LAL QILA (Red Fort) in DELHI
デリー
デリー城 (レド・フォート)

神谷武夫

ラホール門
北インド、首都デリー市内(オールドデリー)
2007年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

BACK     NEXT


重層都市 デリー

 インドの首都デリーは、歴史上 常に首都であり続けたわけではないにせよ、ずいぶんと古い歴史をもっている。13世紀以降のイスラーム時代になってからでも7つの都が少しずつ位置をずらしながら継起してきたので、ゴードン・リズリー・ハーンは『デリーの七つの都』(The Seven Cities of Delhi)という本を 1906年に書いた。
 この「デリーの七つの都」という呼称は広く流布したが、その出版の5年後に 英王ジョージ5世は 英領インドの首都を カルカッタから遷都すべく、新帝都の建設を布告する。それが 1931年に完成して8番目の都となる ニューデリーである。これによって、デリー城(レッド・フォート)のある7番目の都、ムガル朝の首都であったシャージャハーナーバードは、以後 オールド・デリーと呼ばれるようになった。

Qutub Minar
Qutub Minar

 しかし ゴードン・ハーンが上述の本を書いた当時に オールド・デリーと言えば、それは第1の都で、ユネスコ世界遺産の クトゥブ・ミナール がある ラールコートのあたりを指した。19世紀から出版されていた ジョン・マリー社のインド・ガイドブック("Handbook for Travellers in India Burma and Ceylon")では、1933年の第 14版においてもなお、クトゥブ地区のことを オールド・デリーと書いている。クトゥブ・モスクからデリー城までは 直線距離にして 15km もあるから、中世、近世においては、両者は 別の都市であったと言える。

 1947年にインドがイギリスから独立する前、単にデリーと言えば、それはシャージャハーナーバードと、その北部の シヴィル・ライン(シヴィル・ステイション)および、その先の オールド・カントンメント地区(英軍の都市域)を指した。(インド大反乱の舞台となったのは こちらであって、デリー城の南のカントンメントではない) 当時のシャージャハーナーバードは「ニューデリー」であり、1900年代初めまで そう呼ばれた。

 シャー・ジャハーン帝がつくったデリー城を詳しく見る前に、ここでは それら古層の都市を、歴史順に一瞥しておくことにしよう。

デリーの七つの都
『デリーの七つの都』


デリーの歴史 (デリーの八つの都)

 デリーの名の由来は、紀元前1世紀にカナウジ国のデール王が築いた ディッリ(Dilli)の都にある。その位置は後述のトゥグラカーバードとクトゥブの中間のあたりだとされ、アレクサンドリアの数学者にして地理学者のプトレマイオスは これをダイダーラと記しているが、しかしその遺構は何も発掘されていない。
 伝説では、ディッリ以前にも インドラプラスタという都市が、後述のプラーナ・キラーのあたりにあったという。これは叙事詩『マハーバーラタ』に記述されていて、パーンダヴァ国のユディシュトラ王子によって その場所が選定されたという。インド人なら誰でも知っている『マハーバーラタ』の説話によって、インドラプラスタの名は人口に膾炙(かいしゃ)しているが、実際にこの都市が存在したという証跡は何もない。
 ディッリは長く小都市のままであったが、8世紀にラージプートのトマール族がこれを占拠し、首都として発展させた。11世紀にはアーナングパル王が この都市を城壁で囲んで ラールコートと名を改めた。その城壁の一部は現在も残っている。次いで 12世紀にチャウハーン族のラーイ・ピトーラ王(プリトヴィラージ)がこれを取ると、東に拡大して キラー・ラーイ・ピトーラの名をつける。この城壁も一部が残っているものの、このヒンドゥ時代の都市がどのようなものであったのかは まったくわからない。

 1 ラールコートを拡大した キラー・ラーイ・ピトーラ(後のクトゥブ地区)
 2 シーリー(ハルジー朝の都 )        トゥグルカーバード(トゥグルク朝の都 )
 4 ムハンマド・シャーが1のラールコートと2のシーリーを結びつけた、ジャハーン・パナー
 5 フィーローズ・シャー・コトラ(トゥグルク朝の、フィーローザーバードの城塞 )
 6 プラーナ・キラー(ムガル朝のフマユーン帝が建設したディーン・パナーの城塞、「古城」の意 )
 7 オールドデリー(ムガル朝のシャー・ジャハーン帝が建設した、 シャージャハーナーバードの都)
 8 ニューデリー( 英領時代末期につくられた 新首都 )

 都市が新紀元を迎えるのは、1192年にアフガニスタンから ゴール朝のムハンマド軍が侵攻してラージプート族を打ち破り、デリーを征服した時である。統治をまかされたクトゥブ・アッディーン・アイバク将軍は、アフガニスタンに戻った君主ムハンマドが 1206年に暗殺されて世を去ると、独立して奴隷王朝(1206-90)を建て、キラー・ラーイ・ピトーラ(1)を首都とした。この都市にあった多くのヒンドゥ寺院やジャイナ寺院を破壊し(その数 27と言われる)、その部材を利用して ここに彼が建設したのが、インド初のイスラーム建築、クッワト・アル・イスラーム・モスクとクトゥブ・ミナールで、その遺跡が 今はユネスコ世界遺産に登録されている。

クッワト・アル・イスラーム・モスク

 これ以後、イスラームの王朝は4回変わるが、いずれも王がスルタンを名のり デリーを首都としたので、320年にわたる中世の北インドにおけるイスラーム王朝を一括して、「デリーのスルタン朝」と呼んでいる。

 2番目のハルジー朝(1290-1320)は、1304年に新首都 シーリー(2)を 少しく東北方に建設し、やはり城壁で囲んだ。約4km離れた古都と新都は、相並んで繁栄したらしい。
 3番目のトゥグルク朝(1320-1413)は、さらに建設活動に意欲的であった。初代スルタンのギヤース・アッディーン・トゥグルクは、1321年に3番目の都 トゥグルカーバード(3)を、ずっと東方に建設した(これ以後、建設者の名前に、都市を意味するアーバードを付けて都市名とすることが しばしば行われる)。しかし テーブル・マウンテン状の丘の上に敷地を選定したために 雨水以外の水の確保が十分でなく、未完のまま放棄されてしまった。この都市から突き出たような小郭には、ギヤース・アッディーンの廟 が残っている。

  
トゥグルカーバードの廃都、都市図と城壁


ギヤース・アッディーンの廟

 その息子のムハンマド・シャーは旧都に戻るが、既存のラールコートとシーリーが離れすぎていて統治に不便なので、両者を結ぶ形で第4の都 ジャハーン・パナー(4)(「世界の守護者」の意)を1325年に建設し始め、城壁で囲んで、3つの都市を合わせて大都市にした。
 モロッコ生まれのアラブ人、イブン・バットゥータ (1304-68) は、1333年にインドにやってくると ムハンマド・シャーに8年間にわたって仕え、その大旅行記(邦訳は『三大陸周遊記』)に、デリー(当時の ジャハーン・パナー)が、東洋における イスラーム世界 第一の都市だと讃えている。

 しかし トゥグルク朝 第3代スルタンのフィーローズ・シャーは、これより ずっと北方に 新都市フィーローザーバード(5)を建設する。現在残るのは 城塞部(フィーローズ・シャー・コトラ)のみであるが、当時の都市域は はるかに広く、後のシャージャハーナーバードやニューデリーにまで またがる規模であったらしい。

 4番目の王朝のサイイド朝(1414-51)は弱体であり、最後のローディ朝(1451-1557)も、新都市をつくるほどの力はもたなかった。デリーの6番目の都は、ローディ朝を倒して 後に大帝国となる、近世のムガル朝(1526-1858)第2代皇帝のフマユーンによるものである。ムガル朝初代のバーブル帝は首都をアーグラに移していたが、フマユーンはこれをデリーに戻して ディーン・パナー(6)(「信仰の砦」の意)と名づける新都市を、フィーローザーバードの南につくろうとしたのである。そこは古代にインドラプラスタの都があったと伝えられる場所で、フマユーンは まず 1533年から 38年にかけて城塞を建設した。今では これは 後のデリー城(ラール・キラー)と対比されて、「古い城」を意味する プラーナ・キラーと呼ばれている。


プラーナ・キラーの城門

 ところがムガル朝に対抗したイスラーム王朝、スール朝のシェール・シャーに敗れると、フマユーンはペルシアに逃れざるを得なかった。その15年後にペルシア軍の援助を得て帰国するや、フマユーンはスール朝を倒してムガル朝を復興させ、プラーナ・キラーに戻る。しかし その翌年、図書館の階段をすべり落ちて、あっけなく死んでしまった。彼を祀る墓廟が、ユネスコ世界遺産の フマユーン廟である。


フマユーン廟

 一方、短命に終ったものの、スール朝のシェール・シャーは、非常に有能な統治者であって、フマユーンが建設していたディーン・パナーの町を受け継ぐと、プラーナ・キラーを包摂した シェールガルという名の新城塞都市を、1540年に建設したのだった。都市全体はフィーローザーバードにもまさる大都市であったようだが、これもまた、今では城塞部以外は ほとんど残っていない。その理由は、フマユーン帝が ディーン・パナーを建設した時に、シーリーとフィーローザーバードの城壁や施設を取り壊してその石材を新都市の建設のために使用したように、後のシャージャハーナーバードが建設される時に、その石材を得るために、シェールガルも破壊されてしまったからである。

 ムガル朝の第3代皇帝アクバルと 第4代ジャハーンギールは、デリーよりも アーグラ(アクバラーバード)や ラホール(現パキスタン領)、それに新都市の ファテプル・シークリーを居城としたので、その間、デリーはさびれた。しかし第5代皇帝のシャー・ジャハーン(1592-1666)は デリーの最北地に、自身の名を冠した新都市 シャージャハーナーバード(7)を建設して帝国の首都とし、再びデリーを繁栄させることとなった。


英領時代の、1930年代のデリーの地図


シャージャハーナーバード
(シャー・ジャハーンの都、現在のオールド・デリー)

 シャー・ジャハーンは最愛の妻のために タージ・マハル廟 を建造したことで知られるが、それ以外にも、インド史上最大の普請王と言えるほどに、多くの建設活動を デリーとアーグラで行った。ユネスコ世界遺産の アーグラ城 のあるアーグラの都は、アクバル帝が建設したので アクバラーバードと名づけられていた。シャー・ジャハーンはこれを受け継ぐと、城内のアクバル帝による赤砂岩の建物を 白大理石の宮殿に建て替えていったので、アーグラ城は 十分に自分好みの城塞になっていたはずである。それでもなお 新都市をデリーにつくったのは、大帝と呼ばれたアクバルに対する 対抗意識だったろうか(アクバラーバード に対する、シャージャハーナーバード として)。

 世界の大都市の中で、デリーのように、歴史上 いくつもの都市が 位置をずらして重層しているという例は 少ない。通常は 古くからの都市を拡張したり 改造したりしながら発展させていくものであって、ローマもパリも、イスタンブルも北京も、皆そうである。デリーと似た重層都市としては、ほとんど唯一、エジプトの首都 カイロが挙げられる。
 現在のカイロ南部の、もともとはローマ時代の城塞都市バビロンをイスラーム軍が征服し、フスタートという軍営都市を7世紀につくった。9世紀にはその北にアル・カターイの町、10世紀にはさらに北方にアル・カーヒラ(勝利の都)が建設されて、これが現在の都市名のもととなった。12世紀にはアル・カターイの東方に城塞がつくられ、行政機能が置かれる。20世紀には北方にニュー・カイロというべきヘリオポリスが建設されたので、最初のバビロンとフスタタートのあたりが今はオールド・カイロと呼ばれているのも、デリーと似ている。現在はそれらすべてを呑み込んだ大都会(メトロポリス)となっていることも、デリーと同様である。


シャージャハーナーバードの鳥瞰図

 ただ、重層した都市相互の距離は、デリーほうが ずっと大きい。こうした特異な都市発展をしたのは、各王朝や王侯の権力誇示の欲望もあったが、デリーにはもうひとつの原因があったと考えられている。それはヤムナー河の流域変更である。乾季と雨季が交代するインドでは、雨季に入って 冬の間の山岳部の雪が融けて一気に川の水量が増すと、その勢いが土砂を押し出して堆積させ、川の流域を変えやすい。デリーでは数百年のあいだに、ヤムナー河が東方へ数km も移動していった。都市は 海か川に面していれば、水上交通を利用できて、軍事にも商業にも好都合である。おそらくは ヒンドゥ時代のラールコートの町も、このヤムナー河に面していたのだろう。河が東方に移動するのに従って、新都市を建設し直す必要があったとも言える。(ただし乾季には河巾は狭くなるので、河と城壁の間に砂地ができた)

 シャー・ジャハーンが デリーの第7の都を建設した時にも、その東側の城壁をヤムナー河に面させて 軍事的な守りとするのと同時に、水上交通によって 石材をはじめとする建設資材の運搬の便を図ったのであった。しかし今では、さらに河が東方に移動して平地を残したので、そこは インド独立後に、ガンディーやネルー一族の葬祭記念堂などの敷地となっている。

 シャージャハーナーバードの 位置選定の決め手となったのは、スール朝の シェール・シャーの息子のサリーム・シャーによって 1546年に建設されて サリームガルと名付けられていた、小型の城塞の存在であった。これは ヤムナー河に突き出るように建造され、河の交通を制する 軍事上の要衝であった。シャー・ジャハーンは これを要塞として利用すれば、隣接させるデリー城は 宮廷地区にすることができると考えたのである。ちょうど アルハンブラ宮殿と アルカサバ(砦)の関係と同じであるが、シャー・ジャハーンは 両者を連続させずに、河の分流で隔てて、橋で結んだ。


デリー城の鳥瞰図


ペルシアの影響

 前述のように、ムガル朝第2代皇帝のフマユーンはスール朝に敗れ、1540年から15年の長きにわたってペルシアの宮廷に滞在し、サファヴィー朝のタフマースブ1世(在1524-76)の庇護を受けた。
 1555年に帰還した時には、ペルシアの大軍の援助を受けてスール朝を破り、ムガル朝を再建した。その時に軍人ばかりでなく、大勢の法官や行政官を伴ってきて、ムガル朝にサファヴィー朝の行政システムを盛り込んだ。さらに多数の建築家や職人、芸術家を伴ってきたので、以後のムガル朝の文化はきわめてペルシア的なものとなっていくのである。翌年 急逝した フマユーン自身の廟 も、ペルシア人の建築家、ミーラーク・ミールザー・ギヤースの設計になる。

 次の第3代皇帝のアクバルは ペルシア一辺倒ではなく、ヒンドゥをはじめとするインドの伝統文化とイスラームとの融合を図ったが、第4代のシャー・ジャハーンはペルシア返りをした。それは タージ・マハル廟 に最も顕著であるが、シャージャハーナーバードの都市計画と城内の宮殿建築にも 明瞭に見てとれる。
 サファヴィー朝ペルシアでタフーマスブ1世の後を受けて、帝国に最大の勢威をもたらしたのがシャー・アッバース大王(在 1587-1629)であったが、彼が造った新しいイスファハーンの都は、「世界の半分」と形容されるほどに美しい都であった(1597年にカズヴィーンから遷都)。インドののシャー・ジャハーン帝は、1639年からシャージャハーナーバードの都を建設するにあたり、さまざまな面でイスファハーンをモデルにしたと考えられる。
 イスファハーンのチャハルバーグ大通り(巾 48mに 長さ 1,870m)に倣ったのが、デリーのチャンドニ・チョーク大通り(巾 37mに 長さ 1,390m)で、チャハルバーグ大通りのように周囲に多くの四分庭園を造って緑園都市を作ろうとした。チャンドニ・チョークとは「月光広場」の意で、当時はシャー・ジャハーンの愛娘ジャハーン・アラが造った八角形の広場があり、それが大通りの名となった。
 イスファハーンの「王の広場」のような巨大な広場は作らなかったが、高台の金曜モスク(ジャーミ・マスジド) 中庭 は、中庭というより広場のような所で(ヴェネチアのサン・マルコ広場の3分の2の大きさ)、ここから市民は市域全体とデリー城、そしてヤムナー河まで眺めることができた。もう一つは後述の城内広場で、イスファハーンの王の広場の3分の1ほどの広さをもつ。

 都市の人口は17世紀に、イスファハーンは約 70万人、シャージャハーナーバードは約 30万人であった。小さい分、シャージャハーナーバードはコンパクトな都市構成をしていて、わかりやすい。扇形をした都市全体が市壁で囲まれ(1651〜58年に建設)、ヤムナー河沿いに城塞が造られた(シャー・ジャハーンがアーグラから遷都して入居したのは 1648年)。アーグラの城塞と同じように赤砂岩の城壁と城門で囲まれているので、どちらもラール・キラー(赤い城)と通称され、英領時代にレッド・フォートと英訳された。城塞の規模は、デリーがアーグラの約2倍である。

デリー城(ラール・キラー)
(赤い城、レッド・フォート)

デリー城の平面図
(From "A.S.I. Annual Report 1911-12, Calcutta に加筆)

 城塞(シタデル)というのは単なる砦ではなく、都市の中の都市(The City Within)であって、軍事施設と宮廷地区に加えて城内町があった。城内町にはバーザール(商業施設)があり、宮廷に納入するための物品、宝石などの装身具、敷物や家具・調度、衣類を販売する店舗群があり、宮廷を支える人々の住区があった。人口は6万から10万という。城下町の市民も入城することができ、バーザールを越えて中央広場、さらに皇帝の謁見ホールである公謁殿(ディーワーニ・アーム)まで入ることができた。いわば開放的な宮廷都市であって、中国の「禁城」とはちがう。

 デリー城を設計したのは ウスタド・アフマド(ラホーリー)とウスタド・ハミードという建築家だと伝えられ、アフマドはタージ・マハル廟の設計者でもあった。実際にどのようなプロセスを経たのかはわからないが、そのプランを見るかぎり、現代の建築家が製図版上で設計したかのように、すべてを直角の秩序で構成した、完全な幾何学的合理性の上に計画されている。

 まず城塞は東側をヤムナー河に接し、北側には軍事上の要砦であるサリームガルを従え、西側と南側を赤砂岩の堅固な城壁で囲まれた本体は、西の城下町側 1/3 が城内町、東の河側 2/3 が宮廷地区となっていた。
 西側の城門は、別の帝都ラホールに向かうのでラホール門と呼ばれた。シャー・ジャハーンはこの城門の外側に 城内の中央広場よりも大きな広場をつくり、さまざまな式典に用いた。この広場からまっすぐ西へ 長大なチャンドニ・チョーク大通りが伸び、その西端にアイ・ストップとしてのファテープル・モスクがあった。その後ろが、市門としてのラホール門である。


ラホール門の下部

 しかし城門のほうの門前広場からは城内が丸見えになるのと、敵軍が攻めてきた時には たやすく侵入されてしまうという懸念から、第6代皇帝のアウラングゼーブが ラホール門を囲んで外郭楼(バービカン)を建設したので、町から城内へは屈折した進入路となった(戦闘時には 防御しやすいが)。これによって前面広場の役割も半減し、シャー・ジャハーンの構想は崩れたことになる。

 一方、南の城門はデリー門で、ここから市門のデリー門を通って、当時のオールド・デリー(ジャハーン・パナー)、そして もう一つの帝都アーグラへと向かっていた。当時のアーグラは アクバル帝の都としてアクバラーバードと呼ばれていたから、城門と市門のどちらも、当時は アクバラーバード門と呼ばれていた。
 アウラングゼーブは このデリー門も外郭楼(バービカン)で囲み、また城壁全体にわたって深い濠を造成して、城塞の防御を完全にしたのである。

宮殿建築

 平面図を見てわかるように、城塞の都市計画の基幹をなすのは、ラホール門から東へ伸びる中心軸(A-A)と、デリー門から北へ伸びる中心軸(B-B)との、2本の直行軸である。城内のすべての施設は、これを座標軸としたようなグリッド上に配される。ということは、城塞全体を 田の字形に分割する、四分庭園(チャールバーグ)の原理だと見ることができる。城内には多数の庭園があって、すべてが四分庭園として造られているから、城塞全体をグリッド・システムの幾何学的構成にすることができた。

 A軸には まず、チャッター・チョークと呼ばれる、インドには珍しい屋根つきのバーザールがあり(現在も観光客向けの店舗が並んでいる)、次いでB軸との交点に、中央に泉池を備えた大広場があった。B軸のほうは、デリー門からこの中央広場を通って、北端のサリームガルと結ぶ橋まで、一直線に伸びている。A軸がモニュメンタルな軸だとすれば、B軸はプラクティカルな軸だとも言える。このB軸が西側の城内町と東側の宮廷地区とを截然と分けている。アーグラ城の場合と同じく、城内町だった所は、現在は軍が占拠している。

 中央広場のA軸上には、正面に奏楽殿(ナッカル・ハーナ)があって、日に5回の定刻 および客を迎える時に、上階の楽隊が楽器を打ち鳴らした。休日には終日 音楽を演奏したともいう。王室の人以外はここで馬や乗り物から降り、この奥の宮廷地区には徒歩で行った。奏楽殿の下階を抜けると、大広場と同じほどの、柱廊で囲まれたスペースがあり、公謁殿(ディーワーニ・アーム)の前庭となっていた。

  
城内の 公謁殿(ディーワーニ・アーム)と ラング・マハル内部

 公謁殿は、2本ずつペアになった赤砂岩の柱が 30組も立ち並ぶ、オープンな列柱大ホールで、この奥の壁にしつらえられた玉座に、シャー・ジャハーン帝は毎日現れて謁見を行い、国民の陳情を受け、裁判も行ったという。

 公謁殿より奥は 庶民が入ることのできない宮廷で、ヤムナー河に面して一列に宮殿が並んでいる。公謁殿の背後にあるのが愉楽殿(ラング・マハル)で、そこから北へ寝殿(ハース・マハル)、内謁殿(ディーワーニ・ハース)、浴場(ハンマーム)、さらにハヤト・バクシュ庭園の園亭(ヒーラ・マハル)、そして北端のシャー・ブルジと並び、その建物列の中央を一直線に水路が貫き、諸所に、見事な彫刻がほどこされた白大理石の水盤がある。
 行政の庁舎から後宮まですべて外部に面しているのは不用心と思われるかもしれないが、河面からは 20mちかい高さがあるので、外部から攻撃される恐れはなかった。

 建物はいずれも長方形で、太い角柱とアーチが規則的に並ぶので、コンクリートのラーメン構造の近代建築が並んでいるような印象もあるが、シャー・ジャハーン好みの白大理石で仕上げられ、さらに当時は金銀宝石を鏤(ちりばめ)めた タペストリーやブラインド、絹の絨毯で覆われていたので、現在見る石の冷たさよりは、はるかに柔らかく豪華な居住空間であった。

  
城内の 内謁殿(ディーワーニ・ハース)と、真珠モスク(モティ・マスジド)

 最も洗練された宮殿は 27m × 20m の広さの内謁殿(ディーワーニ・ハース)で、高位の廷臣のみがここで皇帝に謁見できた。すべて白大理石で仕上げられ、屋根には4基のチャトリが立っている。
 造形的に異彩を放つのは、宮廷礼拝堂としての真珠モスク(モティ・マスジド)である。白大理石による3つの球根形ドームをいただく小モスクは アウラングゼーブ帝の建立で、まさにインドのバロック建築と言えよう。アーグラでは城内にこれと同じ名前の、白大理石によるモティ・マスジドがあり、それはデリーのものよりもずっと規模が大きく、城外のジャーミ・マスジドが完成するまでは、一般市民も礼拝にくる金曜モスクであった。デリーでは当初から城外にインド最大の 金曜モスク(ジャーミ・マスジド)を建てる計画であったからか、城内には大きなモスクはない。

  
城内の 四分庭園群と 園亭内部

 宮廷地区には大小多くの四分庭園(チャールバーグ)が造園され、生い茂る木々と園亭が快適な憩いの場をつくっていた。シャー・ジャハーンが求めたのは『クルアーン』に描かれる、敬虔な信者に約束された天井の楽園を、地上に実現することであった。内謁殿の南北の壁上には、

   「 地上に楽園ありとせば、そは ここなり、そは ここなり、そは ここなり 」

と 刻まれている。


BACK     NEXT

TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp