MONUMENTS at HAMPI
ハンピ
ハンピの都市遺跡
神谷武夫
ハンピ
南インド、カルナ-タカ州、バンガロ-ルの北約280km
1986年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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南インドのハンピの都市遺跡は、14世紀前半にヒンドゥ教を奉ずるヴィジャヤナガラ王国の首都として建設が始められた。以来、王宮をはじめとして数々の寺院がここかしこに造営され、16世紀半ばにイスラーム勢力に攻略されるまで「勝利の都」とよばれる大都会であった。今日では遺跡の北側を流れる川の古名であるハンピの名でよばれている。1981年以来修復が進められて、しだいにその全貌が明らかにされつつあり、多くの人々の努力によって風化と壊滅の危機から救われた貴重な遺跡が訪問者を魅了する。



ヒンドゥ王国の古都

 昇る朝日の柔らかな光が、今は廃墟と化したヴィジャヤナガラの都市遺跡の、花崗岩の岩肌を黄金色に輝かせる。南インド最後のヒンドゥ帝国の首都は、朝の光のなかで、ついさっきまで活動していたかのような生彩を帯びてくる。 見渡せば、岩の塊がいたるところに積み上げられた、混沌とした風景が広がっている。神話によれば、これはラーマ王子を助けた猿の援軍、ハヌマーンが敵に向かって投げつけた石のつぶてなのである。
 見失いがちな道の先には、高度な技術によって建造された 12の主立った寺院をはじめ、さまざまな神祠や望楼、柱廊や浴場、要塞や宮殿などが散在している。ヴィジャヤナガラの廃都は、時代こそ遅れるものの、中東や東南アジア各地の名高い都市遺跡、テーベやペルセポリス、アンコール・トムなどにけっして引けを取らない壮麗な都市だったのである。

寺院地区の地図(「インド建築案内」より

 南インドのカルナータカ州を、一般の観光ルートから離れて奥に進むと、トゥンガバドラ川沿いの山あいの町、ハンピに行き着く。かつてはヴィジャヤナガラとよばれたこの町は、トゥンガバドラ川の古名であるパンパーが後のカンナダ語になった、ハンピという名でよばれている。
 土着のパンパー女神はヒンドゥ教のパールヴァティー女神に同一化され、その夫であるシヴァ神に献じられた川沿いの大きなヴィルーパークシャ寺院は、パンパーパティ寺院ともよばれる。それは今も礼拝される生きた寺院であるが、消滅寸前に保護、修復されたこの都市址では、広大なエリアに散在するおびただしい数の寺院や宮殿の遺跡が、まるで野外の建築博物館のような様相を呈しており、南インドのドラヴィダ式の建築文化の粋を伝えている。

ヴィルーパークシャ寺院

 ハンピは、デカン高原にイスラーム勢力の武力による侵攻が急速に進んだ時期、互いに抗争をくりかえしていたヒンドゥ教徒たちが、イスラーム勢力に対抗すべく結束して、ヒンドゥ教の王国を築いた際に首都とされた町であった。北インドから南下するイスラームの進軍を阻止する目的で新首都の建設が開始されたのは、1336年である。
 それから 100年を経ずしてこの町は、きわめて強固な城壁で守られる大都市になった。イスラーム勢力との戦いはのちのちまでつづき、「勝利の都」を意味するヴィジャヤナガラの王都も、一時はゴアのポルトガル総督の助力を請わねばならなかった。

ハンピの寺院建築

王室礼拝堂のラーマチャンドラ寺院

 クリシュナデーヴァラーヤ王(在位 1509〜1529)の治世に、ヴィジャヤナガラ王国は最盛期を迎えた。16世紀のポルトガル商人、ドミンゴス・パイスが書き残した『ヴィジャヤナガラ王国誌』によれば、七重の塁壁で囲まれた王宮は世界一の防備を誇り、首都を貫く数本の大通りは、いずれも長さが1キロメートルほどもあったという。
 各寺院のファサードが面するこれらの大通りは、宮廷の儀式や寺院の祭りの際には行列の道筋となったことだろう。大通り沿いには、石造のアーケードが設けられていた。花崗岩で建てられたこのアーケードは、しばしば2階建てになっていて、細い列柱の上に、重さ数トンもの石梁が架け渡されている。
 王国の首都として選ばれたこの地は、もともと6世紀以来聖地とされていた所である。その後多くの寺院が造営されるにつれ、巡礼者の集まる一大宗教都市ともなった。 寺院のなかには高さ 50メートルを超えるゴプラ(寺門)や、広い列柱ホールのマンダパ(拝堂)をそなえた壮大なものもあり、柱廊は巡礼者たちの夜間の宿泊の場になった。
 祭礼の日には、寺院に祀られていたヒンドゥ教の神々の像が御輿(みこし)やラタ(山車、だし)に乗せられて、両側が礼拝の人々で埋まった大通りを巡回するのだった。寺院に立ち入ることのできなかった低カーストの人々も、このときばかりは神像を拝することができたのである。

寺院地区のヴィッタラ寺院のマンダパ外観


寺院の石彫装飾

 ハンピの数ある寺院のなかで、初期のものとしては ヘーマクータの丘に建つ小寺院群 が挙げられる。 ヴィルーパークシャ寺院とトゥンガバドラ川を見下ろす大きな岩盤の斜面に、ヴィジャヤナガラ王国が成立するより早い 10世紀頃から寺院が建てはじめられ、今は7院が残っている。いずれも層状のピラミッド屋根をいただく祠堂であるが、ひとつのマンダパを3つの祠堂が共有しているプランが、のちのホイサラ朝の寺院様式を思わせて興味深い。もともとはヒンドゥ教寺院であったものが、のちにジャイナ教寺院に転用されたらしい。ハンピには少数ながらジャイナ寺院も各所に残っており、王朝がふたつの宗教を保護したことがうかがえる。
 中規模の寺院として注目されるのは、宮廷地区にあるラーマチャンドラ寺院である。叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子を祀るこの寺院は、おそらく王室礼拝堂として 15世紀に建立されたもので、外壁も内部もみごとな彫刻で飾られている。ハザーラ・ラーマ寺院ともよばれ、境内を厚い石壁が囲み、東面と北面に門がある。
 目を引くのは塀の外側にほどこされたおびただしい数のレリーフ彫刻である。そこでは動物や楽人や兵士たちが何段にもわたって大行列をしている。 一方、英雄神クリシュナにも、首都にふさわしい大寺院が捧げられた。さらに、都の西端には巨大なナラシンハ(人獅子)の像も残されている。ラーマ王子、クリシュナ、ナラシンハはすべてヴィシュヌ神の化身とされている。

  
ヴィッタラ寺院のマンダパ内部    境内のガルーダ堂(チャリオット)

 首都の最北部、トゥンガバドラ川が大きく湾曲する近くに建てられたのがヴィッタラ寺院である。これは首都で最大なばかりでなく、その完成度の高さと彫刻の密度においても群を抜いている。クリシュナデーヴァラーヤ王の指揮下に、オリッサ王国との戦いの勝利を記念して 16世紀前半に造営された。 境内を囲む回廊の三方にゴプラが建てられ、境内には本堂のほかにいくつもの祠堂や石造の山車などがにぎやかに建ち並んでいる。
 本堂は聖室の手前に閉じたマンダパがあり、さらに手前に開放的なマンダパがあって、その内部空間の華麗さは筆舌に尽くしがたい。ヴィジャヤナガラ様式の、これは最高傑作といえよう。
 もうひとつの大寺院は、半ば廃墟となっていたティルヴェンガラナータ寺院である。この寺院は王の名を取ってアチュタ・ラーヤ寺院ともよばれ、境内を二重に囲われ、入り口には大きなゴプラが建つ。
 こうした形式はのちに発展する後期ドラヴィダ式の先駆けをなすもので、シュリーランガムの寺院をはじめとする近世の寺院は幾重にも高い塀で囲まれ、外側にいくほど高いゴプラが建てられるようになる。ハンピのヴィルーパークシャ寺院でも、16世紀のゴプラが 50メートルを超える高さにそびえている。


宮廷地区の地図(「インド建築案内」より


首都の繁栄

 城壁で厳重に守られた宮廷地区には、「王の基壇」をはじめ王妃の浴場や象舎、ゼナーナとよばれる後宮などがあった。堂々たる王の基壇は、さまざまな儀式やマハーナヴァミの祭礼に用いられたものと思われる。基壇の壁面には豊富な帯状のレリーフ彫刻がほどこされ、狩の場面や楽人の行列、馬や象のほかにラクダまでも彫り出された。
 一方、宮廷の建物は南インドの伝統様式と、北からもたらされたイスラーム建築の技法が融合し、スタッコで仕上げられた。アーチの開口部をもちながら伝統的な階段状の屋根をいただくロータス・マハル(蓮の宮殿)や、王妃の浴場がその代表的遺構である。


宮廷地区のロータス・マハル

 綿花と香辛料の貿易によって富み栄えた首都ヴィジャヤナガラ(ハンピ)が、王の都としていかに贅を尽くしていたかは、ドミンゴス・パイスの記録からうかがい知ることができる。ヴィッタラ寺院では、毎夜、2,500から 3,000ものオイルランプが堂内を輝かせていた。毎年秋に行われる、雨季のモンスーンの終了とドゥルガー女神による悪魔の退治を祝うダシャラーの祭には、王も民衆もともに、9日間にわたって空をも焦がす花火に興じ、250頭の水牛と 4,500頭の羊を犠牲として捧げたものだった。
 戦いの際に戦車となる象は、絹布、綾織り布、ダマスクス産のサテンの布で盛大に飾られ、兵士たちが身につける鎧(よろい)も金銀で輝いていたという。さらにパイスは、「王が戦いの前線に送り込んだ兵士の数は 200万を数えた」と記し、ヴィジャヤナガラの王の絶大なる権力と国力を広く知らしめた。

王の基壇(マハーナヴァミ壇)のレリーフ彫刻

 それでも 1565年にデカン地方のイスラーム勢力(ムスリム五王国の連合軍)とのターリコータの戦いに敗れると、ヴィジャヤナガラ王国は崩壊の危機に見舞われた。背後の川の流れと堅固な要塞が、首都を武力侵攻から守ったにもかかわらず、王は都を捨て南方のペヌコンダへと遷都したのである。
 丘の地形を利用しながら、数本の大通りを軸に整然とつくられた首都は、イスラーム軍により半年にわたって占拠され、略奪されるに任された。しかし、この頃からイスラーム勢力の内部分裂も深刻化し、これ以上の南進政策は実現することがなかった。
 その後 400年にわたって、かつての都は忘れ去られたままであった。1981年、ようやく「ハンピ再生計画」が立てられ、「幻の古都」の調査と修復が本格化した。これによってハンピは消滅をまぬかれ、保全が図られたのである。 遺跡の各所の壁や柱、基壇などに残された 5,000にもおよぶ碑文のおかげで、ハンピは、その歴史上の姿が、かなり正確に復元されるにいたっている。

  
    宮廷地区の象舎     王妃の浴場


伝統の継続

 今日、ハンピの住民のなかには、観光客相手の土産物を売って生計を立てている人も多く、ハンピ・バザールとよばれる大通りには、そうした店が軒を連ねている。とはいえ、ハンピのおもな産業が昔ながらの農業であることに変わりはない。ヴィジャヤナガラ王国時代から、斜面一帯をくまなく耕作した谷間の土地が、豊かな実りをもたらしてきた。またトゥンガバドラ川の流れは、小舟を巧みに操る漁師たちに、つねに豊漁を約束してきたのである。
 伝統的な習慣は、結婚の形式にも受け継がれている。婚約の儀式は冬の川辺で、満月の日に執り行われ、春に同じ場所で結婚式が催されて新郎新婦が祝福される。生まれた子供たちは、やはり古来の習慣にのっとって、クリシュナやパールヴァティー、あるいはラクシュミーといった神の名の下に川の水で清められる。 これらヒンドゥ教の3神は、ハンピ遺跡のここかしこの浮き彫りのなかに、愛し、戦い、殺戮にまでおよぶ姿を見ることができよう。


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