここにはロシア以外のヨーロッパから モダニストの建築家が何人も 招待されたにもかかわらず、それらのすべてが 落選させられてしまったのである。そのモダニストたちとは、ル・コルビュジエ、ワルター・グロピウス、オーギュスト・ペレー、エーリヒ・メンデルゾーン、ハンス・ペルツィヒという、近代建築の革命児たちである。彼らは裏切られるとは知らずに、理想主義国家建設の希望に燃えて、新しい建築を構想したのであった。

ル・コルビュジエによる「ソヴィエト・パレス」コンペ案

 中でも ル・コルビュジエ (1887-1965) の案は、巨大なアーチから 大ホールの屋根を吊るという 大胆な構造計画にして、かつモニュメンタルな造形で群を抜いた。もしこれが実現していれば 近代建築の最高傑作になったろう、とも言われるほど有名な設計案である。この案は実現こそしなかったが、その後の世界各地の近代建築家たちに 大きな影響を与えた。丹下健三の広島平和公園のコンペ案に 慰霊のための大アーチが モニュメンタルに架けられていたことはよく知られているし、実現したものとしては アメリカの建築家、イーロ・サーリネンによる ジェファーソン・メモリアル・アーチ (セントルイス)、その他がある。
 最近 藤森照信が書いた大著『丹下健三』(2002年 新建築社) によれば、そもそも丹下健三 (1913-2005) が建築家を志したのは、高校時代に このル・コルビュジエ案を雑誌で見たからであったという。さらに その大アーチは 丹下健三の生涯にわたる創作活動における触媒、あるいは通奏低音のような役割を 常に果たし続けてきた、ということが 見事に解明されている。まず、藤森のソヴィエト・パレス評と、その広範な影響について書かれた部分を引用してみよう。

 ソヴィエト・パレスは、ル・コルビュジエの長い作品歴のなかでも運命的な一作で、1931年という モダニズム建築運動の隆盛期に出現し、比類のないダイナミズムと構想力を 世界の建築界に知らしめた。ル・コルビュジエの幾多の実作・プロジェクトのなかでも、最高の作品といっていいだろう。にもかかわらず 実現にいたらなかった。実現せず夢に終わったことで、ル・コルビュジエ本人が失ったものは 少なくないかもしれないが、世界の建築界は 得たものが多かった。 (略) ソヴィエト・パレスは モダニズム運動の一粒の麦の働きをした。 多くの後続の世代は、建築を目指し、運動を学ぶ過程でこの作品に出会い、影響を受けることになるのだが、丹下は違い、この作品と出会うことによって 彼のなかに建築が芽生えた。ソヴィエト・パレスという一粒の麦が 地に落ちて 建築家 丹下が生まれた、ともいえるのである。

「広島平和センター」コンペ案 丹下健三

 そして、1949年に行われた「広島市平和記念公園 及び記念館 競技設計」、略して広島平和センターのコンペ案である。丹下は現在の ”家型埴輪” 風の慰霊碑があるところに 大アーチをかけるつもりだった。藤森はこう評している。

 当時、丹下のアーチが サーリネンに似ていると 建築界では批判気味に語られているが、今日の目で歴史的に眺めるなら、事態はそう単純ではない。ソヴィエト・パレスは あまりにすぐれた案ゆえ、実現しなかったことで一粒の麦となり、後世のあちこちの地に芽吹くことになるが、大アーチについていえば、戦前の二一マイヤーの国立競技場案や、イタリア合理主義者 アダルベルト・リベラのローマ万博 (EUR 新都市)の 海からのゲート案、戦後では サーリネンのジェファーソン記念塔が好例だろう。 (略) ソヴィエト・パレスが発した大アーチは、直接、間接 さまざまに 丹下のうちにしみ込み、自分の好みの形として根を下ろし、広島で吹き出したと見るべきだろう。広島ピースセンター全体計画の骨格の重要な一部分をなす “つづみ形” と “大アーチ” の組み合わせの原形を求めるなら、やはり ソヴィエト・パレスだろう。

 藤森はさらに言う。 丹下健三の東京オリンピック・プールもまた ソヴィエト・パレスを一粒の麦として咲いた 20世紀建築史上の大輪の花であったし、1個の模型に終わったソヴィエト・パレスの夢を どう実現するかが 20世紀後半の世界の建築史のうえでの丹下の仕事であった、とまで言う。いささか コルのパレス案への思い込みが強すぎるのではないか という気もするが、しかし この本は本当におもしろかった。私はコルビュジェアンではないが、思いおこせば、恥ずかしながら 私でさえ 大学時代の設計課題で、大アーチからの吊り構造を 試みたことがあるくらいである。

大学時代の設計課題「美術学校」神谷武夫

 それほどに 後世への影響の大きかったこのコンペのことを思えば、ムラギルディンの『ロシア建築案内』は このページに、そうしたモダニストと様式主義者の角逐を記述し、ル・コルビュジェの図面か模型写真をここに載せれていれば、この本の内容は はるかに豊かなものになったことだろう。

 しかし、私が『ロシア建築案内』を読んでいて この2ページで感慨に捕えられた と書いたのは、実はこのことによってではない。それは 19世紀、そもそもの 1824年に行われた「救世主聖堂」の最初のコンペにおける アレクサンドル・ヴィトベルクの案 によって であり、それが 後のソヴィエト・パレスのコンペにつながっていることを 初めて知ったからである。


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