王妃の階段井戸(ラーンキ・ヴアーヴ) |
建物とは言いがたいが、公共の用に供する工作物や造形物といったものがある。橋はその典型であるが、前章の水辺のガートもそうであり、都市を囲む市壁や門、物見櫓や灯台なども、そうした「公益物」に数えられる。イスラム建築では早くから キュリエ(モスクを中心とする公益施設の複合体)や キャラバンサライ(隊商宿)、ハンマーム(公衆浴場)など 公共建築を発展させてきたので、インドに定着してからも そうした公益物を建造した。もちろんイスラム以前にもインド特有の公益施設の伝統があった。それは やはり水との関連で発展したもので、雨季の雨水を貯めておく貯水槽と、井戸底まで降りていける階段井戸である。貯水槽は一般的に「タンク」と呼ばれ、英語にもなっているが、西インドでは「クンダ」と呼ぶ。クンダは周囲が ガートのように階段状になっていることが多いので、これを「階段池」と訳すことにする。一方「階段井戸」(ステップウェル)は サンスクリット語で「ヴァーピ」と呼ばれたが、西インドでは「ヴァーヴ」、北インドでは「バーオリ」と呼ぶ。特に西インドにおいては 古代から造られ、次第に 王侯の寄進によって豪華絢爛に造営されるようになった。外来のイスラムにも「サビール」という給水所の伝統があったので、階段井戸は直ちに受け入れられ、ムスリムの王侯によっても継続されたのである。この他にインドで興味ぶかい公益物としては、天文観測所や 鳥の家などがある。
日本に初めて階段井戸を紹介したのは建築家の白井順二氏で、当時の『国際建築』誌に載った断面図は衝撃的であった。地上には ほとんど何物もなく、ただ深さ 17mの井戸底まで階段が降りていく 地下建築であったからである。その後 ジュッタ・ジャイン・ノイバウア女史による ”The Stepwells of Gujarat”(グジャラート地方の階段井戸)という詳細な研究書が 1981年に出版されて、世界にその存在が知られるようになった。
アダーラジの ルダ階段井戸
今も西インドを中心として 100近くの階段井戸が残るが、最も保存がよく、建築的にも完成度が高いのは、アフマダーバードの北方の アダーラジ村に残るステップウェルである。それが権力誇示であるよりは民衆の生活のための施設であったからか、階段井戸は王族の夫人の寄進であることが多い。アダーラジもまたヴァーゲラー朝の王妃であるルダによる造営であると、碑文に記されている。階段を降りていくと、土圧を支えるための柱・梁が絢爛と彫刻されていて、そのスタイルは寺院建築と変わらない。それは、こうした階段井戸が生活のためばかりでなく、宗教的な施設でもあったことを示している。 ( 以上、『インドの建築』東方出版 1995 より )
インドは典型的なモンスーン気候をしていて、一年が雨季と乾季の二つにはっきり分かれている。雨季には 洪水を起こすほどに豪雨の降る地方もあるが、乾季の4カ月間は ほとんど雨が降らない。とりわけ西インドは乾燥していて、タール砂漠という巨大な砂漠もあるくらいである。そのために 水はたいへんに重要であって、古代からさまざまな水利施設が工夫され、乾季の間の人々の生活を支えてきた。
パータンのサハスラ・リンガ・ターラーオ
これは大きな貯水池だけでなく、サラスヴァティー川から水路を引き、石造の水門から多方にタンクが延びて、農地の灌漑をした。それらの直線や円形の水面は石造の階段や橋、基壇、パビリオンで建築的に飾られた。「千のリンガ」の名が示すように、かつてはこのタンクの周囲に、シヴァ神(のリンガ)を祀る小祠堂が 無数に設けられていた。というのも、インドでは水が神聖視され、水面の周囲は一種の宗教的な場と見なされるからである。そのためにタンクやクンダも、堅固な石によって建築化され、彫刻によって荘厳されることになる。詳細な調査報告書が出ていないので、これらの施設がどのように用いられたのかよく解らないが、ずいぶんと興味をそそる公益物の造形である。
こうした水辺の造形の中で最も興味深いのは、階段井戸(ステップウェル)である。世界中のどこにでも井戸はあるが、 ヴァーヴあるいは バーオリと呼ばれる西インドの井戸は、単に地下水を汲み上げるばかりでなく、その水場まで人が近づいていけるように石の階段を設けた 親水空間なのである。簡単なものでは、地面の割れ目のような隙間が 階段状に井戸底まで届いているに過ぎないが、規模が大きくなるにつれて 複雑化していく。階段や両脇の壁が石で造られるのは勿論、その土圧を防ぐために梁が架け渡され、そのスパンが大きくなると、梁を支えるべく柱の列ができ、奥の方では何層にも重なり合う。しかもその柱や梁がこまかく彫刻で飾られている姿は、まるで寺院か宮殿のような豪華さで、訪れる人を圧倒する。実際 これらの階段井戸は単なる実用目的を越えて、宗教的な儀式にも使われたのであろうと推測されているが、その儀式の詳細は 今では失われてしまった。
西インドのラージャスターン州とグジャラート州には、豪華に造られた階段井戸が数十あり、簡単なものまで含めれば数百の数に及ぶ。そして、グジャラート国の首都であったパータン(かつてのアナヒラパータカ (Anahillapataka)、あるいはアンヒルワーダ・パッタン (Anhilwada Pattan) には、最大規模の階段井戸が残っている。時は 11世紀後半、ソーランキー(チャウルキヤ )朝を創始したムーララージャ王の息子の ビーマデーヴァ1世 (Bimadeva I) が世を去ると(1063年頃)、王妃のウダヤマティ (Udayamati) は、亡き王の治績をたたえる慈善事業として、巨大な階段井戸の建設を志したのであった。そのために、これは今に至るまでラーンキ・ヴァーヴ(王妃の階段井戸)と呼ばれている(ラーニー・キ・ヴァーヴ (Rani-ki-Vav) が縮まって ラーンキ・ヴァーヴとなった。ラーニー・ヴァーヴとも呼ばれる)。 初めてパータンの王妃の階段井戸を訪れた時には、その壮大な規模に圧倒された。その大きさは幅 20m、長さ 70m、井戸底の深さ 28mという巨大なもので、地下7層の大建築でありながら、地上に見えるものとては何もない。まるでエジプトの神殿を地下に埋め込んだような印象で、しかもその彫刻の密度たるや、カジュラーホの寺院をいくつも合わせたような豊穣さである。アダーラジやダーダー・ハリールでは柱や梁、腕木といった建築要素にのみ抽象的なパターン彫刻が施されているのに対して、ここではホイサラ寺院のように、大壁面の全てが神像彫刻で埋め尽くされているのである。彫刻の洪水といった趣で、彫像の総量は約800体という。石材は、140km離れた ドランガドラの石切り場から運ばれた
パータン、王妃の階段井戸
階段井戸全体は東西軸上に建てられていて、春秋分には朝日が入口のトーラナを通して 最奥の井戸壁面にある、大蛇の上に横たわるヴィシュヌ神の彫刻を照らし出すという。土圧を支える7スパンの柱列が3列に並ぶパビリオンが四つ立ち並び、奥に行くほど多層に積層されて、各階の床は地上の暑熱を避ける格好の安息場となったろう。 ところで 王妃の階段井戸の階段が、アダーラジやアフマダーバードのような 一直線に降りていくものではなく、奥に一段降りては左右に数段下りるということを繰り返しているので、その深さにもかかわらず、全長は短めになり、アダーラジやアフマダーバードと ほとんど同じ 70mなのである。この幅広の階段部の構成は、アーバーネリーの大クンダ を思い起こさせる。これは基本的には階段井戸(ステップウェル)だが、階段部の構成は むしろ階段池(クンダ)なのである。 王妃の階段井戸、断面図 一番右上にポツンと台座が残っているが、かつては ここにトラナ (記念門) が立っていて、大階段への入口をなしていた。 左はしが井戸シャフトで、水位は季節によって変わる。 トラナから井戸の奥まで、バージェスとクーセンスの報告書では 65mとあるが、マンコーディの報告書の実測図をスケールで当たると、約 70mとなる。
王妃の階段井戸、平面図
ということは、アフマダーバードのダーダー・ハリールの階段井戸と ほぼ同じ長さなので、これが いかに幅広であるかがわかる。 井戸シャフトの右側の青い部分が井戸の余剰水による水槽 (タンク) で、全体が ここへ向かっての階段池 (クンダ) になっていると言える。 井戸に黒く突き出ているのは、つるべを吊る キャンティレバーのブラケット。(From "The Queen's Stepwell at Patan" by Kirit Mankodi, Project for Indian Cultural Studies Publication, Bombay, 1991)
けれども、この大規模な水汲み場が パータンの市民の役に立ったのは、数十年の間のことであったらしい。ある年、雨季のサラスヴァティー川が大氾濫を起こし、大洪水で運ばれた土砂が、この階段井戸を埋めてしまったのである。それは あまりに徹底したもので、とても掘り起こすことは不可能だと思われたほどだったのだろう、そのまま放置されて、以後 20世紀末に至るまで、人はその崩れ去った遺跡の最上部に散乱した残骸をしか見ることができなかった。 パータン、王妃の階段井戸 その調査から ちょうど 100年後の 1986年になって、この伝説的な「王妃の階段井戸」の発掘と修復が 現在のインド政府考古局によって開始された(1988年に 私が初めて訪れた時には まだ修復工事中で、撮影は厳しく禁じられていた)。そして 1991年に キリト・マンコーディによる詳細な報告書("The Queen's Stepwell at Patan" by Kirit Mankodi, 1991)が出版されるに及んで、我々も やっと その全貌を知るに至ったのである。
王妃の階段井戸、壁面彫刻
最上層の柱・梁架構が失われているのは、訪問者に少し物足りない思いをさせるだろうが、しかしそれ以下の部分(ということは、この階段井戸の大部分)、とりわけ壁面や柱、梁、腕木にほどこされた数百の彫像が、ほとんど残っている。
王妃の階段井戸は土砂に埋もれて 長く放置されていたが、パビリオンの最上部の柱・梁架構は 土砂の上に散乱していたらしい。19世紀初め(1805年とも言われる)、土地のオーナーであったバハードゥル・シング・バロットは それらの部材を集めて、パータン市内に 全長 40mほどの小型の階段井戸を、市民のために新設することにした。それが、現在にまで残る バロット・ヴァーヴである。写真で見てわかるように、実にうまく廃材を組み立てて新しい建物を構成している。石造建築というのは、部材を切ったり削ったり、表面に彫刻したりすることは、どんなに時代が経っても自由自在である。それは世界中の イスラームが征服した各地で、ローマ神殿や キリスト教聖堂や ヒンドゥ寺院を解体しては モスクを建設したのと同様である。 パータンのバロット階段井戸 バロット階段井戸は 100年以上にわたって市民に奉仕してきたが、20世紀半ばの地下水位の低下によって 水が涸れてしまった。私が訪れた時には ゴミ捨て場のようになっていて 何とも悲しいことであったが、だからといって、これを解体して、再び王妃の階段井戸の上部を再建するわけにもいかない。幸い、王妃の階段井戸のユネスコ世界遺産登録の準備に伴い、今では浄化されていることだろう。 ( 2015 /09/ 04 ) |