ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - XL
矢代幸雄 著 
『 太陽を慕ふ者 』
Yukio Yashiro :
" YEARNING for the SUN "
1925, Kaizo-sha, Tokyo


神谷武夫

『太陽を慕ふ者』
『太陽を慕ふ者』大正14年 (1925)、改造社


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高校生の時に初めて読んだ二冊の本、矢代幸雄の『太陽を慕ふ者』と 中勘助の『銀の匙』は、それ以来 私の最も愛読する書となって、若い頃には どちらも 年に一度か二度は 必ず読み返したものでした。『銀の匙』は もっぱら岩波文庫で読み、廉価なので よく人に プレゼントしたものです(のちに初版の復刻版が出ましたが、それほど魅力的な造本ではありませんでした)。『太陽を慕ふ者』のほうは 初版を古書店で手に入れ、その装幀も気に入ったので、私の愛蔵本となりました。



矢代幸雄

 今回採りあげる『太陽を慕ふ者』は、今から92年前の大正14年(1925)に、今はない 改造社という出版社から上梓された古書です。著者の矢代幸雄(1890-1975)は、今は やや知る人の少なくなった美術史家ですが、かつてはその美術史の専門書ばかりでなく、『随筆ヴィナス』や『安井、梅原、ルノアール、ゴッホ(近代画家群) 』を始めとする美術評論集によって、一般の読書家のあいだでも広く知られました(作曲家で芸大教授だった矢代秋雄の父上です。)『太陽を慕ふ者』は彼の最初期の本ですが、一般人の海外渡航がほとんどできなかった時代、長期間 西洋古典美術を実地体験して書かれたこの本は江湖の迎えるところとなり、ずいぶん多く増刷されたようです。

 矢代幸雄の4歳上の萩原朔太郎(1886-1942)が 20代後半に 「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」 と詠ったのは大正2年(1913)のことです。そのフランス、イギリス、イタリアへ30歳の時に留学した矢代は、4年間を勉学して『サンドロ・ボッティチエルリ』という大部の研究書を英語で書いてロンドンで出版しましたが、その間に各地での美術体験を随想として語って日本に送り、帰国後に一書として出版した『太陽を慕ふ者』は、とりわけ 西洋美術に憧れる美術学生や愛好家に広く読まれました。

私の美術遍歴
矢代幸雄『私の美術遍歴』

 ずっと後に矢代は自伝『私の美術遍歴』を書いていますので、それに従って簡単にその人生をたどってみると、彼は明治23年(1890)に横浜に 生まれました。市の中心部の外国人区域(居留地)のすぐそばであったので 外国人に接することが多かったこともあり、父が元士族の商人で英語を習っていたこともあり、矢代も英語に親しんで育ちました。このことを、やはり横浜生まれであった岡倉天心(1863-1913)との共通項として、後年「因縁浅からず」と感じていたようです。実際 どちらも英語が堪能な国際人として活躍し、国際的評価の高い著書を英文で出版しています。

 矢代は幼時より絵が好きで うまく、しばしば写生に出かけては横浜周辺の風景を描いたりしていました。画家になることも夢見たようですが、親の希望もあり、美術学校ではなく東京帝国大学法科に進み、途中から文科の英文学科に移籍しました。在学中に日本水彩画会研究所の夜学に通って「西洋画」を本気で学び、2年生の時に、戦前の文部省主催の美術展覧会(通称「文展」、後の「帝展」(帝国美術院展覧会)、戦後の「日展」の前身)に初めて出品したところ入選して、しかも会期中に買い手までついたというので、大いに新聞を賑わせました。

 それほど絵が好きであったので学業と画業を半々にし、時々絵を売っては学費の足しにしていたといいます。東大では「感情主義の芸術論」という卒業論文を英語で書いて首席で卒業、大正4年(1929)に大学院の美学・美術史講座に進学すると同時に東京美術学校(現在の東京芸術大学 美術学部)の講師となり、英語を教えるとともに「西洋美術史」や「西洋彫刻史」を講じ、3年後には教授になります。こうして矢代幸雄は、その後も長く美校(芸大)とともに歩んだので、母校の東大からは冷たい仕打ちを受け続けたと述懐しています。

 大正5年(1930)の夏には インドのノーベル賞詩人で、岡倉天心とも親交のあったラビンドラナート・タゴールが来日し、横山大観の紹介で横浜の三渓園内、原富太郎(三渓)の別荘に滞在しましたが、その間 矢代は通訳として数か月間をタゴールと一緒に暮らしました。タゴールには強い印象を受け、自伝ではその期間を「私の一生涯のうちの 最も幸福なる毎日であった」と書いています。

ヨーロッパ留学と英文著書

 矢代幸雄が主とした研究テーマはイタリア・ルネサンスの美術であり、とりわけ レオナルド・ダ・ヴィンチに傾倒しました。美校教授となった3年後の大正10年(1921)、30歳の時に文部省から留学を命じられ、2年間、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカをまわることとなり、初めて実際にイタリア・ルネサンスの諸作品を目の当たりにしました。最初にロンドンに着いた日、ホテルに荷物を置くや さっそく 歩いてナショナル・ギャラリーに出かけて レオナルドの『岩窟の聖母』と対面すると、その感激を『太陽を慕ふ者』の中に 次のように書いています(「レオナルドに逢ふ日」、現代かなづかいとする、以下同じ)。

「この大きい悦びを 如何にして伝えることが出来るであろう。あらゆる予想を裏切って美しい、そして偉いレオナルド・ダ・ヴィンチの絵の前に座って、私は今泣きそうになって居る。私はこの世に こんな幸福に逢おうとは思わなかった。」

 矢代は実に感激屋でした。文献資料による研究よりも、実際に美術作品に接して感動することを、生涯、研究の根柢に据えていたのです。彼は初めロンドンに滞在し、次いでイタリアのフィレンツェに行って、イタリア・ルネサンス美術史の大家、バーナード・ベレンソン(1865-1959)に師事しました。研究の目標はレオナルドでしたが、まずはその前段階として サンドロ・ボッティチェリに取り組みました。
 ところが ボッティチェリの研究の深みにはまると2年間の留学期間では間に合わず、1年、また1年と帰国延長の申請をし、滞在期間は足掛け5年に達しました。その間 日本では大正12年(1923)に関東大震災が起こり、横浜の実家は壊滅し、父親は亡くなりました。矢代は急遽帰国しようとしましたが、当時は一度帰国すれば いつまた再渡欧できるやも知れず、ヨーロッパにとどまって『サンドロ・ボッティチエルリ』の執筆に全力をあげ、完成稿をロンドンの出版社 メディチ・ソサエティに渡した翌日の船に乗って、大正14年(1925)2月に帰国しました。

Bottichelli
矢代幸雄『サンドロ・ボッティチエルリ』

 矢代幸雄が35歳で英文で出版した大著『サンドロ・ボッティチエルリ』(本文2巻、図録1巻)は かなり高額の豪華本でしたが、その4年後には普及版として1巻本を 同じくメディチ・ソサエティから出し、『ロンドン・タイムス』を始めとする新聞・雑誌から高く評価され、これによって美術史家としての矢代幸雄の国際的評価が確立しました。しかし 日本では批評がひとつも出ず、やっかみも あったのでしょう、ずいぶん冷たく あしらわれたといいます。日本で これの邦訳が岩波書店から出版されたのは、52年後の 1977年のことです。

 さて 前述のように 矢代はヨーロッパ滞在中に、学術的な『サンドロ・ボッティチエルリ』を著作する一方、 もっと気ままに書いた美術随想文を 時おり日本に送っていましたが、帰国した年にそれらをまとめて『太陽を慕ふ者』という表題で改造社から出版しました。改造社というのは、大正時代から昭和戦前に華々しく活動した出版社で、総合雑誌『改造』は特に有名です(『武士道』のページで 「改造文庫」を紹介しました)。この『太陽を慕ふ者』は美術史の本でもなく、美術作品の解説書でもない、「文学書」として読まれるべきものです。つまり、何かを調べるために読むのではなく、ある若い美術学徒の 文学的な心情の吐露を味わう本です。
 後の新版(角川書店)の「序」には 次のように書かれています。

 「一体、これらの短編雑文の主なるものは、留学中に家郷に残した両親への仕送りのために、当時の東京日々新聞(とうきょう にちにち しんぶん)に欧州芸術通信として送ったものであったが、論文ばかり書きつけた者には珍しい体験で、書いて見ればまた面白くもなり、多少創作家気取りに陥ったことも、事実であった。実際あったことを書いているうちに、こうあってほしい、という想像が止めどなく混入して来る、という創作の心理 ―― といおうか、感情の論理といおうか ―― に引っぱられて、真実と詩化との区別のつきがたき必然性、をも知った。また文章にしても、学術論文を書く場合と違って、感情や感覚の動き、色合、明暗、陰影、等々に敏感になろうと思いつめていると、論理の辻褄の合うことが、いかにもつまらなく窮屈に感ぜられて、どうか、辻褄の合わない文章を書きたい、などと、途方もない苦心をしたこともあった。」「そういうわけで、当時私の書いた これらの随想、随筆の類が、恐るべき感傷性(センティメンタリティ)でいっぱいになっていたことは自然であった。」

『太陽を慕ふ者』

 これを愛読書とした私は、かつて在籍した高校の60周年記念誌に この本のことなどを書いたことがあるので、その部分を 以下に再録しておきます。




「 本の思い出、絵の思い出 」

 暗く 鬱屈した青春時代を過ごした者にとって、高校時代が楽しかった と回想することはできない。生まれて来なければよかった、と 早くから考えるような人間であった。けれど そうした苦悩や不安にさいなまれながら、なお 未知への憧れを心に抱きつつ生きるというのもまた、青春時代の 一つの形であるのかもしれない。
 外界との違和感を 常に感じながら 内向していく若者が、しばしば 読書や芸術に救いを求めるように、私もまた 毎日 美術室に入りびたって 絵を描き、そうでない時には(授業中も)小説ばかり読んで過ごしていた。母校に対して 何よりも感謝しているのは、そうした生活を可能にさせてくれるような「自由」にあった。管理されることを嫌い、集団で行動することを苦手とする故に、今もなお宮仕えせずに フリーでいるくらいだから。

 建築家になろうと決心した直接のきっかけは 美術の先生の勧めであったが、文学の方の影響も少なくなかった。当時愛読していた立原道造が、詩人であると同時に 建築家でもなかったら、建築家になろうとは 思わなかったかもしれない。
 また 北園へ入って最初に読んだ小説『ジャン・クリストフ』に深く感動したあまり、自分も ジャン・クリストフのように生きねばならぬ、などと心に決めたりしたのだった。貧乏芸術家の道と 独身生活は、ここに胚胎しているわけである。

 一方、美術と文学を結びつけた大きな出会いは、国語の教科書に載っていた「窓の少女」という一文である。これは 美術史家、矢代幸雄が欧州に留学し、ロンドンのダリッチ画廊にある レンブラントの『窓の少女』という絵に寄せて内面を語ったもので、高校時代に出会った文章の中では、中勘助の『銀の匙』と並んで 最も美しいものであった。文章の美しさばかりではない、そこに論じられている レオナルド、ボッテイチェリ、レンブラントを通して語られる その芸術論と人生論とに深い共感と、暗い人生における慰めさえ覚えたのである。

『窓の少女』
『窓の少女』ダリッチ美術館

 その「窓の少女」は 矢代幸雄の最初の美術評論集『太陽を慕ふ者』に収められていると知ると、戦前に改造社から出たその本を 神保町や本郷、早稲田の古書店をどれだけ捜しまわったことだろうか。いくら尋ねても見つからずに 半ばあきらめかけていた頃、別の本を捜している時に 不意に眼にした時の驚きと喜び。
 それは 美術評論集というよりは、若き日の芸術の徒が、遥かな異国の地でつづった 魂の漂泊の日記であった。真摯な学問と芸術の探求に ないまぜにされた感傷主義の故に、著者はそれを絶版にして 人目から遠ざけてしまったのだが、若い私にとってその本は 一種の精神的な救いと慰謝であった。

 「あくがれなくて 如何して人の生きられやう。是は太陽を慕ふものの声である」と書き出されたこの書を読み終わった時、私の心の中には 勃然として、「自分もこのような本を作ろう」という気持ちが 湧き起こったのである。
 当時 その私家版の本を少数の師友に見せ、その時書いてもらった感想文は 今でも保存してある。しかし その本自体は、書棚にしまったまま 10年以上も 手を触れていない。その文章の多くが あまりにも幼く感傷的であるために、顔から火が出るようで 読めないからである。
(中略)
 『窓の少女』 に関しては、いつか英国に行くことがあったら きっとこの絵を訪ねよう、という当時の願いが、その 10年後に叶えられた。ロンドン郊外のこの画廊のことは 知る人少なく、苦労の末に やっとたどり着いて、私の青春時代の象徴のような その絵と対面したのである。その時、何だか 私の心に漂い続けていた青春の想いに 別れを告げられたような気がした。それが、私にとっての「歌のわかれ」だったのだろうか。

( 1988年 )




『 太陽を慕ふ者 』

『太陽を慕ふ者』  
『太陽を慕ふ者』の表紙

 矢代幸雄の『太陽を慕ふ者』という書名の由来は、『私の美術遍歴』の中に こう書かれています。欧州留学の最初の滞在地であるロンドンで過ごしていた ある日、

 「下宿の前の広場で 老人の歌うたいが「おお我が太陽」(オー・ソーレ・ミオ)を歌うのを聞いて、「あゝ、そうだ、ここには太陽が無い、ロンドンには太陽が無い」。実際、秋のロンドンは ひどく霧に曇って、太陽はもう何日も顔を見せたことがない。「こんな陰気なところで、毎日気がふさいでいては、きっと病気になる。そうだ、南へ行こう。太陽の輝く南の国へ行こう」と私は 急に天の啓示でも受けたように思い立って、急いで下宿を片付け、友達にも ほとんど さよならすら言わず、いきなりイタリアに向かって旅立った。」「私が後年、主として このフィレンツェで書いた随筆集を『太陽を慕ふ者』と題して出版したのは、この時の心を忘れまいとしたための命名であった。」

『太陽を慕ふ者』
『太陽を慕ふ者』の内容

 美術史家となった矢代幸雄が根本的態度としたものは、「絵は、目でなく心でみるものだ」ということで、そのことは『太陽を慕ふ者』にも『サンドロ・ボッティチエルリ』にも書かれています。また、こうも主張しています。 

「芸術は宗教である。むろん、芸術が何らかの既成宗教の形式に倣うべきだなどと言うつもりはない。倣うことができようと できまいと、どうでもよいことである。私が言わんとしているのは、芸術がそれ自体宗教 ―― 美の宗教 ―― であること、諸君が精神的憧憬をもってこれに訴えかけ、それによって霊感と慰めを得る宗教だということである。」



レオナルド・ダ・ヴィンチの組み紐紋様

 『太陽を慕ふ者』の装幀で最も目を引くのは、表紙に押された朱色の円盤模様です。上部を黒く縁取りした白い表紙の中に、文字のタイトルを入れない、朱色の円盤だけのデザインが あまりにも鮮やかであり、全体のプロポーションがよいので、忘れがたい印象を与えます。しかも単なる円盤ではなく、細い紐が絡みあった複雑で美しい紋様となっています。これが レオナルド・ダ・ヴィンチの「組紐紋様」で、ヴァザーリ(1511-1574)の『芸術家列伝』にも、

「その紐の結び方は、一條の紐の端より総てが連続して他の端に及び、そして全体が一円形を満たすように出来ていた。この種の図案の最も難しくまた最も美しい一つは、版画になって見られるが、中央には Leonardus Vinci Accademia の文字が入れられてある。(矢代幸雄訳)

と書かれているように、一種の知恵の輪のパズルのように知的で複雑な紋様になっています。レオナルドが下図を描いて、弟子が精巧に作図したと思われる「組紐紋様」は5種残されています。その中で最も有名な紋様がここに使われていますが、実は、矢代の本の表紙にレオナルドの組み紐紋様が使われたのは、『太陽を慕ふ者』が初めてではありません。
 矢代は美校で「西洋美術史」を教えていたので、その授業準備の勉強と講義をまとめた『西洋美術史講話・古代篇』を、ヨーロッパに留学する大正10年(1921)に 岩波書店から出版しました。矢代の処女出版で、この本の表紙に レオナルドの組み紐紋様が使われています。

   

矢代幸雄『西洋美術史講話・古代篇』の函と表紙、
大正10年(1921) 岩波書店 (ウェブサイトより)

矢代は序文の末尾に 次のように書いています。

「本書刊行に際し上野直昭君、児島喜久雄君から種々教えらるる所多かったことを感謝する。児島君は装幀してくれた。本書が内容の値しない程美しい粧いして羞しくもあり嬉しくもある。そしてそれが特に児島君の手になったことが嬉しい。
 表紙には 大きくレオナルド・ダ・ヴィンチの紋章の一を捺した。私の この上なき歓びである。あらゆる時代を通じての偉人の中に、私は彼を唯一人に懐かしむ。自然そのものの精のような彼を想い浮べる時、私に小さき感傷も懊悩も消えて 静かに素直な気持に浸る。思えば この本の出来る間 私には試さるる日であった。レオナルドは私に静かなる救いであった。レオナルド無くば 世は寂しかったであろうと思う。私にいろいろの記念であるこの本を レオナルドの紋章によって封することは、私にとって 頼みある護符と祝福になるであろう。   大正9年12月 矢代幸雄 」

 この本の装幀をした児島喜久雄(1887-1975)は、東大の美術史教室における矢代の3年先輩で、やはりレオナルド・ダ・ヴィンチを研究し、後に東大の教授となりました。しかしこの時以外、矢代は自著の表紙にレオナルドの組紐紋様を使ったことを書いても 児島の名を出していないので、この本の全体の装幀をしたのは児島であっても、組紐紋様を大きく使うことは 矢代自身の注文であったと思われます。
 矢代幸雄のレオナルドに対する敬愛は、尋常ならざるものがありました。『太陽を慕ふ者』にその心情を綴った「レオナルドに逢ふ日」という文の書き出しは既に引用しましたが、「窓の少女」にも、次のように書いています。

「私はレオナルドに どの位頼って居るだろう。レオナルドが居なかったならば、私は人生の苦闘を防ぎきれなかったかも知れない。」

 では、レオナルドの組紐紋様とは何でしょうか。後に『随筆レオナルド・ダ・ヴィンチ』の中に、矢代は次のように書いています。(「レオナルドの思出」第4節「紐結び模様」)

「レオナルドの紐結び模様は非常に見事なもので、単に装飾的な図案であるにも拘わらず、世に著聞するは、寔(まこと)にその理由がある。それは銅板になって大英博物館その他に数種保存されたと記憶するが、その中央に懸垂する額縁形の中に Accademia Leonardi Vinci の文字が彫り込まれているので、レオナルドはミラノに芸術と科学の学院(アカデミア)を設立し、その学院の徽章の図案がこれであった、などと唱える学者も出た。しかし勿論 確説ではない。」

組紐紋様   Accademia』
レオナルドの組紐紋様と、中央の小円盤

 「私はこの図案が大好きで 二十余年前『太陽を慕ふ者』という随筆集を出版した時、真白い表紙にその図案を朱色で捺したところ、美しき太陽の感じが出たのを悦んだ。その他私の西洋美術関係の著書には、その表紙や外箱に、或いは黒色にしたり 或いは金色にしたりして しばしば この図案を印刷した。レオナルドの学院(アカデミア)が本当に在ったかどうか知らないが、私も遥かなるレオナルドの弟子として、その学院に属するかの如く想像して、その徽章をつけるのが、嬉しいのであった。」

 この文「紐結び模様」の後半で、矢代はレオナルドの組み紐紋様の図案の起源に関して、一新説を立てるつもりであったことを述べています。それは、彼がトルコのイスタンブルに滞在した折、ある丘の上の美術館に ペルシアの細密画の写本が多く展示されているのを観覧し、それらの革表紙の中に、

「レオナルドの紐結び図案に酷似する数種を発見して驚き」、「私は、レオナルドが紐結び図案の粉本をペルシア細密画書籍の革表紙図案に取った、と確信して疑わない」

というのです。しかし それらの写真もなく、その時の手記も(おそらく戦災で)失われてしまったので、とうとう発表せずじまいだったそうです。何という美術館であったのかも記載がないので、こちらも調べようがありません。
 イスラームの写本の革表紙とは どんなものかという一つの実例を示すと、

コーラン
『クルアーン』の革表紙の例

 この中央の円盤のアラベスク模様がレオナルド・ダ・ヴィンチの組紐紋様と似たものがあったとしても、おかしくありません。この矢代説が正しいかどうかは不明としても、彼はレオナルドの組紐紋様が心から好きで、『太陽を慕ふ者』の装幀における成功に気をよくして、これ以後も西洋美術関係の本を出版する時には、表紙にこれを用いることに固執しました。これほどまでに、自分の著作の装幀に一つの図案を使い続けた人は他にいません。そこで 以下に、レオナルドの組み紐紋様を用いた、矢代幸雄の本の装幀を年代順に掲げておきましょう。



受胎告知    受胎告知
矢代幸雄著:宗教藝術の研究『受胎告知』昭和2年(1927)警醒社

 矢代幸雄は『太陽を慕ふ者』の2年後に、岩波の雑誌『思想』に5回連載した記事を まとめて増補した『受胎告知』という、やや大型の本を出版しました。受胎告知というのは、大天使ガブリエルが地上に舞い降りて 聖女マリアに 処女懐胎を告げるという、キリスト教の聖画では 最も好まれた主題の ひとつです。これは ヨーロッパ留学中の『サンドロ・ボッティチエルリ』研究の副産物ともいうべく、各地にボッティチェリの作品を見てまわるときに『受胎告知』の絵も訪ねて 資料を収集し、帰国後に一書にまとめたのでした。『サンドロ・ボッティチエルリ』は学術書なので 一般の人には やや とっつきづらい面があるのに対して、こちらは 美術史の研究書ではあっても、たくさんの実例写真をかかげて 本文の記述と対応させているので、実に興味深く読めます。神話伝説的な受胎告知の時、マリアは何をしていたのか、季節や時刻は いつであったのか、誰かが立ち会ったのか、構図は 時代的にどう変化していったのか、などを もっぱら美術的に考察し、諸説の実例を示します。
 今から 90年も前の立派な本で、警醒社書店という キリスト教関係の出版社から 小部数で出ました。箱の絵は 別(『貧しき者の聖書』からの木版画挿絵)ですが、本体は おもて表紙、うら表紙とも レオナルドの組紐紋様を箔押して 飾りました。



『美術史研究用図譜』

ジォヴァンニ・ベリニ 文芸復興期 イタリヤ絵画之部
袋(無綴10枚入り)、昭和2年(1927)(ウェブサイトより)
東京美術学校教授矢代幸雄撰、美術史研究用図譜、同刊行会

 美校(芸大)教授だった洋画の黒田清輝(1866−1924)が死去すると、その遺産の 1/3 が美術のために寄付され、それを基に美術研究所(現在の東京国立文化財研究所)が昭和3年(1928)に設立され、矢代はその創設事業をまかされ、昭和11年(1936)に初代の所長になりました。ここの主たる事業は美術の写真資料の悉皆的収集と整理、学者・美術家の利用援助ということでした。その一環として、一般向けおよび教育用に「美術史研究用図譜」という、いわば名画集のようなものが 10枚ずつ袋入りのシリーズで公刊され、矢代はその西洋美術関係のすべての袋の表にレオナルドの組紐紋様を小さめに朱色で印刷させました。



『日本美術の位置』

『世界に於ける日本美術の位置』第2版、昭和23年(1948)
東京堂版の表紙(ウェブサイトより)

 国際的に活躍した矢代らしく、日本の美術を国際的に見た時の評価についての講演集で、初版は昭和19年(1934)に 敬明会から出版されました。戦後の昭和23年(1948)に東京堂から再刊され、レオナルドの組紐紋様が表紙に用いられています。



『レオナルド』   『レオナルド』   『レオナルド』

『随筆レオナルド・ダ・ヴィンチ』 昭和23年(1948)
朝日新聞社刊のジャケット

 矢代幸雄が本格的なレオナルド研究をあきらめた後、戦争中に『日伊文化研究』という雑誌に「レオナルドの思出」という連載をするべく 数回分の原稿を書いていたら、雑誌は休刊になってしまいました。戦後まもなく 朝日新聞社から本を出す話が出たので、この未発表原稿と、かつて書いたり訳したりしたレオルド関係の論文や随想、翻訳などを集めて一書にしたものです。ジャケットの表・裏に それまでとは異なった レオナルドの組み紐紋様が置かれていますが、なぜ朱色にしなかったのでしょうか? 本体の表紙は、初版では別のデザインでしたが、増刷時に このジャケットと 同一のデザインになりました。函はなく、 戦後すぐの紙不足の時代の出版だったので、紙質も製本も あまり良くありません。



『太陽を慕ふ者』   『太陽を慕ふ者』  『太陽を慕ふ者』

『太陽を慕ふ者』角川書店版の 函と表紙 昭和25年(1950)

 角川書店というのは 戦後まもなく、まだ30前だった角川源義が 堀辰雄の本を出すために興したような小出版社でしたが、その堀辰雄が『太陽を慕ふ者』の再刊を角川源義に勧めたことによって、再出版が実現したものです。しかし矢代幸雄は、30年近くも前に書いた本文の「若書き」を恥じらって(「どうか 辻褄の合わない文章を書きたい などと 途方もない苦心をした」部分などは耐えられなくなり)全面的に手をいれました。そのために、文法的には正しい日本語になったとしても、若き日の純粋な想いの表現が薄れてしまい、戦前の改造社版を知る者にとっては、いささか物足りないものになってしまいました。また、あまりにプライベートな部分はすべて削除して、純評論風の別な原稿と置き換えてしまったのも(分量は増えましたが)残念なことでした。矢代自身も『私の美術遍歴』の中で、親しい友人だった和辻哲郎の『古寺巡礼』に事寄せて、次のように述懐しています。

 「何びとも 若い時には感傷に陥りやすく、後年 そういう若さの横溢する著述を見ると、これを改めたくなるものとみえて、和辻君も『古寺巡礼』の後の版には、大分改められたのでは なかろうか。私は最近、『和辻哲郎全集』の『古寺巡礼』を見たところ、私がその初版を読んだ時の感じとは、かなり違っているような印象を受け、それで私は友人から その初版本を借りて来て比べてみたところ、果して 多少改められたところもあることを発見した。そして困ることは、初版の方が 正に自然なる感情の流露があって、ずっと面白い、ということであった。」
 「こういうことは 誰にもあることであって、私自身も、西洋へ留学して最初に出した随筆集『太陽を慕ふ者』において、あまりに若い時の感激が そのまま出ているのを見て、その本が いやでいやで堪らなくなり、戦後において その本をまた出したいという話が起こった時、私は改訂版を作って出したところ、初版を持っている人から、今度の版は「面白くなくなった」と抗議を受けて、閉口したことがあった。」

 堀辰雄も 新版を、少々失望しながら 読み返したかもしれません。
 角川版の函には 改造社版の表紙と同じように レオナルドの組紐紋様が朱色で印されましたが、タイトルが入いるので紋様は小さくなり、前のような鮮烈な印象にはなりませんでした。本体は白い無地の布装で、函入りなので ジャケットはありません。



『受胎告知』   『受胎告知』

『受胎告知』(改訂版) 昭和27年(1952)、創元社版の箱と 本体の表紙

 『太陽を慕ふ者』の再刊の2年後に、『受胎告知』も 25年ぶりに 創元社から再刊され、より多くの人に読まれました。大きさも造本も 基本的に警醒社版を踏襲していますが、函(背の反対側も閉じるようになっているので「箱」と呼ぶべきかもしれませんが)には レオナルドの組紐紋様が大きく朱色で印され、本体は布装の上に 表・裏とも 組み紐紋様を金で箔押 した豪華版です。



ルノアール・ゴッホ
『安井・梅原・ルノアール・ゴッホ(近代画家群) 』
昭和28年(1953)新潮社刊の扉

 これは古典美術ではなく、近代の人気画家(安井曽太郎、梅原龍三郎、オーギュスト・ルヌワール、ヴァン・ゴッホ)について書いた新旧の記事を集めた本です。増刷時に 書名が、画家名の順序を逆にして『ゴッホ・ルノアール・梅原・安井』と変えられました。新潮社が梅原龍三郎に気を使ったのかもしれません。近代絵画の本なので 表紙やジャケットは別ですが、扉にはグレーで レオナルドの組紐紋様が取り入れられました。



日本美術の恩人
『日本美術の恩人たち』 昭和36年(1961)、文藝春秋刊の表紙

 日本美術を世界に紹介するのに功のあった外国人で、矢代幸雄の知己だったチャールス・フリーアやタゴール、ローレンス・ビニヨンやラングドン・ウォーナーなど 11人の紹介の書です。これも西洋美術史の本ではありませんが、深紅色の布装の表紙に レオナルドの組み紐紋様を金で箔押しした 鮮やかな装幀となりました。ジャケットはなく、函入りの本です。



『受胎告知』
矢代幸雄『受胎告知』 昭和48年(1973)、新潮社刊の扉

 『芸術新潮』から時々原稿を依頼されていたので新潮社とは親しかった関係からか、創元社版の21年後に、もう一度『受胎告知』が 新潮社から再刊されました。今度は版型が変わり、A5の小型本となり、本文は新仮名づかいに改められました。函にはフラ・アンジェリコの絵が載せられ、本体の表紙は布製の無地ですが、『安井・梅原』と同じように、扉にレオナルドの組み紐紋様を印しています。



 矢代幸雄は『サンドロ・ボッティチエルリ』を書き上げてヨーロッパ留学から帰国すると、その次にはレオナルド・ダ・ヴィンチの研究を続けて 大きな著作をするつもりでした。しかし実物の絵を何度も詳細に見ることを研究の根本に据えていた矢代にとって、日本にいながらレオナルドの研究を続けるのは不可能であることを覚り、次第に研究テーマを日本美術、東洋美術にシフトして行きました。その結果 日本美術史の大家となり、その到達点は浩瀚な大著『日本美術の特質』(第2版 昭和40年(1965)、岩波書店)です。また 奈良の近くに 日本美術の新しい美術館、「大和文華館」をつくって、晩年は 長くその館長を務めました。

( 2017年10月1日 )



< 付 >

 高校時代からの もう一冊の愛読書、 中勘介の『銀の匙』、 なかなか粋な装幀の岩波文庫版。
昔は 紙ジャケットはなく、緑の帯とパラフィン紙が かけられていました。
まだ この小説が、それほど多くの人に 知られていなかった時代です。
(ある日、 題名も著者名も聞いたことのない この本を兄の書棚に見つけ
何気なく読み始めたら、あまりにも美しい作品世界に、
すっかり 心を奪われてしまいました。)
後に復刻版が出ましたが、あまり・・・

『銀の匙』


『銀の匙』  『銀の匙』




< 本の仕様 >
『太陽を慕ふ者』 1925年、改造社、 表紙にレオナルド・ダ・ヴィンチの組み紐紋様
  紙装 ハードカバー、19cm × 13cm × 2cm、 函入り、
  202ページ、写真 19葉、350グラム
 戦後の 1945年、堀辰雄の推薦で 角川書店から新版が出た。白い布装 ハードカバー
  19cm × 13cm × 2.5cm。函入り、337ページ、写真 25葉、450グラム


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