第 2 章
ALEXANDR GERZEN

アレクサンドル・ゲルツェン

神谷武夫


キージ島の風景、ロシア

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 現在の日本では ロシア文学というのは あまり人気がないようで、プーシキンも ドストエフスキーも 今の学生は読まないようだが、私の若い頃には 多くの日本人が ロシア文学を愛読した。私にもそうした時期があり、ロシア文学の主だった長編小説は ほとんどを読んだものだが、私の心を最も捉えたのは、アレクサンドル・ゲルツェンの『過去と思索』という本であった。これは 実は 小説ではなく、ゲルツェンの自伝・回想録である。(この文を書いた 数年後に、亀山郁夫の新訳による『カラマーゾフの兄弟』などがベストセラーになるという、思いもかけない ロシア文学ブームが訪れた。)

 ナロードニキの元祖とも呼ばれる アレクサンドル・イワーノヴィッチ・ゲルツェン (1812-70) は、ナポレオンが侵入した その年に モスクワで生れた思想家・文学者であって、後にヨーロッパに亡命して 長く ロンドンに住み、1852年から この回想録の執筆を始めた。精彩のある筆致で 幼少時代から巻を追って書かれ、全部で8巻にも及んだ。私の学生時代には その約 85パーセントが金子幸彦によって日本語に翻訳されていて、筑摩書房の「世界文学大系」の第 82、83巻の2冊に収録されていた。この分量がトルストイの『戦争と平和』に ほぼ同じという、まことに長大な回想録なのであるが、しかし これは退屈に長たらしいものではない。
 というより、そこらの小説よりも はるかに面白く、『ジャン・クリストフ』ばりの ビルドゥングス・ロマンとしても読める文学作品である。おそらくは ルソーの『告白録』と並んで、世界の自伝文学の最高峰に位置するものであろう。私の乱読時代の、これは愛読書であったので、学生時代に1回、卒業後にまた1回読み、その後も折にふれて 思い出したパートを読み返したりしたので、その詳細な目次や ゲルツェンの系図、年表などを作成したものだった。

若き日の アレクサンドル・ゲルツェン
(「世界文学大系 82」ゲルツェン『過去と思索』より)

 小説とちがうのは、それが単なる物語ではなく、ロシアの帝政時代の社会の描写や 知識人グループでの交流、ロシアやヨーロッパの傑出した人物たちの事績と その評価などが、かなりの分量で描かれていることである。それらの人物とは、たとえば生涯の親友となった 詩人の オガリョーフ(この回想録は オガリョーフに捧げられている)、文芸評論家の ベリンスキー、歴史家の グラノフスキー、アナーキストの バクーニンなどで、彼らとは深い友情で結ばれ、モスクワのサークルで切磋琢磨しあった。ヨーロッパに移ってからは、革命と動乱の 19世紀中葉に 新しい精神で時代を生き抜いた人々、イギリスの ロバート・オーウェン、イタリアの ガリバールジや マッツィーニ、フランスの ルイ・ブランや ルドリュー・ロラン、そして アナーキストの プルードン などとの交流が語られる。
 ゲルツェンがロンドンに住んでいた時、彼より6歳若いマルクスは 同じロンドンで『資本論』を執筆していた。しかし 両者はお互いに反発しあっていたから、ついに 生涯 会って話をすることはなかったらしいが、マルクスはロシア語を学ぶのに ゲルツェンの『過去と思索』をテキストに用いたという。
 ついでに言えば、インド建築史の ジェイムズ・ファーガソンは ゲルツェンより4歳上で、やはり その頃 ロンドンで『世界建築史』を執筆していたのだが、これは全く別世界の話であって、両者には接点がない。

 ロシア革命以前のロシアには 帝政が敷かれていて、皇帝(ツァーリ)が絶対権力を握っていた。ナポレオン侵入時の皇帝は アレクサンドル1世で、これは 若い時には自由主義者でもあった穏健派だったが、1825年に旅先で急死すると、悪名高い専制君主 ニコライ1世が帝位につく。
 ナポレオン戦争時に ロシアの立ち遅れと民衆の悲惨さを知った 貴族の若手将校たちは、ニコライが皇帝になることに危機感をいだき、専制と農奴制を廃棄すべく、この年の 12月(デカーブリ)に ペテルブルクで武装蜂起をする。そのために "デカブリストの乱" と呼ばれるが、これはニコライによって鎮圧され、翌年 首謀者5人が死刑、121人がシベリア流刑となった。
 このとき 14歳にすぎなかった少年ゲルツェンは 精神的に目覚め、デカブリストたちの "反・専制" と "反・農奴制" の意思を 引き継ぐことを決意する。そして 生涯の友となるオガリョーフとともに、モスクワの街を一望のもとに見下ろす 雀が丘で、その誓いを結ぶ。2人は この "雀が丘の誓い"を一生 裏切ることなく 活動をし続けた。この丘こそ、ナポレオン軍がその麓から退却を始めたことを記念して、アレクサンドル帝が カテドラルとしての「救世主聖堂」を建設すべく コンペを開催した、その敷地(ヴァラビョーヴィ丘)である。

ゲルツェンが学んだモスクワ大学 1817 D.I. ジリャールディ設計
( A. I. ゾートフ『ロシア美術史』美術出版社 より )

 長じて モスクワ大学に入学すると、ゲルツェンは 理数学部で自然科学を熱心に学ぶ一方、学生運動に挺身した。ツァーリズムの圧制のくびきに反抗して 自由思想や立憲思想の論文を書いたりもしたので、卒業後の 1834年に突然逮捕される。友人のオガリョーフたちも逮捕され、翌年、欠席裁判のまま シベリア送りとなる。といっても ゲルツェンは貴族であったから 肉体労働をさせられたわけではなく、シベリアの入口にあたる ヴャトカという町(現在のキーロフ)で官吏の仕事をさせられたのである。モスクワの刺激に満ちた生活から切り離されて無聊(ぶりょう)をかこったが、2年半後には ずっとモスクワに近い ウラジーミルに移され、ある程度 快適な生活を送るようになる。ここで彼は 情熱的行動家としての一面を 大いに発揮させる行動をとることになる。

 モスクワ大学を卒業したあと 22歳のある日、まだほんの子供だとばかり思っていた従妹が 美しく成長しているのに出会う。当時 17歳のナターリヤ・ザハーリナで、二人は墓地を散歩しながら尽きせぬ話をし、「またあした」と言って別れる。ところがその翌日、二人が再び会う前に ゲルツェンは逮捕されて留置場に入れられてしまうのだった。ヴャトカに流刑になっていた間、二人は 絶えず手紙を書きあって心を通わせ、愛しあうようになる。ナターリヤは 早くに両親に死なれて叔母の公爵夫人に引き取られ、孤独な生を生きていたうえに、意に染まぬ結婚を強いられて 絶望の淵に沈む。
 ウラジーミルに移されたゲルツェンは 兄の従僕と偽って、流刑の身でありながら モスクワに潜入し、友人たちの助けを借りて ナターリヤを連れ出し、ウラジーミルに戻って ただちに結婚式をあげてしまうのである。ゲルツェン 26歳、ナターリヤは 21歳の時であった。

ゲルツェン『過去と思索』世界文学大系版・上巻の扉

 その 2年後、やっと流刑を解かれてモスクワに戻ると、オガリョーフなど かつての仲間や、ベリンスキーなど 新しい友人たちと知的なサークルを作り、ロシアの悲惨な状況や 将来の改革を論じ合う。このころ モスクワの論壇を支配していたのは ヘーゲル哲学であった。ヘーゲルは その数年前に世を去っていたが、後期のヘーゲルは 功なり名とげて ドイツ哲学界の権威となり、体制内保守派になっていた。ゲルツェンは 彼の哲学に大いに影響を受けるものの、次のようにも書く。(『過去と思索』 からの引用は茶色で示し、すべて 金子幸彦と長縄光男の訳による)

 "すべての現実的なものは 理性的である" という哲学的命題は、ドイツの保守主義者たちによって、哲学をドイツの現実と和解させるための よりどころとされ、何にもまして有害な影響を与えたのである。

 彼は、後にマルクーゼが『理性と革命』(舛田啓三郎・中島盛夫・向来道男訳、1961、岩波書店)で論じたような、"若きヘーゲル" の支持者であり、「現実が まだ理性的でないならば、それを 理性的なものに変革すべきである」という立場だった。
 その変革のあり方に ヨーロッパ志向派と、スラブ民族の土着性や正教信仰に依拠するスラブ派とがあり、その対立が 次第に鮮明になる中、ゲルツェンは 個人の自由の尊重と 市民社会の確立を求めて、西欧派の論客となる。しかしニコライ帝支配下のロシアの現実は 息苦しくなる一方であり、ゲルツェンは "政府批判" の廉(かど)で、今度はノヴゴロドに追放されたりもする。

 そうした中、ゲルツェンのサークルで 長く語り継がれる有意義なできごとは、友人の歴史家・グラノフスキー(1813-55)による モスクワ大学公開講座であった。その「フランス・イギリス中世史」において、大学講堂を満員にした婦人たちや社交界の人々を前にして、グラノフスキーは 暗く抑圧された中世の社会を淡々と語ることによって、それと重ね合わせるように 帝政ロシアの現実を浮き彫りにし、圧制への深い抗議をしのばせたのである。それは「聴講者たちの心を強くゆさぶり、彼らを目ざめさせた .... 彼が 自らは口には出さないが、きわめて明瞭な思想が 聴衆にはひときわ親しいものになり、それが 彼ら自身の思想と思われるようになる。第1回の講義が終わった時、鳴りやまぬ拍手がひびきわたった。これはモスクワ大学において 未聞のことであった。」 講義のあとで、ゲルツェンとグラノフスキーは 手をとりあって泣くのである。
 しかしロシアの状況は一層悪くなり、改革派の人々は 窒息寸前となった。「われわれの立場は日一日と耐えがたいものになっています」と書きながら、最後まで グラノフスキーはモスクワにとどまったが、ゲルツェンは父の死をきっかけに、ついに 1847年、妻子とともにロシアを去る。事実上の亡命で、1850年に ニコライ帝から帰国命令が出た時にも これを拒否し、二度と ロシアの地を踏むことはなかった。

 1847年の初めに ヨーロッパに移ったゲルツェン一家は まずパリに住み、秋にはイタリアへ渡る。その翌年の2月にパリで二月革命が起こり、王政を倒して第二共和制が成立すると、ゲルツェンは驚喜してパリに向かう。ところが 5月にゲルツェンがパリに着いた時、革命はすでに失敗に終り、6月には 軍によって民衆が虐殺されていく姿を まのあたりにする。"遅れた" ロシアを脱出した西欧派のインテリゲンチャが ヨーロッパで見たものは、やはり "野蛮" と "残虐" であった。ヨーロッパへの幻想は 棄てられなければならなかった。ゲルツェンが一生の課題として再確認したのは、ほかならぬロシアの民衆(ナロード)、抑圧された農奴の解放であり、人間の自由と尊厳の確立であった。

 このあと ゲルツェンには つらい試練の時、『過去と思索』第 42章に書かれることになる「家庭の悲劇の物語」に直面する。母と次男が海難事故にあって死亡、翌年には妻のナターリアが 別の男との愛情のもつれの後に、ついに産褥で死ぬ。ヨーロッパの名目上の "民主主義" への絶望と 家庭の悲劇とは、ゲルツェンに深い悲哀感をもたらした。

ゲルツェン『過去と思索』完訳版 第2巻の表紙

 その年に(1852年)彼はロンドンに移住し『過去と思索』の執筆を開始する。 過去を客観的に見つめなおして検討を加え 文章にすることが、現実への立ち直りの道でもあった。そして、異国にあって ロシアのためにできることは 言論による他はないのであるから、私財を投じて "自由ロシア出版所" を開設し、ロシアに向けての出版活動を開始する。それらの出版物は ロシアの知識人、民衆、そして皇帝でさえも読み、ロンドンのゲルツェンの家には トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェルヌイシェフスキー、そしてネチャーエフなども訪れる。

 最も重要な出版物は、1857年に始めた雑誌『コロコル』であった。当初は月刊論説誌として、半年後には隔週刊、2年後からは週刊となって、ロシアばかりでなく、ヨーロッパにおける言論誌として重要な位置を占め、1867年までの 10年間に 245号を出した。1861年(日本は幕末の文久元年)には、1849年以来シベリアに送られて 独房と流刑の日々を過ごした アナーキストのバクーニンが脱走して、日本を経由して アメリカからロンドンのゲルツェンのもとに渡ると、『コロコル』誌が 彼の帰還を世界に告げ知らせたのである。

 コロコル というのは "鐘" を意味するロシア語である。その誌名は、ゲルツェンの追放先であったこともある、ノヴゴロド市の 鐘 に由来する。ペテルブルクの東南にある古都・ノヴゴロドは、中世において 共和政体の自由都市国家として栄えたのだが、15世紀に専制君主であるモスクワ大公・イワン33世によって征服され、政治的独立を失ってしまった。自治都市のシンボルであった ヴェーチェ(民会)の鐘は奪われ、戦利品としてモスクワに運ばれてしまう。しかし 自治都市を離れたこの鐘は、二度と再び鳴ることがなかった。後に デカブリストのルイレーエフは、この鐘を鳴らすことができれば 古代のロシアにあった民主制の伝統が よみがえるであろう、と訴えた。
 かつて "雀が丘の誓い" で デカブリストの意思を引き継ぐことを決意したゲルツェンは、親友オガリョーフと共に 自由ロシア出版所の新しい言論誌を出すにあたり、「二人だけで ヴェーチェの鐘を鳴らすのだ。 誰かがそれに答えるだろう」 と語って『コロコル』という名をつけ、ロシアとヨーロッパに自由と民主制を実現すべく、警鐘 を鳴らし続けたのである。

 ゲルツェンは ロシアの農村共同体による社会主義を夢見たが、教条主義に陥ることは決してなく、人間の心理への深い洞察力をもった文学者でもあった。イギリスの思想史家・アイザイア・バーリンは次のように書いている。

 ゲルツェンは 自由な人間の型と風格を好み、また何よりも 彼が好んだのは、たとえそれが 寡頭政治や貴族政治の中に見出される場合でも、熱情と独創性と 審美的な感覚だったからである。彼は ただ怒りと正義に対する欲求だけであるような 被抑圧大衆に対して、愛を いだかない。彼が もっとも愛した資質は 彼らが 非常にわずかしかもたぬもの ―― 想像力、自然らしさ、人間性、文化的感覚、天賦の寛容的精神、勇気、ひろい視野、個人の自由とは何かについての 生来の知識、そして あらゆる形の奴隷的、恣意的な規則、つまり 人間の屈辱と堕落に対する憎しみである。 (萩原直 訳)

* * *

 次の ヴィトベルクの章に進む前に、ロシアの一人の芸術家について記しておきたい。 それはゲルツェンよりも6歳上の画家、アレクサンドル・アンドレーエヴィッチ・イワーノフ(1806-58)である。 きわめて優れた画家であったが、彼もまた デカブリストの乱に強く心を動かされ、ロシアの専制に対する批判精神を持ち続けた。美術学校 (アカデミー) の卒業制作で描いた『牢獄で賄方と酌人に夢を語るヨゼフ』は、"デカブリストの処刑と 皇帝の血の弾圧" を暗示したものとして批判され、ロシアにいづらくなる。
 24歳でローマにわたると、そのままイタリアにとどまり、抑圧と苦悩の現実から いかにして人類は救済されるのか、地上の自由と正義は いかにして実現されるのか、ということを考え続けながら、創作活動を行った。

A.A. イワーノフ『民衆の前に現れたキリスト』

 1855年に 皇帝ニコライが死に、アレクサンドル2世が帝位につくと、ロシアの状態は 多少改善されたかに見えた。そこで、その3年後にイワーノフは、ロシアの画壇を改革する希望をもって、帰国することを決意する。A・I・ゾートフの『ロシア美術史』(石黒寛、濱田靖子訳 1976 美術出版社)には 次のように書かれている。

 帰国前にイワーノフは ゲルツェンの許を訪れ、悩みを訴えて教えを乞うた。ゲルツェンこそ 学問や芸術の新しい問題について 正しい解答をあたえてくれる と期待したのである。ゲルツェンは当時ロンドンに住み、帝政ロシアの社会制度を強く批判し、農奴制の廃止をよびかける「 鐘(コロコル)」誌を刊行していた。
 「ロシアの美術家に 心からの称讃のことばを贈ります。あなたは自分の理想に 形式を求めているかも知れませんが、あなたは 美術家たちに 偉大な模範をあたえているだけでなく、ロシア的本性の 未知の豊かさを証明しているのです。私たちは それを 感覚的に心で感じ取っており、ロシアの現実に反対して、ロシアを熱愛し、その未来に 強く期待しているのです」
―― ゲルツェンは眼に涙を浮べながら イワーノフに こう語ったと いわれる。

 1857年に イワーノフは ペテルブルクに帰り、チェルヌイシェフスキーや ツルゲーネフらに 暖かく迎えられたが、帝政ロシアからは冷遇され、批判された。 1858年、帰国から6週間後に コレラにかかり、不安と憂鬱の中で急逝したという。まだ 52歳であった。建築家・ヴィトベルクの死の3年後である。


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