ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - XLV
建設省 営繕協会 編 
『 国立国際会館 設計競技 応募作品集 』

Ministry of Construction :
" Competition of the National Conference Center "
1964, Architectural Institute of Japan


神谷武夫

 国立国際会館
国立京都国際会館、大谷幸夫設計(『国際建築』1966年7月号 より

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 わが国の 建築設計競技(コンペティション)の歴史において、最も優れた条件整備が行われ、かつ 最も充実した成果を挙げたのは、今から半世紀前に行われた 国立京都国際会館(国際会議場コンプレクス)でした。そしてまた その報告書として出版された 『 国立国際会館 設計競技 応募作品集 』もまた、最も優れたコンペ報告書・応募作品集であったので、「古書の愉しみ」の第45回として この本を採りあげます。
 当時の重鎮建築家たちが審査員を務め、新進気鋭の建築家たちが こぞって応募した このコンペの作品集は、優秀な建築家たちが まったく同じ条件から、いかに異なった 独自の、しかもハイレベルの設計をするものか、ということを学ぶことのできる、絶好の教科書であったと言えます。今の建築学生たちにも お勧めの本です。このコンペの 審査員たちばかりでなく、入選者のほとんどが鬼籍にはいってしまった現在、当時の(20世紀半ばの)日本の建築界を振り返る回顧の書でもあります。   (2018/07/01)



国立劇場コンペと 国際会館コンペ

  1960年代は、日本の高度経済成長期であるとともに(それゆえに、と言うべきか)建築界が最も活気を呈した時代でした。その10年間に雑誌を賑わせた主な作品をざっと見ても、
 『東京計画1960』(丹下健三)1961、 『東京文化会館』(前川国男)1961、
 『森の中の家』(吉村順三)1962、 『出雲大社・庁の舎』(菊竹清訓)1963、
 『日生劇場』(村野藤吾)1963、 『国立屋内総合競技場』(丹下健三)1964、
 『パレスサイド・ビル』(日建設計)1966、 『親和銀行本店』(白井晟一)1969、
 『大阪万国博覧会』会場設計とパビリオン(大家から若手まで大勢)1970
など、住宅から都市設計まで錚々たる名作が多数あり、ほかにも『新建築』や『建築文化』など 多くの建築雑誌に、毎月 話題作が載りました(木賃アパート特集ばかり やっている今とは 大違いです)。これらと並行して 1963年には国家的なコンペが二つあり、それぞれ竣工したのは、
 『国立劇場』(竹中工務店)1966、 『国立京都国際会館』(大谷幸夫)1966 でした。

これら二つの施設は公開コンペにすべきだ、という主張、請願が広まり、気運が熟して、明治以来のコンペの歴史において、初めて建設省が主催する国家施設の一般公開コンペが行われることになりました。それが具体的にどのようなコンペになるのか、雑誌による毎月の報道に一喜一憂していた建築家たちは、かたずを呑んで募集要項の発表を待ちました。
 1962年9月、「古典芸能の正しい保存と新しい芸能の創造発展」を目的とする国立劇場のコンペ要項が発表になり、応募締め切りは 1963年2月末、審査委員長は内田祥三(元東大総長)、一般審査員は河竹繁敏、高橋誠一郎、細川護立。専門審査員は小泉嘉四郎(劇場建築専門家)、伊藤喜朔(舞台美術家)、岸田日出刀(東大教授)、村野藤吾、吉田五十八、谷口吉郎とわかりました。村野、吉田、谷口の3人は芸術院会員で、後に文化勲章を受章する、日本の和風建築設計の3大巨匠建築家でした。

 これは日本最初の国立劇場で、主に歌舞伎を上演する大ホールと、文楽や舞踊を上演する小ホールから成ります。ずっとのちに 国立能楽堂(東京)、新国立劇場(オペラ・バレー用)、国立文楽劇場(大阪)、国立劇場おきなわ(那覇)が建設されることになりますが、まだこの時には わかっていません。
 審査は、かつて岡田信一郎設計による戦前の歌舞伎座を、戦後復興・改装して歌舞伎のことをよく知っている吉田五十八が 主導権を持つであろうことが予測されていて、外観も和風建築であることが期待されていると考えられました。
 また、要項には、当選者を「実施設計に関与させる」という曖昧な表現があるのみで、コンペ入選案がそのまま実現されるという保証がなく、戦前のコンペのように、別人が実施設計を行ってしまうという恐れもありました。戦後においてさえ、村野藤吾は 広島平和聖堂のコンペ(1948)で審査員を務め、1等入選なし としながら、のちに自分が設計をしてしまうという、悪しき先例を作っています。

 国立劇場コンペの要項発表の3か月後の1962年12月に、今度は国立国際会館のコンペ募集要項が発表になりました。応募締め切りは1963年6月1日なので、国立劇場の3か月後です。審査委員長は互選により 伊藤滋、一般審査員は伊藤忠兵衛、植村甲午郎、大原総一郎、奥村勝蔵、高山儀三、建築審査員は委員長を含め、松田軍平、佐藤武夫、東畑謙三、前川國男、丹下健三の6人で、11人の半分以上でした。そして、入選者に「実施設計を担当させる」ことが明記されたのです。
 どちらの施設も 床面積は約 27,000平米(約8,000坪)という巨大なもので、その応募案を作成するにはかなりの労力と費用がかかります。しかも ほとんど同時期のコンペの 両方に応募するというのは大変です。そのために、若手の現代建築志向の建築家の大半は、審査員のメンバーからしても、国際会館コンペに専念することにして、国立劇場コンペの応募は断念したようです。

 国立劇場コンペは 応募が307点と多数にのぼりましたが、その審査結果が発表されると、落胆の波が広がりました。入選案は玉石混交、応募案の大多数は 和風表現で、1等当選案は「校倉造り」の 正倉院を模したもの でしたから、時代が1世紀 後戻りしたような[過去様式 選択主義」のデザインが勝利した というわけです。審査会でも 揉めたらしく、評決が出ないので、最後は 内田祥三委員長の裁決によって、これが選定されたと言われます。内田祥三は内田祥哉の父で、東大で主に構造を教え、安田講堂を岸田日出刀と共同設計した人です。

 岩本博行     吉村順三
国立劇場コンペ、岩本博行案と、吉村順三案

 1等に入選したのは 竹中工務店 大阪本店の設計部で、代表者は設計部長の 岩本博行。プランは一辺が 100mの正方形で、外観を 正倉院のようにしたことから、ホワイエからの、東京には珍しい風光明媚な 皇居側の眺めを遮断してしまいました。
 いずれのコンペも、私が建築の勉強を始めるよりもずっと前のことなので、当時の建築界の動きや反応について、身をもって知っているわけではありません。ところが私の学生時代に国立劇場が竣工、文楽が好きだった私は「国立劇場 あぜくら会」の会員となって、よく行きました。ロビーのインテリアは 特に和風というわけでもなく(もちろん正倉院の内部を模した わけでもないでしょうが)皇居側の眺めを遮断した、奥行の小さい閉鎖的なホワイエは、あまり快適な所ではありませんでした。劇場に来たという高揚感が まるで ありません。
 岩本博行 (1913 -91) は 1932年に都島工業高校を卒業して竹中工務店に入社、コンペ当時は大阪本店の設計部長、のちに設計担当の常務となりました。応募の設計スタッフは、全員 大阪本店の設計部員です。  国立劇場コンペの1等が 竹中工務店、2等は 創和建築設計事務所でしたが、3等は ひとつが大阪建築事務所で、もうひとつは 清水建設の設計部、さらに 佳作5案の内のひとつも 清水建設だったと知って 快哉を叫んだのは、「ゼネコン万歳」を唱えていた東大助教授の 村松貞次郎でした。『建設通信新聞』に 素早く次のように書いています。

 「 コンペの結果、請負会社(建設会社)の設計部が1等に入選したということは、なんといっても特筆すべきことであり、竹中のような組織が1等になったのは 時代の必然である と言ってもよい。客観状勢の間隙をぬって当選したのでなく、やはり実力が ものを言ったとみるべきで、建築事務所と正々堂々と太刀打ちしても、出るものが出た という感が深い。」

 しかし このコンペの審査経過は一切 発表されなかったし、入選9案以外の応募案も どんな設計だったのか不明で、審査委員長をはじめ すべての審査員が 新聞・雑誌の取材に対して 口を閉ざしていたという。もちろん 審査報告書も 応募作品集も 出版されませんでした。それでも 漏れ出た情報によると、予想通り 吉田五十八 (1894-1974) が審査の主導権を握ったらしく、また吉田の作風を狙った応募案が多かった、1等案は すべてに無難な点が買われた、ということのようです。
 建築評論家・編集者の宮内嘉久は『東京新聞』4月5日号で次のように書いています。

 「9点の当選作全体を みわたすとき、真に独創的なもの のみが もちうる迫力というか緊張感の 希薄さ ―― というより、もっと はっきりいえば 審査員に対する、あらわな追従の精神であった。とりわけ 俗にいわれる王朝風とかの 軒の反りや 柱の丸みに至るまでの、ある審査員の作風に対する こび であった。(しかし、この点での 例外 ―― 対蹠的な ―― は 二つあった。一つは 吉村順三の佳作で、これは 自分の文体をもっており、他の一つは ちょうど反対に、これが佳作かと 目を疑わせるにたる、折り目を喪った作品である。」

 当時 吉村順三 (1908 -1997) は東京芸術大学の教授でしたが、吉田五十八の教授時代に 助教授を務めた にもかかわらず、吉田の作風には まったく媚びず、日本の伝統建築を 模することもなく、モダニズムの設計を貫きました。4層分のホワイエからの 皇居側の眺望を重視して、大きなガラス張りの吹抜け空間にしたことも好評で、 審査発表後、これが1等になるべきだった、という世評が高かったようです。
 「折り目を喪った作品」というのは、ミース・ファン・デル・ローエのような外観をまとって、佳作に選ばれた 田中俊郎の案のことです。なぜ これが佳作に選ばれたのかは 謎です。
 また建築評論家の川添登は『毎日新聞』5月16日号で次のように言っています。

 「 今回の当選案は、日本の建築を逆行させるものである ばかりか、施工会社設計部のあり方に対してすら 傾斜した方向を示している。これを選んだ審査員を疑うが、審査経過報告書はもちろん、恒例の講評すら 行われないと聞いた。こんなことで できる国立劇場は、古典芸能の 倉よりも 墓になってしまうのではないか と心配だ。」

 吉田の評判は 地に落ちました。彼の評価が回復するのは、その死後に 遺言で、遺産をもとに「吉田五十八賞」を創設したことで、かつて吉田の悪口を言っていた 若手建築家たちも、この賞をほしくて、吉田五十八の業績(コンクリートなど現代の材料による 近代和風建築、大壁による木造建築など)を 高く評価するようになります。



 さて、国立劇場の発表の4か月後、いよいよ国立国際会館コンペの審査結果が発表されました。応募案は195点、数は国立劇場の 2/3でしたが、応募案のレベルは ずっと高い というのが大方の認識でした。結果は 村松の期待に反して、最優秀と優秀の4作品は いずれもフリー・アーキテクト(大谷幸夫、芦原義信、大高正人、菊竹清訓)、準優秀8点のうち、フリー・アーキテクトが3点(円堂政嘉、柳英男、吉村順三)、ゼネコン設計部が1点(大林組)、中間が2点(槇文彦、佐野佐門)、組織設計事務所が2点(日建設計、三菱地所)というものでした。
 最優秀と優秀案は、第一線で活躍する若手の建築家で、大谷は40歳、芦原は44歳、大高は40歳、菊竹に至っては35歳という若さでした(一般に建築界では、50歳以下を若手と言う)。 そもそも コンペの募集要項には、次のように書かれていました。

 「 この会館は主要な国際会議を円滑に運営するための十分な機能と設備を備えることはもちろん、国際文化観光都市 京都の新しいシンボルとして、世界に誇るにたる優れた造形作品であることが要求される。ここに国は、この会館を真に優れた施設とするため、この設計案を広く一般から募集することにした。全国の建築家諸氏がこの設計競技に参加し、優れた設計案を寄せられんことを せつに望んでやまない。

 「世界に誇るにたる優れた造形作品」が、時代が1世紀 逆戻りしたような「様式選択主義」の設計であるはずもないでしょう。入選案はいずれも現代的で魅力的な案ですが、とりわけ大谷案と菊竹案は新鮮で迫力のある設計案でした。私は1等案の建設中に訪れて、(その「角出せ 槍出せ」といった造形には批判もありましたが)、全体構成から内部空間、ディテールに至るまで 感激して見て歩いたことを覚えています。
 素晴らしいことには(審査委員長の伊藤滋をはじめとする審査員団の見識によって)、コンペの審査経過が きちんと発表され、全応募案の展覧会も行われ(もちろん私は見ていませんが)、さらに 詳細な「応募作品集」が刊行されたことです。私は学生時代に それを買って、むさぼるように見ました。実際 この本は、何よりも勉強になる、設計の教科書でした。
 では、最優秀案と優秀案はできるだけ詳しく、準優秀は一通りスキャンして、以下に載せておきます。この大きさでは 文字は読めないでしょうから、学生諸君は図書館で探して、実物を見 てください。




国立国際会館 設計競技(コンペティション)

  国立国際会館
『 国立国際会館 設計競技 応募作品集 』1964年



最優秀作品、大谷幸夫

 大谷幸夫(1924 -2013)は長く東京大学の丹下研究室で浅田孝とともに助手をつとめ、『広島計画』や『旧・東京都庁舎』をはじめ、丹下健三の初期の作品は ほとんどを担当した。東大に都市工学科が造られた時に助教授に就任し、建築家としても独立した。初期には後輩の沖種郎と組んで共同設計組織「設計連合」と称したので、国際会館も連名で応募した。しかし次第に意見を異にし、実施設計中に袂を分かったので、最終的には大谷一人の作品となった。
 大きな会議場の空間の断面は「台形」が良い というのが、この設計の出発点だった(大谷は「梯形」という 古い言い方を使っている)。すべての会議場の断面を台形にして積層させると、V字形の柱が浮上してくる。V字形の柱を並列させると、会議場の両脇に「逆台形」の空間ができてくるので、これに付属室(通訳ブースなど)を収め、建物全体を台形と逆台形の空間の積層とし、V字形柱の構造で秩序づける、というのが大筋であった。プランは、そうした大小ふたつの棟をずらせて雁行させ、変化に富んだ外観と内部空間の連続を得た。
 実施設計では、横山不学建築構造設計事務所から独立した木村俊彦 (1926-2009) が 構造設計を担当し、大谷の構想を そのとおりに実現させた。工事は18ヵ月で 1966年に竣工、9月に建築諸雑誌に発表された。


最優秀作品 大谷幸夫 模型写真、配置図 (1/1,000)
(この見開きページのみ『新建築』誌より取るが、内容的には『応募作品集』と全く同じ)


最優秀作品 大谷幸夫 1階平面図 (1/200)


最優秀作品 大谷幸夫 各階平面図 (1/200)


立面図 (1/200)

最優秀作品 大谷幸夫 立面図、断面図 (1/200)


最優秀作品 大谷幸夫 内部透視図、説明図


矩計(かなばかり)詳細図 (1/50)
 さて、若き日の原広司は 香山寿夫らと 設計グループ RAS で応募もしたが、建物竣工後『国際建築』1966年7月号で 大谷の設計の批評をし、その末尾に 次のように書いている。

「 批評を書くにしたがって、京都国際会館の意義が理解できてきた。空間の均質性を破りつつ、自由度の高い空間をつくった(大谷の)タフさを思うと、作者の精神の 凄みを帯びた充実ぶりに 憧れずには いられない。」

 一方、大谷幸夫と同世代の建築評論家・山本学治(1923 -77)は 同誌上での批評に、おもしろいことを書いている。

 「第二次大戦後ジュネーブで開かれた最初の国際文化会議においてヨーロッパ精神の将来が討議されたとき、マルクス主義的行動理論を主張するルカーチと、実存哲学の立場を固守するヤスペルスとの間にかわされた論争は、その後十数年にわたる政治・経済・思想における二本の平行路線を最初に暗示したものとして、よく引用される。
 ルカーチは歴史全体の動向のマルキシズム的認識に立ったうえで、それを修正し発展させるための個々の行動の意義を説いた。けれどもヤスペルスは、歴史的社会的な全体を認識することは不可能であり、認識できない「全体」とは、個々の行動の基盤としては存在しないも同然である、と反論する。そして個々の人間は、それが置かれている状況を必然として身に受けながら、反面 自由な可能性によって新しい状況のなかに身を投じてゆくところに、個々の存在の意義を見出すのだ、と主張して譲らなかったのである。
 この論争を、ふたつの行動の論理として正しく評価することは、僕にはできそうもない。けれども、少々見当はずれかもしれないのだが、大谷幸夫の作品を見たり、彼の書いたものを読んだりすると、ふしぎにも、この論争におけるルカーチに対するヤスペルスの態度が想い出されるのである。」

  これは、丹下健三(マルクシストではなかったが)が ルカーチに、大谷幸夫がヤスパースに相当するというアナロジーだ。都市設計において、部分を全体に従属させる丹下理論に対して、部分の次元的向上と集積が全体を作るという方法論を『麹町計画』で明快に示してみせ、政権寄りの丹下に対して 市民主義に進んでゆく大谷の姿をよく描いていて、その大谷の方法が国際会館コンペ案にも貫かれているというわけだ。

 ところで、大谷案は「稲懸け」(いなかけ)をモチーフにした 台形と逆台形の積層でできていると、よく説明される。しかし大谷は「稲懸け」という言葉を使ってはいない。誰が そう言い出したのだろうか?(ウィキペディアには「日本古来の合掌造り様式と現代的建築様式の融合」などと書いてあるが、それも誰かの 後付けの説明である。)実は「稲懸け」を造型・空間モチーフにした建物というのは、菊竹清訓の『出雲大社・庁の舎』である。国立国際会館コンペ公示の1年前に、菊竹がその設計案を発表した『建築』1961年11月号では、下の 流政之(ながれ まさゆき)の写真まで載せて説明している。その模倣だと言われないためにも、大谷自身が「稲懸け」をモチーフにした などと、言うはずもなかろう。コンペの審査時における 大谷案の あだ名は「海賊船」であったという。

(菊竹の説明) いなかけ は、出雲地方では 稔りの秋に、
どこにも見られる 稲束乾燥用の柵であって、なじみ深い
親しみのある、豊かな形と 単純な構造を もっている。


 次に 優秀作品3点であるが、同等作品は 通常 作者の「あいうえお順」に配列され、それが優秀度順に見えてしまうので(この作品集でも)、このサイトでは 「逆・あいうえお順」に配列してみる。すると、優秀作品3案の中では、このコンペの最大の問題作・菊竹清訓案が最初に登場する。その設計密度の高さと独創性は、大谷案に引けを取らない。コンペ審査においては、大谷案と菊竹案が 最後まで凌ぎを削る戦いだったという。


優秀作品、菊竹清訓

 菊竹清訓(1928 -2011)は早稲田大を出たあと 村野藤吾の事務所などに数年間勤めた後、25歳の若さで独立して菊竹清訓建築設計事務所を設立。天才的建築家として、15年上の丹下健三と張りあうほどだった。自邸『スカイハウス』や『出雲大社・庁の舎』などで若手のチャンピオンとなり、国立国際会館コンペでは 35歳にして 最も刺激的な案を提出した。内井昭蔵をはじめ 当時の事務所スタッフ全員が総力をあげるばかりか、構造の松井源吾、設備の井上宇一、グラフィックの粟津潔を 主たる共同者として名を連ねている。『新建築』誌の座談会で、一般にコンペというと徹夜を続けたり残業をしたり、非常に無理な状態で仕事をするけれども、菊竹事務所では残業もせず、勤務時間の中でコンスタントに設計のスケジュールを組んでやったと述べているが、にわかには信じがたい。まあ、それだけ普段からの実績、アイデアの蓄積があるから、こんな問題作でもスムーズにできたということだろうか。
 応募案は、建物全体を空中に持ち上げ、十字形の大柱の上に プレストレスト・コンクリートの梁を大スパンのコーナーで積み重ね、上階ほど持ち出しを大きくして 社寺建築の斗組(ますぐみ)のような構造とし、末広がりの空間の中に会議場を収めている。構造、設備との関係も詰め、かなりのディテールまで設計している。建築造型としても 人を驚かせるに足るし、日本建築の伝統まで感じさせるだろう。
 最大の難点は、十分な広さの敷地があるにもかかわらず、会議参加者も 管理スタッフも 傍聴者も、いちいちエレベーターで 空中に上らなければならないような構成にする必然性がない ということだった。

優秀作品 菊竹清訓 模型写真、配置図


優秀作品 菊竹清訓 各階平面図


優秀作品 菊竹清訓 立面図、説明図




縦断面図


優秀作品 菊竹清訓 説明図


矩計詳細図



優秀作品、大高正人

 大高正人(1923 -2010)は東大の大学院を出るとすぐ前川国男の事務所に入り、12年間務めた。その頭脳と造形的才能で、東京文化会館など、次々と評判作を担当した。所員仲間で前川事務所内に MID グループというのを作り、その名で作品発表をするというのも 変わった行動だった。38歳で独立し、大高建築設計事務所を始めた。川添登らとメタボリズム・グループを結成、槇文彦と組んで「群造型」を提唱、農協建築の近代化に尽力、人工土地の提案を四国の坂出で実践した。千葉県文化会館、中央図書館、広島基町再開発など、多くの作品がある。
 国際会館の応募案は 巨大な施設なのに、こじんまりとした印象を与えるのはなぜだろうか? 実現したとしても、大谷案や菊竹案のような威容は 期待できなさそうである。大・中会議場の HPシェル8枚から成る建築空間というのは、丹下健三の東京カテドラルがそうであったが、それを裏返しに (?) したかのごときインテリア空間が、実際にどんなものか 想像がつきにくく、図面やパースで もっと表現してほしかった。外観は 全体にずんぐりした印象を与え、HPシェルの屋根造型は 地上からは味わえない。プランはたいへん明解で 高く評価されるが、会議に臨む人々の期待感に応じるような広いエントランス・ホールのないことが大きな欠点と指摘された。

優秀作品 大高正人 配置図、平面図


優秀作品 大高正人 面積表、断面図



立面図

優秀作品 大高正人 説明図



優秀作品、芦原義信

 芦原義信(1918 -2003)は東大を出て、戦後の最初のフルブライト留学生としてハーバード大学に学び、マルセル・ブロイヤーの事務所などで実務をして帰国し、38歳で芦原建築設計研究所を始めた。すぐに 中央公論社ビルで学会賞を受賞したこともあり、請われて 武蔵野美術大学に建築科を創設したことでも知られる。都市景観について論じた著書『街並みの美学』で 世の中から高く評価された。オリンピック駒沢体育館、ソニー・ビル、東京芸術劇場など 多くの作品がある。東大教授、建築学会会長、建築家協会会長も務めた。
 応募案は まことに明快なプランだが、あまりに図式的なので、やや拍子抜けする全体像でもある。師であるブロイヤーの作品におけるような 彫刻的表現も見当たらない。大・中・小会議場がすべて平等に扱われているので、小規模の国際会議をする団体も、脇に追いやられた感じをもたずにすむだろう。増築計画も完璧で、図式の威力を感じさせる。長大なラウンジが湾曲していて、どこからでも宝ヶ池への眺望を持つのも優れている。その代り 通路状のラウンジ空間が単調に過ぎ、大谷案におけるような 空間的魅力と使い勝手に欠ける。

優秀作品 芦原義信 配置図、平面図


優秀作品 芦原義信 立面図、説明図


立面図

優秀作品 芦原義信 断面図、説明図

 準優秀作品も 「逆・あいうえお順」に配列する。 すると吉村順三案が最初に登場する。 前述のように、ほとんどの建築家は 国立劇場コンペか 国際会館コンペか どちらかを選び、それに全力投球をした。 ところが吉村順三は両方のコンペに参加し、どちらにも準入賞をするという快挙をした。 事務所としては相当な負担になったと思われるが、これは ひとえに チーフの奥村昭雄(1928 -2012)の意欲と情熱を 吉村が許容したということだろう。


準優秀作品、吉村順三

 吉村順三(1908 -1997)は 東京美術学校(現・東京芸術大学)在学時から アントニン・レイモンドの事務所で仕事をし、35歳で独立して吉村設計事務所を始めるとともに母校の助教授になった。戦後は主任教授として教育にあたるとともに 皇居の新宮殿の設計もした。住宅をメインの仕事としたので、この応募案にも、そうした きめの細かさが うかがわれ、全体を ひとつの矩形の枠に収めたものとしては最良の案だった。最も特徴的なのは、大会議場の正面を ガラス張りにしたことである。ロビーやレストランから宝ヶ池の眺望が得られる配置にするだけでなく、大会議場のステージの可動ルーバーを開くと、京都の主峰 比叡への眺望が開けることである。こうしたアイデアは、住宅の快適さを探求した吉村ならではのもので、他の応募案には見られない。増築もスムーズに行えるであろうことが 見てとれる。

準優秀作品、吉村順三 配置図、平面図


透視図

準優秀作品、吉村順三 説明図



準優秀作品、柳英男

 柳英男(1920 -1992 )は東工大の出身で、鹿島建設の設計部に勤めた後、28歳の若さで独立して柳建築設計事務所を始めた。しかし柳の作品は、ひとつも思い出せない。どのような仕事をされていたのだろうか。国際会館の応募案は、大会議場と中会議場を独立建物のように扱って シンボリックな形を与えて向かい合わせ、管理部門と通路状のラウンジで結んだ。中・小会議場を増築した暁には、この通路状ラウンジは狭すぎることだろうが、外観のイメージは秀逸である。メインのアプローチを宝ヶ池側にとったので、ラウンジと池側庭園との関係が切れてしまった。

準優秀作品、柳英男 配置図、平面図


準優秀作品、柳英男 説明図





準優秀作品、向田長和

 向田長和(1930 - )は東大出身で三菱地所の建築部のスタッフとして設計活動をし、のちに副社長になった。国際会館コンペの応募も三菱地所・建築部の所属としてであったが、協働者の名は一切ない。応募案は、大ロビーをはさんで大会議場、中会議場、二つ合わせの小会議場をそれぞれ偏心ピラミッドにして向かい合わせるもの。似た構成の柳案に比べると、造型は大味である。吹抜けの「展示ホール」を中央に置いて 空間的に全体を結びつけようとしたのは独特。

準優秀作品、向田長和 配置図、平面図




準優秀作品、槇文彦

 槇文彦(1928 - )は東大とハーヴァード大を出てSOM事務所などに勤めたあと帰国し、1965年に37歳で 槇総合計画事務所を開設、1980年代は東大教授を務めた。槇は竹中工務店の15代社長(竹中錬一)の甥で、初期のスタッフ(協力者)は 竹中の設計部の人たちだった。出世作の名古屋大学豊田講堂 (1960) も竹中工務店の仕事である。国際会館コンペの応募登録も、所属は竹中工務店となっている。独立後 多くの質の高い作品を作り、現在は建築界の最長老格の現役建築家。国際会館の応募案は、アプローチ側に細長く管理・運営部門を置き、そこから宝ヶ池に向かって、正方形プランの大会議場と中会議場を突き出すが、周囲を壁で閉じているので、池側の眺望が得られるわけではない。全体によく練られているが、これぞ といった特質に欠けるようだ。

準優秀作品、槇文彦 配置図、平面図


準優秀作品、槇文彦 説明図



準優秀作品、佐野佐門

 この応募案を作成したのは佐野幸夫(1936 -2011)であったが、登録時に応募資格である一級建築士の資格をもっていなかったため、父親である建築家・佐野佐門の名で登録したというから、鹿島の設計部としてではなく、個人で設計・応募したのだろう。幸夫は早稲田大学を出て鹿島建設の設計部に勤め、鹿島の専務にまでなった。のちの最高裁判所のコンペでは、鹿島設計部の佐野幸夫チームとして応募し、優秀作品に選ばれた。才能ある人だったが 独立しなかったので、その名を記憶している人は多くないだろう。国際会館の応募案は会議場自体を目立たせることなく、中がくびれた二重曲線の扇形の中に諸室を配置したプランは独特であっても、やや外観の魅力に欠ける。まだ20代の若さだったので、案全体に未成熟の感は否めない。

準優秀作品、佐野佐門 配置図、平面図



準優秀作品、阪長金重

 日建設計は 戦後の住友商事の建築部が専業設計事務所になったもので、わが国最大の設計組織となった。大きな株式会社ではあるが 設計作品を作ることに力をいれてきたので 名作も多く、実力のある建築家も多く在籍してきた。国際会館のコンペでは コンペ用のチームを作って力作を提出した。代表の阪長金重は 当時の社長だったのか、建築家としては 知られていない。協働者は林昌二、坂田義男、山下和正、増田嘉彦、三浦明彦。おそらく 林昌二が全力投球をしたのだろう。応募案は、アプローチ側を巨大なHPシェルの大屋根で覆い、宝ヶ池側を開放的な高層段状構成にするという 思い切った案だが、会議場自体は 大きな全体の中に押し込められた印象がある。吉村案とは違って 大・中会議場から宝ヶ池を眺められるというのはユニーク。どのように増築されるのか、というイメージは浮かびにくい。

準優秀作品、阪長金重 配置図、平面図


準優秀作品、阪長金重 説明図



準優秀作品、小林武夫

小林武夫は当時 大林組大阪本店の設計部長であったというが、1925年に神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)を卒業して大林組に入社したということ以外、詳しいことは一切不明。応募案は、横一文字に管理運営部門を置き、折版構造の大会議場と中会議場を、槇案とは逆にアプローチ側に突き出させるというもの。もっぱら2階の長大なラウンジとレストランからの 宝ヶ池への眺望を重視したようだ。外観は物足りないが、内部は 大きな欠点はない。ただ増築時に ラウンジが長くなりすぎて、奥の会議場が 遠くなりすぎるのではないか。

準優秀作品、小林武夫 配置図、平面図



準優秀作品、円堂政嘉

 円堂政嘉(1920 -94)は早稲田大卒、村野藤吾の事務所に勤めたあと 32歳で独立して円堂建築設計事務所を設立。独立時に改名するまでは 遠藤正義という名だった。平凡な綴り字を忌避したというから、独自たらんとする意思は強かった(しかし発音は同じだったので、建築家どうしの雑談では、遠藤さんと区別して マルドウさんと呼んだ)。山口銀行や平凡社の本社ビル、京王デパートなどを設計、のちに建築家協会の会長を務めて、「建築家は事業者ではない」ことを主張して 公取委と争った。応募案は、大会議場ブロックと中・小会議場ブロック、それにロビーと事務局ブロックなど、全体を5つの棟に分けてそれぞれに ごく浅い方形屋根を架ける。明解ではあるが、実際の使い方や動線が それほど明解で便利になるとも思えない。空から見ると和風建築のような印象であり、京都御所を思わせる配置計画でもあり、京都市は この案を望んだらしい。

準優秀作品、円堂政嘉 配置図、平面図



選外の全応募案

『 国立国際会館 設計競技 応募作品集 』入選以外の全応募案 168点
坂倉準三(右上)など、見開き2ページに3案ずつ掲載

 この『 国立国際会館 設計競技 応募作品集 』は 建設省・営繕協会 編で、日本建築学会の出版ということになっていますが、実際の編集は『新建築』の編集部が委託されて行いました。というのも、1963年7月にコンペの審査結果が発表されると『新建築』は9月号で特集号を出しました。その編集と誌面レイアウトが優れていたので、それを4倍のページ数に増補する形で、ハードカバーの立派な本にして、翌年1月に出版したのです。
 『新建築』誌の特集号では 入選案以外の第1次選考通過作品55点を、小さいながら写真1枚を添えて 掲載しました。そして、それらを 第1次選考通過作品、第2次選考通過作品、第3次選考通過作品と序列化したのですが、単行本にした時には序列化をやめ、入選以外のすべての応募案 168点を 2/3ページずつ、作者の「あいうえお順」に掲載しています。



 ずっと後に、オリンピック用「新国立競技場」コンペで1等に入選したザハ・ハディドを引きずり下ろし、もう1度コンペをやるとか言って、大臣が ゼネコンに 概算見積りをさせながら 作らせ、事前に決めてしまった (できるだけ金のかからない)ゼネコンによる平凡な設計案に、チョット味付けをするだけという、あほらしい「疑似コンペ」をすることにもなります。 戦前のコンペと似たようなものです。 建築家のプロフェッションが確立しなければ、本来の公正なコンペをやるのは むずかしい、というわけです。
なお、日本における コンペの歴史と問題点について知るには、次の本がお勧めです。
 ・『建築設計競技』(コンペティションの系譜と展望):近江栄,1986,鹿島出版会

(2018/ 07 /01 )


< 本の仕様 > 『 国立国際会館 設計競技 応募作品集 』 1964年1月、建設省 営繕協会 編
  布装 ハードカバー、 函入り、日本建築学会 出版、定価 3,000円
  ノンブルなしだが 266ページ、30 × 23 × 2.3cm、重さ 1.4kg
  赤いミューズコットンの仕切り紙5枚、写真はすべてモノクロ
  建設省が日本建築学会に出版を委託し、学会は新建築社に編集・造本を委託、
  『新建築』誌の1963年9月号の特集記事を元に、4倍に増補する形で立派な本とした。



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