タージ・マハル廟 |
国威が最盛期にあったムガル帝国の 第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位 1628〜1658)は、1630年に帝国の軍隊を率いて デカン高原へと向かった。アッラーの加護を得て、南インドも版図に組み込もうとしたのである。このとき、皇帝の愛する王妃 ムムターズ・マハルは身ごもっていたが、夫の遠征につき従っていた。そして翌年、中部インドのブルハンプルで 皇帝の 14番めの子供を出産したのち、その産褥熱(さんじょくねつ)がもとで、38歳にして世を去ってしまった。
雄大な大門と そのチャトリ群
タージ・マハルとは ムムターズ・マハルの名前が縮められたもので、「宮廷の冠」をも意味した。シャー・ジャハーン帝の ため息が石化したと形容される この廟は、宮廷のあるアーグラ城にほど近い ヤムナー川の右岸に建っている。左右対称で 均整のとれたムガル建築の伝統を引き継いで、それを絶頂にまで高めた廟建築である。敷地の広さは 17ヘクタールにおよび、その広大な四分庭園(しぶていえん)の中央の池に姿を映す廟は 幻想的に美しい。
本来インドには、墓を建てるという習慣がなかった。すべての死者は 49日めに生まれ変わるという輪廻(りんね)の思想に支配されていたからである。 インドに廟建築がもたらされるのはイスラームの侵入後であって、300年にわたる「デリー・スルタン朝」の時代を通して定着し、北インド全体に廟が建てられると、しだいに ヒンドゥのラージプート諸族もこれに倣(なら)うようになる。
雄大な赤砂岩の大門をくぐると、そこには広大な正方形の四分庭園があり、その奥に 約 100メートル角で 高さが7メートルの大基壇があり、四隅には細身のミナレットが立ち上がる。その中央には 尖頭アーチ形の大イーワーンを四方に面させた廟本体がそびえ、その上に やや馬蹄形の断面をした、高さ 65メートルのドーム屋根をいただく。これら一切が 純白の大理石でつくられ、その美しいプロポーションと気品の高さが 世界中の人々から絶賛を浴びることとなった。 タージ・マハル廟は、全体にペルシア建築の影響が顕著である。四分庭園もイーワーンもドーム屋根も、さらには壁面の象嵌細工の技法も ペルシアからもたらされた。インド的な要素といえば、中央ドームの四方に、重たげな屋根を細い柱が支える「チャトリ(小塔)」であって、この名前は「傘」を意味するサンスクリット語の「チャトラ」から来ている。このチャトリが インドのイスラーム建築を特徴づける要素となり、タージ・マハル廟のミナレットの頂部にも添えられ、大門の上には 小チャトリが華やかに並んで装飾要素となっている。
さて、この ならびない芸術作品の作者が誰であるのか、公式の記録に残されていないことから、さまざまな説を生んだ。その建築家はペルシア人である という説、いやインド人であるという説、さらには植民地インドの支配者を喜ばせる ヨーロッパ人説までも唱えられた。しかし 1930年代になって発見された写本『ディーワーニ・ムハンディス』によって、タージ・マハル廟の建築家は、デリー城の設計にも参加した ウスタド・アフマド・ラホーリーであると考えられている。
廟から大門の方を見返した四分庭園と、廟の東側にある迎賓館とチャトリ
タージ・マハル廟には、それまでの廟建築にない新しさがあった。従来の廟は、糸杉を植えた道が直角に交わって4つの区画に仕切る四分庭園の中央に建てられていたが、ここでは四分庭園の向こう側の奥の部分に、ヤムナー川の対岸を背景にして、なんの妨げもない空間のなかに 廟を配したことである。
塀で囲まれた大庭園は、水路をともなった園路で 田の字形に区画されている。交差部には中央に池のある大理石の壇が設けられ、区画された庭園はまた小道で田の字形に分割される。さらにその小区画も水路で分割されるといった具合に、どこまでも正方形を単位とした幾何学に基いて構成されている。
タ-ジ・マハル廟と庭園の航空写真と 平面図
廟の内部では、蓮の形をしたドーム天井でおおわれた墓室に、ムムターズ・マハルの模棺(セノターフ)が安置されている。「ヒジュラ(ムハンマドがメッカからメディナに移住したこと)暦の 1040年に死す」と書かれ、慈しみ深き神、アッラーの 99の名が刻まれている。
白大理石の壁面の基部と、イ-ワ-ン上部の象嵌細工
フランス人旅行者、ジャン・バチスト・タヴェルニエの記録によると、シャー・ジャハーン帝は「父親のような目で家臣に接し、いかなる君主より心が広かった」というが、晩年は忠臣たちからも見放され、世継ぎのアウラングゼーブ帝(在位 1658〜1707)によって アーグラ城のムサンマン・ブルジュ(ジャスミンの館)に幽閉されて、対岸のかなたに建つ ムムターズの廟を眺めて暮らしたという。 世界で最も人口に膾炙(かいしゃ)したイスラーム建築は、インドのタージ・マハル廟である。シリアのウマイヤ・モスクや イランの王のモスクを知らなくとも、タージだけは知っている。それが墓廟ではなく 宮殿だと思いこんでいたとしても、タージ・マハルがどんな姿をしているか、誰でも思い浮かべることができよう。それほど有名になった原因として次の4点が考えられる。
第1は、そのプロポーションがあまりにも美しく、すべてが白亜の大理石でつくられていることとあいまって、この世のものとも思えない、まるで天上の楽園か メルヘンの宮殿のように見えることである。白大理石の産地としては、イタリアのカララが有名であり、日本でも多く輸入している。しかしカララ産大理石は、他のほとんどの地の大理石と同じく、水と酸に弱いので 外部には用いられない。ところが西インドのクンバリアーやマクラーナの白大理石は 水にも酸にも強いので、最も汚れやすいドーム屋根にさえ 用いることができる。白大理石のドーム屋根がインドでしか見られないのは、そのためである。 第2は、その建設の経緯がはらむロマンスが 人びとを惹きつけるからである。 ムガル朝第 5代皇帝のシャー・ジャハーンは 宮廷貴族の娘のムムターズ・マハルを娶り、ハーレムに多くの美女がいたにもかかわらず、終生彼女ひとりを深く愛し、14人もの子供を産ませた。14人目の産褥熱で彼女が世を去ると、彼は深い悲嘆にくれ、タージ(ムムターズを略した愛称)の思い出に最美の廟を建てる決心をし、国家財政を傾けた。ヤムナー河の対岸には自身のための黒大理石の廟を相同形で建てるつもりでいたが、王子アウラングゼーブによって廃位させられ、アーグラ城の一隅に幽閉されて、河向こうのタージ・マハルに亡き王妃を偲んで 最晩年を過ごした、という物語である。近代の音楽作品においても、作曲家にまつわるロマンスが語られるものほど 人びとに好まれるのと同じである。
第3は、今まで繰り返し述べてきたように、イスラーム建築の特質は 皮膜的建築ということであって、外部に彫刻的形態を誇示することではない。しかし、囲まれた中庭や内部空間の美というのは、現地で体験してみなければ、なかなかその感覚がつかめない。ところがイスラーム建築であるにもかかわらず、インドの彫刻的建築として、独立した優美な姿を惜しみなくさらす建築作品は 実にわかりやすいし、たとえ現地に行かなくとも、その写真を見るだけで感嘆することができる。 第4は、世界の多くの人びとの美意識が、視覚的形態に重きを置く、19世紀ヨーロッパの美学で基礎づけられているからである。体験的な美、触覚的な美、思索的な美よりも、絵画的な色や形やプロポーションの美といった 古典的な判断基準が優位にある。20世紀の意識的な美術家たちがそれを覆えしてきたとしても、大衆の美意識は未だに 19世紀的であると言ってよい。2番目に有名なイスラーム建築がスペインのアルハンブラ宮殿だとしても、タージのほうが はるかに理解されやすいだろう。
タ-ジ・マハル廟の断面 (From Ebba Koch "Mughal Architecture", 1991, Prestel) 極端に言うなら、これは真のイスラーム性から逸脱して、インド的に虚栄化した建築作品なのである。たとえば、タージのドームは二重殻で、天井と屋根、それぞれに 見栄えのする高さに ドームをかけている。この二重殻ドームの屋根裏空間は メインの墓室空間よりも巨大で、トルコの皮膜的な シングル・ドーム屋根と比べて 大いなるムダと言えるものの、しかしそのムダによって初めて、世界中の人びとから愛でられる外形の美を産み出しているのである。あるいはまた廟を引き立てている4本のミナレットも、本来、廟には必要ないものだ (ミナレットというのは、モスクから日に5回、人びとに礼拝の呼びかけをするためのものである)。大ドームのかたわらの4つの大チャトリも、屋上に人びとが上れない以上、これは東屋でもない 無用の飾りである。
しかし一方、タージの壁面にほどこされた装飾は すべてが控えめなものであって、建築自体の構成から逸脱するものは何もない。象嵌細工の花模様や唐草模様、幾何学紋やカリグラフィー、すべては白を基調とし、建築的枠組みから 決してはみ出すことがない。全体を形づくるのは バロック的な過剰な装飾ではなく、むしろ 近代の機能主義と構造表現主義の建築に近いのである。そうしたすべては、ここに祀られた王妃のように、清楚で気品のある完成された美を生み出した。ただ、それが あまりにも古典的な調和美の世界であるがゆえに、建築作品というよりは 一個の巨大な工芸品(床の間の置物)のような印象を与えもし、破調を好む人からは「退屈」のレッテルを貼られもするのである。 ( 2006年『イスラーム建築』より ) |