ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - LVII
ジョン・ハーシー、 丸木位里+丸木俊
『 ヒロシマ 』 と 『 ピカドン 』

John Hersey, Iri+Toshi Maruki :
" HIROSHIMA* " & " PIKA-DON ** "
* 1946, Alfred A. Knopf, New York
** First published and prohibited in 1950
Three Language Edition in 1998 by Roba-no-Mimi

神谷武夫
  ヒロシマ
ジョン・ハーシ−著 『 ヒロシマ 』 1946年8月
20×13×1.2 cm, 118 pp, アルフレッド・A・ノッフ書房

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原子爆弾 と 広島

 この「古書の愉しみ」の第42回で、「愉しみ」とは正反対の 辛い読書体験の『 原爆体験記 』を採り上げた時に、次のように書きました。

「毎年 夏になると、いわゆる「終戦記念日 (8月15日) 」が やってきます。その前には 広島 (8月6日) と 長崎 (8月9日) の 原爆投下記念日における 死没者の 追悼記念式が行われ、大多数の日本人が あの戦争に、また核兵器に、思いを馳せます。 広島では 一瞬にして十数万の市民が命を奪われ、長崎では7万人余の市民が亡くなった とも伝えられますが、正確な数字は不明です。今は 終戦記念日には遠い冬ですが、いよいよ核戦争が 起こるやもしれぬ ケハイ であり・・・」

 このごろもまた、ウクライナ事変や ガザ事変において、そんな ケハイ があります(ロシアのプーチンは ベラルーシの ルカシェンコと共に、核兵器の実戦配備を進めています)。 で、今回は 『原爆体験記』の記事の姉妹編というべきか、原爆投下後の 最初期に出版された本、アメリカ人ジャーナリストのジョン・ハーシーが書いた『ヒロシマ』と、丸木位里・俊夫妻が描いた 原爆絵物語『ピカドン』を中心に、原爆関係の本の若干と それらの版の変遷を、ほぼ 出版年度順に紹介します。

 前回紹介した、丸木夫妻による 名高い『原爆の図』は 大きな屏風絵のシリーズでしたが、この『ピカドン』は それとは対照的に 小さな袖珍本(しゅうちんぼん)の「絵本」であって、GHQ(連合国軍 最高司令官 総司令部)によって出版禁止にも されたので、あまり 知られてこなかった本です。 その反対に、ハーシーの『ヒロシマ』は アメリカでも 日本でも、ずっと増刷されて 読まれ続けてきたばかりでなく、各国語に翻訳されて 世界的に知られた本です。


 まずは、原爆投下直後のエピソードから 始めます。 東京の 1/3 が灰燼に帰した「東京大空襲」を 生きのびた 加藤周一は、終戦時に 東大の附属病院の医局に 無給の副手として勤めていました。日本がポツダム宣言を受諾して8月15日に戦争が終わると、広島と長崎に落とされた新型爆弾が「原子爆弾」だと わかり、血液学専攻だった加藤は 日米合同の「原爆医学調査団」(「日本における 原子爆弾の影響に関する 日米合同調査団」)に加わることになります、爆破の1ヵ月後の9月に 立川から広島に行き、東大の 都築教授のグループの一員として2ヵ月を 被災地で過ごしました。残留放射能に汚染されなかったのは 幸いでしたが、ずっと後に書かれた 加藤周一の自伝『続 羊の歌』には、抑えた筆致で 次のように回想されています(1968、岩波新書、p.12)

 「1945年8月6日の朝まで、そこには、広島市があり、爆撃を受けなかった 城下町の軒並みがあり、何万もの家庭があって、身のまわりの 小さなよろこびや 悲しみや 後悔や希望が あったのだ。その朝 突然、広島市は消えて失くなり、市街の中心部に住んでいた人々の大部分は、崩れた家の下敷になり、掘割にとびこんで溺れ、爆風に叩きつけられて、その場で死んだ。
 生きのびた人々は、空を蔽う黒煙と 地に逆まく火炎の間を 郊外へ向って逃がれようとして、あるいは 途中で倒れ、あるいは 安全な場所に辿り着くと同時に 死んだ。さらに 生きのびた人々も、田舎の親類家族と抱合い、九死に一生を得たよろこびを 頒つと思う間もなく3週間か4週間の後には、髪の毛を失い、鼻や口から 血を流し、やがて 高熱を発して、医療の手も まわらぬままで 死んでいった。
 それから2ヵ月、辛うじて 難を免れた人々は、親兄弟を失って 呆然とし、みずからも「原爆症」の恐怖に怯えて、追い立てられた獣のように、あてもなく 焼け野原を歩いていた。もはや それは 嘗ての広島市民とは 別の人間であり、あたかも そのことが無かったことのように、彼らが 以前の人間に たち戻ることは できないだろうと思われた。 みずから その経験を通ってきた人たちは、どうしても その話を したがらなかった。
   「ここでは《 ピカドン 》といっていますけどねえ、
    生きた心地もしなくて・・・・」

といったまま、口をつぐんでしまう。
 そういうときほど、相手と私自身の間に、私が 越え難い無限の距離を 感じたことは なかった。経験の大きな黒い塊が、相手の人間のまん中に、動かすべからざるもの としてあり、しかし 当人さえも それを言葉で あらわすことが できなかったとすれば、どうして私に それを理解することが できたろうか。」

原爆体験記
■『原爆体験記』オリジナル版、昭和 25年 (1950)、 表紙

 広島市は 原爆投下後3年目の昭和 23年 (1948) に、原爆の惨禍から生き延びた 市民に呼びかけて、その 被爆体験記を募集しました。それら、職業文筆家ではない 一般市民によって綴られた、生(なま)の思い出の『原爆体験記』の小冊子が 出版されようとした時、原爆を投下して 広島と長崎の十数万人の市民(非戦闘員)の命を奪うという「戦争犯罪」を犯したアメリカは、それを、戦争を終わらせるために 必要だった と言って正当化し、原爆のもたらす悲惨さを 最大限 包み隠そうとしたため、日本を占領する、ダグラス・マッカーサーの率いる GHQ*(連合国軍総司令部)は この小冊子を「反米的」として、すでに印刷・製本が できあがっていた にもかかわらず、これを配布させず、出版禁止処分にしました。そのために これらの原稿と小冊子は、以後 15年間も 広島市役所の倉庫に収蔵されたまま、日の目を見なかったのでした。

 *GHQ というのは、General Headquarters(ジェネラル・ヘッドクォーターズ:総司令部)の頭字語で、日本では米軍を主とする 連合国の「進駐軍」を「ジーエッチキュー」と呼んでいましたが、正しくは The Supreme Commander for the Allied Powers(連合国軍 最高司令部)なので、英語での頭字語による 正しい略号は、SCAP(スキャップ)です。 レスリー M.M. ブルームの本『 ヒロシマを暴(あば)いた男 』 でも、常に SCAP と書かれています。本稿はハーシーに関して その本の記述に多くを負っていますが、慣例に従って(引用文もあるので)GHQ と書きます。

 



ジョン・ハーシーの『 ヒロシマ 』
”HIROSHIMA" by John Hersey
ハーシー

■ 週刊『 ニューヨーカー 』誌、昭和 21年 (1946)8月31日号の表紙(ウェブサイトより)
皮肉っぽく、平和に遊び戯れるアメリカ人を 表紙に描いている。

 加藤周一が広島で調査団に加わった半年後、アメリカのジャーナリストで、長く『タイム』誌の国際的報道記者をつとめたあと フリーになっていた ジョン・ハーシー (1914-93) が、中国での任務が終わると すぐに広島に飛んで(といっても 爆破の10ヵ月後になりますが)、マッカーサーが率いる GHQ、すなわち アメリカの日本占領軍 による厳しい「報道管制」にもかかわらず、広島への2週間の滞在許可を獲得し、原爆の もたらした惨状を、フリーの記者として つぶさに見ていきました。特に6人の被爆者から その体験を詳しく聞き取り、詳細に調べ、さらに 爆弾炸裂当日と 死者の山のなかで 患者の応急治療をし続けたり、あるいは 自身が被爆の苦痛にもがいていた人々と 街の様子を、詳細なルポルタージュに再現して、原稿にしました。

 ジョン・ハーシーは、1914年に中国の天津に生まれ、宣教師の父のもと、少年時を中国で暮らしました。米国に帰国後 イェール大学で学び、英国のケンブリッジ大学に 留学もしました。その後 ジャーナリストとして活動するとともに フィクションも執筆して、ピュリッツァー賞を受賞していました。
 彼は 主に『タイム』誌のジャーナリストとして 活動しましたが、「大本営発表」的なフォーマルな記事ばかり書くことに 物足りなくなって、逆の方向の、『ニューヨーカー』という 軽い内容の娯楽雑誌に 接近しました。
 2次大戦の終わりに 広島と長崎に投下された原爆の被害の実相が、アメリカ国家による「報道管制」のために 真実が 報道されないらしいことに不満を抱いていた、『ニューヨーカー』の編集長で社主だったハロルド・ロスと、果敢な 副編集長の ウィリアム・ショーンと相談して、ハーシーが 何とか それを肉弾的に取材してくることを 図りました。そして その記事を雑誌に載せるのは、広島に原爆が投下された記念日である8月6日ということにしました。その日までに ハーシーは 日本に行って 広島で取材をし、アメリカに帰国後に 原稿を書き上げて、編集に間に合わせるように しようと。(実際には 間に合わず、8月31日になりますが。)

 ハーシーが、わずか2週間であれ、広島で取材することを許されたのは、いくつかの 幸運に恵まれたのと、その数年前に 太平洋戦争における マッカーサー元帥について 好意的に本を書いていたからであろう とも言われますが(ブルーム p.37)、ハーシ−の仕事は、終戦直後の日本に入国した欧米のジャーナリストの、誰も なしえなかった 壮挙でした。しかも、『ニューヨーカー』という、「ユーモアと 軽い記事と 漫画の雑誌が、突然、これほど 恐ろしいものを掲載し、隠蔽された事実を 暴いたのです」。(ブルーム p.100)。

 ハーシーは 広島に滞在中の2週間は もっぱら 被爆者からの聞き取りをし、多少の写真を撮り、メモをとりましたが、原稿を書けば GHQに没収されてしまう でしょうから、見るもの聞くものを、すべて頭の中にいれて 記憶しました。原稿を書いたのは アメリカに帰国後です。

 ハーシーは、原爆による被災を 全体的に眺めわたすのではなく、広島市民の個々人の 具体的な被災と行動を描くことが、より アメリカ人の心を とらえるだろうと考え、偶然的な引き合わせも含め、6人の被爆者を選んでいきました。彼は、読者を ひきつけるためには、「その記事が 小説のように読めなければならない」、「読者を 登場人物の心の中に入らせ、その人物に なりきらせ、ともに苦しませる」ようにすべきだと考えました(ブルーム p.131)。

 ジョン・ハーシーが 昭和 21年 (1946) の広島滞在中に 詳しく聞き書きをした6人というのは、『ヒロシマ』の裏表紙に、写真入りで紹介していますが、特別な人達を 選んだわけではなく、むしろ偶然に近く 知り合った人たちでした。

■ 中村 初代  昭和 17年 (1942) に戦死した 仕立屋の後家。原爆症に苦しみながら、お針子などをして3人の子を育てつつ、苦難の人生を送る。
■ 佐々木 輝文 医師  当時 25歳で、広島赤十字病院の 若い外科医師だった。不眠不休で 数知れぬ患者の応急手当をし、それから5年間は ケロイドの治療に取り組んだ。
■ ウィルヘルム・クラインゾルゲ神父  当時 38歳の、イエズス会の ドイツ人司祭で、ハーシーのために通訳をした。のちに 日本に帰化し、高倉誠 という名を得る。
■ 佐々木 とし子  当時 20歳くらいの、東洋製缶工場 の若い事務員。のちに 苦労の末に受洗し、修道会に入って シスター・ドミニク・佐々木となり、老人ホームの園長となる。
■ 藤井 正和 医師  当時 50歳で、個人病院の 裕福な院長だったが 被爆し、病院が倒壊するも、救護活動をする。病院を再建し、充実した余生を送る。
■ 谷本 清 (1909-86)  広島メソジスト教会の 牧師で、被災者たちの「救いの天使」、のちに何度も アメリカに講演旅行に行き、「ノーモアヒロシマズ」運動の 提唱者となる。1940年代後半から 国際的に知られる 反核運動家になり、その没後に「谷本清 平和賞」が創設された。

 ハーシーの原稿は 約3万語になりました。『ニューヨーカー』誌は当初、それを 数回に分けて掲載するつもりでしたが、それでは 政府から 途中で打ち切りにされてしまうだろう、と危惧した編集長ハロルド・ロスと 副編集長ウィリアム・ショーンの英断によって、 その号の「全ページ特集」として一挙掲載することを決断しました。『ニューヨーカー』誌の、昭和 21年 (1946) 8月31日号です。その号の 30万部は、即日 完売したそうです。
 日本では GHQ が 昭和 20年 (1945) の9月に「プレス・コード」を出して、原爆の被害を描く報道を検閲していましたが、アメリカにおいても 陸軍の圧力がありました。記事のタイトルは、当初「広島でのいくつかの出来事」としていたのを、最終的には、端的に「ヒロシマ」としました。

 イタリア、ドイツに続いて日本が降伏して、ついに第2次世界大戦が終わった、アメリカは勝利した、真珠湾の恨みを晴らしたと、歓喜していたアメリカ人に、これは冷水を浴びせかけたのです。その勝利は、広島・長崎の一般市民への すさまじく残忍な 殺戮行為と引き換えだったのだと。

ハーシー   ハーシー

■ "HIROSHIMA" by John Hersey, 昭和 21年 (1946) 8月発行
  20×13 cm, 118 pp, New York アルフレッド・A・ノッフ書房
 ■ ペンギン・ブックス 初版、昭和 21年 (1946) 12月発行, 119 pp.
  アルフレッド・A・ノッフ書房版と まったく同じ組版の廉価版

 『ニューヨーカー』誌の8月31日号が出る1ヵ月前の 8月1日に、アメリカのトルーマン大統領は「原子力法」に署名をしました。そこでは、原子力の兵器の「部外秘のデータ」を外部にもたらした者は、「死刑か 終身刑の対象」にさえする というのでした。『ニューヨーカー』の編集長 ハロルド・ロスと 副編集長 ウィリアム・ショーンと ジョン・ハーシ−は、誰にも(他の社員たちにさえ)秘密にし、10日間 ハロルド・ロスのオフィスに鍵をかけて 閉じこもって 編集作業をしたのでした(この出版に、多少は「命がけ」の意識も あったかもしれません)。
 そして ジョン・ハーシーとその家族は、『ヒロシマ』が記事になる数日前から、危険を恐れ、密かにノースカロライナ州の田舎町に 引きこもったそうです。『ヒロシマ』についてのインタビューを受けることは、亡くなるまで 避け続けました。また ハーシーは、この記事を書いたことによる 利益を得ることには 罪悪感を持ったので、この記事による収入は、アメリカ赤十字に寄付することに 決めました。

 いよいよ発売された『ニューヨーカー』誌の8月31日号は、表紙に アメリカ市民の のんびりした休日の姿の絵で飾られていて、一見 いつもの号のように 見えました。しかし 最初のページをめくると、太い字で 次のように書かれていました(ブルーム p.162、高山祥子訳)。

読者のみなさんへ。今週の『ニューヨーカー』は 全誌面を使って、一発の原子爆弾によって ほぼ完全に消されてしまった街について、そして その街の人々の身に起きた 出来事についての記事を 掲載します。この兵器の 途方もない破壊力を理解している者が ほとんどおらず、誰もが その使用の恐ろしい意味を 考える時間を 持つべきだと 確信してのことです。」

 定期読者は、度肝をぬかれました。そして、この号の反響は 非常に大きく、アメリカの 30以上の州の 新聞や雑誌から 再掲載の依頼が来ましたし、世界中の報道機関が、『ニューヨーカー』誌の 偉業を称えました。雑誌は 初版 25万部(30万部ともいう)が たちまち売り切れてしまったので、評判を聞いた人が 1冊手に入れようと 古書店に行ったら、定価 15セントの雑誌が6ドルもしたそうです(ブルーム p.170)。

 ヒトラーに先駆けて 核兵器を開発することを ルーズベルト大統領に進言して、原爆の開発への道を開いてしまった 科学者としての 深い罪の意識を抱いた アルベルト・アインシュタインは、この『 ニューヨーカー 』誌の特集号を 1,000部増刷してほしい と依頼し、それを買って 世界中の主導的な科学者仲間に配った といいます。

 記事は 全米 100を超える新聞に再録され、カナダをはじめ 10数か国語に翻訳され、また、その内容が4日間にわたって 全米にラジオ放送され、一大センセーションを 巻き起こしました。(水田 p.43)
 この特集記事は すぐに アルフレッド・A・ノッフ 書房 から ハードカバーの単行本になって出版され、さらに ペーパーバックの廉価本として、同じ組版で ペンギン・ブックスの1冊にもなりました。1946年発行 というのは、広島の原爆に関する、世界で最も早い 原爆本の出版です。ペンギン・ブックス版は 数週間のうちに 初版 25万部を売り切り、すぐに 100万部の増刷を用意しました(ブルーム p.203)。本は 世界各国で 11ヵ国語に翻訳されて 出版され、初版から 80年近く、何度も 何度も 版を重ね、今も 世界で読まれています。
 ハーシーの記事は 後の 1999年に、ニューヨーク大学・ジャーナリズム学部による「 20世紀アメリカ・ジャーナリズムの業績トップ100 」リストの、第1位に選ばれました。




ジョン・ハーシーの『 ヒロシマ 』の 日本語版

ヒロシマ   ヒロシマ

■ ジョン・ハーシー 著『ヒロシマ』石川欣一・谷本清 共訳、法政大学出版局
 昭和 24年 (1949) 4月25日発行、ハードカバー+ジャケット
18.5×12.5 cm、162ページ、定価 120円、 と 奥付

 日本では、GHQ の「プレスコード」によって、原爆についての報道は禁じられ、ハーシーの本の 輸入も禁じられていたので、ハーシー本人から 秘密裏に『ニューヨーカー』誌の ヒロシマ特集が 数か月後に送られてくるまで、6人の主な登場人物は、自分たちのことが 雑誌に書かれて 出版されたことなど 全く知りませんでした。まして、『 ヒロシマ 』の本の 翻訳出版の許可など、下りる見込みは なかったので、日本人は この本のことを、全く知りませんでした。
 「プレス・コード」というのは、太平洋戦争終結直後の 昭和 20年 (1945) 9月19日に GHQ が出した「日本に与うる 新聞および 出版に関する覚書」の通称で、占領軍は これによって 出版物の「事前検閲」を行い,アメリカに都合の悪い記事の 公表を禁じ,違反者には 発行・業務の停止命令を下したのです。

 英語版『 HIROSHIMA 』出版の2年後の 昭和 23年 (1948) に プレス・コードが 緩和されたので、主な6人の被災者うちの ひとりで、アメリカへの留学経験(エモリー大学 大学院)のある 谷本清 牧師(1909-1986)が、ハーシーの『 HIROSHIMA 』の 翻訳を始めました。東大とプリンストン大学の出身で 大阪毎日新聞の 文化部長を勤めた 石川欣一 (1985-1959) が それに手を入れて、2人の共訳とし、題名を カタカナで『ヒロシマ』としました。アメリカから 翻訳出版権を取ったのは、この年の 12月に 法政大学創立 70周年記念事業の一環として設立された「法友会出版局」で、その処女出版とする ことになったのです。昭和 38年 (1963) 1月に、正式に「法政大学出版局」と改称されるのですが、本には 初めから その名称が書いてありました。

ヒロシマ   ヒロシマ

■ ジョン・ハーシー 著『 ヒロシマ 』 昭和 24年 (1949) 4月発行、
  上掲のものと 内容も奥付も全く同じながら、ジャケットの
タイトルの文字色だけが 赤くなっている 異本。  .
■ 原民喜著『 小説集:夏の花 』 昭和 24年 (1949) 2月発行、
 能楽書林、ざくろ文庫、19cm、214ページ、定価 150円

 翌 昭和 24年 (1949) 4月25日、英語版の3年後に やっと翻訳が出版されるや 大評判となり、ベストセラーになりました。初版5万部は たちまち売り切れたそうです。上述の『原爆体験記』のオリジナル版が GHQによって配布禁止にされる1年前のことですから、日本で最初の、広島の原爆被害について出版された本でした(被爆文学者・原民喜 (1905-51) の 被災の実録的な短編小説集である『夏の花』が、能楽書林の「ざくろ文庫」の一冊として出版されたのは、この2ヵ月前でしたが)。
 表紙のタイトルの カタカナ「ヒロシマ」が、白抜き文字のものと 赤い字のものと2種類のジャケットがあったのは、何かを GHQ から カモフラージュするため だったのでしょうか? 赤い字の方が 初刷りだったのかもしれません。

『ヒロシマ』の 130ページには、ハーシーが 次のように書いています。

 しかしながら、広島市民の多数は、米国人に、何ものも 消し難いほどの 恨みを 抱きつづけていた。「ちょうど、いま」―― いつか佐々木医師が言った、「東京で戦犯の裁判を やっていましょう。 原子爆弾の使用を 決定した連中を、あの裁判にかけて、みんな 絞首刑に すべきじゃ ないですか。」

 ヒロシマの、地獄のような惨状を 実際に目にした人でなければ、この激しい怒りは、十分には わからないのでしょうが。 前に 映画『東京裁判』の DVD を紹介した時に、「アメリカ人弁護士が、米国の原爆投下まで持ち出して、(日本の) 被告の無罪を主張していたのは驚きです」と 書いたことを思い出しました。 広島と長崎に原爆を投下して 10万人から 20万人もの一般市民を 殺したのは、アメリカによる 許しがたい「戦争犯罪」だと 思っていた人は、少なくなかったのです。



永井 隆の『長崎の鐘』

 さて、広島では 核分裂性物質として「ウラン」、長崎では「プルトニウム」と、異なる放射性物質を使った原爆が投下されましたが、アメリカでは それらの大きさに基づいて、広島の原爆は「リトルボーイ」、長崎の原爆は「ファットマン」と名付けられて いました。
 長崎の原爆被災 に関する本として 名高いのは、放射線医師で 長崎医科大学 助教授だった 永井 隆 (1908-51) が、被爆して重傷を負いながら 被災者の治療にあたり、その後 病臥中に執筆した、自身の被爆体験記である『長崎の鐘』です。広島市の『原爆体験記』と違うのは、後者が一般市民によって綴られた 体験記であるのに対して、前者の著者が 放射線医師で学者だったことで、客観性に富み、原爆の原理や 症状の医学的説明なども しています。

 『長崎の鐘』の出版は、GHQ による検閲によって、執筆の3年後の 昭和 24年 (1949) にまで遅れ、また、フィリピンの首都 マニラにおける、日本軍による 市民への 残虐行為を GHQ の諜報課 が記録・編纂した、『マニラの悲劇』と題する原稿を 抱き合わせにすることを、条件にされました(量的に 本全体の約半分を占めます)。原爆投下による7万人の長崎市民の殺戮を、マニラ市民に対する 日本人の残虐行為の記録で 中和させようと したわけです。
 永井は 世界平和希求のために、この抱き合わせ出版を 是としました。この、ベストセラーになった書を読んだ 日本男子の多くは、赤紙で招集された軍隊経験があり、中国、朝鮮、東南アジアにおいて 日本人兵士のなした残虐さを 知っていましたから、この抱き合わせを 特に不当とは 思わなかった ことでしょう(今の日本人は、知らない人が多いでしょうから、この本を読んだら ショックを受ける かもしれませんが)。

永井   奥付
   永井

■ 永井隆 著 『 長崎の鐘 』 昭和 24年 (1949) 1月30日発行、定価 200円
 ジャケットと奥付、ソフトカバー、18cm、319ページ、日比谷出版社
     ジャケットの絵は 廣本森雄による。 タイトル文字の位置が 違う版もある。
■ 映画『 長崎の鐘 』 大庭秀雄監督、若原雅夫・月丘夢路主演、1950年製作
2014年に「あの頃映画」の1本として DVD 化された。モノクロ。

  ジョン・ハーシーの『 ヒロシマ 』の日本語版が出版されたのは、『長崎の鐘』と同年 (1949) ですが、その3ヵ月後になります。どちらも ベストセラーになりました。『長崎の鐘』は 、精神医学者の 式場(しきば)隆三郎が この本を世に出すことに 力を尽くし、その弟の 式場俊三が 友人らと興した 日比谷出版社から出ました。世の中に、この書の記述に対する 驚きと感動の波が広がり、半年間で 11万部を売り上げたと言います。翌 昭和 25年 (1950) には 映画化も されました(かなりの部分が 検閲で削除されましたが)。永井 隆は その翌年に 43歳で死去しました。

 この「長崎の聖人」と称された永井の遺体が、原爆で破壊された 浦上天主堂 で 長崎市の 公葬(こうそう)となった時には、2万人の市民が 参列したそうです。サトウハチローの作詞、 古関裕而の作曲で 藤山一郎が歌った『長崎の鐘』は、一世を風靡(ふうび)しました。「鐘」というのは 浦上天主堂の鐘楼にあった「アンジェラスの鐘」であり、永井はクリスチャンであったし、昭和24年 (1949) には「フランシスコ・ザビエル渡来 400年記念式典」が、主として浦上天主堂 の廃墟で とり行われた ことでもあり、長崎の原爆は、キリスト教のイメージと 切り離せなくなりました。

 ただし、長崎に原爆が落とされたのは、日本のクリスチャンたちが 戦争終結のために 命をささげるよう導かれた、「神の摂理」だった、という 永井の思考に対しては、反発する人も 多くいました。1981年に 長崎・広島を訪れた ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世は それに対して、「戦争は 人間の仕業です」と 明言しました。





丸木位里と赤松俊子による『ピカドン』

■ 丸木位里+俊 絵と文『ピカドン』オリジナル版
昭和 25年 (1950) 8月6日発行、ポツダム書店 (ウェブサイトより)
平和を守る会編、12.7×18.2 cm、二つ折り、中央ホチキス止め
左開き、ページ・ノンブル無し、奥付無し、76ページ、定価 30円

 原爆で 父、伯父、姪2人を失った丸木位里(まるき いり 1901 -95)と、その夫人の赤松俊子(のちの丸木俊(まるき とし 1912 -2000)の 画家夫妻は、『原爆の図』の第1集を描いているあいだに、出版社の依頼で、『ピカドン』という小さな絵本(絵も字も小さいので、挿絵本という印象もある)を作りました。『原爆の図』の第1集を展覧会に出した 昭和 25年(1950)のことで、丸木位里は 49歳、赤松俊子は 38歳のことです。二人が作った 最初の絵本で、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』の邦訳版が出た翌年、広島の原爆投下記念日の8月6日発行にしました。

 出版したポツダム書店というのは、日ソ貿易に従事していた人達が作った出版社ですが、『ピカドン』出版後に解散したようです。後に GHQ のキャノン機関(アメリカ軍 諜報機関)に 拉致 監禁されることになる マルクス主義者の 鹿地亘(かじ わたる)の妻の 池田幸子が そこの編集員をしていて、丸木夫妻に執筆を依頼しました。その際、かつて 鹿地・池田夫妻が中国での 抗日・反戦運動に参加していた経験から、中国の 民衆教化運動に用いられていた「連環画(れんかんが)」のようなものにすることを 提案したらしい。

 「連環画」というのは、日本の漫画や 劇画、あるいは 小型絵本や 絵物語に あたります。と言うと、ずいぶんと範囲が広いことになりますが、実際にそうで、時代によっても 種々様々な形式があります。それでも 典型的(古典的)な形式というと、下図のような、横長・横開きで、各ページに1枚の絵があり、その脇に説明があって、これをめくっていくと ストーリーが展開していく わけです。おそらく 池田幸子は、こうしたものを 数冊持ってきて、丸木夫妻に見せたのでは ないでしょうか。『ピカドン』は、そのような形式で作られました。

連環画

中国の伝統的な「連環画」の例。 各ページに1枚の絵と、下に説明 (ウェブサイトより)


ピカドン

『ピカドン』のサンプル・ページー1 上の連環画と 同じ構成をしている

 戦争が終わって 軍国主義から解放され、「民主主義」の時代になると、出版社や革新団体が 雨後の筍(たけのこ)のように乱立しましたが、離合集散と 資金不足で 多くが霧消して いきました。『ピカドン』を出した「平和を守る会」も「ポツダム書店」も、そうした運命だったようで、その後の消息は 知れません。『ピカドン』は『原爆の図』の展覧会場で 販売されたりも しましたが、GHQに 見つかると「発禁」にされて、原画はすべて 没収されてしまった ということです。

 しかし、これが どうも腑に落ちません。というのは、昭和 23年 (1948) 10月に プレス・コードが「緩和」され、翌年には 検閲が「廃止」されたということなのに、です。 サン・フランシスコ講和条約が発効して 米軍による日本占領が終わるのは、昭和 27年 (1952) 4月なので、それまでは GHQ の恣意的な統制が続いていた ということでしょうか。後述の 上(かみ)笙一郎の解説でも、今度の「『ピカドン』とその時代」でも、その点は 追求されていませんが、「緩和」というのは「事前検閲」が「事後検閲」に変わっただけで、大差は無かった ということでしょうか。

 『ピカドン』が発行禁止 (1950) になった翌年の 昭和 26年 (1951) に、広島大学の教授で 被爆者でもあった 長田新(おさだ あらた)博士が、広島市の少年少女たちの手記を集めて編んだ『 原爆の子 』が 岩波書店から出版され、高い評価を得て ロング・セラーになりました。『ピカドン』と1年ちがいで、出版禁止に されなかった わけです。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』の翻訳出版も、昭和 24年 (1949) に 許可されています。絵よりも文章の方が、訴求力が弱いから ということでしょうか。それだとしても、『ピカドン』の原画の没収というのは 乱暴すぎる。『ピカドン』の絵は『原爆の図』に比べれば ずっと柔らかいものだし、どうも 解(げ)せない。

 さて『ピカドン』には「異本」があります。初版を出したら、読者から いろいろな意見を寄せられたのか、改良版を作ることにしたようですが、内容を変えた わけではなく、発行日も 初版のままにしたので、第二版とか 改訂版と称してもいないので、異本と呼ぶほか ありません。
 まず、初版は 洋書のように 左開きでしたが、異本は 右開きです。内部の絵の説明が 横書きなので 洋書風にしたのでしょうが、最初と最後のページの 長めの文は 縦書きなので、伝統的な右開きにすべきだという意見が あったのかもしれません。右開きに変えると、内容は 一応 ひとつの物語ということなので、見開きの左右の絵の順序も 入れ替えなければ なりませんでした。一番目立つのは 表紙のタイトルで、「 カドン」が「ピカ ドン」になりました。原爆は、最初に ピカっと光ったあとに ドーンという振動音がしたので、ピカドンと呼ばれるようになったので、「ピ」と「カドン」の間を切るのではなく、「ピカ」と「ドン」の間で切るべきだった ということでしょう。
  「平和を守る会編」の字が なくなったのは、その存在が消えてしまった からですが、ポの半濁点が落ちて「 ホツダム書店」とあるのは、書きまちがいでしょう。表紙には 活字を使っていないので、本の開き方を変えるには、表紙全体を 描き直さねば なりませんでした。

ピカドン

『ピカドン』の「再版」と言うには 同じ日付の発行なので「異本」
タイトルを「 カドン」から「ピカ ドン」に変え、右開きにした。

 表紙の おばあさんは、丸木位里の母親の 丸木スマ をモデルにしています。(父親の丸木金助は、『ピカドン』を作った翌年の 1951年に亡くなりました。)彼女は戦争を生き抜いて、戦後、息子夫婦のすすめで絵を描き始め、その天衣無縫の絵が 「院展」(日本画の日本美術院が 毎年 秋に開いていた、上野の東京都美術館(略して "とびかん")での展覧会に3年連続入選し、「おばあさん画家」として世に知られ、1984年に 小学館から、画集『花と人と生きものたち』も出しました。
 『ピカドン』の どちらの版にも、おばあさんの隣に 雲のような白い、大きなものがありますが、これは何を描いているのでしょうか。原子雲(キノコ雲)のようには見えませんが。

 『ピカドン』は、初刷り 3,000部が販売されたということですが、再版は発行禁止になったので、世の中から忘れられていきました。ただ、その 15年後の 昭和 40年 (1965) になって、 大江健三郎の『 ヒロシマ・ノート 』が 岩波新書の1冊として刊行され、その 184ページで、大江は 丸木夫妻の原爆絵本『ピカドン』のことを紹介し、『ピカドン』の中の絵を、『ヒロシマ・ノート』の目次や 各章の扉に カットとして挿入しましたから、覚えている人もいることでしょう。




丸木位里・赤松俊子の『原爆の図』文庫版 画集

原爆の図   原爆の図

■『 原爆の図』 昭和 27年 (1952) 4月10日発行、青木文庫、表紙と奥付
15×11×0.8 cm、写真 30pp.+解説 66pp、青木書店、定価 130円

 丸木位里と赤松俊子(のちの丸木俊)の画集『原爆の図』が 最初に出版されたのは、昭和 27年 (1952) で、青木書店の 青木文庫の1冊としてでした。描きだしてから わずか2年目ですから、収録したのは《幽霊》から《少年少女》までの5部で、著者名は 丸木位里と 赤松俊子と していました。
 表紙に「画集普及版」と書いているのは、第十部まで完成した暁に、青木書店は 大型画集として出版するつもりだったからです。とりあえず 半分の 第五部まで だけでも、できるだけ早く 人々に届けようという意図で 文庫の一冊として出し、「アピール版」とも 銘打ったのでした。

原爆の図

青木文庫の 『 原爆の図』 折り込み写真ページを広げたところ
第三部「水」、第四部「虹」、第五部「少年少女」
この裏面に、第一部「幽霊」と 第二部「火」を印刷

 青木書店というのは、戦後すぐに創業された 左翼系の出版社で、その 青木文庫では この『 原爆の図 』と同年に、峠三吉(とうげ さんきち)の『 原爆詩集 』を、その翌年には、尾崎秀実(おざき ほつみ)の『 愛情はふる星のごとく 』も 出しています。 この文庫は 1980年代に 終了して、今は ありません。 『 原爆詩集 』の 序詩として有名なのが 次のもので、日本全国に知られました。

  ちちを かえせ ははを かえせ
  としよりを かえせ
  こどもを かえせ
  わたしを かえせ わたしに つながる
  にんげんを かえせ
  にんげんの 人間のよの あるかぎり
  くずれぬ へいわを
  へいわを かえせ

 この2年後の 昭和 29年 (1954) 3月1日、太平洋の ビキニ環礁で アメリカ軍が、長崎の原爆の 700倍もの 破壊力をもつ「 水爆実験(ブラボー実験) 」を行い、日本の遠洋マグロ漁船「 第五福竜丸 」の乗組員 23名が 被爆して、世界的な大事件となりました。マーシャル諸島は「死の灰」に覆われ、捕獲したマグロは 放射線に汚染され、無線長・久保山愛吉は 半年後に死亡しました。日本人の怒りは 爆発寸前でしたが、原水爆禁止運動 も盛んになり、翌年の 1955年に「原水爆禁止日本協議会」が結成され、第1回「原水爆禁止世界大会」を 広島で開催します。原爆投下から10年目です。長崎で 第2回「原水爆禁止世界大会」が開かれるのは その翌年です。しかし、アメリカとソ連の 核兵器開発競争は とどまるところを知らず、迫りくる 核戦争への恐怖が 世界を蔽いました。

 文庫版 画集の7年後の 昭和 34年 (1959) には、大型の『 原爆の図』画集が 虹書房から刊行されました。第一部から第十部までの図版を(全図ではなく)20点を 貼り込んでいます(カラー2点、モノクロ 18点)。著者名は、丸木位里と 丸木俊子となりました。

原爆の図

■ 虹書房の『 原爆の図』画集 表紙 (ウェブサイトより)
昭和 34年 (1959)、ソフトカバー、27×36 cm、20ページ





『 原爆体験記 』(増補新版)の出版

原爆体験記

■『原爆体験記』 昭和 40年 (1965) 7月20日発行、朝日新聞社

 『ピカドン』が出版できずに終わった年から 10年後の 昭和 40年 (1965) に、やはり GHQ から出版禁止にされて 15年間も 広島市役所の倉庫に眠っていたままの『原爆体験記』が、やっと、出版社ではなく 朝日新聞社から 出版されました。広島市役所版よりも 内容を増補した形での、装幀も新しくした 新版でした。 この本については 「古書の愉しみ」の第 42回に詳しく書きましたので、ここをクリックして ご覧ください。




丸木位里・俊の『原爆の図』 田園書房版

原爆の図
■ 丸木位里・俊『原爆の図』画集、昭和 42年 (1967) 7月20日発行、田園書房

 『原爆体験記』の出版の2年後、丸木夫妻の画集『原爆の図』が 昭和 40年(1967)に田園書房から出ました。私が すぐに書店に注文したのは、新聞に載った広告が 割と大きく、目につきやすかった ということもありました。青木文庫の画集に 遅れること 15年ですが、丸木夫妻が 当初から意図していた第十部まで完成したので、その画集を求める気運も 高まっていたのでしょう。この田園書房版の詳細については、ここをクリック してください。
 私にとっては 思い出深い画集ですが、田園書房は倒産したのか、今は存在しません。上述の 文庫版画集を出版した 青木書店も、結局『原爆の図』の大型画集を出すことは ありませんでした。その後 『 原爆の図 』の画集は、主に 小峰書店が手がけるようになり、今も 改訂版を出し続けています。
 なお 丸木俊は、この田園書房版の画集から、結婚前の旧名・赤松俊子や 丸木俊子という名を使うのを やめ、丸木俊という 戸籍名にしました。




ジョン ・ハーシーの『ヒロシマ』改版

ヒロシマ   ヒロシマ

■ 改版『ヒロシマ』昭和 42年 (1967) 10月25日発行
  表紙と奥付、ソフトカバー+ジャケット、定価 300円
  19×13 cm、150ページ 、法政大学出版局

 ジョン ・ハーシーの 『ヒロシマ』は、戦後の、本に飢えていた人々に、それも 全国民が強い関心をもっていた センセーショナルなテーマの故に、大いに売れました。これを 泣きながら読んだ人も 多かったことでしょう。 戦後の大インフレの時代に、120円の定価のまま、昭和 40年 (1965) の第 15版まで増刷しました。
 初版の 18年後の 昭和 42年 (1967) には、『原爆の図』画集が田園書房から出版されたのと 時を合わせるかのように、それまでのハードカバーを、上掲の 新デザインのソフトカバーに変えて コストをおさえながら、定価 300円の 新版にしました。軽い廉価版といった印象ですが、帯には「売り上げの一部は 広島の平和運動に 捧げられる」と書いてあります。それまでと 内容はまったく同じながら、漢字を新漢字に改めて、改版したのです( ex. 廣島 → 広島 )。

ヒロシマ   ヒロシマ

■ 新装版『ヒロシマ』昭和 46年 (1971) 8月6日、300円
  ジョン・ハーシー著, 石川欣一・谷本清訳、法政大学出版局
 ソフトカバー+ジャケット、19×13 cm、150ページ

 その4年後には、ジャケットのデザインを 多少モダーンにした「新装版」にしましたが、内容、定価とも 変えませんでした。この装幀は、のちに増補版がでるまでの 32年間続いたので、これが一番多く 世の中に流布した かもしれません。私が架蔵するのも これです。ただ、表紙の原爆ドームの絵を 誰が描いたのかは、記載がありません。昭和 49年 (1974) からは、その絵を赤くしたジャケットも ありましたが、内容・定価は同じです。




丸木位里・俊の『ピカドン』 復刻出版

ピカドン    ピカドン

■ 絵物語 『 ピカドン 』昭和 45年 (1970) 8月6日発行
     ペーパーバック、17.3×18 cm、原水爆禁止日本国民会議 発行
やはり ページ・ノンブル無しだが、69ページある。

 オリジナルの『 ピカドン』は 上述のように、出版直後に GHQ によって販売禁止にされ、本も原稿も 没収されて しまいました。それから 20年後の 昭和 45年 (1970) になって、すでに 世の中から忘れられてしまった『 ピカドン』が、思いがけず、社会党・総評系の 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)によって、復刻出版されました(平和運動が、この「原水禁」および、共産党・全労連系の「原水協」(原水爆禁止日本協議会)、さらに 民社党・全労会議系の「核禁会議」(兵器禁止平和建設国民会議)との 三者に分裂、対立していました)。 田園書房版『原爆の図』の出版の3年後のことです。この復刻版に 定価が書いてないのは、8月6日の 原水禁系「原水爆禁止世界大会」において、参加者に 無料配布されたのかも しれません。8月6日は 広島への原爆投下の日で、この復刻版の 発行日になっています。この昭和 45年 (1970) が、原爆投下後 25周年になります。

 本の大きさは、横は オリジナル版と同じまま ですが、縦を大きくして、横長だったものを ほぼ 正方形にしました。オリジナル本にあった おばあさんの絵を用いた表紙ですが、こちらは デザイナーによる装幀でしょう。しかし デザイナーの名は、書いてないので 不明です。表紙のデザインが、地の色が薄くて「ピカドン」の題名の字を ぼんやりさせたのは 奇妙です。また、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の発行だ ということが、表紙にも、裏表紙にも書かれていず、扉もなく、ただ奥付に 小さく書いてあるだけなのも 不思議です。

ピカドン

丸木位里・俊『 ピカドン 』 サンプル・ページー2 「加計町」
「ここには、おばあさんの 二番目の息子が 住んでいました。
三滝町のようすを、逃げてきた人々に きいています。」

 編集者(鈴木正次)による「あとがき」を再録しておきましょう(末尾省略)。鈴木正次は 当時の日本社会党員で、昭和 40年 (1965) に結成された「原水爆禁止日本国民会議」の総務担当委員であり、『ピカドン』復刻版の 発行責任者でした。

< あとがき >
 暑い夏の『あの時』から4分の1世紀が すぎました。広島の『あの時』の つめあとも、長崎の あの劫火の跡も ならされて、近代的な厚化粧の下に おおわれてしまいました。『あの時』に銀行前の道に焼きつけられた人の影が うすくなっていくように、人々の記憶から 被爆体験が失われつつあります。
 25年の間に、核兵器は とほうもなく拡大され、沖縄では いつでも使用できる体制にあり、日本の原子力の技術は いつでも 原爆がつくれる状態にあります。この核兵器が 私たちの生活を守るかのように 思いこませようとしています。4半世紀のあいだ、私たちは 原爆を なくすことなく 時間が過ぎ、逆さまな 在り方を 強要されつつ 生きています。
 このような状況にあっては、さまざまな方法をもって、うすれて行く原爆の破壊の跡を、人間の歴史にとって 最も恥ずべき行為を 告発しなければ なりません。丸木さんご夫妻は こう語りました。

 「私たちは 努力の足りなさを 反省しています。ピカソは 朝鮮戦争のとき、すぐに 抗議としての絵を画きました。私たちは、原爆の図を画いたのは、5年も過ぎてからでした。 いま、目先の問題にだけ かかずり、いつまでも やらなければならないことには 知らん顔する人が多いことは 悲しいことです。 原爆を忘れよう、忘れさせようとしているときに 黙っていてよいはずが ありません。」

 たしかに、沈黙が抵抗である時代は 過ぎました。誰れしもが、抗議の声をあげることです。20年前に出された『物語ピカドン』を復刻するとき 頭にあったのは、「人間が 人間自らの破壊者となっては ならない」ということでした。
 物語ピカドンは、原爆の恐ろしさが 素朴な絵と お話でつづられています。発行と同時に、原爆の図とともに 全国各地で展示され、原爆使用禁止運動の 因をつくりました。しかし、アメリカ占領軍によって 発禁になったのです。 (1970年7月)

ピカドン

丸木位里・俊『 ピカドン 』 サンプル・ページー3 「毛の ぬける人」
「いのちびろいした。と よろこんでいた人たちが、
からだの あちこちに 斑点がでたり、頭の毛が ぞっくり
ぬけ落ちたりして、だんだん 死んでゆきました。」




「ろばのみみ」による『ピカドン』の 復刻出版

 「原水禁版」の5年後の昭和 50年 (1975) に、今度は「日本基督(キリスト)教団」の一員である「ロゴス教会」が、『ピカドン』を 復刻しました。この教会が 会員向けに発行していた 会誌『ろばのみみ』という小雑誌の 第 79号として、『ピカドン』を復刻したのです。「日本基督教団」というのは、戦前の昭和 16年 (1941) に 政府の文化統制で、さまざまな団体や協会、新聞社などが合同させられた一環として、プロテスタント系の 34教派が「教会合同」をした組織です。宗教団体であるにも かかわらず、軍国主義に組み込まれたのです。戦後は それを反省して 平和主義を唱えて存続し、各教会は 半独立的な存在となります。
 その中の 福音派の「ロゴス教会」の中興の祖は、青山学院大学 神学部出身の 牧師・山本三和人(さわひと 1908-2000)でした。彼は 戦後、東京の目白に ロゴス教会を創設し、「ロゴス英語学校」も開設したことで 知られています。昭和 37年 (1962) から、ミニコミ的な 教養小雑誌を発行して『ろばのみみ』と名付け、反戦・平和運動に献身しました。ロゴスというのは 本来「言葉」「理性」を意味するギリシア語ですが、クリスチャンは キリストの別称として 用いたりもします。この「ロゴス教会」は スペインとも関係があったのか、折にふれて スペインが顔を出します。雑誌名は「王様の耳はロバの耳」というギリシャ神話の ミダス王のくだりにあり、大きな耳で 人の言をよく聞く とか、ロバの耳を持っているという 本当のことを言う勇気、などの意味が込められています。ロゴス教会は、昭和 58年 (1983) に 東京・八王子に新聖堂を建設して 移転しています。

日本基督教団 ロゴス教会の 会誌『ろばのみみ』
16×15.5 cm、700円

ろばのみみ   ピカドン   ろばのみみ

  ■ 中央が、第 79号としての『 ピカドン』、昭和 50年 (1975) 6月15日発行
■ 左は、その2年前の 第 69号(特集:平和を願う私のこころ)の表紙
■ 右は、2年後の 第 88号(特集:ねむの木の子どもたちの絵)の表紙

 『ろばのみみ』というのは、小冊子ながら 興味深い雑誌で、昭和 37年 (1962) の創刊号から 平成 11年 (1999) の 111号まで 37年間にわたり、一貫して 鈴木晴久 (1937 - ) が 編集しました(初期には 山本三和人が 主導したのでしょうが)。いつも 特集形式をとり、宗教に関することの多い 様々なテーマで 原稿を集めています(第 72号「偏見と差別『アイヌ』を起点として」、第 73号「死、この避けられないもの」、第 89号「箸の思想・フォークの文化」、第 91号「塚本邦雄 童貞使徒殉教」など)。創刊号から 第 92号まで (1962〜1979) は 日本基督教団 ロゴス教会の発行で、第 93号から 終刊号まで (1983〜1999) は「ろばのみみ舎」の発行となりました。

 今度の復刻版『 ピカドン』の版型は、会誌『ろばのみみ』の大きさなので、「 原水禁版」より やや小さい(ほぼ 90 %)の正方形(16×15.5 cm)です。装幀は 原水禁版のデザインを そっくり踏襲していますが、表紙には 濃い赤字で "PIKA-DON" と 書き加えました。しかし、やはり デザイナーの名は 書いてありません。東京大学工学部の 高山英華研究室が 山形市の都市計画の報告書(『 山形市都市開発基本計画 』(1968年)を出版したときに、私が描いた挿絵を8枚も使っていながら、私の名を一切 書かなかったのと 同じです。まだ 著作権意識 の薄かった時代です。

 上掲図の 右端の 第 88号の表紙デザイン(レタリングとも)は、版画家・渡辺禎雄(わたなべ さだお 1913-1996) の版画によるもので、70年代後半から 毎号 色を変えながら、平成 11年 (1999) の終刊号まで、ずっと このデザインが 表紙に用いられました。渡辺禎雄は、芹沢_介 の弟子の「型染(かたぞめ)版画家」で、クリスチャンとして 聖書版画を多く作ったので ロゴス教会と親しくなり、『ろばのみみ』誌で3回、自身の版画小品集を出しています。同誌の表紙の まん中にある ロバの絵は、第 83号(創刊 15周年記念・渡辺禎雄 版画小品集)の 扉用に彫られた版画ですが、これが ロゴス教会の シンボル・マークのように なりました。会誌や『ピカドン』の裏表紙や 奥付にも 用いられています。渡辺の死後には、スペインの絵本作家、ヘスス・ガバン (JESÚS GABÁN 1957- ) による ロバの絵も 使われるようになりました。

ろばのみみ   ろばのみみ   ろばのみみ

  左は、『ろばのみみ』第 79号『ピカドン』の 裏表紙
  中は、「渡辺禎雄版画小品集」で創作された ロバの絵
右は、スペインの ヘスス・ガバンによる ロバの絵

 昭和 51年 (1976) には、『ピカドン』の各絵の説明文の 英訳を付して、『英文付ピカドン』として 再刊しました。ここからは 日本基督教団 ロゴス教会から 独立した(らしい)「ろばのみみ編集部」の発行となり、雑誌の号としてではなく、別冊、あるいは 単行本 とします。装幀や造本は、まったく同じままでした。ところが 昭和 54年 (1979) 10月1日に「改訂新版」と銘打った『ピカドン』を出すと、英文付きの内容は 同じながら、表紙の色を 鮮やかな朱色にして、イメージ・チェンジを図ります。題名の「ピカドン」の字が くっきりとすることになり、これが、もともとのデザイナーの意図だったのではないか と思われます。

ピカドン   ピカドン

■ 英文付新版 『ピカドン』 昭和 51年 (1976) 8月15日発行
16×15.5 cm、ろばのみみ編集部 発行、頒価 500円
■ 改訂新版 『 ピカドン』 昭和 54年 (1979) 10月1日発行
16×15.5 cm、ろばのみみ編集部 発行、頒価 500円

 37年間も 不定期に続いた『ろばのみみ』誌は、平成 11年 (1999) に 第 111号で終刊しますが、その前年の 平成 10年 (1998) に、スペイン語訳を加えた、英語・西語付 新版『ピカドン』(3ヵ国語版)を出しています(編集・発行人:鈴木晴久)。これが「ろばのみみ」による『ピカドン』の 最終版となりますが、スペイン語訳が加わった以外は、「改訂新版」と 何も変わりません。ただ、ここからは「株式会社・ろばのみみ舎」の発行と記されています。この2年後の2000年に 山本三和人が亡くなるので、ろばのみみ舎は 完全に独立組織となり、スペインを主とする 旅行会社をも 営むようになった そうです。




『ピカドン』の さらなる 復刻出版

東邦出版

■ 復刻『 ピカドン』昭和 57年 (1982) 8月6日、東邦出版、表紙
  ハードカバー、16×21.5 cm、78ページ、850円、解説:上 祥一郎

 昭和 51年 (1976) 8月に「ろばのみみ」編集部が 英訳つきの『ピカドン』を出版した6年後に、東邦出版が まったく新しい装幀で『ピカドン』の復刻版を出しました。山崎朋子の夫で 児童文化研究者の 上(かみ)笙一郎が『季刊絵本』の第2号 (1981) に、丸木俊 の新しい絵本『ひろしまのピカ』(1980) について 紹介原稿を書いた折、その母体として 30年前に丸木夫妻のつくった 小絵本『ピカドン』についても 触れました。それを読んだ東邦出版が その復刻版を出したいと言ってきて、昭和 57年 (1982) に実現したのだそうです。
 その関係で、この復刻版の巻末には 上 笙一郎の解説が 二つ付いていて、一つは『季刊絵本』に書いた文を再録した「丸木俊の原爆絵本について」ですが、もう一つは「新版『ピカドン』に寄せて」と題して、オリジナルの『ピカドン』の出版について、異本のことも含めて 詳しく分析、解説をしています。これが いまだに、多少とも『ピカドン』について論じるときの 不可欠の 基本文献となっています。
 この復刻版には 英訳は付いていません。絵の復刻は、少し拡大していることもあり、細部が ややつぶれているのが残念。表紙の絵は、田園書房版『原爆の図』の p.94 にあるデッサン(上図をクリック)と ほぼ同じ絵柄ですが、それを 多少単純化して 描き直したもののようです。




小峰書店

■ 復刻新版『 ピカドン 』昭和 62年 (1987) 7月25日発行
  ハードカバー、24×19 cm、78ページ、1,200円、小峰書店

 昭和 62年 (1987) には、今度は版型を大きくした『ピカドン』が、<復刻新版>として、カラフルな表紙で、小峰書店から刊行されました。

「『ピカドン』の いよいよ最終版を だしましょう、と いうことに なりました。小峰書店さんが、なんとしてもと、ひきうけて くださいました。」

と、丸木夫妻の「あとがき」にあります。ハードカバーで、表紙には 丸木スマ(とは どこにも書いてありませんが)の絵が 大きく カラーで印刷されています。上 祥一郎が、子供に向けて 解説を書いています。「ろばのみみ」版とは別の 英訳文付きで、訳者は、ナンシー・H・ツニソンと 石川保夫です。絵の復刻は、この版が一番鮮明のようです。




増補版の『ヒロシマ』と、『ナガサキ』など

 ジョン・ハーシ−は、"HIROSHIMA" を書いた時から 39年経った 昭和 60年 (1985) に 広島を再訪し、『ヒロシマ』で詳しく描いた6人の被爆者の 消息を訪ねて 再会し、その後の彼らの たどった人生を聴き取って、それを 第5章として 『ニューヨーカー』誌に書きました(当時の編集長の ハロルド・ロスは すでに ガンで世を去り、副編集長だった ウィリアム・ショーンが あとを継いでいましたが)。原爆症との闘い、市民としての生活・仕事・活動など、6人の稀有な被爆体験者たちの 戦後史を綴りました。もともとの アルフレッド・A・ノッフ 書房の版は、1985年に この第5章を加えた「増補版」となり(装幀は変えないまま)、翌 1986年には ペンギン・ブックスが、表紙のデザインを新しくして、 第5章を加えた 増補版にしました。サブタイトルは、" WITH A MAJOR NEW CHAPTER ON THE AFTERMATH " です。

ハーシー   ヒロシマ

   ■ HIROSHIMA by John Hersey、ペンギン・ブックス増補版
  昭和 61年 (1986) 発行、196pp、Viking Penguin
■ 増補版『ヒロシマ』平成 15年 (2003) 7月22日発行
     ジョン ・ハーシー著 石川欣一・谷本清・明田川融訳、1,500円
   第5章を付加、ハードカバー、19.5×13cm、244ページ

 日本語版のほうは、かつての翻訳者のひとりの 石川欣一は すでに死去し、谷本清は 老齢になっていたので、若い 明田川融(あけたがわ とおる 1963- )が 第5章を訳して「ヒロシマ その後」として加え、訳書全体に 手を入れました。平成 15年 (2003) に「増補版」として、従前通り、法政大学出版局から出ましたが、英語版から 17年も遅れたのは なぜでしょうか。

● 増補版の目次項目(原書と訳書)

 I.  A Noiseless Flash          1. 音なき閃光
 II.  The Fire                2. 火災
 III  Details Are Being Investigated    3. 詳細は目下調査中
 IV. Panic Grass and Feverfew       4. 黍(きび)と夏白菊
 V.  The Aftermath            5. ヒロシマ その後

 日本で この増補版が出た 平成 15年 (2003) に、キューバの フィデル・カストロ 前国家評議会 議長が来日し、本人の強い希望で 広島を訪れ、原爆資料館を 熱心に見学し、「まったく罪のない広島と長崎の犠牲者に 哀悼の意を表することは 長年の願いだった」と 述べました。アメリカの大統領が そうしたのは、それから 13年もあとの、平成 28年 (2016) のことです。カストロは、「米国に こんなにまで されて なお、君たちは 米国の 言いなりに なるのか」と、原爆資料館の案内者に 言ったそうです。

 『ヒロシマ』の増補版の7年後の 平成 26年 (2014) には、同じ内容のまま、原爆ドームの写真をあしらった 新しいジャケットに かけ替えた「新装版」となり、初版以来 75年、今も増刷され、読まれ続けています。日本における 独占翻訳出版権を 法政大学出版局が取っていますので、他の出版社からは 出ません。それにつけても、同じ本を、同じ出版社から、これほど 多種多様な装幀の版で出し続けた例は、ほかに知りません。

  ● 学生さんは、英語の勉強を兼ねて、英文の洋書を買うと よいでしょう(アマゾン など )

ヒロシマ   ヒロシマ   ヒロシマ
■ ペーパーバック版 "Hiroshima", 2009, 132pp. Ishi Press International
■ ハードカバー "Hiroshima", 2017, 22cm, 126pp. Kalpaz Publications
 ■ Kindle版 A study guide for John Hersey's "Hiroshima"       .
  (Literary themes for Students: War and Peace) The Gale Group



 近年、スーザン・サザード (Susan Southard) という、若い時に日本に留学をしたことのある アメリカ人女性の ノンフィクション作家が、12年の歳月をかけて 長崎に通い、長崎への原爆投下時 および投下後、被爆者たちが どのように生きてきたかを調べ、聞き書きをし、文献を渉猟して、2015年に "NAGASAKI, Life After Nuclear War" という大部の本を書いて 出版しました。宇治川康江による翻訳が『ナガサキ、核戦争後の人生』として 令和元年 (2019) に みすず書房から出たので、カタカナ題名の『ヒロシマ』と『ナガサキ』が、まるで姉妹編のように 書棚に並ぶことに なりました。

ヒロシマ   ナガサキ

■ 新装版『ヒロシマ』平成 26年 (2014)、ハードカバー、1,500円
 増補版と同じ内容、同じ定価で、新ジャケットになった。
  ■ ス-ザン・サザ-ド 著 『 ナガサキ, 核戦争後の人生 』宇治川康江 訳
       19.5×13.5 cm、456ページ、令和元年 (2019)、みすず書房、3,800円
    原書は 2015年、Viking Penguin, New York、21cm、416 pp.

 『 ナガサキ, 核戦争後の人生 』は 近年の著作だけに、長年の調査研究をもとに 長崎の被爆の実相が 客観的に よく整理されて 詳細に書かれているので、臨場的に理解しやすく、非常に優れた本なので、誰もに 是非読んでいただきたい。翻訳も良い。

 ジャーナリスト・繁沢敦子(しげさわ あつこ)による『原爆と検閲』は、ハーシーの『ヒロシマ』について 書いた本ではなく、 ハーシーよりも1年早い昭和 20年 (1945) に 広島と長崎を現地取材した、多数のアメリカ人記者たちと、彼らの書いた記事に対する 検閲・弾圧について 詳細に調べた研究書です。

検閲   ヒロシマ

  ■ 繁沢敦子 著 『原爆と検閲、アメリカ人記者たちが見た 広島・長崎』
  平成 22年 (2010) 6月発行、中公新書、216ページ、760円  .
 ■ レスリー・M・M・ブルーム 著 『 ヒロシマを暴(あば)いた男 』 集英社
   ( 米国人ジャーナリスト、国家権力への挑戦 )高山祥子訳、1,800円
   令和3年 (2021) 7月発行、ソフトカバー、19×13 cm、284ページ

 そして 翌年の昭和 21年 (1946) に、そうした制約の中で、ジョン・ハーシーは いかにして「ヒロシマ」を取材し、執筆し、出版したかを、経時的に 詳細に書いたノンフィクションが 最近出ました。アメリカの 女性ジャーナリスト、レスリー・M・M・ブルーム著 『 ヒロシマを暴(あば)いた男 』です。どちらも一読に値します。



琥珀書房

■ 丸木位里・俊『ピカドン』復刻と解説の2冊セット、琥珀書房、筒函
令和5年 (2023) 8月6日発行、実際には9月22日発売、1,800円
解説書 『ピカドン』とその時代 13×18.5 cm、47ページ    .

 昨年、小峰書店の復刻新版『 ピカドン 』から さらに 36年後の 令和5年 (2023) に、オリジナルの『 ピカドン 』の完全復刻が 試みられました。造本や装幀を変えた復刻版は 何種類か出版されてきましたが、オリジナル版は 残存部数が少なく、古書業界で高価になっているのを、もっと たやすく原型の姿の本を供給しよう ということでしょう。中央ホチキス止めが、オリジナル版では1ヵ所だったのが、2ヵ所になっていることぐらいが オリジナル版との違いでしょうか。オリジナル版の「完全復刻版」と、「解説、カラー口絵集」の2冊セットになっていて、解説は岡村幸宣、小沢節子、鳥羽耕史、鷲谷花、高橋由貴の5人が書いています。





丸木夫妻の『ピカドン』の 絵の紹介

「ろばのみみ舎」の3ヵ国語併記、平成10年 (1998) 版 より

  ピカドン

 鈴木晴久が 37年にわたって編集し続けた『ろばのみみ』誌は、全部で4回も『 ピカドン 』を出版しています。4回目は平成10年 (1998) 11月11日に、スペイン語訳を付した「英語・西語付 新版」で、鈴木晴久が編集・発行人になっていて、「ろばのみみ舎」の発行です。英訳は 松村賢一、スペイン語訳は 片山尚美です。4回の発行の都度、丸木夫妻と相談をしていた でしょうから、その最終版である 1998年版は、多くの復刻版のなかでも 一番 丸木夫妻の意向を反映しているだろうと思われ、私もこの版が一番好きなので、以下の紹介は この版に基づくことにします。
 全部の絵を載せるわけには いきませんので、半数を紹介します。(文は 各絵の下に書き写し、セリフはカッコ内、英訳と西訳は略します。) 興味のある人、全部を見たい人、原寸で見たい人は、オリジナル本か 復刻版の どれかを 入手しましょう。 "日本の古本屋"  "アマゾン"  "ヤフー・オークション" などで 検索してください。



ピカドン

『 ピカドン』 平成 10年 (1998)「英語・西語付 新版」扉 16 × 15cm
次ページが 英語・西語の扉になっている

 原爆絵物語『 ピカドン』は、ある老夫婦を中心にして、原爆による 広島市民の災害を「その朝」から順に描いていますが、この老夫婦というのは丸木位里の両親(丸木スマと その夫)をモデルにしています。 初めから厳密なストーリーが組まれていたわけではなく、大作『原爆の図』の制作のあいまに 少しずつ 想を得ては描いていったのでしょうから、64枚の絵には 厳密な順序があるわけではなく、いくつかの復刻版は 絵の順序を変えたりしています。その都度、丸木夫妻と編集者が 相談して決めていったのでしょう。どの絵が欠ければ 話が通じない というわけでもないですが、ただ 最初と最後だけは一定しています。


ヒロシマの三滝の町の 80のおばあさんは ピカで おぢいさんに先だたれ、孫の留吉に、ひるも夜も、若い日 織った はたの糸のように、 ピカの話を かたりつづけています。
「まるで地獄じゃ、ゆうれいの行列じゃ、火の海じゃ。
 鬼の姿が見えぬから、この世の事とは 思うたが」
「ピカは 人が落さにゃ 落ちてこん」
5年たった今日まで、おばあさんは、このはなしを、 きりもなく
日毎 夜毎、雨に付け、風につけ、思い出しては かたり、思い出しては なげきつづけて おります。
「戦争は 終りに近ずいていました。 みんなもう 戦争は いやでした。
 ずるずる ひっぱられて、軍や政府の 言いなりになって いました。..」


ピカドン

その朝  街はまだ眠っていました。三滝の山には、もやが、かかっていました。
コトリ コトリ 荷車が一だい 街の方へ あるいていました。

建物疎開で こわされた家の、木を もらいにゆくのでした。たきぎに するのです。
(暑うならん あいだに いって もどろう)


ピカドン

土橋  おぢいさん と おばあさんは、重い木をもらって、積んでかえりました。
(自分らが 積んであげましょう)(すんませんのう 兵隊さん)

寺町  二人は 警戒警報がでたので、いそいで 家路につきました。
大ぜいの人々が 旗をたてて、建物疎開に 動員されてゆくのに 出あいました。
(おばあさんや、木をもらいんさって、ええこと しんさったのう)


ピカドン

おばあさん  八時でした。ピカッと光りました。
それは 今まで だれも みたことのない ピカでした。
おばあさんは ドンともガンとも感じないのに、天井も屋根も一しょに
おちて来て、床は はねあがり、あいだに おさえつけられて いました。
(ここじゃ ここじゃ)

おぢいさんは 風呂場で、かがんだまま 頭から血を流して、うごきませんでした。


ピカドン

ピカ ・・・・・ その 明るい青い光は、何に たとえようも なかった。
気がついた時は、西側にいた娘は 家の角を ひとまがり とばされ、
かぼちゃの棚を かぶったまま、もんぺは ぼろぼろに焼け、
ひざと 手の甲を やけどして、うつぶせて いました。

入れかわり  旗をたてて 土橋へむかった 三滝町の 疎開作業班は、
一ぷくして 仕事に とりかかった とたん、ピカ・・・・・
即死を まぬがれた人々は、己斐町の方へ 逃げよ、
と どこからともなく 命令がでました。


ピカドン

己斐  己斐町の学校は、三滝町の作業班や、ここまで 逃げのびて来た人々が、
血を吐いて死ぬので 二階も下も 死骸の山でした。

田舎で 畳工場をやっていた 山本さんは、自転車で三滝へ 帰って来ました。
「おとうさん!」と叫ぶ女に 近づいて見ると、
今朝 疎開作業に出た妻の かわり果てた姿でした。


ピカドン

爆心地には  足だけ二本、ぴったりと コンンクリートの路の上に
はりついて、つっ立って いました。

爆心地  電車の中で、娘さんが 手さげを しっかり にぎったまま、傷もなく、
黒焦げの兵隊さんと 頭をつき合わせて 死んでいるのが ありました。
生きているような 娘さんの姿です。 不思議なことも あるものです。


ピカドン

三篠橋  兵隊さんが この道へ、たくさん のがれ来ました。
兵隊の山、兵隊の橋、傷から、口から、どろどろ 血が ながれていました。

脱走(四國から)  太助は 脱走する時、兵舎の倉庫から 米を四俵 もち出して、
戦友と車につんで 瀬戸内海の海岸に たどりつきました。


ピカドン

廣瀬町  ふるさと、ひろしまのわが家は・・・・。

白骨は七ツ、五人の子供と 女房と おふくろと・・・・
太助は 七ツの白骨を一つ一つ 抱きあげました。


ピカドン

地獄も これより恐ろしゅうは ない!


ピカドン

横川  病気の兵隊の家では、若いおくさんが、子供を抱いたまま、
大きな材木の間に はさまれて いました。 隣のおぢさんが
助け出そうとしても、一人や二人の力では、どうすることも できません。

赤ちゃんだけでも、早く!早く!


ピカドン

加計町(つづき)  ここには、おばあさんの 二番目の息子が 住んでいました。
三滝町のようすを、逃げて来た人々に きいています。

身じたくを ととのえた二郎は、自転車で、川下へと、
おじいさん おばあさんを さがしに ゆきました。


ピカドン

カンパン(つづき)  孫のまえに、素裸の娘さんがいました。
娘さんは 五人前のカンパンを 受け取った とたんに、
ばったり 倒れて うごかなく なりました。

その頃、人の血を吸う はえが 発生しました。
七十五年間は、草も木も生えない、だから 人も住めない、
という うわさが ひろがりました。


ピカドン

足のこぶ 招集軍医の 藤尾さんは、「わたしの足の中に、かたまりが
三つ四つ ある。 死んだら 解剖して 研究に つかってくれ」といいながら
十日 たたぬうちに いきを ひきとりました。

煙草屋の娘さんは、足を はさまれて、ノコギリ、ノコギリと 叫びました。
ノコギリが 見つかりません。 隣の人が えいっと 力まかせに ひっぱって
助かりました。 こんなことは めったにない ことでした。


ピカドン

女学校の動員で やられて帰った 孫娘は 二日目に、
いとこの 與一爺さんは 三日目に、息を ひきとりました。
誰も焼いてくれる人が ないので、おぢいさんと おばあさんが、
畑に穴を掘って やきました。「情なうて」「情なうて」

おぢいさんの 死  おぢいさんの 頭のきずは 治ったのですが、
それから すっかり弱っていって、翌年の 春早く 死んでゆきました。


ピカドン

明るい絵  のこされた おばあさんは、毎日絵を かきはじめました。
それは それは 明るい 美しい絵です。おばあさんは 今日も、
「ピカ山は 山崩れたぁ ちがう、人が落さにゃ 落ちてこん」と
いいながら、真赤な花や、かわいい鳩を 書いています。


7月27日、連合国から ポツダム宣言が 出されました。その中には、日本の
しんりゃく勢力を一掃して 平和を愛する 民主的な政府を つくりなさい、
人民の 一切の自由を みとめなさい、こういうふうな 新しい日本に つくり
かえなさい、と、教えていました。
ツツートートーと 電波が海の上を 走っていました。軍の首脳や政府は、
天皇の位だけは どうぞ おいて下さい とか、いろいろ 連合軍と取引を
していました。 こんなことは、おばあさんは 知りませんでした。
もし、こんな おそろしいものが8月6日に落ちてくるのが わかっていたら、 日本国中、みんなで、戦争は やめて下さい、と 叫んだに ちがいありません。




● 『 原爆体験記 』のページは、何年も前から、グーグルや ヤフーで 検索できなくなっています。いろいろ調べて推測したところ、次の部分の せいだろう と 分かりました。

「この 原爆体験記の小冊子が 出版されようとした時、原爆を投下して 広島と長崎の数十万人の市民(非戦闘員)の命を奪う という「戦争犯罪」を犯したアメリカは、それを、戦争を終わらせるために 必要だった と言って正当化し、原爆のもたらす悲惨さを 最大限 包み隠そうとしていたため、GHQ(連合国軍 総司令部)すなわち 日本を占領する「進駐軍」は この小冊子を「反米的」として、すでに 印刷・製本が できあがっていた にもかかわらず、これを配布させず、出版禁止処分に したのでした。」

つまり、アメリカによる原爆投下を 「戦争犯罪」と書いていることが、「検閲」の対象と なったようです。 アメリカ大使館からの 圧力でしょうか。( 2022 /10/ 17 )



< 本の仕様 >
● " HIROSHIMA " by John Hersy, 1946, Alfred A. Knopf, New York
  昭和 21年 (1946) 8月発行、20×13.5×1.2 cm, 118 pp. 190 g.
  ハードカバー+ジャケット、アルフレッド・A・ノッフ書房、ニューヨーク

『 ヒロシマ 』 邦訳、ジョン・ハーシー著、石川欣一・谷本清訳、法政大学出版局、定価 120円
  昭和 24年 (1949) 4月25日発行、ハードカバー+ジャケット、18.5×12.5 cm、162 pp.

● 『ヒロシマ』 改版、ジョン・ハーシー著、石川欣一・谷本清訳、法政大学出版局、定価 300円
  昭和 42年 (1967) 10月25日発行、ソフトカバー+ジャケット、19×13 cm、150 pp.

● 『ヒロシマ』 増補版、ジョン・ハーシー著、石川欣一・谷本清・明田川融訳、法政大学出版局
  平成 15年 (2003) 7月22日発行、ハードカバー、19.5×13.5 cm、244 pp. 定価 1,500円

● 『ヒロシマ』 新装版、ジョン・ハーシー著、石川欣一・谷本清・明田川融訳、法政大学出版局
  平成 26年 (2014) 6月10日発行、ハードカバー、19.5×13.5 cm、244 pp. 定価 1,500円


『 ピカドン 』 オリジナル版、丸木位里・俊の絵と文による絵本(絵物語)
  昭和 25年 (1950) 8月6日、ポツダム書店発行、ペーパーバック
  127×182 mm、中央ホチキス止め、ページ・ノンブル無し、64 pp.
  右開き版と、左開き版があり、表紙絵も わずかに異なる。

● 『ピカドン』 復刻新版、原水爆禁止日本国民会議発行、ペーパーバック
  昭和 45年 (1970) 8月6日発行、16cm × 15.5cm、厚さ 6mm、ノンブル無し 69 pp.

● 『ピカドン』 ろばのみみ版、日本基督教団 ロゴス教会発行、ペーパーバック
  昭和 50年 (1975) 6月15日にロゴス教会のミニコミ誌『ろばのみみ』の第 79号として刊行
  原水禁版の装幀を踏襲しながら、わずかに縮小した。16×15.5 cm、60 pp. 700円

● 『ピカドン』 英文付新版、昭和 51年 (1976) 8月15日に 英訳を付して再刊
・ 昭和 54年 (1979) 10月1日に「改訂新版(英語付三版)」を刊行して、表紙の色を
  鮮やかな朱色にする。ろばのみみ舎刊、60 pp. ともに頒価 500円、ペーパーバック

● 『ピカドン』 英語・西語付 新版、平成 10年 (1998) 11月11日に スペイン語訳を付して、
  「英語・西語付 新版」として刊行。株式会社ろばのみみ舎、ろばのみみ編集部発行。
  頒価 700円 編集・発行人:鈴木晴久、英語訳者:松村賢一、西語訳者:片山尚美。

( 2024 /07/ 01 )


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