チヤトラパテイ ・ シヴアージー駅舎 |
インドは 長いこと大英帝国(Greater Britain)の植民地として支配され、搾取され続けた。インド人による独立運動は困難をきわめたが、ガンディーの指導による 非暴力・非協力の闘争は、世界にも 稀な 平和裡の独立を ついに達成した。1947年のことである。
チャトラパティ・シヴァ-ジー駅の 北翼ファサ-ドと 中央塔
ヴィクトリアというのは、言うまでもなく 英女王の名であり、その半世紀以上にわたる在位期間(1837-1901)に 英国は世界中に植民地をつくり、そこから吸い上げた富によって 英国史上最も豊かな「黄金時代」を築いた。1858年に東インド会社が終息してからは インドは英国政府の直轄植民地となり、女王が インドの王を兼ねるようになったのである。
シヴァ-ジ-駅の出札ホ-ルと ポ-チ内部
前章で述べたように、大都会ムンバイ(ボンベイ)は、海に面して良港をもつ商業都市で、かつ 建物が密集する島や半島から成るという点で、アメリカのニューヨークに似ている。永年の埋め立てによって、今でこそ一続きの半島のようになっているが、かつては 多くの島々から成り、ニューヨークのマンハッタン島に相当するのが ボンベイ島であった。
港には毎日 ヨーロッパからの船が着き、その物資を内陸に運ぶのと、逆にインドの資源を港に運んで積み出すためには 鉄道が必要であり、港に隣接するところに ボンベイ終着駅を建設することになった。鉄道は 19世紀における 近代化と工業化のシンボルであり、1853年に ボンベイ〜ターナ間に 33kmの鉄道が開通して以来、英国はインド全土に鉄道建設を推し進めつつあった。日本の新橋〜横浜間に鉄道が開通したのが 1872年だから、それよりも約 20年先行していたことになる。
スティーヴンスは英国のバースに生まれ、19歳の時に インド省・建設局(PWD)の試験に合格して インドに渡った。数年間をプーナ(現・プネー)で過ごした後はボンベイに定着し、数々の重要な施設を設計することになるので、建築家としての彼の名は ボンベイと切っても切れないものとなる。
シヴァ-ジ-駅舎の 前面ア-ケ-ド細部と彫刻
スティーヴンスは VT駅舎ビルをレンガと石の組み合わせで構成し、あらゆる細部を念入りにデザインして、英本国の どんな建物にも引けを取らない 意欲的なモニュメントに練りあげた。完成したときの威容は絶賛を浴びて、一躍彼の名を、コロニアル・インドを代表する建築家として高からしめたのである。 数年前に日本では 伊東忠太(1867-1954)の展覧会が開かれて、彼の建物の諸所に現れる「妖怪」が話題になったが、この VT駅もまた 妖怪や動物の彫刻があふれかえり、その数は忠太の比ではない。 それらの装飾には ボンベイ美術学校の教官と学生が全面的に参加して制作した。 最も重要な中央塔頂部の「進歩の女神」像と、門の上にペアをなす 獅子(イギリス)と 虎(インド)の像は、彫刻家の トマス・アープの作品である。
シヴァ-ジ-駅舎の孔雀窓と ライオン門
赤いレンガと白い石による クラシックな駅舎を見ると、日本人なら 辰野金吾(1854-1919)が 1914年に竣工させた中央停車場(東京駅)を思い浮かべることだろう。辰野はスティーヴンスよりも 6歳若いだけだったから、ほとんど同世代であり、彼もまた ロンドンのウィリアム・バージェスのもとで ヴィクトリアン・ゴチックを学んだ建築家である。 ヴィクトリア・ターミナス駅舎で評判を得た スティーヴンスが、独立してボンベイで設計事務所を始めると、設計の注文は次々とやってくる。中でも重要なのは、VT駅の真向かいに建つ ボンベイ市の行政庁舎(1893)である。もともとは設計コンペで ロバート・フェローズ・チザム(1840-1915)の インド・サラセン様式の案、というよりも ヒンドゥ・サラセン様式の案が 1等をとっていたのだが、英国支配下のボンベイ市は インドの伝統に深入りしすぎたチザムの案を気にいらず、曲折の末に スティーヴンスが設計し直すことになったのである。
「インド・サラセン様式」という奇妙な名称は、英国の一方的なヨーロッパ文化の押しつけが インド大反乱を招いたという反省から、インドの伝統文化を尊重する気運が高まり、ムガル朝のイスラーム建築(当時は サラセン建築と呼ばれた)の要素を取り入れたコロニアル建築を、そう呼ぶようになったのである。チザムはさらに、ヒンドゥ寺院や 南インドの木造建築の伝統までをも咀嚼(そしゃく)して、独自のデザインを作り上げた才気あふれる優秀な建築家であった。しかしスティーヴンスとの闘いに敗れ、彼の作品は ボンベイには一つも残っていない。 スティーヴンスの建てた行政庁舎によって、ヴィクトリアン・ゴチックのボンベイの町が完成したとも言えるが、しかし 彼も時代の趨勢には逆らえず、ゴチック様式で生涯を貫くことはできなかった。行政庁舎には中央塔をはじめとして、いくつもの球根形のドーム屋根を載せて、インド・サラセン様式との折衷を図ったのである。なるほど このような形の建物は、ロンドンのヴィクトリアン・ゴチックには 見ることがないであろう。
ヴィクトリア・タ-ミナス駅舎の透視図と、チャ-チゲイト駅舎 1894-96
ボンベイには もう一つの鉄道が通り、その「ボンベイ・バローダ・中央インド鉄道会社」の本社ビルを、チャーチゲイト終着駅の向かいに建てることになり、この設計もまた スティーヴンスに委託された(今では駅と一体化している)。19世紀の最後に建設されたこのビルは、下部は堅実にゴチック様式を守りとおしているものの、上部は一層インド・サラセン様式に傾斜している。 どんな建築家も 時代の波を逃れることはできない。一個人の性向を超えたところに存在する形の傾向、それが「様式」というものである。 (2005年3月「中外日報」) メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp
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