ヒマラヤ以南 最大の僧院
朝早くパハールプルの遺跡を訪れると、朝もやに つつまれた中央の大祠堂が しだいにそのピラミッド形のシルエットを、のどかな田園風景の上に広がる青空に 浮きあがらせてくる。早暁の日差しが 広大な矩形(くけい)の僧院を照らしだすと、中庭の中央に 1,000年以上の昔から そびえ立つ大祠堂が くっきりと姿を現す。ソーマプラ・マハーヴィハーラは、ヒマラヤの南側で最大の規模を誇るとともに、ベンガル地方で 最も重要な文化的中心でもあった。
パハ-ルプルの ソ-マプラ大僧院(バングラデシュ)8-9世紀 発掘平面図
( From Nazimunddin Ahmed : "Discover the Monuments of Bangladesh" 1984, Dhaka )
ソ-マプラ大僧院の、四面堂形式としての 図式的プラン
多くの巡礼者を引き寄せたこの僧院では 最近、9世紀のブロンズのブッダ像が発掘された。地中に埋もれていた大祠堂の 外壁に設けられた壁龕(へきがん)群には、今でも 60体以上の石造彫刻が残っている。
現在 バングラデシュと インドの西ベンガル州とに分かれているベンガル地方は、歴史や文化のうえでは一体の地域である。古代では辺境の地であって、中央のマウリヤ朝やグプタ朝の属領であった。独立した王国を建てるのは8世紀のパーラ朝で、12世紀まで この地を支配した。なかでも第2代の ダルマパーラ王(在位 770〜810頃)は ビハール地方まで勢力をのばして、東インド全体を統治した。そればかりでなく 彼は、そのほとんどが消滅したとはいえ、多くの寺院や僧院を建立して、仏教の保護に努めた。それを代表するのが、このパハールプルの僧院と、現在のインド側で廃墟となっている ヴィクラマシラー僧院である。
ソーマプラ大僧院の 中央祠堂
パーラ朝美術の精髄
僧院は ヴィハーラ(文字どおりの意味は「時を過ごす場所」)と呼ばれるが、出土した碑文から、ここは ソーマプラ・マハーヴィハーラ(大僧院)と名づけられていたことが わかった。発掘作業は 1923年に始まり、1938年に 詳細な報告書が出版された(A.S.I. Report, No.55. " Excavations at Paharpur, Bengal " )。全体は 300メートル四方の ほぼ正方形をなし、その面積は9ヘクタールにもなる。外周壁にそって ぐるりと 177の僧室が並び、広大な中庭を取り囲んでいる。その中央には 十字形プランの大祠堂があり、これは 単に僧院に付属するものというよりは、独立した大寺院に近いものである。
ソーマプラ大僧院の 大祠堂 平面図
( From "Excavations at Paharpur, Bengal"
[Memoirs of the Archaeological Survey of India 55.] )
黄色は4組の <ガルバグリハ + マンダパ>、淡緑は繞道(にょうどう)
大祠堂は3層からなり、中央塔の四方に 大きな仏像を背中合わせの 外向きに安置していたとみられる「四面堂」の形式をとっている。しかし最上層は崩壊し、2層めも 表面が失われてしまったので、当時の大祠堂が どんな造形をしていたのかは、今は うかがい知るすべがない。境内の他の建物と同じく、すべてはレンガ造であるが、大祠堂は 彫刻をほどこした素焼きのテラコッタ・パネルの列で飾られていた。今も大祠堂の基壇には、往時のままに 2,000枚ものテラコッタ・パネルが並ぶ みごとな壁面を見ることができる。また上部を飾っていたテラコッタ・パネルが 800枚出土し、これは現地の博物館に収められている。これらは粘土板が生乾きのうちに、素早く彫刻をして焼いたもので、一筆書きのような 素朴な味わいの残る、パーラ朝美術の粋である。その図柄にヒンドゥの神々が混じっているのは、仏教が タントリズム期にあったことを示している。
ソーマプラ大僧院の テラコッタ・パネル
東南アジアへの伝播
パハールプルの僧院は 厚いレンガ壁で囲まれた正方形のプランをなし、各面の中央に 出入り口の門が設けられていた。特に北門が大きく、これが正門であった。境内には 周囲を取り巻く 177の僧室のほかに、多くの小祠堂や食堂、厨房などが 広大な中庭に散在していた。四面堂の形をとる中央の大祠堂は、巨大な仏龕が四方の門に相対していて、繞道(にょうどう、礼拝対象のまわりを 右回りにめぐる道筋)を兼ねる二重の基壇の上に建っていた。この大祠堂は ストゥーパの発展形とみることもできる。西方のガンダーラ地方では ストゥーパとヴィハーラが別々に建ち、ひと組で寺院をなしていたものが、ここでは 僧室群が大祠堂を矩形に囲むという形で 一体化したのである。
その結果として、こうした幾何学的で 四方に広がりをもつ マンダラ的なプランの大伽藍が構成され、この形式が ここから東南アジアへと広まっていった。ミャンマーのパガンにある諸寺院をはじめとして、カンボジアの アンコール・ワットや、さらには遠く インドネシアの ボロブドゥールに至るまで、パハールプルの影響を受けながら いっそう大規模化したのである。その形式の起源が ジャイナ教の寺院にあることは、「ジャイナ教の建築」の第6章「ラーナクプルのアーディナータ寺院」に書いた。)
南アジアの地図
仏教の衰退
パーラ朝の王の こうした造寺活動によって、インド亜大陸で消滅する運命にあった仏教は、その最終段階で 新たな隆盛をみることとなった。大祠堂を飾るテラコッタ・パネルは 農民や音楽家、踊り手などとともに、動物や植物、魔物たちの姿をも描き、生き生きとした民衆文化を表現している。一方、ここには ヒンドゥ教の神々や『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』の説話なども描かれていて、ここが大乗仏教の基地でありながら、仏教が しだいにヒンドゥ教の影響を受けて 密教化していったことをも 示している。
ソーマプラ大僧院の境内の一隅と、レンガ積みの方法
パーラ朝は その後衰退して 12世紀半ばには 滅びてしまい、仏教もまた インドから姿を消すことになる。ヒンドゥ王朝のセーナ朝が とって代わった後も、このモニュメンタルな建造物は 17世紀まで たえず巡礼者を集めていたが、僧院の保存に心をくだく者はなく、略奪にまかされた後は 全く荒廃してしまったのである。
このベンガル地方の東半分が、後にイスラーム国(バングラデシュ)になったのは、ヒンドゥとのヘゲモニー闘争に敗れた仏教徒が、イスラームに改宗したためらしい。というのも、仏教徒がヒンドゥ教に吸収された場合、最下級のカーストにされてしまったろうから、それを避けるために イスラームの平等主義を選んだからである。
(『ユネスコ世界遺産』インド亜大陸 1997 講談社)
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