リッバのゴンパと チトクルの穀倉 |
神谷武夫
タボを出発してスピティ渓谷を下ると、ナショナル・ハイウェイは中国国境まで5kmくらいに近づいて、いよいよキンノール県へと入る。かつての中印紛争の余波で、今もサムドからジャンギまでは通行許可証が必要である。カザの町の役所では一人旅の許可証も たやすく取れるので都合がよいが、その手続きに少々時間をとられるのが もったいない。
こうして入域したキンノール地方は仏教とヒンドゥ教との混交地域で、建築的にも二つのスタイルが混交している。時には一つの境内にヒンドゥ寺院と仏教のゴンパとが共存していたりもする。多くの寺院やゴンパ(僧院)の中で、とりわけ興味深いのは リッバのゴンパであった。これは まだ政府考古局も調査をしていず、O・C・ハンダによる詳しい報告もない所だが、一昨年の秋に この地方を長期間旅してまわった高木辛哉さんが見つけて 知らせてくれたのである。
これは仏教のゴンパではあるが、前回見たような日乾しレンガによるチベット式の陸屋根の建物ではない。層塔型のヒンドゥ寺院のような円錐形の屋根を、しかも二つ戴いた純木造の建物である。
シュリーナガル郊外の パンドレータンの寺院(10世紀)やその他のヒンドゥ寺院に見られるような、二段重ねの切妻屋根のファサードを各面に作っていて、しかもここではそれが木造であり、その周囲にアルチ・ゴンパにおけるようなギリシア風の溝彫りをほどこした円柱による周廊(繞道)をまわしているのである。柱頭における「壷葉飾り」を初めとして、各部はたんねんに彫刻されていて、ガンダーラを源流とするカシュミール建築とヒマーチャル土着の民俗彫刻とが融合している姿が見られる。 パンドレータンの石造ヒンドゥ寺院、10世紀(カシュミール)
このリッバのゴンパもまたリンチェン・サンポの創建と伝えられるが、それが正しければ創建は 11世紀ということになる。しかしこれはアルチやタボなどのチベット式とはずいぶんと異なった、カシュミール建築の影響を色濃く残している。
マルクラ・デヴィー寺院の外観と内部の木彫、ウダイプル
そうしたカシュミール建築の影響はヒマーチャル地方にも もたらされたはずで、北部ラホール地方のウダイプルに建っているヒンドゥ教のマルクラ・デヴィー寺院における木彫と、ここリッバの仏教ゴンパが、その片鱗を伝えているのである。
リッバを後にすると、ジープはレコンピオ周辺のカルパやコティの寺院を訪ねたあと、ナショナル・ハイウェイからそれて バスパー渓谷を遡って行った。サングラーの村に泊ったついでに 3度目の カムル・フォート 訪問を果たすと、ジープは さらに南下してバスパー渓谷の終点、標高 3,450mのチトクル村に達した。
ここは実に興味深い村である。宗教的にはヒンドゥ圏で、村の中心には 屋根板まで木で葺かれた角塔型の寺院搭がシンボリックに聳え、周囲に3寺院が散在していた。奥のナーガ寺院の境内には 高さ 10mを超える大きな綿の木が茂り、地面に白い綿が散り敷いていたのが印象的である。
チトクル村の標準的な穀物倉、外観と基部 それだけならば とりわけ驚くほどのことではないが、私が眼を瞠(みは)ったのは その木構造である。三角切妻の小屋裏はオープンな干草置き場としているが、小屋本体は窓がなく、縦に並べた板で囲われている。そして土台と軒桁との中間に もう 1本の桁(けた)をまわしていて、土台も桁も コーナーは すべて相欠きで噛ませ、腕を長く突き出している。これこそ、不思議でならなかった リュキアの家型石窟墓の姿なのである。
宙に浮いているような リュキアの石窟墓のファサード(アンティフェロス、トルコ)
私は、古代インドの仏教石窟寺院におけるチャイティヤ窟の成立には、アナトリア地方(現在のトルコ)の 古代リュキア王国の石窟墓と石棺の方法が影響を及ぼしたにちがいない、という説(「インドの仏教石窟寺院への リュキア石窟墓の影響」)を立てている のであるが、リュキアの石窟に常に彫刻されている中間桁というのが、本当に当時の木造建築の写しであるのかどうか わからなかった。しかし、そうした構法は現実に、ここ チトクルに存在するのである。
リュキア建築がインドの石窟寺院の成立に関係があるのであれば、リュキアと きわめて類似した木造建築がインドに存在することも不思議ではない。しかし私は こうした木造建築を、チトクル以外では見たことがないのである。 時代と地理を遠くへだてたリュキアとチトクルに、果たして本当に影響関係があったのだろうか。
(『建築東京』2003年6月号)
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