最初のモスクと クトゥブ・ミナール |
トルコ系のムスリムで、デリーに奴隷王朝を創始することになる 将軍アイバクは、破竹の勢いで インド北部を征服すると、その勝利の記念に クッワト・アルイスラーム・モスクを建設した。これは「イスラームの力」を意味する、インド最古のモスクである。建設にあたって、アイバクは取り壊した 27のヒンドゥ寺院やジャイナ寺院の部材を用いた。次いで、クトゥブ・ミナールとよばれるミナレット、じつは「勝利の塔」を建造する。これは今もなお、インドで最も高い石造の塔である。これらの建物群は、いまだ西方の技術に習熟しないインドの工匠たちが、その伝統技術を用いながら実現したイスラーム建築として、きわめて興味深い。 |
デリーは歴史的に「七つの都」が重なった都市である。最初のラールコートは 現在のデリーの南郊で、土着のラージプート族による都市であった。1192年に アフガニスタンの君主、ゴール朝のムハンマドがインド北部を征服すると、将軍 クトゥブ・アッディーン・アイバクに その統治をまかせて国へ戻った。アイバクは ここにあった都城、ヒンドゥのプリトヴィラージ王の建設になる キラー・ラーイ・ピトラを占拠し、拡張した。 「クトゥブ・アッディーン(宗教の軸)」という称号をもつアイバクは、臣下の日々の礼拝の必要を満たすとともに、土着のインド人に対して「真の宗教」であるイスラームの優位を示すべく、大モスクを建設した。彼自身はこれを金曜モスクと呼んだが、次第に「イスラームの力」を意味する「クッワト・アルイスラーム・モスク」と呼ばれるようになった。その後 アイバクのあとを継いだスルタンや、さらには後継王朝によっても拡張されたが、最初のスルタンを記念して、このモスクを中心とする遺跡を「クトゥブ地区」と呼んでいる。「クトゥブ」というのは、もともと「キターブ」(啓典)の複数形で、「クルアーン」ばかりでなく ユダヤ教やキリスト教の「聖書」も含んだ「諸啓典」の意である。
やがてインド人は、アイバクが ヤムナー河のほとりのこの町で どのような宗教政策をとるのかを知ることになる。ムスリムは、ヒンドゥ寺院のことを「ブッダの家」とよんでいたが、これを貶(おとし)め、27におよぶヒンドゥ寺院やジャイナ寺院を破壊したのである。 あげくに、その暴挙を みずからたたえる碑文まで刻んでいる。
クトゥブ・モスクの回廊と、持ち出し構造のドーム天井 モスクの設計が まだ細部までできていなかった頃、アイバクは ヒンドゥの建築家や地元の工匠を多数登用して、モスク建立の事業を推し進めることにした。インド北部はもとより、インドのどこの工匠と比べても 彼らの技術力はきわめて高い水準にあった。彼らはイスラームのモスクがもつ 幾何学的な厳格さにまだ あまりなじんではいなかったが、新しい統治者の意向に添う建物をつくるべく努めた。しかし、それでも 自分たちが慣れ親しんできた伝統様式を、無意識のうちに出してしまいがちであった。
ヒンドゥの建築家を困惑させた要素が いくつかあった。まず第一に、彼らが礼拝室の広さというものに慣れていないことだった。ヒンドゥ教徒は 神と一対一で話すために寺院に出かけて行く。そのため、ヒンドゥ寺院では さほど広いスペースを必要としないが、モスクは 金曜日の集団礼拝時に大勢のムスリムを一度に収容できるよう、ずっと広大なつくり でなければならなかった。
インド・イスラームの最初の廟建築である イレトゥミシュ廟が モスクの外側に建てられたのは 1236年のことであるが、ここでも アーチは水平積みであり、ドーム屋根は崩壊してしまっている。けれども 内壁に見られる唐草模様や蓮華(れんげ)の装飾には、インドの工匠たちの技量が 十分に発揮されている。さらに、ナスヒー体の文字で刻まれた『コーラン』の章句は、壁をおおう他のレリーフ彫刻と相まって、丹念に編まれた織物のような印象を与える。インドにおけるレリーフ彫刻芸術の逸品といえるだろう。
アイバクはスルタンとなる前の 1199年に「神の影を東西世界に投影するために」クトゥブ・ミナールの建設を命じた。ミナールというのはミナレットのことで、本来はその上から日に 5回礼拝の呼びかけをするための塔である。 しかし、このクトゥブ・ミナールはアフガニスタンのジャームの塔をモデルにした、イスラームの勝利を記念する「勝利の塔」であろう。じつに力強い、堂々とした造形で、今もインドで最も背の高い石造の塔である。
クトゥブ・ミナール 見上げと壁面彫刻
赤とベージュの砂岩でできた クトゥブ・ミナールの第1層には、半円形のリブと三角形のリブが交互にくりかえされているが、第2層には半円形のリブだけ、第3層には三角形のリブだけが つけられている。諸処に『コーラン』の章句が刻まれた水平層がまわって、装飾効果を高めている。 礼拝の時を告げ知らせるムアッジンが登ったバルコニーは、鐘乳石紋の複雑な張り出し帯の上にある。
クッワト・アルイスラーム・モスクの第 3次拡大平面図
アイバクに始まる奴隷王朝が 1290年に滅びた後も、デリーには トルコ系とアフガン系のイスラーム王朝が継起して、北インドを支配した。それら 奴隷王朝からローディー朝までを一括して「デリーのスルタン朝」と総称するが、クッワト・アルイスラーム・モスクは つねに尊重され、2回にわたる拡大をみた。
アラー・アッディーンは新しい中庭に、クトゥブ・ミナールに優る第二の塔を建てて イスラームの勝利を祝おうとしたが、1316年に暗殺されてしまったために、第1層も完成しないうちに 工事は中断されてしまった。そのアラーイ・ミナールの塔の基礎部分は 赤砂岩でつくられ、直径が 25メートルもあるので、完成していれば 100メートルを超える高さとなったであろう。不運のスルタンは、彼がモスクの隣に建てた マドラサ(イスラームの高等教育機関)、アラー・アッディーン学院の中に眠っている。 イスラームの栄光を宣揚するために造営された クッワト・アルイスラーム・モスクの境内には、「ヒンドゥ教の忘れ形見」ともいうべきものが残されている。最初のモスクの中庭に、4世紀に鍛造された 高さ 7.2メートルの独立した鉄柱が立っているのである。その基部に刻まれた碑文によれば、この鉄柱は 偉大な王、チャンドラを記念しているという。それがグプタ朝の チャンドラグプタ2世(在位 375〜413頃)のことであるのは間違いない。
クッワト・アルイスラーム・モスクの鉄柱とアーチ・スクリーン
この鉄柱が、壊されたヴィシュヌ寺院で使われていたものかどうかは、明らかでない。しかし柱頭に 深いくぼみがあることから、ヴィシュヌ神が乗り物として利用したという、鷲に似た伝説の巨鳥 ガルダの像が載っていたと考えられる。おそらく、柱はイスラームの侵入前に デリーまで運ばれてきたのであろう。 |