『 世界美術史 』 |
ヴィルヘルム・リュプケの『世界美術史』独語版、2分冊の革装本
Wilhelm Lübke, "Grundriss der Kunstgeshichte", Stuttgart
初版は 1860年だが、これは第4版の 1868年版(今から 156年前の本
)
この「古書の愉しみ」シリーズの 最初のほうでは、誰が最初に「世界建築史」の通史を書いたのだろうか、ということを探求して、それはイギリスの ジェイムズ・ファーガスン (James Fergusson, 1808-86) だとわかりました。では、最初に「世界美術史」の通史を書いたのは誰かというと、ドイツの美術史家、フランツ・クーグラー (Franz Kugler, 1808-1858)です。しかし、それを増補改訂するようにして ヴィルヘルム・リュプケ (Wilhelm Lübke, 1826-93) が書いた『世界美術史』が、建築史におけるファーガスンの『世界建築史』のような役割をして、世界に流布しました。ファーガスンとリュプケの2人とも 19世紀の人で、今から 160年あまり前の同じ頃に、それぞれの初版を出版しました。リュプケの『世界美術史』が 1860年、ファーガスンの『世界建築史』が 1865年です。
ファーガスンの『世界建築史』については こちら をご覧いただくとして、リュプケの本の原題は "Grundriß der Kunstgeschichte"(グルントリス・デア・クンストゲシヒテ)ですから、直訳すると「美術史概説」です。その 英語版の題名は "Outlines of the History of Art"、仏語版の題名は "Essai d'Histoire de l'Art" ですから、美術史の「アウトライン」あるいは「試論」というわけですが、簡易本ではなく、上下2分冊で合計 770ページもある大著です。大部の書であり、しかもヨーロッパ以外の諸国の美術も扱っていますので、内容から言って『世界美術史』という邦題にするのが 適切と思われます(ファーガスンの本も、原題を直訳すると「古代から現代に至る すべての国の建築の歴史」という長いものですが、単に『世界建築史』と訳しています)。
ヴィルヘルム・リュプケ
「世界建築史」を書いたのは、 イギリスの ジェイムズ・ファーガスンと バニスター・フレッチャーが並び称されますが、19世紀に通史としての「世界美術史」を書いたのは、ドイツの フランツ・クーグラーと、ヴィルヘルム・リュプケです。まずはクーグラーから見て行きますが、その前にカール・シュナーゼ について触れておきます。
(左)カール・シュナーゼの『造形美術の歴史』第1巻の扉
フランツ・テオドーア・クーグラー (Franz Theodor Kugler, 1808-1858) は、19世紀初めの生まれで, 19世紀ベルリンの美術史学を代表する人でした。ベルリン大学で文学、音楽、美術を学んだ後、バウ(建築)アカデミー (Bauakademie) で建築を学び、1833年に ベルリンの芸術アカデミーの 美術史教授を務め、ついにはプロイセンの国家芸術局長(「文化大臣」のような地位 )にも就きました。すべての芸術に通じた人格者だったと言われ、その薫陶を大きく受けた一番弟子が ヤーコプ・ブルクハルト (Carl Jacob Christoph Burckhardt, 1818-97) です。
クーグラーとは どんな人かと、ワトキンの『建築史学の興隆』(桐敷真次郎訳、1993、中央公論美術出版、p.28)から孫引きすれば、 「ペヴスナーによれば、「彼は、われわれが美術史家と呼べる 最初の人であり、また美術史の教授となった 最初の人でもあった。」 また、
さて、本の題名に「ハンドブック」(ドイツ語では「ハンドブーフ」ですが、本稿では ハンドブックで統一します)という語を付すのは 19世紀に広く行われたようで、ジェイムズ・ファーガスンの『 図説・建築ハンドブック 』と、その版元の イギリスのジョン・マリー出版社のそれについては、この「古書の愉しみ」の第4回で解説しました。ドイツでも 美術史や建築史の本によく用いられたようで、ハンドブックという名のつく同様の本が多くあることから、少々まぎらわしい混乱をすることがあります。 「ヘーゲルは芸術の歴史を三つの段階、すなわち象徴的芸術(すなわち東洋の芸術)、古典的芸術(ギリシア・ローマの芸術)、ロマン主義的芸術(キリスト教・ゲルマン的芸術)に分けて説明した。」 と あります。
(左)クーグラーの『美術史ハンドブック』初版の扉、1842年 1848年の第2版では、弟子のブルクハルトが協力して、それまでクーグラーがあまり評価していなかったルネサンスにも 重きを置くようになりました。第3版は2巻本となり (1856, 1859) 扉に「完全改訂」版だと記されています(これは、近年リプリントが インドから出ています)。クーグラーは 1858年に世を去ったので、1861年の第4版の扉(上図)には、リュプケが編集したとあります。クーグラーもファーガスンのように 図版を重視しましたが、201図(木口木版)にとどまりました(ファーガスンの『図説・建築ハンドブック 』(1855) では、上巻だけで 364図 あります)。
クーグラーの『美術史ハンドブック』は 何度も版を改めていて、少しづつ内容が改訂されていたようです。第5版が出たのは クーグラー没後の1872年ですが、それより早く、クーグラーの意図を完成させたのが、1860年にリュプケが上梓した『世界美術史』(Grundriß der Kunstgeschichte : 美術史概説)だったと言えます。
世の中では「美術史」とか「世界美術史」とか謳っていても、実際には「西洋美術史」に過ぎないことが多いですが、ヴィルヘルム・リュプケの『世界美術史』は、インドもイスラームも含む、古代から近代までの 真正の「世界美術史」です。ただし 中国、日本の美術については、まだヨーロッパに それらの情報が ほとんど無かったので、ファーガスンの場合と同じように、ほんの少ししか 記述がないのは やむをえません(日本文化についての総合的な情報が ヨーロッパに伝えられるのは、アーネスト・サトウらによる『日本旅行ハンドブック』の第2版 (1884) と、バジル・ホール・チェンバレンの『日本事物誌』(1890) の出版からだと言えます)。
ヴィルヘルム・リュプケの『世界美術史』1868年版、2分冊の革製本
この本(ドイツ語版)は、ネットで調べられるだけでも 1861, 1864, 1866, 1868 (4th), 1870, 1873, 1876 (7th), 1877, 1878, 1881, 1892 (9th), 1899 (12th), 1901, 1903, 1904 (5vols), 1905 (14th) , 1907 , 1908, 1913 (15th) , 1920, 1924 (16th) と、20回以上も 重版しています。それぞれの改訂の度合いは不明ですが、これほど長きにわたって売れ続けたのであれば、数度にわたる、かなりの改訂を要したでしょう。リュプケの死後の 1904年以降は、後述のように、マックス・セムラウとフリードリッヒ・ハークによって大幅に改訂増補された5巻本です。これも、何度も版を重ねたようです。 近年ドイツで リュプケの再評価が進んでいるらしく、『ヴィルヘルム・リュプケ、その生涯と著作』という本も出版され、彼の多産な執筆活動が、著書も 新聞記事も、たやすく年代順に調べられるようになりました。
『ヴィルヘルム・リュプケ、その生涯と著作』 日本ではリュプケも ファーガスンも翻訳されませんでしたが、美術、建築関係の人は それぞれ努力して 原書で読んだようで(美術史を学ぶ、あるいは書こうとする人で、リュプケを まったく読まない人は いなかったことでしょう)、伊東忠太も 工部大学校での卒論「建築哲学」(つまり 建築様式論)を書くために、「引用文献」として、 建築では まずヴィオレ・ル・デュクとファーガスンを挙げ、美術史ではリュプケを挙げています。長尾重武氏によれば、これは日本在住のドイツ人法律学者から贈られた『世界芸術史』(本稿では『世界美術史』)で、忠太は 「初めてこの種の原書を得た嬉しさに、夢中になって読破した」 そうです。独語版ではなく、1877年の英語版だったらしい。もちろん岡倉覚三(天心)も、英語版で読んだことでしょう。『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第一巻の 第五章 授業内容、 第三節 学科授業、 3 西洋美術史講義 (p.470)には、次のような記述があります。
「なお、岡倉は講義の参考に種々の洋書(歴史書、美術書)を用いたことが考えられるが、中でもリュプケの美術史 (WILHELM LÜBKE, History of Art、1874) をよく用いた可能性が大きい。」
本の実物は残っていないのか 推測になるようですが、まあ妥当と言えます。ただ 1874年版とした根拠は、不明です(あるいは、1874年版が残っているので、こう推測したのかもしれません)。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1868年の第4版(2分冊の合計は 775ページで、図版は 403図)
第1部 東洋の古代美術 ------------------------------------------ 9 第1節 土地と人々 11 第2節 エジプト建築 14 第3節 彫刻とエジプト人 23 第2章 中央アジアの美術 ----------------------------------- 31 第1節 バビロンとニネヴェ 31 第2節 ペルシアとメディア 42 第3章 西アジアの美術 ------------------------------------- 51 第1節 フェニキア人とヘブライ人 51 第2節 小アジアの人種 (含 リュキア) 54 第4章 東アジアの美術 ------------------------------------- 60 第1節 インド 60 1 土地と人々 60 2 インド建築 62 3 インドの彫刻と絵画 69 第2節 インドの周辺地 71 1 カシュミール 71 2 ネパール、ジャワ島、ペグー 73 3 中国と日本 74 第1節 土地と人々 82 第2節 ギリシアの建築 86 a システム 86 b 各時期とその遺構 97 第1期 97 第2期 100 第3期 106 第3節 ギリシアの彫刻 110 a 主題と形態 110 b 各時期とその作品 116 第1期 117 第2期 125 第3期 144 第4期 151 c 貨幣と宝石 156 第4節 ギリシアの絵画 158 a その特徴と影響 158 b 歴史的展開 160 c 壷絵 164 第2章 エトルスク美術 -------------------------------------- 167 第3章 ローマ美術 ------------------------------------------ 176 第1節 ローマ人の特徴 176 第2節 ローマの建築 179 a そのシステム 179 b その遺構 183 第3節 ローマ人の彫刻 198 補 説 古代の美術工芸 215 第1節 起源と重要性 225 第2節 初期キリスト教の建築 226 a ロマの遺構 226 b ラヴェンナの遺構 234 c 東方とビザンチンの遺構 237 d 北方の遺構 246 第3節 初期キリスト教の絵画と彫刻 249 第2章 イスラーム美術 ------------------------------------- 269 第1節 アラブ人の性格と美術的能力 269 第2節 イスラーム建築 272 第3節 その建築作品 276 a エジプトとシチリア島 276 b スペイン 279 c トルコ、ペルシア、インド 286 第4節 東方キリスト教の美術 289 a アルメニアとジョージア 289 b ロシア 319 第3章 ロマネスク様式 ------------------------------------- 292 第1節 ロマネスク時代の特性 292 第2節 ロマネスク建築 295 a そのシステム 295 b 諸国のロマネスク 312 ドイツ 312 イタリア 328 フランス 338 イギリス 345 スカンジナヴィア 347 スペイン 349 第3節 ロマネスクの彫刻と絵画 352 a 主題と方法 352 b 歴史的展開 355 アルプス以北の国々 355 イタリア 373 第4章 ゴチック様式 --------------------------------------- 380 第1節 ゴチック時代の特性 380 第2節 ゴチック建築 383 a そのシステム 383 b 諸国のゴチック 392 フランス 392 低地の国々 397 ドイツ 400 イギリスとスカンジナヴィア 409 イタリア 415 スペインとポルトガル 421 第3節 ゴチックの彫刻と絵画 424 a 主題と方法 424 b 歴史的展開 426 北方ヨーロッパ 426 イタリア 446
下冊は 第4部 近代の美術 (略) ----------------------- 461
上に写したのは 上冊の目次ですが、実を言うと、このように きれいに上下冊に分かれているわけではなく、上冊は400ページでプツンと終わり、下冊には 書名だけの簡易な扉のあと、唐突に401ページで始まります(通しノンブルなので)。他の著者の本の場合にも言えることですが、浩瀚な書物は 最初は1巻本で出版されても、次回以降には 出版社が2分冊にして出すことがよくありました。これを、他の本にある「参考文献」や ネット記事では、2vols. とか、2巻本とか、全2巻 などと記すことが多いので、初めから著者が2巻本として上梓したものと 区別がつかなくなってしまいます。 ヴィルヘルム・リュプケは、スイスの名高い美術史家の ヤーコプ・ブルクハルトと同時代人です(ブルクハルトよりも7年おそく生まれて、6年早く没しました)。後述のように、ブルクハルトの師であるフランツ・クーグラー の最晩年の4巻本『 建築史 』(Geschichte der Baukunst (ゲシヒテ・デア・バウクンスト, 1856-67) の第4巻は クーグラーの没後になるので、ブルクハルトとリュプケの共著になる「近世の建築史」となりました。その前半(第1部)が、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンス(建築)の歴史』(1867) で、後半がリュプケの『フランス・ルネサンス(建築)の歴史』です。ブルクハルトは 建築史家でもあったのです。彼の主著『イタリア・ルネサンスの文化』の初版が 出版されたのは、それより6年早く、リュプケの『世界美術史』の初版と同年の 1860年でした。
高階秀爾と三浦篤編の『西洋美術史ハンドブック 』(1997)という本が 新書館から出ています。ところが、「西洋美術史」と謳っていながら、内容は「西洋絵画史」あるいは「ヨーロッパ画家列伝」です。よく「世界美術史」と謳った本が 実際は「西洋美術史」であったりするのと同じく、非常に偏ったことが、明治このかたの 西洋崇拝、絵画偏重として、行われてきました。 インド建築史や 世界建築史の本を調べてきた身には、これは 少々異様に感じられます。そちら方面の本で、最初にインド建築史や 世界建築史の本を書いた ジェイムズ・ファーガスンとその著作に言及しない本など ありえません。世界美術史の浩瀚な「通史」を初めて 完成した形で書いて、世界に普及させたリュプケと、その『世界美術史 』(Grundriß der Kunstgeschichte, 1860) は、特筆に値するのではないでしょうか。ある地域や ある時代に限定して美術史を記述し、新しい方法論を提示するのは、もちろん重要な仕事です。しかし美術史家だったら、それを全時代と地域に敷衍して「通史」を書くのが、最終到達点なのだと思います。 リュプケの著作よりも優れた「世界美術史」が書かれていたのなら、その本について詳しく論じればよいでしょう。しかし19世紀には それに匹敵するものが無いのなら、世界中で読まれたリュプケの本をとりあげて、その果たした役割と その内容を評価し、論ずべきだと思います。ところが それをせずに、まったくの「無視」です。私には いささか不可解、異常なことに思われます。これが 日本の「美術史学会」の 統一方針なのでしょうか。もし 全否定するなら するで、その理由を明示すべきではないでしょうか。 加藤哲弘氏の『美術史学の系譜』には、その本で採り上げられている西洋の美術史学者の生没年による、「10人の美術史学者たち」と題する表があって (p.399) 、彼らの年代的位置関係が視覚的に見てとれるのが 便利です。そこで この表を利用させてもらって、リュプケの位置を知るべく、リュプケとファーガスンを赤色で挿入し、私が名前を知らない人は取り除き、最古のヴィンケルマンと、やや後のベレンスンを加えて、11人の生年表を作ってみました。すると、リュプケも ファーガスンも だいぶ古い人だということが分かります。
学問としての芸術学は、18世紀ドイツの ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン (1717-1768) に始まると言われます。彼は 1755年に『ギリシア美術模倣論』を書き、芸術の真髄を「高貴なる単純さと 静謐なる偉大さ」であるとし、それを体現したギリシア美術を模倣することを奨励して、バロック、ロココのあとの美術界に「新古典主義」(ネオ・クラシシズム)を導入しました。
ヴィンケルマンは 18世紀の人ですから これを第一世代とすれば、19世紀に生まれ、かつ世を去った クーグラーから リュプケまで(両者の間に ブルクハルトがいて、ファーガスンは 偶然にも クーグラーと同年の生まれでした)、この4人の 19世紀人を第二世代とすると、それから 一世代後の リーグルから パノフスキーまでが 同時代の人たちで、第三世代と言えます。
ヴィルヘルム・リュプケは 1826年に 小学校教師の息子として、ドイツ(当時のプロイセン王国)西部のヴェストファーレン州、まだ小都市だったドルトムントに生まれました。 若い時は苦労しましたが、次第に頭角を現して、諸大学で美術史の教授職につき、その数々の著作は、非常に専門的と言うよりは 一般向けにポピュラーな筆致で書かれていたので、人口に膾炙して有名人となり、新聞や雑誌から絶えず原稿を求められるような 成功した人生を送り、1893年に カールスルーエで没しました(67歳)。 リュプケは 1853年に 最初の著作、 クーグラーの「ポメラニア美術史」に基づいたという『ヴェストファーレンの中世美術』(Die Mittelarterliche Kunst in Westfalen) を上梓し、クーグラーと シュナーゼに捧げました。次いで、後述のように 1855年に『 建築史 (古代から現代までの) 』(Geschichte der Architectur ゲシヒテ・デア・アルヒテクトゥア) を出版して建築史家として評価され、そのおかげで2年後の 1857年に ベルリンの 有名な建築学校である バウ(建築)アカデミー (Bauakademie) の講師(建築史)となります (1857–61) 。同年に ベネツィアの未亡人 マチルデ・アイヒラーと結婚し、順風満帆の人生を歩み出しましたが、子供は授からなかったということです。
1860年に 代表作『世界美術史』(美術史概説)を刊行して、その明快で均整がとれた 平易な叙述から、美術界ばかりでなく、一般人からも好評で迎えられました。
リュプケの『世界美術史』の初版、1860年(万延2)
リュプケの『世界美術史』英語版 の背表紙、1878 (明治11) 年版
リュプケの『世界美術史』フランス語版、上冊の表紙、1886 (明治19) 年 話は遡(さかのぼ)って、1855(安政2)年に ジェイムズ・ファーガスンは『 図説・建築ハンドブック(すべての時代と国を代表する 様々な建築様式の、簡明にして平易な叙述からなる)』(The Illustrated Handbook of Architecture, Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages and Countries) 全2巻を出版していますが、それと同じ年に ヴィルヘルム・リュプケも、『 建築史 (古代から現代までの) 』(Geschichte der Architektur : ゲシヒテ・デア・アルヒテクトゥア)(von den Altesten bis auf die Gegenwart) という本を出版しているというのは、驚きです。ファーガスンと同じく 図版を重視したとはいえ、初版では木口木版画が 174点に過ぎず(ファーガスンの『図説・建築ハンドブック』では 上下巻で 836点)、改訂するにつれて 増加させていったようです。「このような著作を木版画群で描こうとしたのは、私が初めてだった」とリュプケは書いたそうですが、追々、ファーガスンに迫っていきました。
リュプケは この著作によって建築史家として評価され、その2年後にベルリンの バウ(建築)アカデミー (Bauakademie) の「建築史」の講師に任じられたのでした (1857–61) 。この『 建築史 (古代から現代までの) 』も人気があり、少なくとも 1858,1865,1870,1875, 1884年に重版しました。1884年には増補改訂して2巻本としました(下巻は 1886年)。
リュプケの『 建築史 (古代から現代までの) 』初版の扉
この翌年の 1856年に、最晩年のフランツ・クーグラーもまた『 建築史 』(Geschichte der Baukunst : ゲシヒテ・デア・バウクンスト)を書いて出版し始めたというのには、さらに驚いてしまいました(「アルヒテクトゥア」 から「バウクンスト」に 題名を違えていますが)。ドイツでは 美術史家と建築史家の区別がほとんどなく、両者を兼ね備えているのが普通でしたが、これほど たて続けに「世界建築史」の本を出すような需要があったのでしょうか。
フランツ・クーグラー著『建築史』4巻のうち 第3巻までの革装本
日本では、「美術史」と「建築史」の領域が はっきり分かれてしまっています。それは明治時代の初めに、殖産興業のために工部省が「工部大学校」をつくり、「お雇い外国人」の教員のもと、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の6学科の体制で、日本最初の最高等教育機関としての工学教育を始めました。これに対して 芸術教育としての「建築科」は、当初より東京美術学校に「絵画科」、「彫刻科」とともに設置するはずだったのが、いつまでたっても行われず、この「古書の愉しみ」の第26回「岡倉覚三の『茶の本』」の後半部にも書いたように、とうとう大正 12年になるまで遅れ、日本の建築教育は「工学部」の建設工学教育の中で行われる体制が できあがってしまいました。 クーグラーの『 建築史 』は、シュトゥットガルトのエブナー・ウント・ゾイバート書房からの、全4巻の出版でした。 1856年の 第1巻 (574 pp.)、 1858年の第2巻 (592 pp.)、1859年の第3巻 (588pp.) は いずれもクーグラー著ですが、クーグラーが1858年に没した後になった 第4巻 (676 pp.) は、ブルクハルトと リュプケが共著として書いて 1867年に出版した「近世の建築史」です。その前半(第1部)が、ブルクハルトの 『イタリア・ルネサンス(建築)の歴史』で、後半(第2部)が、リュプケの『フランス・ルネサンス(建築)の歴史』でした。前者は ブルクハルトの最後の 公刊著作になりますが、彼は 建築史家でもあったのです。
一方、建築史で出発したリュプケは 美術史のすべての領域を著作で踏破する欲望を持っていたようで、1855年の『 建築史(古代から現代までの)』と 1860年の『 世界美術史 』(美術史概説)に続いて、1863年には『 彫刻史(古代から現代までの)』(Geschichte Der Plastik von den Altesten Zeiten bis auf die Gegenwart) も出版しました。こうした 立て続けの著作活動ができたのは、彼の最も油の乗った壮年期だったからでしょう。さらに『 絵画史 』も計画していましたが、上記の「フランス・ルネサンス(建築)の歴史」を執筆していたからか、これは実現せず、ウォルトマンという人に委ねたようです。
リュプケの『世界美術史』5巻本、独語版 (ウェブサイトより)
ヴィルヘルム・リュプケの没後に、マックス・セムラウ (Max Semrau, 1859-1928) とフリードリッヒ・ハーク (Friedrich Haack, 1868-1935) が 1899年から 1905年にかけて これを大幅に改訂増補して5巻本にしました。ジェイムズ・ファーガスンの没後に、ジェイムズ・バージェスやリチャード・フネ・スパイアズらが ファーガスンの『インドと東方の建築史』や『世界建築史』の改訂増補版を作ったのと同様ですが、もっと大規模です。ファーガスンの本は 同じジョン・マリー出版社から出ましたが、リュプケの本の場合は それまでと代わって、シュトゥットガルトのポール・ネフ書房 (Paul Neff Verlag) から出されました。 第1巻 1899 セムラウ 「古典古代の美術」 458 pp., 13 plates, 572 figs. これらは「西洋美術史」の教科書的役割を果たし、何度か重版しましたが、もはやリュプケの時代は去っていました。
(左)エルンスト・ゴンブリッチ著 『美術の歩み』友部直 訳, 1972, 美術出版社
エリー・フォールのあとに 総合的な「美術史」を書いたのは、オーストリア系の美術史家 エルンスト・ゴンブリッチ (Ernst Hans Josef Gombrich, 1909-2001) です。彼はオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで、富裕なユダヤ人一族の子として生まれ、ウィーン大学で学んだ後 1936年に英国に渡り、ヴァールブルク研究所に職を得て、最終的には所長を務めました。
ゴンブリッチ著 『美術の物語』2019年、河出書房新社
( 2024 /09/ 01 ) |