NEW NATIONAL STADIUM and ZAHA HADID
東京

新国立競技場ザハハデ

神谷武夫

新国立競技場


BACK     HOME


2020年の 東京オリンピックのための新・国立競技場の国際コンペが 2012年に行われ、ザハ・ハディドの案が一等に選ばれましたが、日本政府は そのザハを引きずりおろして、あろうことか、国内のゼネコンに主導権を与える 再コンペを行う という 言語道断な 蛮行を演じました。 私は オリンピックにも競技場にも 無関心でいましたが、この問題が大きくなった 2015年の7月半ばから、断続的に「フェイスブック」に意見を投稿しました。 以下は、それらの記事を日付順に再録したものです。   ( 2018 /07/ 22 )



新国立競技場

新国立競技場総工費 が高いのは、国際コンペで1等をとった ザハ・ハディド の設計案のせいだ、というような主張が 蔓延しているようですが、それは、筋が違います。 震災復旧とオリンピック関連工事による建設資材や労務費の高騰 350億円、というのは、ザハ・ハディドの責任では 全くありません。 消費税 増税による増加分 40億円というのも そうです。
そして、設計の骨子をなす、2本の キール・アーチ が 500億円の工事費増加を招いた、などというのは、まったく理解できません。 アーチを2本つくることで 500億円も増加することなど あり得ない と思います。 そこには何か カラクリ(でっちあげ)があるのでしょう。 日本の建設業者に できない(やりたくない)のなら、国際入札 にする、というのが 当然のネクスト・ステップです。 それをせずに、国内の特定の工事業者が、競争相手なしに高い見積りを出した、などと言って 済ませているのは 不可解です。(設計ができていない内に 工事業者を決めてしまうなどというのは、言語道断です。 入札による競争原理を働かせずに 工事費が安くなるわけが ありません。 政治家たちが これを容認している、あるいは推進しているのは、そこから政治献金として還流する という前提、あるいは 密約があるからでしょう。)
観客席を8万席もの巨大施設 にしたから高くなった というのは、コンペ以前のプログラムを作った 役所の責任であって、ザハ・ハディドは そういうプログラムを満足させるための 最良の設計をしようとしたのです。 それは、他のすべての応募者も同じです。 プログラムを変えるのなら、規模を縮小した条件で、ザハ・ハディドに 再設計 を依頼すべきです。 他の設計者が、適当に設計変更してしまう というのは、筋が違うし、国際的な信義に反します(現在の 「見直し案」というのがそうです)。 事態が ここまでねじれてしまうと、解決は実に困難ですが、どんな場合も、筋をまげてはならない、と思います。    ( 2015 /07/ 15 )


一等のザハ案を棄てる

●「 新国立競技場は白紙にもどす」と、安部首相が宣言しました。つまり、ザハ・ハディドの設計案を棄てるということです。 事態はいよいよ「アレクサンドル・ゲルツェンとロシアの風景」の 第3章「アレクサンドル・ヴィトベルク」の話に近くなってきました。 女子アスリートの涙顔まで登場させて、ザハ・ハディドに 罪をなすりつけている 裏には、かなり深い「黒い霧」があるように 思えてきました。 強行採決から注意をそらせる意図もあるのかもしれませんが、これで一番利益を得るのは誰なのかを 注意しなければなりません。
ゼネコンが べらぼうに高い概算見積書 を出したことは まったく 不問のまま、国際競争入札にもせず、設計案のほうを棄てるなどというのは、前代未聞の珍事です。 このことを全然追及しない ジャーナリズム というのも 不思議きわまります。 安藤忠雄氏が、べらぼうな見積額 に驚愕して、一体なぜ そんなに高くなったのか 自分も知りたい、と答えていたのは 当然の話で、建築家だったら そう思うのが普通です。
総工費が、当初の予定の 1,300億円から 2,520億円にふくれあがった という数字だけ聞いたら、日本国民の誰もが建設に反対するのは当然です。 しかし 上に書いたように、それには裏がある、ということは ほとんど 知らされていない のです。 ただただ ザハ・ハディドの設計が 不当に悪者扱いされるだけです。    ( 2015 /07/ 17 )

元首相の悪口雑言

森・元首相 が17日、テレビ番組の収録で、
「僕は元々、あのスタジアムは 嫌だった。生ガキみたいだ。(現行案の2本の巨大アーチは)合わないじゃない、東京に」と語ったそうです。「生カキを ドロッとたれたみたいで嫌だ」 とも言っている。
新国立競技場は 国際コンペで、世界の建築家に応募をお願いし、ザハ・ハディド が力作を寄せてくれて、内外の錚々たる建築家の審査団から1等賞に選ばれたのです。
パリや ウィーンや モスクワの 音楽コンコール で、日本人の演奏家が1等賞をとると、日本の新聞やテレビは 大きく報道して その功を たたえます。 それを 現地の政治家(それも 元首相)が、
「私は あの日本人の、魚の腐ったような演奏は、元々嫌だった。 あんな演奏は 我が国にはあわない。」などと、個人の好みで、テレビで 悪しざま に言ったりすることが ありうるでしょうか? 絶対に ありえません
ザハ・ハディドに感謝するどころか、こんな 礼儀しらずの ならず者 のようなことを言う人が、かつて日本の宰相であったとは、私は実に 恥ずかしい。 世界の建築家に 顔向けできない想いです。

これほどまでに、政治家から ジャーナリズムから 建築家協会から、国を挙げて ザハ・ハディドの設計案を くさして、それを引きずりおろそうとしている背後には、何があるのでしょうか。 それによって利益を得るのは、誰なのでしょうか。 断じて「日本国民全体」では ありません。    ( 2015 /07/ 17 )

環境との調和

● ザハ・ハディドのコンペ案を排斥する理由のひとつに、「敷地のある明治神宮外苑の 環境を破壊する」というのがありました。 そうは思えませんが、しかし 新しい建築作品というのは、最初は既存の環境と調和しないように見えるものです。

エッフェル塔

 パリの エッフェル塔 は、1889年の パリ万博のための、少々インチキくさいコンペで選ばれたものです。 その あまりの「巨大さ」と「醜悪さ」に、モーパッサンガルニエ を はじめとする 文化人、建築家による 大反対運動 がおこされ、国論を二分しましたが、2年2ヵ月かけて建設されました。 万博後に取り壊される予定だったのに 生き延びて、いつしか 市民に愛される、パリのシンボル となってしまいました。 今では、あれを醜いとか、環境破壊だと言う人は、ほとんど いないようです。 私が訪ねたのは 今から 40年も前のことですが、東京タワーのような つまらない建物かと思っていたのに、その堂々たる姿の「建築作品」に 感銘を受けたものです。


ザハ・ハディド

● 私は オリンピックとか万博といった「お祭り騒ぎ」に まったく興味がなく、今までに一度も オリンピック競技 を観戦したことがなく(TVでも)、大阪万博 をはじめとする 全ての万博を一度も見に行ったことがありません。 しかし、ある中進国が着実に経済発展をして、先進国の仲間入りをする前に オリンピックと万博を開催することは、その国のインフラ整備や、世界に先進国としてデヴューするのに 非常に効果があるものだなと 感じてきました。日本がそうであったように、その後 イタリア、スペイン、中国がそうであったように。それゆえに、2020年のオリンピックは、もはや東京でやる必要は まったくなく、イスタンブル で開催するのがよい と思っていました。
 ところが東京が選ばれてしまって ガッカリしたくらいですから、新国立競技場 にも 完全に無関心でいました。 ところが この7月半ばから、ザハ・ハディドの設計が 攻撃の的にされて、大幅な 予算超過 が そのデザインのせいだと 新聞などに書かれていることに 義憤を感じて、ザハを擁護する意見を書きました。しかし インターネットで情報収集して 過去の経過を調べたりしているうちに、あれよあれよと言う間に、新国立競技場は 白紙に戻す ということになりました。 奇妙な話だなと さらに数冊の本を読むと、そもそも このプロジェクトは プログラム に非常に問題が多い ということがわかりました。 そのことが、最初から関わっていた 安藤忠雄氏にたいする 集中攻撃になったのでしょう。
 では どうすべきかと考えると、『意義あり!国立競技場』(2014、岩波ブックレット)で 森山高至氏が提案している、既存の国立競技場の 改修 というのが優れていると思いましたが、これは 既に取り壊されてしまいました。 一方で、すでに国際コンペが行われて 建築家が選ばれたのも事実であって、これを無かったことにする わけにはいきません。となると、磯崎新氏の提案が 最良なのではないかと思います。それは、規模を大幅に縮小した条件で、ザハ・ハディドに再設計を依頼し(その他の条件を加えても よいでしょう)、オリンピックの 開会式 などの 大規模なセレモニーのためには、皇居前広場に 仮設の舞台と観客席 を設ければよい、というものです。 これなら、オリンピック招致のための国際公約にも反しませんし、私が怖れていた 最悪のシナリオも 回避できると思います。
 (新しい競技場の 規模 というのは、当初計画8万人の半分の 4万人というのは どうでしょうか? 8万人が聴きたいというようなコンサートがあるとしたら、4万人ずつ2回やればよいでしょうから。 また 規模が半分なら、工事費も半分近くになるでしょうし、工期の問題も解決です。)
 好き嫌いは別として、ザハ・ハディド が 21世紀を代表する建築家の一人となるのは、ほぼ確実と思います。 その作品が 日本に残されるのは よいことです。 20世紀を代表する建築家であった フランク・ロイド・ライト帝国ホテル が 東京に建てられたように(残念なことに 取り壊されてしまいましたが)、また ル・コルビュジエ西洋美術館 が 今も上野公園に存在するように。 もし ルイス・カーン の作品も日本に建てられていたら どんなによかったことか。     ( 2015 /07/ 19 )


日本建築家協会

● 首相が 新国立競技場 を白紙に戻すと宣言した7月17日に、日本建築家協会(JIA)は 次のような「提言」をしたそうです。
 1. ザハ案は白紙に戻す。
 2. 現設計チームは継続して設計作業に当たる。
 3. 施工者の英知を十分に活用する。

自分たちの反対運動が実ったと、後付けで(首相の宣言が出た すぐ後に)言いたかったのか、政府から、首相の宣言にあわせた提言を出せと、急きょ要望されて 応じたのか、いずれにせよ、非常に たわけた「提言」です。 私は、建築家協会には 12年前に愛想を尽かして「退会」したので、その後の JIAの活動は よく知りませんが、ここまで堕落していたとは ! (政府が ザハ・ハディドに契約破棄を申し入れる時に、日本の建築家協会からも こういう要望書が出ているのでね、と言うためなのだろう。)
 これに対して、ある 元ゼネコン社員が ハフポスト で意見を述べていて、JIAよりも はるかに、まともに近い ことを言っています(7月31日)。 かなりゼネコン寄りの発言ではありますが、事態の本質 は突いています。

  ・ハフポストの記事 < 元ゼネコン社員から見た 混乱の原因 >

 これを読んでみても、新国立競技場は、規模を半減させて ザハ・ハディドに再設計を依頼し、オリンピックのセレモニーのためには、磯崎新氏の提案のように、皇居前広場に仮設の観客席と舞台を作るのが 最善だと思います。     ( 2015 /08/ 03 )

 この記事を フェイスブック に投稿したら、じきに 削除 されてしまいました。 それに気づいて再び投稿すると、また削除されてしまいます。 そんなことを 朝から5回も繰り返して、やっと定着しました。 数回前の投稿でも 似たことがありました。 黒い霧は だいぶ深刻です。「元 ゼネコン社員」が ハフ ポストに「匿名で」話していたわけも わかろうというものです。  ( 2015 /08/ 03 )

日本建築家協会(JIA)の会員たちは、コンペで選ばれた建築家(ザハ)を引きずり降ろして、もう一度コンペをやれ と言っているらしい(それも、ゼネコンと組んで ! )。「 正気の沙汰 」とは思えません。 これは建築の問題というよりは、「正義」と「倫理」と「良心」の問題です。 建築家を自称しながら、設計事務所を 営利企業(株式会社)にして、名刺に、(株)○○○○代表取締役 などと書いて得々としている連中は、どこまでも堕落していくのでしょう。 こんな国で 建築家のプロフェッションの確立など、思いも よりません。 というより、とっくに彼らは、そんなことは 放棄してしまったのでしょう。  よくわからない人は、この HPの中の、「 原術へ 」 のページを読んでください。  ( 2015 /08/ 10 )


RIBAの ゴールド・メダル

● 日本政府と日本建築家協会が、新国立競技場コンペで1等に選ばれた建築家(ザハ・ハディド)を引きずりおろして、現在、建築家を選ぶコンペではなく ゼネコンを選ぶコンペにすり替える という、言語道断なことをやっています。(私が怖れていた「 最悪のシナリオ 」というのは、こういうことです。)
RIBA(王立英国建築家協会)は その ザハ・ハディド を、2016年度の ゴールド・メダリスト に選んだ、という報が はいりました。 そこには RIBAの、非文化的な後進国・日本 および日本人に対する「批判」、あるいは「皮肉」が 込められているのかもしれません。   ( 2015 /10/ 16 )


丹下健三と、ザハ・ハディド

オリンピック・プール
丹下健三 国立屋内総合競技場(『新建築』1964年10月号 より

● たとえば、こんなことを想像してみてください。 3年前にロンドンでオリンピックが開かれましたが、その時に、ロンドンに屋内プールの施設を造ることになり、国際コンペを開催したとします。 そこで日本の 丹下健三 が代々木の屋内競技場(オリンピック・プール)の設計案で応募して一等をとったとします。 ところが RIBA(王立英国建築家協会)が 丹下案の建設に反対するキャンペーンを開始、署名活動まで します。
  ジャーナリズムは 丹下案の「奇抜なデザイン」を非難し、ゼネコンが べらぼうに高い 概算見積り を出した責を 丹下健三になすりつけ、政治家(元首相)は「私は あんなカタツムリみたいな建物は嫌いだ、我が国には合わない」などと悪口雑言、長老建築家は 「諸悪の根源 は あの 釣り屋根構造にある」などと御託宣、ついに首相は この設計を白紙撤回、丹下健三を追放して、新たにコンペを、それも建築家を選ぶのではなく、イギリスの ゼネコンを選ぶコンペ にすり替え、参加したい建築家はゼネコンの下に付けと言う。 こんなことが本当に起こったとしたら、それでもあなたは、イギリスを「文明国」だと考えますか?

新国立
新国立競技場・国際コンペ1等当選案

 そんなことは起こりえない と思うことでしょう。 ところが日本では、そんなことが 現実に起きているのです。 これを 非文化的野蛮国 と呼ばずに、何と言うのでしょうか?
建設会社が 設計監理者(建築家)を支配下に置けば、手抜き工事 でも何でも やりたい放題でしょう。 医者 が製薬会社の下に付き、弁護士 が検事の下に付くようなものですから。      ( 2015 /10/ 22 )


ザハ・ハディドの死

 ザハ・ハディドは 昨日3月31日に、アメリカのマイアミで 心臓発作をおこし、急逝しました。 まだ 65歳だったということです。 これで、彼女の作品が日本に建てられる余地は、完全に なくなりました。 新国立競技場の設計者に選ばれた彼女を、そこから引きずり降ろした 日本の建築家や政治家たちは、深く恥ずべきです。建築家のプロフェッションを否定するような 日本の建築界と政界の仕打ち が、彼女の死期を早めたのでしょうから。     ( 2016 /04/ 01 )


 そして、オリンピック用「新国立競技場」コンペで1等に入選したザハ・ハディドを引きずり下ろし、もう1度コンペをやるとか言って、大臣が ゼネコンに 概算見積りをさせながら 作らせ、事前に決めてしまった (できるだけ金のかからない)ゼネコンによる平凡な設計案に、チョット味付けをするだけという、あほらしい「疑似コンペ」をすることにもなります。 戦前のコンペと似たようなものです。 建築家のプロフェッションが確立しなければ、本来の公正なコンペをやるのは むずかしい、というわけです。      ( 2018 /07/ 22 )


BACK     HOME

TAKEO KAMIYA 禁無断転載
ご意見、ご感想の メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp