ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - LVIII
ヴィルヘルムリュプケ 著
『 世界美術史 』
Wilhelm Lübke
" Grundriß der Kunstgeschichte "
1868, Stuttgart, 2 installments


神谷武夫
 リュプケ

ヴィルヘルム・リュプケの『世界美術史』独語版、2分冊の革装本
Wilhelm Lübke, "Grundriss der Kunstgeshichte", Stuttgart
初版は 1860年だが、これは第4版の 1868年版(今から 156年前の本 )


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「世界建築史」「世界美術史」

 この「古書の愉しみ」シリーズの 最初のほうでは、誰が最初に「世界建築史」の通史を書いたのだろうか、ということを探求して、それはイギリスの ジェイムズ・ファーガスン (James Fergusson, 1808-86) だとわかりました。では、最初に「世界美術史」の通史を書いたのは誰かというと、ドイツの美術史家、フランツ・クーグラー (Franz Kugler, 1808-1858)です。しかし、それを増補改訂するようにして ヴィルヘルム・リュプケ (Wilhelm Lübke, 1826-93) が書いた『世界美術史』が、建築史におけるファーガスンの『世界建築史』のような役割をして、世界に流布しました。ファーガスンとリュプケの2人とも 19世紀の人で、今から 160年あまり前の同じ頃に、それぞれの初版を出版しました。リュプケの『世界美術史』が 1860年、ファーガスンの『世界建築史』が 1865年です。

 ファーガスンの『世界建築史』については こちら をご覧いただくとして、リュプケの本の原題は "Grundriß der Kunstgeschichte"(グルントリス・デア・クンストゲシヒテ)ですから、直訳すると「美術史概説」です。その 英語版の題名は "Outlines of the History of Art"、仏語版の題名は "Essai d'Histoire de l'Art" ですから、美術史の「アウトライン」あるいは「試論」というわけですが、簡易本ではなく、上下2分冊で合計 770ページもある大著です。大部の書であり、しかもヨーロッパ以外の諸国の美術も扱っていますので、内容から言って『世界美術史』という邦題にするのが 適切と思われます(ファーガスンの本も、原題を直訳すると「古代から現代に至る すべての国の建築の歴史」という長いものですが、単に『世界建築史』と訳しています)。

リュプケ

ヴィルヘルム・リュプケ
(From "Wilhelm Lübke (1826-1893), Aspekte seines
Lebens und Werkes", 2019, KIT Scientific Publishing)

 「世界建築史」を書いたのは、 イギリスの ジェイムズ・ファーガスンと バニスター・フレッチャーが並び称されますが、19世紀に通史としての「世界美術史」を書いたのは、ドイツの フランツ・クーグラーと、ヴィルヘルム・リュプケです。まずはクーグラーから見て行きますが、その前にカール・シュナーゼ について触れておきます。

 プロイセン(プロシア)には、クーグラーより 10年 年長のカール・シュナーゼ (Karl Schnaase, 1798–1875) という、民間の美術史家がいました。ベルリン大学で「美学」を講じていた大哲学者ヘーゲルの教え子 (1817-8) で、その精神を受け継いだシュナーゼは、美的実現のためには歴史的考察が必要であるとして『造形美術の歴史』(Geschichte der bildenden Künste) を書きますが、その第1巻の出版直前に出たクーグラーの『美術史ハンドブック 』(1842) に圧倒されました。シュナーゼの著作は 1864年まで書き続けられて7巻本の大著となっても なお 未完で、「美術史」としては クーグラーの本の陰に隠れてしまいました。ボン大学の名誉教授など 数々の栄誉に浴したシュナーゼの没後の 1879年に、リュプケは 彼の 簡易な評伝を書いています。

クーグラー   クーグラー

(左)カール・シュナーゼの『造形美術の歴史』第1巻の扉
  1843年、ユーリウス・ブデウス書房、デュッセルドルフ
 (右)リュプケの『カール・シュナーゼの伝記スケッチ』の扉
      1879年、エブナー・ウント・ゾイバート書房、シュトゥットガルト

フランツ・クーグラー

 フランツ・テオドーア・クーグラー (Franz Theodor Kugler, 1808-1858) は、19世紀初めの生まれで, 19世紀ベルリンの美術史学を代表する人でした。ベルリン大学で文学、音楽、美術を学んだ後、バウ(建築)アカデミー (Bauakademie) で建築を学び、1833年に ベルリンの芸術アカデミーの 美術史教授を務め、ついにはプロイセンの国家芸術局長(「文化大臣」のような地位 )にも就きました。すべての芸術に通じた人格者だったと言われ、その薫陶を大きく受けた一番弟子が ヤーコプ・ブルクハルト (Carl Jacob Christoph Burckhardt, 1818-97) です。
 クーグラーは 1842年に34歳の若さで、重要な『美術史ハンドブック 』(Handbuch der Kunstgeschichte) を書いて、シュトゥットガルトのエブナー・ウント・ゾイバート書房から出版しました(以後、ここはドイツの美術史、建築史の重要な著作群の出版社となります)。それと同年の 1842年には、18世紀ドイツの 新古典主義建築を代表する建築家で、知己でもあった カール・フリードリヒ・シンケル (Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841) についての評伝を ベルリンのグロピウス出版社から出していますし、その5年前の1837年には『絵画史ハンドブック』も出版しています(これをクーグラーは「資料の寄せ集めに過ぎない」と自嘲的に述べていますが、その 1847年の第2版は、教え子のブルクハルトが 改訂を担いました)。

クーグラー
クーグラーのメモリアリ・プレート (ウェブサイトより)

 クーグラーとは どんな人かと、ワトキンの『建築史学の興隆』(桐敷真次郎訳、1993、中央公論美術出版、p.28)から孫引きすれば、

「ペヴスナーによれば、「彼は、われわれが美術史家と呼べる 最初の人であり、また美術史の教授となった 最初の人でもあった。」  また、
「彼は建築史家の主要テーマとしての 中世建築の優勢を終結させた人物として 重要である。」 と あります。

 さて、本の題名に「ハンドブック」(ドイツ語では「ハンドブーフ」ですが、本稿では ハンドブックで統一します)という語を付すのは 19世紀に広く行われたようで、ジェイムズ・ファーガスンの『 図説・建築ハンドブック 』と、その版元の イギリスのジョン・マリー出版社のそれについては、この「古書の愉しみ」の第4回で解説しました。ドイツでも 美術史や建築史の本によく用いられたようで、ハンドブックという名のつく同様の本が多くあることから、少々まぎらわしい混乱をすることがあります。
 クーグラーの『美術史ハンドブック』は、一応 インドもイスラームも扱っているので、最初の「世界美術史」の試みだと言えるでしょう。下の扉の図版をクリックすると、初版の目次が出ますので、それを見れば クーグラーの構想が分かるでしょう。全体は4部から成り、第1部「発展の初期段階における美術」、第2部「古典美術の歴史」、第3部「ロマン主義美術の歴史」、第4部「近代美術の歴史」となっていて、これは ヘーゲルの説に倣っているようです。再び ワトキンの『建築史学の興隆』から引用すると (p.19)

「ヘーゲルは芸術の歴史を三つの段階、すなわち象徴的芸術(すなわち東洋の芸術)、古典的芸術(ギリシア・ローマの芸術)、ロマン主義的芸術(キリスト教・ゲルマン的芸術)に分けて説明した。」 と あります。

クーグラー   クーグラー

(左)クーグラーの『美術史ハンドブック』初版の扉、1842年
   エブナー・ウント・ゾイバート書房、シュトゥットガルト 
(右)同『美術史ハンドブック』第4版、上冊の扉、1861年

 1848年の第2版では、弟子のブルクハルトが協力して、それまでクーグラーがあまり評価していなかったルネサンスにも 重きを置くようになりました。第3版は2巻本となり (1856, 1859) 扉に「完全改訂」版だと記されています(これは、近年リプリントが インドから出ています)。クーグラーは 1858年に世を去ったので、1861年の第4版の扉(上図)には、リュプケが編集したとあります。クーグラーもファーガスンのように 図版を重視しましたが、201図(木口木版)にとどまりました(ファーガスンの『図説・建築ハンドブック 』(1855) では、上巻だけで 364図 あります)。

 クーグラーの『美術史ハンドブック』は 何度も版を改めていて、少しづつ内容が改訂されていたようです。第5版が出たのは クーグラー没後の1872年ですが、それより早く、クーグラーの意図を完成させたのが、1860年にリュプケが上梓した『世界美術史』(Grundriß der Kunstgeschichte : 美術史概説)だったと言えます。

ヴィルヘルム・リュプケの『 世界美術史 』

  世の中では「美術史」とか「世界美術史」とか謳っていても、実際には「西洋美術史」に過ぎないことが多いですが、ヴィルヘルム・リュプケの『世界美術史』は、インドもイスラームも含む、古代から近代までの 真正の「世界美術史」です。ただし 中国、日本の美術については、まだヨーロッパに それらの情報が ほとんど無かったので、ファーガスンの場合と同じように、ほんの少ししか 記述がないのは やむをえません(日本文化についての総合的な情報が ヨーロッパに伝えられるのは、アーネスト・サトウらによる『日本旅行ハンドブック』の第2版 (1884) と、バジル・ホール・チェンバレンの『日本事物誌』(1890) の出版からだと言えます)。
 リュプケの『世界美術史』の初版が出版された 1860年というのは、日本が開国して間もない 幕末の万延元年にあたり、勝海舟が咸臨丸で「遣米使節団」として太平洋を横断した年であって、岡倉天心 (1863-1913) や 伊東忠太 (1867-1954) は、まだ 生まれてもいませんでした。いかに古い本かと言うことが分かります。

リュプケ

ヴィルヘルム・リュプケの『世界美術史』1868年版、2分冊の革製本
Wilhelm Lübke, "Grundriss der Kunstgeshichte", Stuttgart
活字を拾い直しているので 第4版だが、目次を見比べる限り 改訂版ではなく、
1860年の初版と同じ内容である(字句の訂正はあったかもしれないが)

 この本(ドイツ語版)は、ネットで調べられるだけでも 1861, 1864, 1866, 1868 (4th), 1870, 1873, 1876 (7th), 1877, 1878, 1881, 1892 (9th), 1899 (12th), 1901, 1903, 1904 (5vols), 1905 (14th) , 1907 , 1908, 1913 (15th) , 1920, 1924 (16th) と、20回以上も 重版しています。それぞれの改訂の度合いは不明ですが、これほど長きにわたって売れ続けたのであれば、数度にわたる、かなりの改訂を要したでしょう。リュプケの死後の 1904年以降は、後述のように、マックス・セムラウとフリードリッヒ・ハークによって大幅に改訂増補された5巻本です。これも、何度も版を重ねたようです。
 英語版 (Outlines of the History of Art) は、少なくとも 1874, 1877, 1878, 1880, 1881, 1882, 1885, 1888, 1904, 1909, 1911年に出版されました。最初はオリジナルの第7版に基づいて クラレンス・チャタム・クック (Clarence Chatham Cook, 1828-1900) が編集して手を加え、1904年には、ラッセル・スタージス (Russell Sturgis, 1805-87) が編集しました。
 フランス語版 (Essai d'Histoire de l'Art) は、オリジナルの第9版に基づいて CH・アドルフ・コエッラ (Ch. Adolphe Coëlla) が 翻訳、編集し、1880, 1885, 1886-7年 その他に刊行されています(私が架蔵するのは 1886年版です)。その他の国語にも翻訳されたでしょうから、19世紀後半から20世紀の前半に、世界中に流布したわけです。

 近年ドイツで リュプケの再評価が進んでいるらしく、『ヴィルヘルム・リュプケ、その生涯と著作』という本も出版され、彼の多産な執筆活動が、著書も 新聞記事も、たやすく年代順に調べられるようになりました。

リュプケ

『ヴィルヘルム・リュプケ、その生涯と著作』
"Wilhelm Lübke (1826-1893) Aspekte seines Lebens und Werkes"
アレクサンドラ・アクストマン、ウルリーケ・ガヴリク共編
2019年、カールスルーエ工科大学 (KIT) 科学出版局、24cm, 164pp.

 日本ではリュプケも ファーガスンも翻訳されませんでしたが、美術、建築関係の人は それぞれ努力して 原書で読んだようで(美術史を学ぶ、あるいは書こうとする人で、リュプケを まったく読まない人は いなかったことでしょう)、伊東忠太も 工部大学校での卒論「建築哲学」(つまり 建築様式論)を書くために、「引用文献」として、 建築では まずヴィオレ・ル・デュクとファーガスンを挙げ、美術史ではリュプケを挙げています。長尾重武氏によれば、これは日本在住のドイツ人法律学者から贈られた『世界芸術史』(本稿では『世界美術史』)で、忠太は

   「初めてこの種の原書を得た嬉しさに、夢中になって読破した」

そうです。独語版ではなく、1877年の英語版だったらしい。もちろん岡倉覚三(天心)も、英語版で読んだことでしょう。『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第一巻の 第五章 授業内容、 第三節 学科授業、 3 西洋美術史講義 (p.470)には、次のような記述があります。

「なお、岡倉は講義の参考に種々の洋書(歴史書、美術書)を用いたことが考えられるが、中でもリュプケの美術史 (WILHELM LÜBKE, History of Art、1874) をよく用いた可能性が大きい。」

本の実物は残っていないのか 推測になるようですが、まあ妥当と言えます。ただ 1874年版とした根拠は、不明です(あるいは、1874年版が残っているので、こう推測したのかもしれません)。
 リュプケの『世界美術史』は、各章が「建築」「彫刻」「絵画」の順で(規模の大きなものから小さなものへ)叙述するのを常とします。以後、それが美術史記述の原則となり、東京美術学校における 岡倉覚三の「西洋美術史講義」もそうでした (同書 p.471)。美術全集なども そうするのが通例となりました(日本では 平凡社が 昭和初年から何度も「世界美術全集」を出しましたが、必ず そうなっていました)。リュプケの初版の上冊( 古代・中世 )の目次を訳して、下に載せておきましょう。


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  リュプケの『 世界美術史 』上冊(古代・中世)の目次 ■

   1868年の第4版(2分冊の合計は 775ページで、図版は 403図)


    序論   美術の起源と草創期 --------------------------------- 1

 第1部  東洋の古代美術 ------------------------------------------ 9
    第1章 エジプト美術 ---------------------------------------- 11
         第1節 土地と人々              11
         第2節 エジプト建築             14
         第3節 彫刻とエジプト人           23
    第2章 中央アジアの美術 ----------------------------------- 31
         第1節 バビロンとニネヴェ          31
         第2節 ペルシアとメディア          42
    第3章 西アジアの美術 ------------------------------------- 51
         第1節 フェニキア人とヘブライ人       51
         第2節 小アジアの人種 (含 リュキア)        54
    第4章 東アジアの美術 ------------------------------------- 60
         第1節 インド                60
            1 土地と人々             60
             2 インド建築             62
             3 インドの彫刻と絵画         69
         第2節 インドの周辺地            71
            1 カシュミール            71
            2 ネパール、ジャワ島、ペグー     73
            3 中国と日本             74
 第2部  古典古代の美術 ----------------------------------------- 79
    第1章 ギリシア美術 ---------------------------------------- 82
         第1節 土地と人々              82
         第2節 ギリシアの建築            86
            a システム              86
            b 各時期とその遺構          97
               第1期              97
               第2期              100
               第3期              106
         第3節 ギリシアの彫刻            110
            a 主題と形態             110
            b 各時期とその作品          116
               第1期              117
               第2期              125
               第3期              144
               第4期              151
            c 貨幣と宝石             156
         第4節 ギリシアの絵画            158
            a その特徴と影響           158
            b 歴史的展開             160
            c 壷絵                164
    第2章 エトルスク美術 -------------------------------------- 167
    第3章 ローマ美術 ------------------------------------------ 176
         第1節 ローマ人の特徴            176
         第2節 ローマの建築             179
            a そのシステム            179
            b その遺構              183
         第3節 ローマ人の彫刻            198
         補 説 古代の美術工芸            215
 第3部  中世の美術 --------------------------------------------- 223
    第1章 初期キリスト教美術--------------------------------- 225
         第1節 起源と重要性             225
         第2節 初期キリスト教の建築         226
            a ロマの遺構             226
            b ラヴェンナの遺構          234
            c 東方とビザンチンの遺構       237
            d 北方の遺構             246
         第3節 初期キリスト教の絵画と彫刻      249
    第2章 イスラーム美術 ------------------------------------- 269
         第1節 アラブ人の性格と美術的能力      269
         第2節 イスラーム建築            272
         第3節 その建築作品             276
            a エジプトとシチリア島        276
            b スペイン              279
            c トルコ、ペルシア、インド      286
         第4節 東方キリスト教の美術         289
            a  アルメニアとジョージア       289
            b ロシア               319
    第3章 ロマネスク様式 ------------------------------------- 292
         第1節 ロマネスク時代の特性         292
         第2節 ロマネスク建築            295
            a そのシステム            295
            b 諸国のロマネスク          312
               ドイツ              312
               イタリア               328
               フランス             338
               イギリス             345
               スカンジナヴィア         347
               スペイン             349
         第3節 ロマネスクの彫刻と絵画        352
            a 主題と方法             352
            b 歴史的展開             355
                アルプス以北の国々        355
                イタリア             373
    第4章 ゴチック様式 --------------------------------------- 380
         第1節 ゴチック時代の特性          380
         第2節 ゴチック建築             383
            a そのシステム            383
            b 諸国のゴチック           392
               フランス             392
               低地の国々            397
               ドイツ              400
               イギリスとスカンジナヴィア    409
               イタリア             415
               スペインとポルトガル       421
         第3節 ゴチックの彫刻と絵画         424
            a 主題と方法             424
            b 歴史的展開             426
               北方ヨーロッパ          426
               イタリア             446

  下冊は  第4部 近代の美術  (略)  ----------------------- 461

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 上に写したのは 上冊の目次ですが、実を言うと、このように きれいに上下冊に分かれているわけではなく、上冊は400ページでプツンと終わり、下冊には 書名だけの簡易な扉のあと、唐突に401ページで始まります(通しノンブルなので)。他の著者の本の場合にも言えることですが、浩瀚な書物は 最初は1巻本で出版されても、次回以降には 出版社が2分冊にして出すことがよくありました。これを、他の本にある「参考文献」や ネット記事では、2vols. とか、2巻本とか、全2巻 などと記すことが多いので、初めから著者が2巻本として上梓したものと 区別がつかなくなってしまいます。
 そのために、ある著作が 本来の2巻本であるのか、出版社によって(あるいは革製本をした人によって)2分冊にされているだけ なのかは、実物を見なければ分かりません。私が所蔵するリュプケの『世界美術史』は、著者ではなく 出版社による2分冊なので、他の出版社による2分冊は、全体の内容は同じでも、別の個所で 上下に分けられていたりします。「書誌」における vol.1とか、vol.2とか、全2巻という表記は、要注意です。

主要美術史家生年順の表

 ヴィルヘルム・リュプケは、スイスの名高い美術史家の ヤーコプ・ブルクハルトと同時代人です(ブルクハルトよりも7年おそく生まれて、6年早く没しました)。後述のように、ブルクハルトの師であるフランツ・クーグラー の最晩年の4巻本『 建築史 』(Geschichte der Baukunst (ゲシヒテ・デア・バウクンスト, 1856-67) の第4巻は クーグラーの没後になるので、ブルクハルトとリュプケの共著になる「近世の建築史」となりました。その前半(第1部)が、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンス(建築)の歴史』(1867) で、後半がリュプケの『フランス・ルネサンス(建築)の歴史』です。ブルクハルトは 建築史家でもあったのです。彼の主著『イタリア・ルネサンスの文化』の初版が 出版されたのは、それより6年早く、リュプケの『世界美術史』の初版と同年の 1860年でした。

 高階秀爾と三浦篤編の『西洋美術史ハンドブック 』(1997)という本が 新書館から出ています。ところが、「西洋美術史」と謳っていながら、内容は「西洋絵画史」あるいは「ヨーロッパ画家列伝」です。よく「世界美術史」と謳った本が 実際は「西洋美術史」であったりするのと同じく、非常に偏ったことが、明治このかたの 西洋崇拝、絵画偏重として、行われてきました。
 日本でヨーロッパの「美術史学」の発展を簡潔に描いたものとして、その『西洋美術史ハンドブック』の巻末に、こうした手軽な美術の本には珍しく、編者のひとりの三浦篤氏が「西洋美術史学の方法と歴史」という 24ページもの 学術的な概説記事を書いています。もっと詳しいものとしては、加藤哲弘氏の浩瀚な『美術史学の系譜』という本(2018年, 448 pp. 中央公論美術出版)があります。ところが驚いたことに、どちらにも ヴィルヘルム・リュプケとその著作のことが、まったく書かれていないのです。

 インド建築史や 世界建築史の本を調べてきた身には、これは 少々異様に感じられます。そちら方面の本で、最初にインド建築史や 世界建築史の本を書いた ジェイムズ・ファーガスンとその著作に言及しない本など ありえません。世界美術史の浩瀚な「通史」を初めて 完成した形で書いて、世界に普及させたリュプケと、その『世界美術史 』(Grundriß der Kunstgeschichte, 1860) は、特筆に値するのではないでしょうか。ある地域や ある時代に限定して美術史を記述し、新しい方法論を提示するのは、もちろん重要な仕事です。しかし美術史家だったら、それを全時代と地域に敷衍して「通史」を書くのが、最終到達点なのだと思います。

 リュプケの著作よりも優れた「世界美術史」が書かれていたのなら、その本について詳しく論じればよいでしょう。しかし19世紀には それに匹敵するものが無いのなら、世界中で読まれたリュプケの本をとりあげて、その果たした役割と その内容を評価し、論ずべきだと思います。ところが それをせずに、まったくの「無視」です。私には いささか不可解、異常なことに思われます。これが 日本の「美術史学会」の 統一方針なのでしょうか。もし 全否定するなら するで、その理由を明示すべきではないでしょうか。

 加藤哲弘氏の『美術史学の系譜』には、その本で採り上げられている西洋の美術史学者の生没年による、「10人の美術史学者たち」と題する表があって (p.399) 、彼らの年代的位置関係が視覚的に見てとれるのが 便利です。そこで この表を利用させてもらって、リュプケの位置を知るべく、リュプケとファーガスンを赤色で挿入し、私が名前を知らない人は取り除き、最古のヴィンケルマンと、やや後のベレンスンを加えて、11人の生年表を作ってみました。すると、リュプケも ファーガスンも だいぶ古い人だということが分かります。

人物年表

 学問としての芸術学は、18世紀ドイツの ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン (1717-1768) に始まると言われます。彼は 1755年に『ギリシア美術模倣論』を書き、芸術の真髄を「高貴なる単純さと 静謐なる偉大さ」であるとし、それを体現したギリシア美術を模倣することを奨励して、バロック、ロココのあとの美術界に「新古典主義」(ネオ・クラシシズム)を導入しました。
 近代の美術史学を切り開いた人として重要視されるのは、オーストリアの アロイス・リーグル 、スイスの ハインリヒ・ヴェルフリン、アメリカの バーナード・ベレンスン 、ドイツの アビ・ヴァールブルク などですが、いずれも リュプケよりも 40年前後 あとに生まれた人たちで、20世紀の前半に活躍して、それぞれに「学派」をつくりました。したがって いずれも リュプケよりだいぶ あとの世代であって、リュプケは ファーガスンと同じく、19世紀人としての 美術・建築史家です。

 ヴィンケルマンは 18世紀の人ですから これを第一世代とすれば、19世紀に生まれ、かつ世を去った クーグラーから リュプケまで(両者の間に ブルクハルトがいて、ファーガスンは 偶然にも クーグラーと同年の生まれでした)、この4人の 19世紀人を第二世代とすると、それから 一世代後の リーグルから パノフスキーまでが 同時代の人たちで、第三世代と言えます。
 クーグラーと ブルクハルトと リュプケの3人は ずいぶん親しい間柄だったようで、美術史や建築史の本を競って書き、また協力し合ってもいました。同世代のファーガスンとも似たような研究・著作活動をしていましたが、ドイツとイギリスの間で どれだけお互いを知っていたのかは 不詳です。
 私は、ファーガスンが書いた本は そのほとんどを所蔵していますが、ドイツ語の本は あまり読めないので リュプケ以外は架蔵していず、それぞれの著作の内容を じっくり比較することができません。したがってこの稿は、ほとんどを ネットでの調査に頼っています。ただ、その時代の本の多くが、近年 著作権が切れてパブリック・ドメインになりましたので、扉も 目次も 本文も ネットに公開されるものが多くなって、ずいぶん便利になりました。

ヴィルヘルム・リュプケの生涯

 ヴィルヘルム・リュプケは 1826年に 小学校教師の息子として、ドイツ(当時のプロイセン王国)西部のヴェストファーレン州、まだ小都市だったドルトムントに生まれました。 若い時は苦労しましたが、次第に頭角を現して、諸大学で美術史の教授職につき、その数々の著作は、非常に専門的と言うよりは 一般向けにポピュラーな筆致で書かれていたので、人口に膾炙して有名人となり、新聞や雑誌から絶えず原稿を求められるような 成功した人生を送り、1893年に カールスルーエで没しました(67歳)。
 はじめは、1845年からボンで古典文献学や哲学、文学史を学びましたが、革命家にして 1846年にボン大学の美術史の臨時教授になった ゴットフリート・キンケル (Gottfried Kinkel, 1815-82) によって、美術史に目を開かれたと言います(のちに、キンケルはドイツ革命後 投獄されたプロイセンの牢獄を脱獄してロンドンに渡り、ドイツにおける女性運動の草分けで、やはりロンドンに亡命していたマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと親友になり、アレクサンドル・ゲルツェンのサークルにも参加し、1866年からチューリヒの工業専門学校で美術史の教授を務め 、ドイツの初期美術史学に種々の業績を残しました)。
 リュプケは 1846年にベルリン大学に移って文献学研究を続け、L・V・ランケに歴史学を学びましたが、すぐに美術史に移ったようです。そこで ブルクハルトと親しい知己になり、その師であるフランツ・クーグラーのサークルに入り、彼の『美術史ハンドブック』(1842) に強い影響を受けます。

 リュプケは 1853年に 最初の著作、 クーグラーの「ポメラニア美術史」に基づいたという『ヴェストファーレンの中世美術』(Die Mittelarterliche Kunst in Westfalen) を上梓し、クーグラーと シュナーゼに捧げました。次いで、後述のように 1855年に『 建築史 (古代から現代までの) 』(Geschichte der Architectur ゲシヒテ・デア・アルヒテクトゥア) を出版して建築史家として評価され、そのおかげで2年後の 1857年に ベルリンの 有名な建築学校である バウ(建築)アカデミー (Bauakademie) の講師(建築史)となります (1857–61) 。同年に ベネツィアの未亡人 マチルデ・アイヒラーと結婚し、順風満帆の人生を歩み出しましたが、子供は授からなかったということです。

 1860年に 代表作『世界美術史』(美術史概説)を刊行して、その明快で均整がとれた 平易な叙述から、美術界ばかりでなく、一般人からも好評で迎えられました。
 その翌年にチューリッヒのスイス連邦工科大学 (Polytechnic in Zurich) に、ブルクハルトの後を継いで美術史の正教授 となり (1861–66) 、1863年には『 建築史 (古代から現代までの) 』の姉妹編たる『彫刻史(古代から現代までの)』(Geschichte der Plastik, von den ältesten Zeiten auf die Gegenwart) を書き、出版しています(ライプツィッヒ。1870年と1880年に改訂版)。
 1866年には シュトゥットガルトの工科大学 (Polytechnic in Stuttgart) に呼ばれて、美術史研究所の主任教授となりましたが (1866–85)、その最後の方では「口論や告発や攻撃」(Wikipedia) があったので、1885年に カールスルーエ工科大学 (Technische Hochschule in Karlsruhe) に移って、同様の役割の教授となり (1885–93) 、そこで没するまで勤めました。

『 世界美術史 』初版仏語版

リュプケ

リュプケの『世界美術史』の初版、1860年(万延2)
エブナー・ウント・ゾイバート書房、シュトゥットガルト
Wilhelm Lübke, "Grundriss der Kunstgeshichte", Stuttgart

リュプケ

リュプケの『世界美術史』英語版 の背表紙、1878 (明治11) 年版
Wilhelm Lübke, "Outlines of the History of Art"
Edited by Clarence Cook, Dodd & Mead, New York

リュプケ

リュプケの『世界美術史』フランス語版、上冊の表紙、1886 (明治19) 年
Wilhelm Lübke, "Essai d'Histoire de l'Art" broché, Rouam, Paris
Traduit par CH. Adolphe Koëlla, d'après la 9è édition originale.
25 cm, 423 pp, 368 figs. 下冊は 翌 1887年



リュプケの『 建築史 (古代から現代までの)

 話は遡(さかのぼ)って、1855(安政2)年に ジェイムズ・ファーガスンは『 図説・建築ハンドブック(すべての時代と国を代表する 様々な建築様式の、簡明にして平易な叙述からなる)』(The Illustrated Handbook of Architecture, Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages and Countries) 全2巻を出版していますが、それと同じ年に ヴィルヘルム・リュプケも、『 建築史 (古代から現代までの) 』(Geschichte der Architektur : ゲシヒテ・デア・アルヒテクトゥア)(von den Altesten bis auf die Gegenwart) という本を出版しているというのは、驚きです。ファーガスンと同じく 図版を重視したとはいえ、初版では木口木版画が 174点に過ぎず(ファーガスンの『図説・建築ハンドブック』では 上下巻で 836点)、改訂するにつれて 増加させていったようです。「このような著作を木版画群で描こうとしたのは、私が初めてだった」とリュプケは書いたそうですが、追々、ファーガスンに迫っていきました。

 リュプケは この著作によって建築史家として評価され、その2年後にベルリンの バウ(建築)アカデミー (Bauakademie) の「建築史」の講師に任じられたのでした (1857–61) 。この『 建築史 (古代から現代までの) 』も人気があり、少なくとも 1858,1865,1870,1875, 1884年に重版しました。1884年には増補改訂して2巻本としました(下巻は 1886年)。
 下の扉をクリックすると 別のページに 初版の目次が出ますが、それを見ると、コンパクトな書物ながら、非常に均整のとれた章立てで、インドもイスラームも アルメニアも入った、ごく正統的な「世界建築史」だと言えます。小規模とは言え、ファーガスンの浩瀚な『世界建築史』よりも 10年早い出版になります。イギリスやアメリカの 美術、建築の学生は、皆 ファーガスンを読んだでしょうが、ドイツの 美術、建築の学生は皆、リュプケを読んだことでしょう。ただ、リュプケもクーグラーも、インド建築を記述するためには、ファーガスンから学ぶほか なかったでしょう(ほかにインド建築を研究して本を出していた人はいませんでしたから)。リュキア美術に関しては、誰もが チャールズ・フェローズの本に頼ったように。

リュプケ

リュプケの『 建築史 (古代から現代までの) 』初版の扉
Wilhelm Lübke, "Geschichte der Architektur, von den Altesten
bis auf die Gegenwart" Emil Graul, Leipzig, 1855 (安政2) 年

 この翌年の 1856年に、最晩年のフランツ・クーグラーもまた『 建築史 』(Geschichte der Baukunst : ゲシヒテ・デア・バウクンスト)を書いて出版し始めたというのには、さらに驚いてしまいました(「アルヒテクトゥア」 から「バウクンスト」に 題名を違えていますが)。ドイツでは 美術史家と建築史家の区別がほとんどなく、両者を兼ね備えているのが普通でしたが、これほど たて続けに「世界建築史」の本を出すような需要があったのでしょうか。

クーグラー

フランツ・クーグラー著『建築史』4巻のうち 第3巻までの革装本
"Geschichte der Baukunst" Franz Kugler, 1856 - 59,
Ebner & Seubert, Stuttgart (ウェブサイトより)

 日本では、「美術史」と「建築史」の領域が はっきり分かれてしまっています。それは明治時代の初めに、殖産興業のために工部省が「工部大学校」をつくり、「お雇い外国人」の教員のもと、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の6学科の体制で、日本最初の最高等教育機関としての工学教育を始めました。これに対して 芸術教育としての「建築科」は、当初より東京美術学校に「絵画科」、「彫刻科」とともに設置するはずだったのが、いつまでたっても行われず、この「古書の愉しみ」の第26回「岡倉覚三の『茶の本』」の後半部にも書いたように、とうとう大正 12年になるまで遅れ、日本の建築教育は「工学部」の建設工学教育の中で行われる体制が できあがってしまいました。
 そのために 日本の「建築史家」も、工学部の建設工学科の卒業生が ほとんどになります。「美術史家」は文学部の「美学・美術史学科」などの卒業生のために、建築は(理数系の)工学だという先入観から 建築とは疎遠になり、あまり建築に深入りしないことになり、両者は まるで別物のようになってしまったのです。ヨーロッパの名だたる美術史家が しばしば 建築史の本を書いているのに対し、日本では まず そういうことがありません。それぞれの師弟関係も交友関係も 全く別の世界になってしまい、協働するということも あまり ありません。日本の美術 ― 建築関係の大いなる不幸です。

 クーグラーの『 建築史 』は、シュトゥットガルトのエブナー・ウント・ゾイバート書房からの、全4巻の出版でした。 1856年の 第1巻 (574 pp.)、 1858年の第2巻 (592 pp.)、1859年の第3巻 (588pp.) は いずれもクーグラー著ですが、クーグラーが1858年に没した後になった 第4巻 (676 pp.) は、ブルクハルトと リュプケが共著として書いて 1867年に出版した「近世の建築史」です。その前半(第1部)が、ブルクハルトの 『イタリア・ルネサンス(建築)の歴史』で、後半(第2部)が、リュプケの『フランス・ルネサンス(建築)の歴史』でした。前者は ブルクハルトの最後の 公刊著作になりますが、彼は 建築史家でもあったのです。

 一方、建築史で出発したリュプケは 美術史のすべての領域を著作で踏破する欲望を持っていたようで、1855年の『 建築史(古代から現代までの)』と 1860年の『 世界美術史 』(美術史概説)に続いて、1863年には『 彫刻史(古代から現代までの)』(Geschichte Der Plastik von den Altesten Zeiten bis auf die Gegenwart) も出版しました。こうした 立て続けの著作活動ができたのは、彼の最も油の乗った壮年期だったからでしょう。さらに『 絵画史 』も計画していましたが、上記の「フランス・ルネサンス(建築)の歴史」を執筆していたからか、これは実現せず、ウォルトマンという人に委ねたようです。
 ブルクハルトの影響もあって、晩年のリュプケは ルネサンスの探求に傾いていたようで、1882年には『ドイツ・ルネサンス(建築)の歴史』(Geschichte der Renaissance in Deutschland) 全2巻(第1巻 524 pp., 第2巻 534 pp.)を書いて、やはり エブナー・ウント・ゾイバート書房から出版しました。

『 世界美術史 』増補改訂版

リュプケ

リュプケの『世界美術史』5巻本、独語版 (ウェブサイトより)
1899 (明治32) 年~1913 (大正2) 年、
布装、26cm、ポール・ネフ書房、シュトゥットガルト

 ヴィルヘルム・リュプケの没後に、マックス・セムラウ (Max Semrau, 1859-1928) とフリードリッヒ・ハーク (Friedrich Haack, 1868-1935) が 1899年から 1905年にかけて これを大幅に改訂増補して5巻本にしました。ジェイムズ・ファーガスンの没後に、ジェイムズ・バージェスやリチャード・フネ・スパイアズらが ファーガスンの『インドと東方の建築史』や『世界建築史』の改訂増補版を作ったのと同様ですが、もっと大規模です。ファーガスンの本は 同じジョン・マリー出版社から出ましたが、リュプケの本の場合は それまでと代わって、シュトゥットガルトのポール・ネフ書房 (Paul Neff Verlag) から出されました。
 全5巻の構成は次の通りです。これを見ると、せっかくの「世界美術史」から「西洋美術史」に後退してしまったかの印象を受けます。

  第1巻 1899 セムラウ 「古典古代の美術」     458 pp., 13 plates, 572 figs. 
  第2巻 1901 セムラウ 「中世の美術」       488 pp., 10 plates, 520 figs. 
  第3巻 1903 セムラウ 「ルネサンスの美術」    595 pp., 20 plates, 549 figs. 
  第4巻 1905 セムラウ 「バロックとロココの美術」 454 pp., 20 plates, 443 figs. 
  第5巻 1905 ハーク  「19世紀の美術」       632 pp., 33 plates, 453 figs. 

これらは「西洋美術史」の教科書的役割を果たし、何度か重版しましたが、もはやリュプケの時代は去っていました。

*     *     *

  リュプケの次に世界美術史として大きな出版をしたのは、フランスの美術史家 エリー・フォール (Élie Faure, 1873-1937) で、それは ずっと後の 20世紀のことです (1909-1921) 。リュプケの 半世紀も後のことですが、これは 全4巻から成る大部のものです(もっとも 内容は、ほとんど西洋美術史ですが)。エリー・フォールは、医学の道に進み、1899年に医学博士号を取得するも、独学で美術評論の世界に入いり、1909年に『美術史』第1巻となる『古代美術』を刊行。その後第2巻『中世美術』、第3巻『ルネサンス美術』、第4,5巻『近代美術』と続いて完結させ、後に第6,7巻として「形態の精神」 (1927) を著して、進化論に基づく様式発展の理論を提示したと言います。  

ゴンブリッチ    ジャンソン    フォール

(左)エルンスト・ゴンブリッチ著 『美術の歩み』友部直 訳, 1972, 美術出版社
(中)ジャンソン&カウマン著『美術の歴史』木村重信・辻成史 訳, 1981, 創元社
(右)エリー・フォール著 『 美術史 』 篠塚千恵子 訳 第1巻, 2002, 国書刊行会
(出版順、前二者は 改訂新版が 別の装幀で出ている)
これら いずれも「西洋美術史」であって、「世界美術史」ではない。

 エリー・フォールのあとに 総合的な「美術史」を書いたのは、オーストリア系の美術史家 エルンスト・ゴンブリッチ (Ernst Hans Josef Gombrich, 1909-2001) です。彼はオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで、富裕なユダヤ人一族の子として生まれ、ウィーン大学で学んだ後 1936年に英国に渡り、ヴァールブルク研究所に職を得て、最終的には所長を務めました。
 ゴンブリッチの『The Story of Art』の邦訳版は、まず 1950年に『美術の歩み』として友部直の訳で美術出版社から出ました。2007年には 天野衛・長谷川宏ほか全8名の訳で『美術の物語』としてファイドンから出され、2011年に河出書房新社に移って、2019年には改訂版で出されました。世界各国語に翻訳されて、数百万部も売れてきたそうです。カラー図版がたくさん入った決定版と言えますが、しかし、あくまでも「西洋美術史」であって「世界美術史」ではありません。『西洋美術の歩み』、『西洋美術の物語』という題名にすべきものです。
 そこには、私が研究してきたインド美術もイスラーム美術も 無いも同然で、アルメニアやリュキアに至っては、その名前さえ 出てきません。160年も前に書かれたリュプケの『世界美術史』よりも、世界に対する姿勢が 狭まっているように思えます。こういう本が、文化相対主義的21世紀の現在においてさえ、最も普及している美術史の本だというのは、やりきれません。こうした本によって 一般の人は、「美術史」というのは「西洋美術の歴史」だと思い込まされてしまうのです。更に言うなら、こうした傾向が 白人偏重、東洋人蔑視、黒人蔑視、先住民蔑視にも つながるのです。

ゴンブリッチ

ゴンブリッチ著 『美術の物語』2019年、河出書房新社
原本は "The Story of Art" E. H. J. Gombrich, 1950, Phaidon, London

( 2024 /09/ 01 )


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