TRAVEL TO HIMACHAL PRADESH 6
異形寺院コトカイ城郭

神谷武夫


サプニのピーリ・ナーガ寺院新堂

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バチョーンチの 複雑系寺院

 ラーンプルを朝出発すると、ジープはナショナル・ハイウェイをそれてヒマラヤ杉の生い茂る森の道をロールへ向けて南下した。ここから終着点のシムラまでは、クル地方と並んで木造建築の最も多様な成果を見せてくれるシムラ県の旅である。まずはロールの手前のバチョーンチへ行き、丘の上のバオインダラ神を祀る異形の寺院を訪ねた。

 前に述べたように、ヒマーチャル地方の木造寺院は基本的に、合掌型、層塔型、複合型、角塔型という四つのタイプに分類される。とはいえ、日本の九州本島の 1.3倍ほどの面積のあるヒマーチャル・プラデシュ州には 数百、あるいは千以上の木造寺院があるから、これら四つの分類型から はみ出るものも多数存在する。バチョーンチの寺院はその一つで、意表をつく 特異な姿をしている。

  
バチョーンチのバオインダラ・デウタ寺院

 全体としては角塔型であるものの、石を積んだ壁面に木の水平材を挿入した「ドルマイデ構造」による長方形プランの角塔の上には、なんと複合型の木造寺院を載せているのである。複合型というのは、層塔型のガルバグリハ(聖室)に合掌型のマンダパ(拝堂)を結合したもので、下界におけるシカラ型石造寺院の木造版というべきものである。

 このようにすると形態上、全体の重心が一方に寄ってアンバランスになるので、塔と反対側の位置にエントランス・バルコニーを持ち出して、そこへ外階段を とりつけるという、まことに憎い造形をしている。他に例を見ないこうした寺院構成が なぜ生まれたのかは謎である。
 そもそも ここは 本来城郭ではないのだから、寺院を これほど高く持ち上げる必要はまったくない。これだけの石材を積み上げる費用と手間を、単なる造形意欲のためだけに費やしたのだろうか。そして神の礼拝のたびに 階段を上り下りさせるのは なぜなのだろうか。

 寺院の創建は約 500年前と伝えるが、現在のものがそれほど古いわけではない。木は雨風にさらされれば腐朽するので、数十年に一度は改修や改築をされる。現に私が訪ねた時にも、ちょうど改修工事の最中であった。すっかり黒ずんで腐りかけた木部をすべて新しい部材にとりかえ、屋根も葺き替えるのである。そうした改修工事のたびに、石造部分は創建時のままとしても、木造部分はそのつど多少の変形を受けてきたことだろう。バチョーンチの層塔部分は、創建時にはなかったのかもしれない。


新しい寺院の造形傾向

プジャルリの新寺院

 ヒマーチャル地方の木造寺院というのは過去の遺物ではない。ヒンドゥ教という生きた宗教のゆえに、古いものには絶えず手が入れられるし、随所に新しい堂塔が増築され、また新寺院が建立される。技術と経済力の発展は、常に寺院をより装飾的な方向に導いていく。近年建てられた寺院には、バチョーンチの寺院をも上まわる異形の寺院が次々に生まれているのである。

 ロールから西方の山奥に 17kmばかり分け入ると、その最も極端な作例がある。そのプジャルリ村が遠目に見えてきたとき、これこそ城の天守閣かと思わせるような派手な形をした寺院が聳えているのに驚いた。案内してくれたバラモンの先祖が 18世紀初めにこの地にやって来た時には存在していたというから、300年以上の歴史をもつ寺院である。

プジャルリの新寺院の頂部

 最も古い堂は平屋の合掌型なのだが、一昨年改築されたばかりだという新堂は、もはやどんな分類にも当てはまらない特異な姿をしている。起源的には2本の並列した角塔だったのかもしれないが(一方がバンダールか)、木造の上部構造は、これでもかこれでもか、という具合に屋根造形を複雑化させているのである。こうした装飾的な傾向が現代のヒマーチャル人の好みなのだろう(その内にこの寺院が極彩色に塗装されたら、と思うとゾッとするのではあるが)。

 一方、造形意欲とは別に、経済性のゆえに寺院形態が変質することもある。プジャルリからさらに 7kmばかり進むと谷の向こうにナライン村があり、ここにも改築されたばかりのナラヤン・デウタ寺院がある。

  
ナラインの角塔型旧堂と、改築された新堂

 今は使われていない角塔型の旧堂は豪放に庇を張り出した、単純にして力強い造形をしているのに対して、新堂の方はずっと線の多い入り組んだ姿に作られている。よく見ると増築部分の壁面には石材が用いられていず、すべて木造となっている。この地では木よりも石のほうが値段が高いので、費用を節約したのだという。同様に木造部分にも太い梁を用いないために持ち出し部分の先端部に柱の列を建てて支えることになり、これでは西部劇に出てくる開拓時代の建物のようで、旧堂との差は歴然としている。

 余談だが、長年使い慣れた三脚を 今回も買い換えていこうとしたら 既に製造中止となっていたので、意に染まなかったが 別のメーカーの小型三脚を持参したら、これが きわめて使いづらい上に強度が弱く、とうとう バチョーンチで 雲台の付け根が折れてしまった。したがって 最後の一日は 重たいカメラと暗いレンズに 低感度フィルムのまま、手持ちで撮らざるをえず、ナラインなどの写真が「ちょっとピンボケ」になってしまったのは まことに残念。


コトカイの城郭

コトカイの城郭の鳥瞰

 さて最後の目的地は、もうシムラに近いコトカイの村である。ここには かつての小王国の居城があり、今も 領主の末裔が住んでいる。今まで見た城郭と違うのは 角塔型の天守閣がなく、かわりに パリのノートルダムのヒマラヤ版とでもいうべき 双頭型の建物が 前面広場に面して聳えていることである。城郭全体は 細長い中庭を囲む広大な建物が3層の石造壁の上に載っている。石壁で囲まれた窓のない地下室群は かつての牢獄であったらしい。

 入母屋造りの双頭部分は いずれも中庭側にしか窓がなく、広場側を閉じているのは不思議である。戦のための物見塔ではないらしい。
 それにしても、瓦屋根のように見えるスレート葺きの屋根が「反り」をもち、しかも入母屋造りであることによって、日本の中世の村にも こんな城郭があったのではないかと思わせるほどに、我々には親しみ深い形の建物ではある。現在の当主が案内してくれた サロンのような木造の部屋には、壁にも天井にも 所狭しとナイーブな民俗彫刻が ほどこされていた。

  
コトカイの城郭の中庭と、広間の木彫

 ここは寺院ではないが、こうした伝統的な木造建築や木彫は、これから先どれだけ命を長らえることだろうか。交通不便だった山国も、インターネットを始めとする情報過多の時代には、人々の好みも急速に変わっていくだろうし、古いものへの愛着も薄れることだろう。数百の木造寺院も文化財として保存されているわけではないから、毎年少しずつ姿を変えている。
 それでもまだ多くの寺院が土着の建築伝統を連綿と保っているのは、ヒマラヤの村に住む人々の、宗教に対する強い帰依心であるように思われる。

(『建築東京』2003年7月号)

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