MONUMENTS at FATEHPUR SIKRI
ファテプル・シークリー
ファテプル・シークリーの都
神谷武夫
ブランド門
北インド、ウッタル・プラデシュ州、デリ-の南約200km
1986年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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ムガル帝国の第3代皇帝アクバルは、1571年から 1585年にかけて新首都ファテプル・シークリーを建設し、アーグラからその宮廷を移した。しかし戦いにあけくれた皇帝は、突然、新都に背を向けると、ふたたび戻ることがなかった。その後、宮廷地区が放棄されると、住民は広大な都市の市壁を取り崩してその石材を売って生計の資とした。けれども大モスクは聖者廟とあわせてその後も参詣者が絶えることなく、アクバル帝のつくった都の高台には、ドームやパビリオンやアーケードが今も美しいシルエットを連ねている。



新都の建設

 アーグラから 40キロメートルほどのシークリーの地に遷都することを決めたムガル朝の第3代皇帝アクバル(在位 1556〜1605)は、できるだけ早く新都に移り住みたいと考え、遠い諸国に住む工匠や職人たちまで北インドによび集めた。すでに工事の過程は綿密に計画が立てられていて、1571年に始められた工事を、皇帝は期待感とともに見守っていた。
 アクバル帝はみずから建設資材の選定にあたり、職人に支払う賃金や、高価な赤砂岩にかかる費用にいたるまで計算したといわれる。こうしてシークリーの丘の上には、短期間のうちに光彩陸離たる宮殿群や大モスク、そして高官の居住地など、さまざまな施設が完成したのである。
 当時はアクバラーバードとよばれた首都 アーグラの城塞 にあった宮廷を、新都に移してまもなくの 1573年、アクバル帝は西インドのグジャラート地方に遠征して勝利をおさめ、領土を拡大した。凱旋した皇帝はこの勝利を記念して、新都をファテプル・シークリー(勝利の都シークリー)と名づけたのである。同時に大モスクの南側には、大きなイーワーンをもつペルシア風のブランド・ダルワーザ(壮麗門)という雄大な楼門を建設した。これは皇帝の凱旋門であるとともに、ムガル帝国の覇権を象徴してもいる。

アーグラ門の近くのナウバト・ハーナ


有為転変の新首都

 「平安なるイーサーいわく、現世は1本の橋のごときものなれば、渡り行くほかなし。しかしそこに建物を建てることなかれ。現世は汝が礼拝して過ごす束の間に過ぎざれば」。権力の絶頂にあったアクバル帝は、ファテプル・シークリーのモスクにこう刻ませたのだが、この悲観的な言葉がこの新首都の未来の姿を表すことになろうとは、誰も想像だにしなかったことだろう。
 ファテプル・シークリーの建設が始まってからおよそ 14年後の 1585年、アクバル帝はアフガンの軍勢を討伐するために西北辺境に出陣すると、それ以後ファテプル・シークリーを顧みなくなってしまう。彼は戦略上、パンジャーブ地方のラホールに城塞を築き、そこを居城として使うようになるのである。そのために ファテプル・シークリーはゴースト・タウンと化してしまったが、今でも その宮殿群のたたずまいは、ほんの数時間前にアクバル帝が出かけたばかりであるかのような印象を与える。

宮廷地区のアーヌープ・タラーオ

 それでも 1619年に、思いがけずファテプル・シークリーの宮殿が使われたことがある。ふたたび首都となっていたアーグラでペストが発生し、アクバルの息子のジャハーンギール帝(在位 1605〜1627)がアーグラから避難して、この赤砂岩の石壁の内で身を守ったのである。しかし彼もまた、わずか3ヵ月でファテプル・シークリーを去っていった。
 言い伝えによれば、ファテプル・シークリーの都の建設は、スーフィー(イスラームの神秘主義者)の長老のサリーム・チシュティーの予言によって始まったとされている。 アクバル帝は幼児を亡くして世継ぎに恵まれずにいたところ、サリーム・チシュティーは 1568年、皇帝に シークリーの丘でなら子宝に恵まれるだろうと助言した。翌年の 8月 30日に嫡子、サリーム(将来のジャハーンギール帝)が健やかに生まれると、アクバル帝は早速この地に宮殿の建設を命じ、おかげで過密となったアーグラの町からも、夏の猛暑からも逃れることができたのである。

宮廷地区の 木造建築のようなパビリオン


子宝に恵まれる巡礼地として

 ファテプル・シークリーの都はきわめて大きな構想の都市であった。市壁の長さは 11.2キロメートルにおよび、諸方に門があったが、メインとなるのは東のアーグラ門である。当時の市街は残っていないが、中心を占める丘の上にモスク地区と宮廷地区が、放棄されたおかげで戦乱にもあわず、そっくり残されている。
 モスク地区は大部分をジャーミ・マスジド(金曜モスク)が占め、その西に離れて小宮殿群、南にハンマーム(公衆浴場)があるが、共に荒廃している。 ジャーミ・マスジドはのちにデリーに造営される、インド最大の金曜モスクに匹敵する規模をもち、集団礼拝の折には中庭を含めて 1万人をも収容できた。回廊で囲まれた広大な中庭にはふたつの聖廟が建てられたが、とくに聖者サリーム・チシュティーのための 白大理石の華麗な廟 は、子供を授かりたいと願う女性たちが詣でる 巡礼の地となった。

金曜モスクの内部

 モスクの西側(メッカ側)の礼拝室はすべて赤砂岩で建てられ、インドの伝統的な柱・梁の軸組み構造と、ペルシアのアーチ構造が組み合わせられて、諸宗教の融和をはかるアクバル帝の思想を最もよく表現したモスクとなっている。



宮廷地区の平面図(アンリ・スチールラン「イスラムの建築文化」より)

 宮廷地区はモスク地区の北東にあり、多くの建物が完全に幾何学的なグリッドの上に配置されている。その軸線はモスクと同じくメッカに向けられているために、45度振れた丘の地形にあわせて雁行型となり、変化に富んだ外部空間を体験させてくれる。個々の建物も巨大でなく、住宅的な 住み心地のよい宮廷をつくろうとした意図が読み取れよう。
 今は石の建物ばかりで構成されて硬い印象を与えるが、かつてはここに木製の家具や、布製の幔幕( まんまく )や絨毯( じゅうたん )、すだれやクッションといった柔らかな材料が表面を飾っていたのである。それはまたムガル朝の祖先の、モンゴル族の遊牧民によるテント生活を 思い起こさせるものでもあった。アクバル帝は戦時の遠征に、そうしたテント類による「移動する宮廷」を創り出していたといわれる。

宮廷地区のパンチ・マハル(五層閣)


宮廷生活の華麗な器

 宮廷地区でひときわ目を引く建物は、5層のパンチ・マハル(五層閣)である。 頂部にドーム屋根のチャトリが載る 5層のパビリオンでありながらまったく壁がなく、アーチも用いず、まるで木造のように柱と梁、腕木( うでぎ ) と方杖( ほうづえ )、それに大きく突き出た板庇( いたびさし ) で構成した独創的な建物である。 この頂部からは宮廷地区の全体が見渡せ、足元にはパチシ・コートとよばれる庭が広がっている。
 当時の宮廷史家で、皇帝の一代記『アクバル・ナーマ』を書いたアブル・ファズルによると、アクバル帝は人を試すのが好きだったようである。家臣がとくに恐れたのは、インドの古いチェス・ゲームである「パチシ」に参加するよう召されることだった。宮廷の記録によると、ときには、一度に 200人もの競技者がゲームに参加したこともあったという。
 彼らは少なくとも 16回ゲームをしないと、引き下がることができなかった。屋根のないパチシ・コートでは、色分けされた服装の奴隷たちが、生きた駒として動かされた。競技者にとっても駒となった奴隷にとっても、かなりハードなゲームだった。というのも、1ゲームが終了するのに3ヵ月かかることすらあったからである。皇帝はパンチ・マハルの上から、競技者たちの腕前をみては採点して興じたという。

宮廷地区のマリアムの館

 この東側には回廊で囲まれた広場のような中庭をもつディーワーニ・アーム(公謁殿)があり、南側にはアヌープ・タラーオとよばれる矩形の池と皇帝の居室、北側にはディーワーニ・ハース(内謁殿)がある。1570年に完成した珠玉の建物である内謁殿の中央には高さ 7メートルの柱があり、その樹木のような形につくられた柱頭の上に玉座があった。
 こうした公の政務の建物や公共の施設が建ち並ぶ国政部が宮廷地区の東半分を占め、西側には皇帝の私的な領域がある。ジョド・バーイ殿とよばれる一番大きな建物は後宮で、矩形の中庭を囲んで各面の中央のホールが向かい合っている。いかにもペルシア風のプランであるが、それらのホールがペルシア式のイーワーンではなく、インド風の列柱ホールであり、深い庇が出ているところがアクバル式である。そのほか注目すべき宮殿としては、いずれも小規模ではあるが、ビルバルの館やマリアムの館があり、いずれも赤砂岩で建てられ、繊細なアラベスク模様がレリーフで彫刻されている。

宮廷地区の内謁殿、中央柱


放棄された都の保存

 ファテプル・シークリーが突然放棄された理由については、まだ定説がない。 今までたびたび言われてきた、水不足のためという説も確かではない。というのも、今日では干あがっているが、都市の西側には三方を厚い壁で囲まれた人造湖があったからである。
 この都が放棄された後、人々は建物を壊し始めた。赤砂岩の切石は売り払われ、土と木でできた建物は跡形もなくなった。本格的な考古学調査と修復は 1881年に始められ、次いでインド総督カーゾン卿のもとで保存が進められた。



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