ハンピの都市遺跡 |
南インドのハンピの都市遺跡は、14世紀前半にヒンドゥ教を奉ずるヴィジャヤナガラ王国の首都として建設が始められた。以来、王宮をはじめとして数々の寺院がここかしこに造営され、16世紀半ばにイスラーム勢力に攻略されるまで「勝利の都」とよばれる大都会であった。今日では遺跡の北側を流れる川の古名であるハンピの名でよばれている。1981年以来修復が進められて、しだいにその全貌が明らかにされつつあり、多くの人々の努力によって風化と壊滅の危機から救われた貴重な遺跡が訪問者を魅了する。 |
昇る朝日の柔らかな光が、今は廃墟と化したヴィジャヤナガラの都市遺跡の、花崗岩の岩肌を黄金色に輝かせる。南インド最後のヒンドゥ帝国の首都は、朝の光のなかで、ついさっきまで活動していたかのような生彩を帯びてくる。 見渡せば、岩の塊がいたるところに積み上げられた、混沌とした風景が広がっている。神話によれば、これはラーマ王子を助けた猿の援軍、ハヌマーンが敵に向かって投げつけた石のつぶてなのである。
寺院地区の地図(「インド建築案内」より )
南インドのカルナータカ州を、一般の観光ルートから離れて奥に進むと、トゥンガバドラ川沿いの山あいの町、ハンピに行き着く。かつてはヴィジャヤナガラとよばれたこの町は、トゥンガバドラ川の古名であるパンパーが後のカンナダ語になった、ハンピという名でよばれている。
ハンピは、デカン高原にイスラーム勢力の武力による侵攻が急速に進んだ時期、互いに抗争をくりかえしていたヒンドゥ教徒たちが、イスラーム勢力に対抗すべく結束して、ヒンドゥ教の王国を築いた際に首都とされた町であった。北インドから南下するイスラームの進軍を阻止する目的で新首都の建設が開始されたのは、1336年である。
クリシュナデーヴァラーヤ王(在位 1509〜1529)の治世に、ヴィジャヤナガラ王国は最盛期を迎えた。16世紀のポルトガル商人、ドミンゴス・パイスが書き残した『ヴィジャヤナガラ王国誌』によれば、七重の塁壁で囲まれた王宮は世界一の防備を誇り、首都を貫く数本の大通りは、いずれも長さが1キロメートルほどもあったという。
ハンピの数ある寺院のなかで、初期のものとしては ヘーマクータの丘に建つ小寺院群 が挙げられる。 ヴィルーパークシャ寺院とトゥンガバドラ川を見下ろす大きな岩盤の斜面に、ヴィジャヤナガラ王国が成立するより早い 10世紀頃から寺院が建てはじめられ、今は7院が残っている。いずれも層状のピラミッド屋根をいただく祠堂であるが、ひとつのマンダパを3つの祠堂が共有しているプランが、のちのホイサラ朝の寺院様式を思わせて興味深い。もともとはヒンドゥ教寺院であったものが、のちにジャイナ教寺院に転用されたらしい。ハンピには少数ながらジャイナ寺院も各所に残っており、王朝がふたつの宗教を保護したことがうかがえる。
ヴィッタラ寺院のマンダパ内部 境内のガルーダ堂(チャリオット)
首都の最北部、トゥンガバドラ川が大きく湾曲する近くに建てられたのがヴィッタラ寺院である。これは首都で最大なばかりでなく、その完成度の高さと彫刻の密度においても群を抜いている。クリシュナデーヴァラーヤ王の指揮下に、オリッサ王国との戦いの勝利を記念して 16世紀前半に造営された。 境内を囲む回廊の三方にゴプラが建てられ、境内には本堂のほかにいくつもの祠堂や石造の山車などがにぎやかに建ち並んでいる。
宮廷地区の地図(「インド建築案内」より )
城壁で厳重に守られた宮廷地区には、「王の基壇」をはじめ王妃の浴場や象舎、ゼナーナとよばれる後宮などがあった。堂々たる王の基壇は、さまざまな儀式やマハーナヴァミの祭礼に用いられたものと思われる。基壇の壁面には豊富な帯状のレリーフ彫刻がほどこされ、狩の場面や楽人の行列、馬や象のほかにラクダまでも彫り出された。
宮廷地区のロータス・マハル
綿花と香辛料の貿易によって富み栄えた首都ヴィジャヤナガラ(ハンピ)が、王の都としていかに贅を尽くしていたかは、ドミンゴス・パイスの記録からうかがい知ることができる。ヴィッタラ寺院では、毎夜、2,500から 3,000ものオイルランプが堂内を輝かせていた。毎年秋に行われる、雨季のモンスーンの終了とドゥルガー女神による悪魔の退治を祝うダシャラーの祭には、王も民衆もともに、9日間にわたって空をも焦がす花火に興じ、250頭の水牛と 4,500頭の羊を犠牲として捧げたものだった。
それでも 1565年にデカン地方のイスラーム勢力(ムスリム五王国の連合軍)とのターリコータの戦いに敗れると、ヴィジャヤナガラ王国は崩壊の危機に見舞われた。背後の川の流れと堅固な要塞が、首都を武力侵攻から守ったにもかかわらず、王は都を捨て南方のペヌコンダへと遷都したのである。
宮廷地区の象舎 王妃の浴場
今日、ハンピの住民のなかには、観光客相手の土産物を売って生計を立てている人も多く、ハンピ・バザールとよばれる大通りには、そうした店が軒を連ねている。とはいえ、ハンピのおもな産業が昔ながらの農業であることに変わりはない。ヴィジャヤナガラ王国時代から、斜面一帯をくまなく耕作した谷間の土地が、豊かな実りをもたらしてきた。またトゥンガバドラ川の流れは、小舟を巧みに操る漁師たちに、つねに豊漁を約束してきたのである。 |