An INVITATION to INDIAN ARCHITECTURE
インド建築への誘い
神谷武夫
ウダイプル
(東方出版刊『インドの建築 』の序章と終章より)
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インド建築の魅力

 インドという地名を聞くとき、そこは遥か遠い地でありながら、私達の心には何かしらなつかしく、親しい感情が湧くのをおぼえる。 それは古代世界の四大文明のひとつが興った地であり、以後中国と並んで連綿と高度な文明が栄えて、周辺諸国に影響を与えつづけたアジアの大国であり、また大戦後の非同盟諸国のリーダーでもあった。しかし私達日本人にとっては、インドは何よりも仏教の伝来の地であり、インドを「印度」と書いたよりももっと前には「天竺」と書いて、三蔵法師や孫悟空も目ざした西方の楽土としての、遥かな憧れの地であった。

第1ストゥーパと西トラナ

 ところが日本が鎖国をしている間に、インドは他のアジア諸国と同じようにヨーロッパの帝国主義に侵され、大英帝国の植民地となって徹底的に搾取され、貧しさのどん底に突き落とされてしまった。かつての富や精神的な豊かさとの対比はあまりにも大きく、インドに対する私達のイメージは混沌としたものになってしまった。おまけに明治以後の日本は「脱亜入欧」の旗印のもとに、インドをはじめとする南アジア諸国に関心を払わず、ひたすら欧米にばかり顔を向けて、追いつき追いこせと走りつづけてきたのである。

 現代に至るまでのそうした歪みがまた、インドに対する誤ったイメージを作り上げてもきた。「インドは神秘的な国である」とか「不可解な国である」というように。 インドに関する出版物やテレビ番組のタイトルには〈神秘な〉とか〈不思議な〉という形容詞がいかに多いことだろうか。 けれども、どんな文明もそれに疎遠な人々からから見れば神秘的に見えるものであり、またインドに神秘思想があるように、ヨーロッパ文明やキリスト教にも神秘主義は存在するのである。

 日本がやっと欧米一辺倒から脱却しつつある現在、私達はインドをはじめとする第三世界の文化を、経済にもとづく差別や神秘主義のメガネなしに、その本当の姿と価値を認識する必要がある。そしてインドの文化・芸術を概観すれば、インドの音楽や舞踊が高度なものであるように、インドの建築というものもまた、きわめて独特で偉大な達成を遂げている。本書は、そうした神秘的でないインド建築の本当の姿を、多くのカラー写真とともに紹介しようとするものである。

ヒンドゥ教のムクテーシュワラ寺院、ブバネーシュワル

 とはいえ、一度でもインドを訪れたことのある人は、インド建築のいくつかを目にして驚嘆したにちがいない。それは私達が知っている日本や欧米の建築とあまりにも違っているからである。神々の彫刻で満ちみちた大寺院や、岩山を掘削してつくった石窟寺院、ひたすら幾何学的な分割だけで成り立っているかのごときモスク等々、インド建築は神秘的であると、うっかり思ってしまうかもしれない。

 けれども建物というのは絵画や文学とちがって、合理的につくられねば存在しえない。未知の建築文化も、その依って立つ基盤を知れば、すべて合理的に成立していることが理解される。そしてその合理性の上に組み立てられた独自の表現や思想こそが、建築の芸術性なのである。インド亜大陸には、合理性の上にたった高度な表現の建築作品が、無尽蔵にばらまかれている。

 さて、インドは広大な国である。地理的にも歴史的にも、ヨーロッパ全体に匹敵するような広がりと深さをもった文明圏である。おびただしい数の建築遺産をもった大国ではあるが、しかしインドには極端に巨大な造営計画というものがない。中国の万里の長城やエジプトのピラミッド、ローマの都市計画といったものに匹敵するものを、インドに見いだすことはできないだろう。インド文明の影響下にあったカンボジアやインドネシアのほうが、アンコールやボロブドールなどの巨大な造営をしている。
 インドはむしろ日本やヨーロッパのように、ほどよい規模における、密度の濃い造形を好んだ。そうした親密なスケール感をもった豊穣な世界にこそ、インド建築の魅力があるのである。




インドの宗教と建築


シク教の本山、アムリトサルの黄金寺院

 本書において私は、できるだけ多様なインド建築の姿を紹介したいと思う。歴史的にも、地理的にも、宗教的にも、建物種別においても、インド建築のもっている大きなバラエティと包容力を示したいと思うのである。本書の写真をざっと眺めると、そのあまりの変化に富んだ種々相に驚かれることだろう。ヨーロッパの建築に比べてさえ、インド建築はあまりに多様で、一貫性がないと思われるかもしれない。

 その一つの原因は宗教の多様性にある。ヨーロッパでは中世から現代に至るまで、原則的にキリスト教を信仰してきた。カトリックとプロテスタントの違いというのは、それほど大きなものではなく、建築的に様式の区別を生んだわけではない。ちょうどヒンドゥ教のシヴァ派とヴィシュヌ派の違いや、イスラム教の「スンナ派」と「シーア派」の違いがそうであったように。
 ところがインドでは、そのヒンドゥ教のほかに古代では仏教、中世からはイスラムが支配的な宗教となったことがあり、そのほかにもジャイナ教やシク教、近世からはキリスト教などが各地の都市景観の中に目立った建物を建てている。それゆえに、ここでそれらの宗教に簡単な説明を加えながら建築との関連を見ておくことは、本書の以後の章の理解のために有益であろう。

 インドにおける支配的な宗教は、誰もが知るとおりヒンドゥ教である。しかしこれは西洋的な概念の宗教とはいささか異なっている。仏教やキリスト教のように創始者(開祖)がいるわけではないから、仏教がブッダの教えであり、キリスト教がイエスの教えであるというようには、誰かの教えであるわけではない。その根本をなすのは、天から伝えられたとされる 『ヴェーダ』の文学、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の叙事詩、そして『マヌ法典』などの法典類である。

 ヒンドゥ教というのは、あえていえば〈インド人の思考形態や生活習慣の総体〉とでもいうべきものである。それがまだ十分に体系づけられていなかった古代的な姿を、後の成熟した段階と区別して「バラモン教」と呼んでいる。生まれによるバラモン階級のみが司祭として、神と人との間をとりもつことができる祭式宗教であったからである。
 それに対して紀元前 5〜6世紀には、古代ギリシャにも似て自由思想家や哲学者が輩出し、儀式や生け贄、そしてカースト制度に凝り固まったバラモン教に反旗をひるがえした。その代表が仏教を興したブッダであり、ジャイナ教を興したマハーヴィーラである。

仏教のマハーボーディ寺院、ボードガヤー

 この二人はたいへんによく似た境遇を生きた。ともに東インドのビハール地方の「クシャトリヤ」(王侯、武士)階級に王子として生まれ、結婚して子供をもうけた後、すべての財産や家族を放棄して沙門(シュラマナ)となり、長い苦行と瞑想ののちに悟りを開いた。二人の生没年には諸説あって定説はないが、マハーヴィーラのほうが年長であった。ブッダは悟りへの道として「苦楽の中道」を説いたが、マハーヴィーラは徹底した苦行主義であり、その根本的な教義は「アヒンサー」(非殺生、非暴力)であった。

 ジャイナは中央集権的な教団を作らず、布教にもあまり熱心でなかったから、大勢力となることはなかった。一方仏教は教義の穏健性のゆえに広く普及し、また支配階級と結び付いたので、バラモン教を押しのけてインドの支配的な宗教となることができた。 なかでも熱心に仏教を擁護したのは、前3世紀にインドの大部分を征服したマウリヤ朝のアショーカ王である。

 古代の建築遺産としては、仏教は多くの遺跡を全土に残しているが、ジャイナ教のものはごくわずかしかない。そして不思議なことにはバラモン教のものは何一つ残っていないのである。
 したがってインドの古代建築は仏教建築のことだといっても大過ない。しかし 5〜6世紀にはバラモン教が次第に理論武装をして仏教に対抗するようになる。この成熟段階を「ヒンドゥ教」と呼んでいるが、もともと「ヒンドゥ」というのはシンドゥ河(インダス河)流域の人々(すなわち、西方から見たインド人)をさした言葉で、その人々の宗教が「ヒンドゥ教」(インド教)であり、その言語が「ヒンディー語」というわけである。

チベット仏教のティクセ・ゴンパ(僧院)

 ヒンドゥ教は高度な哲学的発展をするとともに、インド各地の土着信仰や神々、伝説や習俗を呑み込んで人々の心をとらえ、一冊のバイブルには納まりきらない膨大な神話や法典の体系となった。
 支配層に結び付いていた仏教は次第に足場を失い、密教からタントラ仏教期にはヒンドゥ教の影響をも受けながら、ついに 13世紀にはインドから姿を消してしまう。その代わりにアジア諸国にひろまって世界宗教となったので、現在のインド国境の内部でも、最北のラダック地方やシッキム地方において、ラマ教とも呼ばれる「チベット仏教」を伝えている。
 インド本土にあった数多くの仏教寺院や僧院は、守る人がいなくなるにつれて崩壊し、破壊されて、今はほとんどが廃墟か発掘址となっている。
 一方、初期のヒンドゥ教建築は仏教建築に範をとって、その建築形式を踏襲したり、あるいは仏教寺院をヒンドゥ寺院に転用したりした。しかし 7〜8世紀には「シヴァ」と「ヴィシュヌ」を二大神として独自の寺院形式を発達させ、以後 1,000年にわたってインドの石造建築の発展の中心的役割を果たすことになる。

ジャイナ教のマハーヴィーラ寺院、クンバーリアー

 他方、ジャイナ教は仏教とちがって国外に出ることがなかった代わりに、西インドを中心として連綿と生きつづけ、多くの建築遺産を残している。勢力としては少数派であったから、建築的にも仏教やヒンドゥ教の後追いをすることが多かったが、11〜15世紀の西インドにおいては飛躍的な発展をした。
 ジャイナ教はバラモン教を否定して成立した宗教であるから、本来無神論である。 寺院で礼拝されるのは神ではなく 24人の祖師であって、これを「ティールタンカラ」という。24人目の、そして最後のティールタンカラがマハーヴィーラとされているのである。

 外来の宗教であるイスラム教は、7世紀のアラビアの地に生まれた。預言者ムハンマドが神の言葉を人々に伝え、それは聖典としての『コーラン』に書き残されている。その最も重要な教えは、神は一人であるということ、そして神の前には総ての人が平等であるということである。この平等思想のゆえに、イスラムは短期間のうちに西はスペインから東は中央アジアへと広まった。
 その行く先々で礼拝堂としての「モスク」をはじめとするイスラム建築をつくっていったが、それぞれの地には先行文明があったので、イスラムの原理と土着の建築文化とがミックスすることによって、地域ごとに異なったイスラム建築を生んだのだった。

イスラム教のサリーム・チシュティー廟、ファテプル・シークリー

 インドへの侵入は 11世紀に始まり、西隣りのペルシャのイスラム建築がもたらされた。16世紀に成立したムガル朝はそれをインドの土着の建築と融合させることにより、インド・イスラム建築を絶頂に導くのである。
 しかしそのプロセスにおいては、一神論のイスラムと多神教のヒンドゥとは激しく衝突をした。「アッラー」の神は絶対者であって目には見えない存在であるから、それを偶像で表現することは厳しく禁じられている。
 そればかりでなく、預言者ムハンマドはおろか、すべての人も動物も偶像とすることが禁じられたので、モスクには一切の偶像彫刻や壁画がない。「ムスリム」(イスラム教徒)にとって、偶像で満ちみちたヒンドゥ寺院は許しがたい存在であったろう。

 だからといって、ムスリムが異教の建物や文化を徹底的に破壊したと思うのは早計である。むしろイスラム教は異教徒に寛容であった。
 イスラムはインドにおいて支配者の宗教となったが、民衆が従前どおりにヒンドゥ教を信仰することは、税金さえ余分に払えば自由だったし、西インドのラージプート諸国もムガル朝に臣従しながら、ヒンドゥ教の半独立王国を維持することができた。それだからこそヒンドゥ教もジャイナ教も現代にまで生き延びることができたし、数々の偉大な寺院建築を残すことができたのである。

キリスト教のアフガン記念聖堂、ボンベイ

 インドへのキリスト教の伝来はきわめて早く、伝説では使徒トマスがインドに伝道の旅をしたというが、真偽のほどは定かでない。ローマ・カトリック教会は 16世紀にポルトガルによってもたらされ、ゴアやコーチンには当時の 教会堂修道院 が多く残されている。インドを英国が支配するようになると英国国教会がもたらされ、四大都市をはじめとして各地にカテドラルや教区教会堂が建てられた。

 外来文化としてのイスラムと比較すると、キリスト教の場合にはあくまでもヨーロッパ風の建築形式による「コロニアル・スタイル」をとり、土着の建築との融合は求めなかった。それは、キリスト教の方がイスラム教よりも非寛容の宗教であることを示しているのかもしれない。
 現在のインドにおける宗教人口の割合は、1981年の国勢調査によれば次のとおりである。ヒンドゥ 82.6 %、ムスリム 11.4 %、クリスチャン 2.4 %、シク教徒 2.0 %、仏教徒 0.7 %、ジャイナ 0.5 %、その他(パルシー、ユダヤなど) 0.4 %。

 当然ながら現代建築においては、宗教は建築の発展のうえで大きな役割を果たしてはいない。新しい寺院が建てられる時にも、おおむね古いスタイルで建てられる。
 かつてインド建築を変化させ、新しいスタイルを生ませた宗教のインパクトに相当するのは、現代では欧米の文化であり、科学技術の文明であろう。それを体現した「近代建築」が伝統的な建築と衝突しながら、着々とインドの都市景観を変えつつあるのは、第三世界のどこの国とも同じである。




インド建築の紹介の方法


アーバーネリーの大クンダ(階段池)

 インドであれ、ヨーロッパであれ、その建築文化を紹介するにはさまざまな方法がある。多様な宗教をかかえるインドにおいては、建築を宗教別に紹介する方法もあるだろう。けれどもあらゆる建物が宗教建築であるわけではないし、かつてインド建築を宗教別に論じたジェイムズ・ファーガスンは、E・B・ハヴェルによって強く非難された。
 ハヴェルによれば、すべての建物は連続した「インド建築」なのであって、宗教による違いなどはほとんど取るに足りないというのである。仏教がもっと生き延びていれば、ヒンドゥ教と同じような寺院建築をつくったであろうし、インドのイスラム建築はインド建築以外の何ものでもない、という意見はある程度正当である。

 もっと順当なのは歴史的に建築の様式や技術をたどっていく方法で、それは建築史の書物となる。また地理的な順序で各地の建物を見ていく方法もあるだろう。本書はそれらとは異なって、時代の区別をせず、地理的な順序もなく、宗教の違いも超えて、インド建築のさまざまな「特性」をとおして理解していこうという試みである。
 地理的にいえば、インドは寒冷なヒマラヤ地方から西部の砂漠地帯や南部の熱帯雨林に至るまでの、気候や風土の大きな巾があり、それに応じた建築的形態の多様性がある。

 ヨーロッパの場合でいうと、私たちのイメージは 英・独・仏・伊といったあたりの建築文化に限定されすぎているきらいがあるが、ヨーロッパも北欧にいけばそこは木造文化であって、教会堂の造形もずいぶんと異教的に見えるものがあるし、南スペインにいけばそこにはアルハンブラ宮殿を初めとするイスラム建築を見ることができる。古代のケルトの造形から東欧のビザンチン聖堂、ユダヤのシナゴーグまで取りあげていけば、それはきわめて多様な建築造形を見せてくれるはずである。そしてそれらはすべてヨーロッパの地にあるという意味で「ヨーロッパ建築」なのである。

チャンディーガルの高等法院、ル・コルビュジエ設計

 本書で私が意図したのもまた、インド建築を狭い範囲の代表的なスタイルだけに限定せずに、北のラダック地方のチベット仏教の造形から、最南のケーララ地方の木造文化までを、できるかぎり公平にピックアップして、「インド建築」の全体像を示したかったのである。そのためには本来のインド建築の範囲として、現在のインドの領土を越えて、パキスタンやバングラデシュまでを含めている。

 またインドの古典建築だけでなく、英領時代に英国人の建築家が設計したコロニアル建築や、インドが英国から独立した後の現代建築をも紹介することにした。それはかつてムスリムがインドに侵入してイスラム建築を建てたのと同じことで、インドでつくられたイスラム建築がやはりインドの建築であるように、インドとの関わりのなかでつくられたコロニアル建築もまたインドの建築であると考えられるからである。
 古代から現代に至るまで、インド亜大陸を舞台としてさまざまな時代の王朝や宗教や民族のためにつくられた建物の総体をこそ「インド建築」と言わなければならない。




結語


ヒンドゥ教のビーマカーリー寺院、サラハン

 インド建築の「特性」を探求する 26章の旅は、古代の牧歌的な土饅頭や洞窟で始まり、コンクリートやガラスで高層化した現代建築で終わった。インド亜大陸に散らばる膨大な建築遺産からすれば、160ヵ所の建物というのはごくわずかな数にすぎないかもしれないが、しかしさまざまな時代や地方の典型的なスタイルや特徴的な形態は、その多くを示しえたのではないかと思う。それだから、本書にひととおり目を通された方は、インド建築の多様性に改めて目を見はったことだろう。

 とりわけ木造建築の存在は意外であったかもしれない。2度 3度とインドを旅しても、目にするのはほとんどが石造建築であって、ヒマーチャル・プラデシュ州やケーララ州を旅して木造のヒンドゥ寺院をじっくり見てきたという人は、あまり多くないはずである。
 ヒマラヤ杉で囲まれたヒマラヤの村々は、日本人にとっては懐かしさを覚えるような風景であり、そこに建つ木造寺院は変化に富んでいる。日本や東南アジアの木造建築と比較すると興味が尽きないが、しかし山また山の奥地は旅の困難な地域であり、また情報も十分に得られない。

 一方、南のケーララ州はずっと旅がしやすいが、しかしこちらのヒンドゥ寺院は異教徒に厳しい。上半身は裸となり、下半身にはルンギという白い腰巻をして裸足になって、やっと境内に入れてくれる寺院も、カメラの持ち込みはまず許されない。
 ジャイナ教の山岳寺院都市を訪れるのもまた 難儀な旅である。 シャトルンジャヤ山ギルナール山では何時間もかけて山を登り、また下らねばならない。足がガクガクになって死ぬ思いをして頂上にたどり着くと、そこには息をのむような光景が展開して疲れを忘れてしまう。

 そのようにインドの旅は楽ではないけれど、行く先々に新しい驚きがあり、発見がある。それだから、インド建築の特性を論じられるようなキーワードをピックアップすると、たちまち 26もの章ができてしまうのである。
 しかしながら、これでインド建築の「特性」を十分に説明し尽くしたかと問われると、いささか心もとない。 もっと別な、より効果的な章建てもあったかもしれないと思う。願わくばこの本を踏み台にして、さらに新鮮なインド建築論を展開する若い人たちが現れてほしいものと思う。

マリカールジュナ寺院の柱頭彫刻、クルヴァッティ

 さて 26章の旅では、個々のキーワードについての特性とその種々相を見てきたのだが、それらすべてを通じての、インド建築の最も大きな特性とは何であろうか。それには二つのことが言えるだろう。第一は、インド人があらゆる造形芸術の中で〈彫刻〉を最も好んだので、建築をも彫刻のように作ろうとしたことである。
 インドの寺院建築を訪ねると、独立寺院といわず石窟寺院といわず、石造であれ木造であれ、隅から隅までおびただしい彫刻で飾られていることに驚嘆する。建物は、そこに彫刻をするために建てるのではないか、とさえ錯覚するほどである。

 これに比べると壁画はずっと少なく、彫刻ほどに重要な役割を果たしていない。日本人の絵画好きとは対照的で、その傾向は近代まで続いた。建築家のアントニン・レイモンドはその自伝の中で、インド滞在時の印象を次のように書いている。《インドにあまり画家がいないのが、私には不思議であった。日本ではわれわれの小使いですら絵かきであったし、その絵もよかったものだ。》(三沢浩訳)

 インド人は、建物の内外を彫刻で飾ったばかりでなく、建物全体をも巨大な彫刻とみなして、「マッス」としての造形表現を探求した。それは、建築が「スペース」(空間)を囲み取る技術であり芸術であるという考え方とは対極に位置する。
 数々のヒンドゥ寺院を訪ねて、その彫刻的表現の素晴らしさに感嘆しながら内部に入ると、その内部空間の貧弱さにがっかりしてしまうことがよくある。内部は暗く小さな「洞窟」であって、全体はあくまでも外向きの造形的な建築なのである。
 時代が下るにつれて、壁面を飾る彫刻はますます繁雑の度を加え、そのまま進めばインドの建築はずいぶんと偏向したものになってしまったことだろう。

ナーゲーシュワラ寺院のゴプラ上部、クンバコーナム

 それを ゆり戻して方向を修正させたのがイスラム建築の到来であった。偶像崇拝を徹底的に拒否する「イスラム」は、彫刻や絵画などの偶像的表現を禁じ、空間を囲み取る皮膜としての建築を発展させてきた。これがインドの伝統的な建築に刺激を与えて、軌道を修正させたのである。

 一方、インドのイスラム建築は逆に土着の建築の影響を受けて、他のイスラム圏の建築に比べると、きわめて彫刻的で外向きの表現を獲得することになった。ペルシャ的な造形言語の タージ・マハル廟 でさえも、インド建築であればこそ、あれほどに見事な彫刻的表現を獲得したのである。

 第二は、インドの主要な建築は石造であるにもかかわらず、木造的な原理で建てられているということである。 古代インドでは今よりも木材が豊富であったから、インド建築は木造起源であって、中世に石造建築が主流になってもなお、木造的な架構と表現に執着した。イスラム建築がもたらされて「アーチ」や「ドーム」の構造が伝えられたあとでさえ、柱・梁の軸組み構法に執着して石を木のように使い続けた。

  
シカンドラのアクバル廟と、アーグラのチャトリ

 そこでは構造的な優劣よりも、体にしみこんだ美感覚の方が重要だったのだろう。インドに移植されたイスラム建築もまたその影響を受け、他のイスラム圏では見ることのできない軸組み的なイスラム建築を発展させたのである。 重たげなドーム屋根を、アーチを用いずに細い柱と梁だけで支える「チャトリ」はその典型である。
 木材とちがって引張力に弱い石材を梁やまぐさに用いる「軸組み構法」は、石やレンガを放射状に積んで大きなスパンを架け渡すアーチやドームに比べると、原理的に劣っているのは明らかである。にもかかわらずインド人はそれに固執して、偉大な建築を作りあげた。

 それはちょうど単旋律のインド音楽と似ている。西洋のポリフォニー(多声)音楽に比べると、単旋律の音楽は原理的には劣っている。 けれども芸術的な達成は、原理だけで優劣を比較できるものではない。インドの音楽は単旋律であっても、それを徹底的に探求することによって、きわめて高度な理論と音楽表現を獲得した。
 同様にインドの石造建築もまた、木造的な柱・梁構造や持ち出し構造のドームを徹底的に探求することによって、イスラム建築やヨーロッパ建築に遜色のない高度な建築文化を創りあげたのである。その極致は、ラーナクプルにあるジャイナ教の アーディナータ寺院 に見ることができよう。


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