デリー城 (レツド・フォート) |
神谷武夫
インドの首都デリーは、歴史上 常に首都であり続けたわけではないにせよ、ずいぶんと古い歴史をもっている。13世紀以降のイスラーム時代になってからでも7つの都が少しずつ位置をずらしながら継起してきたので、ゴードン・リズリー・ハーンは『デリーの七つの都』(The Seven Cities of Delhi)という本を 1906年に書いた。
しかし ゴードン・ハーンが上述の本を書いた当時に オールド・デリーと言えば、それは第1の都で、ユネスコ世界遺産の クトゥブ・ミナール がある ラールコートのあたりを指した。19世紀から出版されていた ジョン・マリー社のインド・ガイドブック("Handbook for Travellers in India Burma and Ceylon")では、1933年の第 14版においてもなお、クトゥブ地区のことを オールド・デリーと書いている。クトゥブ・モスクからデリー城までは 直線距離にして 15km もあるから、中世、近世においては、両者は 別の都市であったと言える。 1947年にインドがイギリスから独立する前、単にデリーと言えば、それはシャージャハーナーバードと、その北部の シヴィル・ライン(シヴィル・ステイション)および、その先の オールド・カントンメント地区(英軍の都市域)を指した。(インド大反乱の舞台となったのは こちらであって、デリー城の南のカントンメントではない) 当時のシャージャハーナーバードは「ニューデリー」であり、1900年代初めまで そう呼ばれた。 シャー・ジャハーン帝がつくったデリー城を詳しく見る前に、ここでは それら古層の都市を、歴史順に一瞥しておくことにしよう。
デリーの名の由来は、紀元前1世紀にカナウジ国のデール王が築いた ディッリ(Dilli)の都にある。その位置は後述のトゥグラカーバードとクトゥブの中間のあたりだとされ、アレクサンドリアの数学者にして地理学者のプトレマイオスは これをダイダーラと記しているが、しかしその遺構は何も発掘されていない。
1 ラールコートを拡大した キラー・ラーイ・ピトーラ(後のクトゥブ地区)
都市が新紀元を迎えるのは、1192年にアフガニスタンから ゴール朝のムハンマド軍が侵攻してラージプート族を打ち破り、デリーを征服した時である。統治をまかされたクトゥブ・アッディーン・アイバク将軍は、アフガニスタンに戻った君主ムハンマドが 1206年に暗殺されて世を去ると、独立して奴隷王朝(1206-90)を建て、キラー・ラーイ・ピトーラ(1)を首都とした。この都市にあった多くのヒンドゥ寺院やジャイナ寺院を破壊し(その数 27と言われる)、その部材を利用して ここに彼が建設したのが、インド初のイスラーム建築、クッワト・アル・イスラーム・モスクとクトゥブ・ミナールで、その遺跡が 今はユネスコ世界遺産に登録されている。 これ以後、イスラームの王朝は4回変わるが、いずれも王がスルタンを名のり デリーを首都としたので、320年にわたる中世の北インドにおけるイスラーム王朝を一括して、「デリーのスルタン朝」と呼んでいる。
2番目のハルジー朝(1290-1320)は、1304年に新首都 シーリー(2)を 少しく東北方に建設し、やはり城壁で囲んだ。約4km離れた古都と新都は、相並んで繁栄したらしい。 トゥグルカーバードの廃都、都市図と城壁
その息子のムハンマド・シャーは旧都に戻るが、既存のラールコートとシーリーが離れすぎていて統治に不便なので、両者を結ぶ形で第4の都 ジャハーン・パナー(4)(「世界の守護者」の意)を1325年に建設し始め、城壁で囲んで、3つの都市を合わせて大都市にした。 しかし トゥグルク朝 第3代スルタンのフィーローズ・シャーは、これより ずっと北方に 新都市フィーローザーバード(5)を建設する。現在残るのは 城塞部(フィーローズ・シャー・コトラ)のみであるが、当時の都市域は はるかに広く、後のシャージャハーナーバードやニューデリーにまで またがる規模であったらしい。 4番目の王朝のサイイド朝(1414-51)は弱体であり、最後のローディ朝(1451-1557)も、新都市をつくるほどの力はもたなかった。デリーの6番目の都は、ローディ朝を倒して 後に大帝国となる、近世のムガル朝(1526-1858)第2代皇帝のフマユーンによるものである。ムガル朝初代のバーブル帝は首都をアーグラに移していたが、フマユーンはこれをデリーに戻して ディーン・パナー(6)(「信仰の砦」の意)と名づける新都市を、フィーローザーバードの南につくろうとしたのである。そこは古代にインドラプラスタの都があったと伝えられる場所で、フマユーンは まず 1533年から 38年にかけて城塞を建設した。今では これは 後のデリー城(ラール・キラー)と対比されて、「古い城」を意味する プラーナ・キラーと呼ばれている。
ところがムガル朝に対抗したイスラーム王朝、スール朝のシェール・シャーに敗れると、フマユーンはペルシアに逃れざるを得なかった。その15年後にペルシア軍の援助を得て帰国するや、フマユーンはスール朝を倒してムガル朝を復興させ、プラーナ・キラーに戻る。しかし その翌年、図書館の階段をすべり落ちて、あっけなく死んでしまった。彼を祀る墓廟が、ユネスコ世界遺産の フマユーン廟である。
一方、短命に終ったものの、スール朝のシェール・シャーは、非常に有能な統治者であって、フマユーンが建設していたディーン・パナーの町を受け継ぐと、プラーナ・キラーを包摂した シェールガルという名の新城塞都市を、1540年に建設したのだった。都市全体はフィーローザーバードにもまさる大都市であったようだが、これもまた、今では城塞部以外は ほとんど残っていない。その理由は、フマユーン帝が ディーン・パナーを建設した時に、シーリーとフィーローザーバードの城壁や施設を取り壊してその石材を新都市の建設のために使用したように、後のシャージャハーナーバードが建設される時に、その石材を得るために、シェールガルも破壊されてしまったからである。 ムガル朝の第3代皇帝アクバルと 第4代ジャハーンギールは、デリーよりも アーグラ(アクバラーバード)や ラホール(現パキスタン領)、それに新都市の ファテプル・シークリーを居城としたので、その間、デリーはさびれた。しかし第5代皇帝のシャー・ジャハーン(1592-1666)は デリーの最北地に、自身の名を冠した新都市 シャージャハーナーバード(7)を建設して帝国の首都とし、再びデリーを繁栄させることとなった。
シャー・ジャハーンは最愛の妻のために タージ・マハル廟 を建造したことで知られるが、それ以外にも、インド史上最大の普請王と言えるほどに、多くの建設活動を デリーとアーグラで行った。ユネスコ世界遺産の アーグラ城 のあるアーグラの都は、アクバル帝が建設したので アクバラーバードと名づけられていた。シャー・ジャハーンはこれを受け継ぐと、城内のアクバル帝による赤砂岩の建物を 白大理石の宮殿に建て替えていったので、アーグラ城は 十分に自分好みの城塞になっていたはずである。それでもなお 新都市をデリーにつくったのは、大帝と呼ばれたアクバルに対する 対抗意識だったろうか(アクバラーバード に対する、シャージャハーナーバード として)。
世界の大都市の中で、デリーのように、歴史上 いくつもの都市が 位置をずらして重層しているという例は 少ない。通常は 古くからの都市を拡張したり 改造したりしながら発展させていくものであって、ローマもパリも、イスタンブルも北京も、皆そうである。デリーと似た重層都市としては、ほとんど唯一、エジプトの首都 カイロが挙げられる。
ただ、重層した都市相互の距離は、デリーほうが ずっと大きい。こうした特異な都市発展をしたのは、各王朝や王侯の権力誇示の欲望もあったが、デリーにはもうひとつの原因があったと考えられている。それはヤムナー河の流域変更である。乾季と雨季が交代するインドでは、雨季に入って 冬の間の山岳部の雪が融けて一気に川の水量が増すと、その勢いが土砂を押し出して堆積させ、川の流域を変えやすい。デリーでは数百年のあいだに、ヤムナー河が東方へ数km も移動していった。都市は 海か川に面していれば、水上交通を利用できて、軍事にも商業にも好都合である。おそらくは ヒンドゥ時代のラールコートの町も、このヤムナー河に面していたのだろう。河が東方に移動するのに従って、新都市を建設し直す必要があったとも言える。(ただし乾季には河巾は狭くなるので、河と城壁の間に砂地ができた) シャー・ジャハーンが デリーの第7の都を建設した時にも、その東側の城壁をヤムナー河に面させて 軍事的な守りとするのと同時に、水上交通によって 石材をはじめとする建設資材の運搬の便を図ったのであった。しかし今では、さらに河が東方に移動して平地を残したので、そこは インド独立後に、ガンディーやネルー一族の葬祭記念堂などの敷地となっている。 シャージャハーナーバードの 位置選定の決め手となったのは、スール朝の シェール・シャーの息子のサリーム・シャーによって 1546年に建設されて サリームガルと名付けられていた、小型の城塞の存在であった。これは ヤムナー河に突き出るように建造され、河の交通を制する 軍事上の要衝であった。シャー・ジャハーンは これを要塞として利用すれば、隣接させるデリー城は 宮廷地区にすることができると考えたのである。ちょうど アルハンブラ宮殿と アルカサバ(砦)の関係と同じであるが、シャー・ジャハーンは 両者を連続させずに、河の分流で隔てて、橋で結んだ。
前述のように、ムガル朝第2代皇帝のフマユーンはスール朝に敗れ、1540年から15年の長きにわたってペルシアの宮廷に滞在し、サファヴィー朝のタフマースブ1世(在1524-76)の庇護を受けた。
次の第3代皇帝のアクバルは ペルシア一辺倒ではなく、ヒンドゥをはじめとするインドの伝統文化とイスラームとの融合を図ったが、第4代のシャー・ジャハーンはペルシア返りをした。それは タージ・マハル廟 に最も顕著であるが、シャージャハーナーバードの都市計画と城内の宮殿建築にも 明瞭に見てとれる。
都市の人口は17世紀に、イスファハーンは約 70万人、シャージャハーナーバードは約 30万人であった。小さい分、シャージャハーナーバードはコンパクトな都市構成をしていて、わかりやすい。扇形をした都市全体が市壁で囲まれ(1651〜58年に建設)、ヤムナー河沿いに城塞が造られた(シャー・ジャハーンがアーグラから遷都して入居したのは 1648年)。アーグラの城塞と同じように赤砂岩の城壁と城門で囲まれているので、どちらもラール・キラー(赤い城)と通称され、英領時代にレッド・フォートと英訳された。城塞の規模は、デリーがアーグラの約2倍である。 |
デリー城の平面図
(From "A.S.I. Annual Report 1911-12, Calcutta に加筆)
城塞(シタデル)というのは単なる砦ではなく、都市の中の都市(The City Within)であって、軍事施設と宮廷地区に加えて城内町があった。城内町にはバーザール(商業施設)があり、宮廷に納入するための物品、宝石などの装身具、敷物や家具・調度、衣類を販売する店舗群があり、宮廷を支える人々の住区があった。人口は6万から10万という。城下町の市民も入城することができ、バーザールを越えて中央広場、さらに皇帝の謁見ホールである公謁殿(ディーワーニ・アーム)まで入ることができた。いわば開放的な宮廷都市であって、中国の「禁城」とはちがう。 デリー城を設計したのは ウスタド・アフマド(ラホーリー)とウスタド・ハミードという建築家だと伝えられ、アフマドはタージ・マハル廟の設計者でもあった。実際にどのようなプロセスを経たのかはわからないが、そのプランを見るかぎり、現代の建築家が製図版上で設計したかのように、すべてを直角の秩序で構成した、完全な幾何学的合理性の上に計画されている。
まず城塞は東側をヤムナー河に接し、北側には軍事上の要砦であるサリームガルを従え、西側と南側を赤砂岩の堅固な城壁で囲まれた本体は、西の城下町側 1/3 が城内町、東の河側 2/3 が宮廷地区となっていた。
しかし城門のほうの門前広場からは城内が丸見えになるのと、敵軍が攻めてきた時には たやすく侵入されてしまうという懸念から、第6代皇帝のアウラングゼーブが ラホール門を囲んで外郭楼(バービカン)を建設したので、町から城内へは屈折した進入路となった(戦闘時には 防御しやすいが)。これによって前面広場の役割も半減し、シャー・ジャハーンの構想は崩れたことになる。
一方、南の城門はデリー門で、ここから市門のデリー門を通って、当時のオールド・デリー(ジャハーン・パナー)、そして もう一つの帝都アーグラへと向かっていた。当時のアーグラは アクバル帝の都としてアクバラーバードと呼ばれていたから、城門と市門のどちらも、当時は アクバラーバード門と呼ばれていた。 平面図を見てわかるように、城塞の都市計画の基幹をなすのは、ラホール門から東へ伸びる中心軸(A-A)と、デリー門から北へ伸びる中心軸(B-B)との、2本の直行軸である。城内のすべての施設は、これを座標軸としたようなグリッド上に配される。ということは、城塞全体を 田の字形に分割する、四分庭園(チャールバーグ)の原理だと見ることができる。城内には多数の庭園があって、すべてが四分庭園として造られているから、城塞全体をグリッド・システムの幾何学的構成にすることができた。 A軸には まず、チャッター・チョークと呼ばれる、インドには珍しい屋根つきのバーザールがあり(現在も観光客向けの店舗が並んでいる)、次いでB軸との交点に、中央に泉池を備えた大広場があった。B軸のほうは、デリー門からこの中央広場を通って、北端のサリームガルと結ぶ橋まで、一直線に伸びている。A軸がモニュメンタルな軸だとすれば、B軸はプラクティカルな軸だとも言える。このB軸が西側の城内町と東側の宮廷地区とを截然と分けている。アーグラ城の場合と同じく、城内町だった所は、現在は軍が占拠している。 中央広場のA軸上には、正面に奏楽殿(ナッカル・ハーナ)があって、日に5回の定刻 および客を迎える時に、上階の楽隊が楽器を打ち鳴らした。休日には終日 音楽を演奏したともいう。王室の人以外はここで馬や乗り物から降り、この奥の宮廷地区には徒歩で行った。奏楽殿の下階を抜けると、大広場と同じほどの、柱廊で囲まれたスペースがあり、公謁殿(ディーワーニ・アーム)の前庭となっていた。
城内の 公謁殿(ディーワーニ・アーム)と ラング・マハル内部 公謁殿は、2本ずつペアになった赤砂岩の柱が 30組も立ち並ぶ、オープンな列柱大ホールで、この奥の壁にしつらえられた玉座に、シャー・ジャハーン帝は毎日現れて謁見を行い、国民の陳情を受け、裁判も行ったという。
公謁殿より奥は 庶民が入ることのできない宮廷で、ヤムナー河に面して一列に宮殿が並んでいる。公謁殿の背後にあるのが愉楽殿(ラング・マハル)で、そこから北へ寝殿(ハース・マハル)、内謁殿(ディーワーニ・ハース)、浴場(ハンマーム)、さらにハヤト・バクシュ庭園の園亭(ヒーラ・マハル)、そして北端のシャー・ブルジと並び、その建物列の中央を一直線に水路が貫き、諸所に、見事な彫刻がほどこされた白大理石の水盤がある。
建物はいずれも長方形で、太い角柱とアーチが規則的に並ぶので、コンクリートのラーメン構造の近代建築が並んでいるような印象もあるが、シャー・ジャハーン好みの白大理石で仕上げられ、さらに当時は金銀宝石を鏤(ちりばめ)めた タペストリーやブラインド、絹の絨毯で覆われていたので、現在見る石の冷たさよりは、はるかに柔らかく豪華な居住空間であった。 城内の 内謁殿(ディーワーニ・ハース)と、真珠モスク(モティ・マスジド)
最も洗練された宮殿は 27m × 20m の広さの内謁殿(ディーワーニ・ハース)で、高位の廷臣のみがここで皇帝に謁見できた。すべて白大理石で仕上げられ、屋根には4基のチャトリが立っている。
城内の 四分庭園群と 園亭内部 宮廷地区には大小多くの四分庭園(チャールバーグ)が造園され、生い茂る木々と園亭が快適な憩いの場をつくっていた。シャー・ジャハーンが求めたのは『クルアーン』に描かれる、敬虔な信者に約束された天井の楽園を、地上に実現することであった。内謁殿の南北の壁上には、 「 地上に楽園ありとせば、そは ここなり、そは ここなり、そは ここなり 」 と 刻まれている。
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