アルジェリアの建築
コンスタンチーヌ CONSTANTINE
丘の上の市街 ![]() 朝霧に包まれたコンスタンチーヌ市街
アルジェ、オランに次ぐ アルジェリア3番目の規模の都市は フランス語でコンスタンチーヌと呼ばれるが、アラビア語では クサンティーナと言う。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世に由来する名前と言う。紀元前3世紀頃に建国されたヌミディア王国の首都となってキルタと呼ばれた時代から、険しい峡谷に囲まれているので、長い吊り橋を渡って行く以外に 進入路のない、難攻不落の軍事都市だった。 標高 626mの この都市に、約 50万人の市民が住んでいる。 ベニ・ハンマード BENI HAMMAD
大モスクと宮殿址 ![]() 博物館にある模型と、大モスクのミナレット
廃墟の大モスクと宮殿址遠望
ベルベル人の王朝、ハンマード朝 (1015-1152) を興したハンマード・イブン・ブルッギン (en:Hammad ibn Buluggin) が建設した首都が ベニ・ハンマードで、北アフリカで最も繁栄した都市の一つであるが、1090年のアラブの襲撃以後 荒廃し、1152年に ムワッヒド朝によって破壊された。現在に残るのは大モスクのミナレットぐらいで、モスク全体と大きな宮殿群は発掘史跡としてプランがみられるだけで、上部構造は皆 失われてしまった。
城砦都市は広大で、7kmに及ぶ城壁によって完全に囲まれていた。大モスクの北側に宮殿群が建ち並んでいた。域内に発掘品を展示する小博物館があり、ここに 都市の復元模型があるので、軍事的宮廷都市の姿がよくわかる。城塞は 1980年に ユネスコ世界遺産に登録された。主な発掘品は、アルジェやコンスタンティーヌの博物館に展示されている。 アルジェ ALGIERS
首都 アルジェは 海岸付近の低地に発達した近代的な部分と、標高100m以上の丘状の高地にある古都(カスバ)部分に分けられる。丘上に人が住み始めたのは 紀元前の6世紀と言う。カスバ(城塞)と呼ばれるようになったのはオスマン朝時代の 16世紀である。海岸付近は「北アフリカのパリ」という形容にふさわしく、フランスによる支配の時代の ノトル・ダーム大聖堂に代表される コロニアル建築が 建ち並んでいる。
アルジェで最古の 旧・大モスク(ジャマー・エル・ケビール)は、ユースフ・ブン・タシュフィンの治世の 1097年頃に建設された。14世紀のミナレットは2面の道路に面した角に建ち、前面道路には、多弁形アーチが連続する 長いアーケードが面している。礼拝室は 38メートル× 46メートルの幅広矩形で、その中に 11メートル× 21メートルの 長方形の中庭が 切り取られている。礼拝室に並ぶ尖頭アーチの約半数は、私の知る限り 最も繊細巧緻な 多弁形アーチでできている。ムスリムのような顔をして中に入り、写真を撮ることができたが、その代わり、エントランスに置いてきた 靴が 盗まれていたのだった(モスクにおける 初めての体験)。
歴史的な大モスクは 市街に囲まれて、前面広場もない 窮屈な印象を与えていて、今や 巨大な新・大モスクができたので、旧・大モスクと言わねばならない。アルジェで最古のモスクであり、今に残る 数少ないムラービト朝建築の一つである。11身廊のうち入口近くの5廊分が中庭に充てられている。列柱ホール型のモスクで、キブラ壁と直角方向にアーケードが並ぶが、4列だけキブラ壁と平行にアーケードがあり、前者と交差している、主要なアーケードは細かい多弁形の、馬蹄形尖塔アーチであり、特にミフラーブ前の主身廊は 華やかである。柱は石の円柱ではなく、プラスター塗りの太い角柱なので、モデルとなったであろう、カイロのイブン・トゥールーン・モスクのように、レンガ造ではないかと思われる。
新・大モスクは 「アルジェのモスク」を意味するジャマー・エル・ジャザイール(Djamaa el-Djazair)で、2024年に落成、世界で3番目に大きいモスクであり、約12万人の礼拝者を収容できると言うが、私は未訪(写真はウェブサイトより)。 ![]() エル・ジェディード・モスク
ジャマー・エル・ジェディードは、大モスクのすぐ隣にある古モスクで、現在は博物館に転用されている。オスマン帝国時代に建設された時には 新しいモスクだったので、その意味の エル・ジェディード・モスクと呼ばれる。港の近くで、地元の漁師たちが頻繁に訪れていたことから、「漁師のモスク(Pêcherie Mosque)」とも呼ばれた。外観は、すべて ホワイト・ウォッシュ されているので、新しいモスクのように見える。 ![]() カスバの大階段通りと、下町の大通り
カスバとは、フランス語で Casba や Casbah と書くが、元来アラビア語で「城塞」の意 で、アラブ諸国で首長の住む城、および その周囲の 城塞に囲まれた居住地区を言う。 特にアルジェの 8万人の現地人居住区は、神戸のような「斜面の町」で、急な坂や階段に面して 高層のアパート群が ぎっしりと立ち並んでいることで 名高い。映画『アルジェの戦 い』は アルジェリア民族解放戦線(FLN)の組織から 1962年にかけての、フランスからの独立戦争(アルジェリア戦争)、特に1960年のアルジェのカスバにおける 民衆蜂起と フランス軍による その虐殺が描かれている。アルジェリアの独立はその2年後の 1962年だった。アルジェの カスバは 1992年にユネスコの世界遺産に登録されているが、 現在のカスバは 老朽化によって 崩壊の危機に直面していると言う。
カスバには 100年、200年を閲(けみ)する古い住居も多くあり、「ダール〇〇」と呼ばれる。 ![]() ケチャウア・モスクの外観と小窓、壁画
ジャマー・エル・ケチャウアは、1612年にオスマン帝国支配下(アルジェ摂政時代)に カスバ(旧市街)の麓に建設され、1794年に ハッサン・パシャ(Hasan Pasha)によって再建、改修された。フランスの植民地時代の1860年にキリスト教の大聖堂(Cathedrale Saint-Philippe)に転換され、独立後にモスクに戻された。今は そのユニークな姿が注目され、 アルジェのシンボル的な観光遺産となっている。
![]() アルジェ中央郵便局
アルジェの中央郵便局は フランス植民地政府によるコロニアル建築の傑作で、フランスの建築家、マリウス・トゥドゥワール (Marius Toudoire) とジュール・ヴワノ (Jules Voinot) によって設計された。外観は ある程度近代化されているが、馬蹄形アーチがシンボリックに使われて イスラーム建築の伝統を受け継いでいるので「ネオ・ムーア様式」と呼ばれている。内部は 郵便局という 近代の機能に即した空間構成にしているが、ドーム天井をはじめとする その 全表層は アルジェリアの伝統工芸の粋が凝らされた、絢爛たるものである。インドのコロニアル建築の「インド・サラセン様式」よりも はるかに装飾的である。2018年に 郵便・電気通信博物館に転用された。 ![]() 501デパート(近代美術館) アルジェの中心部に位置する「501デパート」は、1991年に訪れた時には、この写真のように デパートとして営業していたが、 2008年に再訪するとその前年に改装されていて、「アルジェ近代美術館」(The National Museum of Modern and Contemporary Art in Algiers )に転換されていた(撮影不可)。3層吹抜けの中央大空間はすばらしいが、まだ改装されたばかりだったからか、あまり華やかさが無く、かつてのデパートの時の方が 魅力的だったような気がする。1909年にデパートとして開業した時には「ギャルリー・ド・フランス」という名前だったらしい。
オラン ORAN
オランは アルジェリア第2の人口を持つ都市である。かつて ここにライオンがいたという伝説から、2頭のライオンを意味するアラビア語が 名前の由来だという。アルジェリアの商業の中心地であって、歓楽街も多いことから「シン・シティ(享楽の町)」とも呼ばれる。20011年時点の人口は 約 80万人、オラン都市圏では 約 150万人。アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947) の舞台となった都市であり、カミュが新婚当時に住んだというアパルトマンもある。
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港町オランの市街を歩いていると、三角形の敷地に建つ 興味深い建物にぶつかった。造形力のある建築家の設計と思うが、詳しいことはわからない。ネットで調べたところ、現在は CPA banque,Oran, Algeriaで使われているらしい。CPAとは
Credit Populaire d'Algerie(アルジェリア人民銀行)の事で、1966年に設立された商業銀行だというが、アルジェリアの主要な国有銀行の一つだとも言う。
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オランで最も印象深い建築作品は、フランスの建築家 アルベール・バリュ (Albert Ballu) の設計で 1903年から 1913年にかけて建設された、カトリックの サクレクール大聖堂であろう。現在は市立図書館となっている。その造形は、モスクに転用しても、まったく違和感がないだろうと思われる。 ![]()
オラン駅は、フランスの建築家、マリウス・トゥドワール(Marius Toudoire)とアルベール・バリュ(Albert Ballu)によって設計されて、1908年に着工し、1913年に開業した。中央ホール(出札所)は八角ドームの天井(屋根)を戴き、装飾的なムカルナスのペンデンティフで支えている。ネオ・ムーア様式と言われる。トゥドワールは パリのリヨン駅も設計した。 ![]()
私の若い頃は「実存主義」の全盛期で、哲学者としては フランスの ジャン・ポール・サルトル (1905-80)、文学者としては アルジェリア生まれのフランス人で "不条理" の哲学の アルベール・カミュ (1913-60)が 最も人気があり、日本でも それぞれの全集が出ていた(人文書院と新潮社)。カミュはノーベル賞を受賞したが (1957) 、サルトルは辞退した (1964) 。 トレムセン TLEMCEN
アルジェリアを代表する 古都と言えば、トレムセンである。都市は 海岸付近の低地に発達した近代的な部分と、標高100m以上の高地にある、アガディールや アル・ウバッド地区などの古都部分に分けられる。海岸付近は「北アフリカのパリ」という形容にふさわしく、フランス領だった時代の、ノートルダム大聖堂に代表されるフランス風の建物が建ち並んでいる。
大モスクはムラービト朝の 1136年に、第4代スルタン、.ユースフ・ブン・ターシュフィーンよって創建された アルジェリア最古のモスクで、現在も最重要な参詣地である。広い前面広場に面しているが、威容を誇示しているわけではなく、礼拝室のキブラ壁である 2層のホワイトウォッシュされた建物が長く伸びた、拍子抜けするようなファサードである。13廊の幅広矩形の礼拝室の向こうに中庭があり、中庭の 対抗面 中央に 太い角型ミナレットが建つので、カイラワーン(チュニジア)の大モスク (シディ・ウクバ・モスク)を手本にしたモスクと言え、同じように 外観を飾り立てることを しない。長方形のプランの外郭の西側の角が斜めに削られているのは、創建時の市街地との関係だったろう。これによって、中庭は中央軸線とは 1廊分ずれている。 ![]() モスクの平面図 礼拝室内部 (From website "Discover Islamic Art") (ミフラーブを見る) ![]()
トレムセンの中央広場に面した重要なモスクで、都市の博物館になっていたらしいが、この日は なぜか、中に入れなかった。 ![]()
8世紀の終わりに モロッコに起こったイドリース朝が イフリーキーヤ地方も支配し、イドリース1世が 今のトレムセン東部の アガディールに 大モスクの建設を命じた。そのミナレットのみが現在にまで残り、かつての栄華を伝えている。 ![]() シディ・ハルウィ・モスクは、マリーン朝の君主アブー・イナーン・ファーリスによって、セビーリャ出身の出身の裁判官(カディー)であり、聖者と崇められたシディ・ハルウィ(お菓子の聖者の意)を祀って建設された。25メートルの高さのミナレットが特に見事で、このページのトップ にも用いた。
![]() シディ・ハルウィ・モスクの平面図 (From website ”Discover Islamic Art")
メシュアール宮殿は、1145年頃、ムラービト朝が創建し、1236年に成立したザイヤーン朝がこの地を都とし、本格的な宮殿として13世紀から14世紀にかけ、メシュアール(「相談の場」の意)が機能する城塞宮殿へと増改築した。私が訪ねた所は廃墟だったが、広い敷地の一部であったらしい。中心的な施設は 近年、国によって大々的に修復され、「アルハンブラ宮殿のように」美麗に整備されたらしい。(右の写真は ウェブサイトより借用) ![]() シトー会の ル・トロネ修道院 を設計した修道士を描いた小説『粗い石 』(荒木亨訳、1973、文和書房)を書いた建築家、フェルナン・プイヨンが、 1973年に設計したホテル。外観は現代的だが、伝統的なデザインの中庭もある 快適なホテルだった。小説『粗い石 』は 日本の建築界でも大評判になり、大いに読まれた。
"Les Pierres Sauvages" 1964 「フランスでこの僧院を有名にしたのは、ル・コルビュジエでもなく、エルヴェでもない。建築家のフェルナン・プイヨン その人である。彼は 雑草が生えるがままの、荒れ果てた この僧院を清め、実測し、これを モニュマン・イストリック(ほぼ 重要文化財の意)の指定にまで こぎつけた人である。後に ある建物の設計ミスで、実刑を受けて、マルセイユの獄中に一年間を過ごす 不幸に見舞われるのだが、この間に 書いたのが、和訳もされた、Les Pierres Sauvages( レ・ピエール・ソヴァージュ ) である。和訳では『粗い石』とされたが、Sauvages は「粗い」という意味ではなく、シトー派の戒律にある、「孤独を守る」とか、「外界と交わらない」というのが、本意である。
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どこの国でもそうだが、宗教建築は伝統的に、新興成金の住宅は 新旧折衷的に、デザイン されることが多い。日本でも、時たま 建築家が設計した「現代建築」としての新しい仏教寺院が建てられ、建築雑誌に紹介されたりするが、全国で新築、改築される寺院の大部分は伝統的なKい瓦葺き、大屋根の木造建築であり、そうしたものを専門に設計する設計事務所もあり、建設会社もある。イスラーム国においても同様で、新しいモスクの大部分は そのようにして建てられる。
トレムセンの、アル・ウバッド地区への道すがらに見た 竣工直前の邸宅も、伝統的なディテールや装飾を盛り込んだモダン建築であり、それは それなりに 興味深く見せてもらった。新興成金 (?) の建て主は、ここで快適に過ごせるだろうと思う。両者いずれでも、「創造力の欠如」ということに、沈んだ気分になるのは やむをえない。
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それに対して、アル・ウバッドへの道で見つけた 工事現場のアーチの構法は、非常に興味深いものだった。アフリカでは木材が高価なので、木による型枠を用いずに、一枚の合板をアーチ状に曲げて、これを鉄筋で支え、その上に軽い有孔レンガブロックを並べ、モルタルで接合するというものである。単純化による作業の簡易さが 図られているが、どれだけ強度を持ちうるのかは不明だとしても、いつでも 技術の進歩・発明は、意匠よりも先に進むものだと思う。
マンスーラ・モスク ![]() マンスーラの巨大なモスクは、モロッコのマリーン朝のスルタン、アブー・エル・ハッサン・アリーがアルジェリアやチュニジアまで支配して、1303年に建設した。かつてはその周囲に多くの庭園や宮殿、浴場や店舗街なども配されたらしいが、今は跡形なく、大モスクも廃墟となっていて、部分的な外壁と、半壊したミナレットのみが聳え立っている。ミナレットが中庭を挟んで礼拝室の正面中央に建っているのは、先述のベニ・ハンマードのモスクと同じであり、遡れば、チュニジアのカイラワーンの大モスク (シディ・ウクバ・モスク)に行き着くだろう。しかしその1階がモスクへの入口となっていて、その中央アーチが 華やかに3重に飾られるなどというのは、このマンスーラ・モスクのみで見られる。今は廃墟になっているので、このアーチ開口を通して 遠くの糸杉が眺められるというのも、大いに気に入った。
マンスーラの近くには トレムセンの市壁が 多く残る。特に マリーン朝の第6代君主、アブー・ユースフ・ヤークーブが 勝利のキャンプとして建設した アル・マンスーラ地区の塁壁は 壮大で、四角い櫓の塔が 立ち並んでいる。
シディ・ブー・メディエーヌ廟 ![]() いかにも古い佇(たたず)まいの地区に、廟のほかにアル・ウバッド・モスク、マドラサ、ハンマームなどがあるが、広場もなく、全体を貫く軸線も無く、狭い曲がりくねった道に面して 建っている。マリーン朝の 14世紀半ば(1339年頃)に スルタン、アブー・アル・ハサンによって大規模な複合施設として拡張されたと言う。
トレムセンの西北2kmの郊外にある アル・ウバッド (El Eubbad / Al-'Ubbad) 地区は、トレムセン郊外にある歴史的遺産の地区で、丘の上の宗教施設複合体(ザーウィヤ)をなしている。 かつては村だったが、今ではトレムセン市に組み込まれている。マグリブ地方で特に崇敬された スーフィー聖者、 シディ・シュアイブ・アブー・マディヤン(Sidi Shu’ayb Abu Madyan, 1120−1197)の墓があるので、古くからの巡礼地となっていて、多くの参詣者が訪れる。フランス語ではシディ・ブーメディエーヌと言う。 ![]()
特にアル・ウバッド・モスクは、マリーン朝の建築の代表的作品のひとつと見なされている。1339年に スルタン、アブ−・エル・ハセヌによって建立された。正面入り口は7メートルの高さがあり、華麗なムカルナス・ドーム天井を戴く半外部のエントランス・ホールの階段を上がって木製の彫刻された古式ドアを通って中庭に至る、劇的な構成をしている。 ![]()
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広大なサハラ砂漠の中、首都アルジェの南方約 600キロの地に、ベルベル系のムザッブ人の オアシス集落群がある。彼らはイスラーム教の「イバード派」を形成し、厳格な宗派であることから「イスラーム教徒の清教徒」と形容される。多くの町が集まるのが標高 300mから 800mの「ムザッブの谷」で、中心の町は ガルダイアである。各地を転々としたムザブ人が 11世紀頃、ガルダイアを中心に エル・アットゥーフ、ベニ・イスゲン、ブヌラ、メリカの町を築いた。5つの町の中でも 特に有名なのが 聖都 ベニ・イスゲンであり、他にメリカと エル・アットゥーフがよく知られ、これら5つの町が「ムザッブの谷」として、1982年に ユネスコ世界遺産に登録されている。
![]() ガルダイアの都市の全景 ムザッブの谷の中心都市、ガルダイアの市街地には10万人以上の住民が住んでいて、行政機関や商業施設が多く集まるので、町と言うよりは 小都市と言える。中央広場には 毎日、市が立つ。
![]() ガルダイアの中央広場と市街、ミナレット どの町も モスクを中心に形づくられ、町の防御上の望楼を兼ねるミナレットが高くそびえて、町のシンボルとなっている。モスクもミナレットも 日干しレンガで造られ、土のプラスターを塗られているだけなので、近くに寄れば、特に 建築的に見るべきものは無い。
![]() 老舗のホテル、オテル・ロスティメード ![]() メリカには、イバード派の シディ・アイサと その一族の墓があり、その素朴な造形が 白く塗られて 目を引く。
![]() 聖都 ベニ・イスゲンの全景 ベニ・イスゲンは、「ムザッブの谷」で 最も保存状態の良い 城塞都市(クサール)である。町の名はベルベル語で「信仰を守る者たちの息子」を意味すると言う。ムザブの谷の中でも 特に信仰心の厚い町として知られる。 ![]() ベニ・イスゲンンの市街とモスク ![]() エル・アットゥーフの町の入口広場と市街 エル・アットゥーフは 1013年に、ムザッブの谷に 最初に設立された町である。エル・アットゥーフ にあるシディ・イブラヒーム・モスクは 白塗りされた 土のモスクで、ル・コルビュジエは このモスクの内外にインスピレーションを得て、ロンシャンの聖堂 を設計したという。
![]() エル・アットゥーフのシディ・イブラヒーム・モスク
ヴィジュアルな本を紹介しておきます。
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