トレムセン
ISLAMIC ARCHITECTURE of ALGERIA


第2章

アルジェリアの建築
神谷武夫

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アルジェリアという国

 アルジェリアは アフリカ大陸において最も広大な領土を持つ国で、正式名称は「アルジェリア民主人民共和国」という。8年に及ぶ 激しい独立戦争(アルジェリア戦争)の後、1962年に フランスからの独立を獲得した。アラビア語の国名は、首都 アルジェのアラビア語名である「アル=ジャザーイル」に由来するので、通常とは逆に、国名の方が あとから出来た。

地図
アルジェリアの位置図

 7世紀のアラビアで 預言者ムハンマドが起こした 政教一致のイスラーム国は、たちまちのうちに中東全体を征服し、「聖戦」による征服活動がアフリカに及んだ。8世紀に ウマイヤ朝、次いでアッバース朝の アラブ人イスラーム勢力が侵入し、この地方(イフリ−キーヤ)も イスラーム化していった。アルジェリアには 内陸部に ペルシア系の ルスタム朝が興ったが、次第に 住民のイスラーム化と共に アラブ化も進み、11世紀のヒラール族の侵入によって、農村部でのアラブ化が決定的になった。今では地中海に面した北アフリカの、アラブ化した4カ国(リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ)を マグリブ地方と呼び、その南の サブ・サハラ・アフリカと区別する。

地図
アルジェリア北部の イスラーム建築地図

 ベルベル人のアルジェリアは イスラーム化した後も、ある程度の自治を保ち続けた。西方(モロッコ)から興ったムラービト朝と、その次のムワッヒド朝の支配を経た後、1229年に ハフス朝が成立し、1236年には トレムセンを都とする ザイヤーン朝が成立した。
 16世紀の半ばからは 3世紀にわたってオスマン・トルコに支配されたが、1830年にフランスが侵略して、その植民地にされた。そこから独立したのは、長く激しい 独立戦争を経た 1962年のことだった。

 私がマグリブ地方を旅したのは 1991年と 2008年との2回で、旅日記には、「アルジェリア人というのは、皆 親切で、陽気で、好い人達だ」と 書いてある。1回目は束の間の 平和な国情の時期だったので、アルジェの エッサフィール・ホテルに安く泊まって 安楽だった(格調の高い4ッ星ホテル、朝食付き 2,800円)が、この年に政府軍とイスラム主義者たちの衝突が始まり、翌年の 1992年には軍のクーデターによる内乱状態になったというから、危ないところであった。その後 2000年ごろには紛争が終結したが、政情不安はいつまでも続き、2回目の 2008年に行った時には エッサフィール・ホテルがえらく高くなっていて 泊まれず、国内の交通も不便になっていて、旅は全て 何かと不便、不快になっていた。それでも 特に民心がギスギスしているとも感じないで 旅ができたのは 幸いだった。

 2010年に始まった 中東における「アラブの春」は、チュニジア、エジプト、リビアで市民革命が成就し、独裁政権が倒されたが、アルジェリアでは 反体制デモは起きたものの、政権を倒すまでには至らなかった。2019年になって再び各国で権威主義政権や格差、腐敗に対する抗議の声が広がり、民衆のデモがはげしくなったので、これを「第二のアラブの春」とも言う。アルジェリアでも長期政権が崩壊した。

モニュマン
独立20周年記念の 殉教モニュマン、1982

 さて、イスラーム国に行ったことのある人は、モスクのドーム屋根の頂部に 小さな三日月形が乗っているのを見て、あれは何だろうと思うことがあるようだ。イスラーム建築と直接 係わることではないが、今まで触れたことがないので、ここに少し 書き記しておきたい。
 預言者ムハンマドが 三日月や星について何かを言ったということは無いし、『クルアーン』にも『ハディース』にも その記述は 無さそうである。ネットで調べると、三日月と星がイスラームのシンボルになったのは、17世紀以後、オスマン帝国が国旗に採用したことから 広まったらしい。月の満ち欠けに基づくイスラーム暦(ヒジュラ暦)や、砂漠や戦地における「夜空の星の導き」など、イスラーム文化圏で古くから親しまれていたモチーフと結びついて、次第にイスラームの普遍的なシンボルとみなされるようになったらしい。
 モスクのミナレットやドーム屋根の頂部に設けられることもあるが、ここには マグリブ諸国の国旗を掲げてみよう。どれも 20世紀の制定で、三日月や星をデザインしている。これが さらに後になって、東方のパキスタンやマレーシア、シンガポールなどにまで広まったが、古代、中世においては、そういうものは無かったと言える。

国旗  国旗  国旗  国旗
リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコの国旗

 モスクに使われているものを探すと、意外に無いもので、やっと オスマン帝国支配下のブルガリア、シリストラの クルシュンル・モスクのミナレットの頂部に、横になった三日月を見つけた。しかし 写真を拡大して 見ると、三日月と言うよりは ほとんど円形で、頂部を少し切っているだけである。これを遠くから見ると、辛うじて「横になった 三日月」のように見える。もちろん「星」は 無い。モスクに付けられているものは、このタイプが多い。強風に耐えるために、下部を太くして しっかりと固定する必要があった。

シリストラ  シリストラ
シリストラのクルシュンル・モスクのミナレット、1982

 アルジェリアでは、トレムセンの 大モスクのミナレットの 頂部の小塔の脇に 星と三日月の「印章」が棒の上に取り付けられているが、現代のものだろう。

( 2026 /02/ 01 )





コンスタンチーヌ CONSTANTINE



丘の上の市街
City in the Mist & Pont Cidi M'Cid

コンスタンチーヌ  コンスタンチーヌ  コンスタンチーヌ
朝霧に包まれたコンスタンチーヌ市街

アルジェ、オランに次ぐ アルジェリア3番目の規模の都市は フランス語でコンスタンチーヌと呼ばれるが、アラビア語では クサンティーナと言う。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世に由来する名前と言う。紀元前3世紀頃に建国されたヌミディア王国の首都となってキルタと呼ばれた時代から、険しい峡谷に囲まれているので、長い吊り橋を渡って行く以外に 進入路のない、難攻不落の軍事都市だった。 標高 626mの この都市に、約 50万人の市民が住んでいる。


ベニ・ハンマード BENI HAMMAD



大モスク宮殿址
Great Mosque & Palace Ruins, 1007

ハンマード  ハンマード  ハンマード
博物館にある模型と、大モスクのミナレット

ベニ・ハンマードはイスラーム初期の考古史跡として重要だが、行きにくいところなので、まず 行き方を紹介しておく。アルジェから ベニ・ハンマードの近くのムシラまで鉄道があるが、列車は日に一本なので、バス(ルアージュ)で 北の ボルジ・ブー・アリージに行く方が たやすい。ボルジまで4時間半から5時間かかるので、アルジェからの日帰りは 難しい。ボルジにはホテルが数軒あり、私が 17年前に泊まったのは、タクシーで連れて行ってもらった オテル・デ・ビバンという中級ホテル。翌朝 そのタクシーに迎えに来てもらって、ベニ・ハンマードまで往復をした。待ち時間を含め、3時間で 2,000ディナール(3,400円)だった。今は もっと 行きやすくなっている かもしれない。

地図
ベニ・ハンマードの位置図

ハンマード  ハンマード
廃墟の大モスクと宮殿址遠望

ベルベル人の王朝、ハンマード朝 (1015-1152) を興したハンマード・イブン・ブルッギン (en:Hammad ibn Buluggin) が建設した首都が ベニ・ハンマードで、北アフリカで最も繁栄した都市の一つであるが、1090年のアラブの襲撃以後 荒廃し、1152年に ムワッヒド朝によって破壊された。現在に残るのは大モスクのミナレットぐらいで、モスク全体と大きな宮殿群は発掘史跡としてプランがみられるだけで、上部構造は皆 失われてしまった。
大モスクのミナレットは 高さが25メートルあり、石の躯体は完全に修復されたが、表面にあったかもしれない装飾は、まったく残されていない。礼拝室は13身廊で、幅が56m、奥行きが64mで8スパンからなる、アラブ型の 列柱ホール式モスクである。その規模は、後述のマンスーラの(やはり廃墟になっている)大モスクに次いで、アルジェリアで2案目に大きい。

ベニ・ハンマード"
ベニ・ハンマードの城塞、周辺地図 ( From Wikimedia)

城砦都市は広大で、7kmに及ぶ城壁によって完全に囲まれていた。大モスクの北側に宮殿群が建ち並んでいた。域内に発掘品を展示する小博物館があり、ここに 都市の復元模型があるので、軍事的宮廷都市の姿がよくわかる。城塞は 1980年に ユネスコ世界遺産に登録された。主な発掘品は、アルジェやコンスタンティーヌの博物館に展示されている。


アルジェ ALGIERS


首都 アルジェは 海岸付近の低地に発達した近代的な部分と、標高100m以上の丘状の高地にある古都(カスバ)部分に分けられる。丘上に人が住み始めたのは 紀元前の6世紀と言う。カスバ(城塞)と呼ばれるようになったのはオスマン朝時代の 16世紀である。海岸付近は「北アフリカのパリ」という形容にふさわしく、フランスによる支配の時代の ノトル・ダーム大聖堂に代表される コロニアル建築が 建ち並んでいる。



大モスク (ジャマー・エル・ケビール)
Djamaâ el Kebir, 1097

アルジェ  アルジェ  アルジェ
大モスクのミナレットと、アーケードと、中庭

アルジェで最古の 旧・大モスク(ジャマー・エル・ケビール)は、ユースフ・ブン・タシュフィンの治世の 1097年頃に建設された。14世紀のミナレットは2面の道路に面した角に建ち、前面道路には、多弁形アーチが連続する 長いアーケードが面している。礼拝室は 38メートル× 46メートルの幅広矩形で、その中に 11メートル× 21メートルの 長方形の中庭が 切り取られている。礼拝室に並ぶ尖頭アーチの約半数は、私の知る限り 最も繊細巧緻な 多弁形アーチでできている。ムスリムのような顔をして中に入り、写真を撮ることができたが、その代わり、エントランスに置いてきた 靴が 盗まれていたのだった(モスクにおける 初めての体験)。

アルジェ  平面図
旧・大モスクの礼拝室内部と、  平面図
          (From website "Discover Islamic Art")

 歴史的な大モスクは 市街に囲まれて、前面広場もない 窮屈な印象を与えていて、今や 巨大な新・大モスクができたので、旧・大モスクと言わねばならない。アルジェで最古のモスクであり、今に残る 数少ないムラービト朝建築の一つである。11身廊のうち入口近くの5廊分が中庭に充てられている。列柱ホール型のモスクで、キブラ壁と直角方向にアーケードが並ぶが、4列だけキブラ壁と平行にアーケードがあり、前者と交差している、主要なアーケードは細かい多弁形の、馬蹄形尖塔アーチであり、特にミフラーブ前の主身廊は 華やかである。柱は石の円柱ではなく、プラスター塗りの太い角柱なので、モデルとなったであろう、カイロのイブン・トゥールーン・モスクのように、レンガ造ではないかと思われる。

参考

新・大モスク

 新・大モスクは 「アルジェのモスク」を意味するジャマー・エル・ジャザイール(Djamaa el-Djazair)で、2024年に落成、世界で3番目に大きいモスクであり、約12万人の礼拝者を収容できると言うが、私は未訪(写真はウェブサイトより)。



エルジェディードモスク
Djamaâ el Jedid, 1660

  アルジェ
エル・ジェディード・モスク

 ジャマー・エル・ジェディードは、大モスクのすぐ隣にある古モスクで、現在は博物館に転用されている。オスマン帝国時代に建設された時には 新しいモスクだったので、その意味の エル・ジェディード・モスクと呼ばれる。港の近くで、地元の漁師たちが頻繁に訪れていたことから、「漁師のモスク(Pêcherie Mosque)」とも呼ばれた。外観は、すべて ホワイト・ウォッシュ されているので、新しいモスクのように見える。



アルジェカスバ(旧市街)
Algiers's Casba

  アルジェ  アルジェ
カスバの大階段通りと、下町の大通り

 カスバとは、フランス語で Casba や Casbah と書くが、元来アラビア語で「城塞」の意 で、アラブ諸国で首長の住む城、および その周囲の 城塞に囲まれた居住地区を言う。 特にアルジェの 8万人の現地人居住区は、神戸のような「斜面の町」で、急な坂や階段に面して 高層のアパート群が ぎっしりと立ち並んでいることで 名高い。映画『アルジェの戦 い』は アルジェリア民族解放戦線(FLN)の組織から 1962年にかけての、フランスからの独立戦争(アルジェリア戦争)、特に1960年のアルジェのカスバにおける 民衆蜂起と フランス軍による その虐殺が描かれている。アルジェリアの独立はその2年後の 1962年だった。アルジェの カスバは 1992年にユネスコの世界遺産に登録されているが、 現在のカスバは 老朽化によって 崩壊の危機に直面していると言う。



アルジェダール(古邸宅)
ダール・ムスタファ・パシャ Dar Mustapha Pasha, 1799
ダール・ハッサン・パシャ Dar Hassan Pacha, 1791

    アルジェ
カスバの古邸宅 ムスタファ・パシャ邸と、ハッサン・パシャ邸

カスバには 100年、200年を閲(けみ)する古い住居も多くあり、「ダール〇〇」と呼ばれる。
●「ダール・ムスタファ・パシャ」は、アルジェの支配者(デイ)であったムスタファ・パシャによって建設された宮殿で、オスマン帝国時代の住宅建築の最高傑作と言われる。2層の回廊で囲まれた 広い中庭をもつ。現在は「国立 細密画・装飾写本・カリグラフィー博物館に転用されている。
●「ダール・ハッサン・パシャ」は、アルジェの外務大臣ハッサン・パシャによって、ケチャウア・モスクに隣接して建てられた。1839年にヨーロッパ風のファサードが増築され、現在は「国立 彩飾・ミニチュア・カリグラフィー美術館」として用いられている。



ケチャウアモスク
Djamaâ el Kechaoua, c. 1612

  アルジェ  アルジェ
ケチャウア・モスクの外観と小窓、壁画

 ジャマー・エル・ケチャウアは、1612年にオスマン帝国支配下(アルジェ摂政時代)に カスバ(旧市街)の麓に建設され、1794年に ハッサン・パシャ(Hasan Pasha)によって再建、改修された。フランスの植民地時代の1860年にキリスト教の大聖堂(Cathedrale Saint-Philippe)に転換され、独立後にモスクに戻された。今は そのユニークな姿が注目され、 アルジェのシンボル的な観光遺産となっている。



アルジェ中央郵便局
Grande Poste d'Algiers, 1910-13

  アルジェ  アルジェ
アルジェ中央郵便局

 アルジェの中央郵便局は フランス植民地政府によるコロニアル建築の傑作で、フランスの建築家、マリウス・トゥドゥワール (Marius Toudoire) とジュール・ヴワノ (Jules Voinot) によって設計された。外観は ある程度近代化されているが、馬蹄形アーチがシンボリックに使われて イスラーム建築の伝統を受け継いでいるので「ネオ・ムーア様式」と呼ばれている。内部は 郵便局という 近代の機能に即した空間構成にしているが、ドーム天井をはじめとする その 全表層は アルジェリアの伝統工芸の粋が凝らされた、絢爛たるものである。インドのコロニアル建築の「インド・サラセン様式」よりも はるかに装飾的である。2018年に 郵便・電気通信博物館に転用された。



501 デパート(近代美術館)
K501 Department Store、1901-09

  アルジェ  アルジェ
501デパート(近代美術館)

 アルジェの中心部に位置する「501デパート」は、1991年に訪れた時には、この写真のように デパートとして営業していたが、 2008年に再訪するとその前年に改装されていて、「アルジェ近代美術館」(The National Museum of Modern and Contemporary Art in Algiers )に転換されていた(撮影不可)。3層吹抜けの中央大空間はすばらしいが、まだ改装されたばかりだったからか、あまり華やかさが無く、かつてのデパートの時の方が 魅力的だったような気がする。1909年にデパートとして開業した時には「ギャルリー・ド・フランス」という名前だったらしい。



オラン ORAN


オランは アルジェリア第2の人口を持つ都市である。かつて ここにライオンがいたという伝説から、2頭のライオンを意味するアラビア語が 名前の由来だという。アルジェリアの商業の中心地であって、歓楽街も多いことから「シン・シティ(享楽の町)」とも呼ばれる。20011年時点の人口は 約 80万人、オラン都市圏では 約 150万人。アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947) の舞台となった都市であり、カミュが新婚当時に住んだというアパルトマンもある。



オラン市街
Oran's Townscape

オラン  オラン

港町オランの市街を歩いていると、三角形の敷地に建つ 興味深い建物にぶつかった。造形力のある建築家の設計と思うが、詳しいことはわからない。ネットで調べたところ、現在は CPA banque,Oran, Algeriaで使われているらしい。CPAとは Credit Populaire d'Algerie(アルジェリア人民銀行)の事で、1966年に設立された商業銀行だというが、アルジェリアの主要な国有銀行の一つだとも言う。



旧・カテドラル(現・図書館)旧・オペラ座
Cathedral of Oran, 1913 & Opera, 1905

オラン  オラン

オランで最も印象深い建築作品は、フランスの建築家 アルベール・バリュ (Albert Ballu) の設計で 1903年から 1913年にかけて建設された、カトリックの サクレクール大聖堂であろう。現在は市立図書館となっている。その造形は、モスクに転用しても、まったく違和感がないだろうと思われる。
イタリアのルネサンス様式の 旧・オペラ座は その6年前に開業したコロニアル建築で、現在は アブデルカーデル・アルーラ地域劇場となっている。



オラン鉄道駅舎
Oran's Central Station, 1913

オラン  オラン

オラン駅は、フランスの建築家、マリウス・トゥドワール(Marius Toudoire)とアルベール・バリュ(Albert Ballu)によって設計されて、1908年に着工し、1913年に開業した。中央ホール(出札所)は八角ドームの天井(屋根)を戴き、装飾的なムカルナスのペンデンティフで支えている。ネオ・ムーア様式と言われる。トゥドワールは パリのリヨン駅も設計した。



カミュ住家
Albert Camus's Appartement in Oran

カミュ  カミュ

私の若い頃は「実存主義」の全盛期で、哲学者としては フランスの ジャン・ポール・サルトル (1905-80)、文学者としては アルジェリア生まれのフランス人で "不条理" の哲学の アルベール・カミュ (1913-60)が 最も人気があり、日本でも それぞれの全集が出ていた(人文書院と新潮社)。カミュはノーベル賞を受賞したが (1957) 、サルトルは辞退した (1964) 。
カミュの『異邦人』の舞台は アルジェだが、『ペスト』の舞台は オランの町で、オランには カミュが新婚時に住んだことのある アパルトマンがあると聞き、訪ねてみたが、すでに地元の人も カミュの名をあまり知らず、このアパルトマンの どの階に カミュが住んだのかも 分からなかった。今の若い人は、サルトルも カミュも 知らないだろうか。


トレムセン TLEMCEN


アルジェリアを代表する 古都と言えば、トレムセンである。都市は 海岸付近の低地に発達した近代的な部分と、標高100m以上の高地にある、アガディールや アル・ウバッド地区などの古都部分に分けられる。海岸付近は「北アフリカのパリ」という形容にふさわしく、フランス領だった時代の、ノートルダム大聖堂に代表されるフランス風の建物が建ち並んでいる。



大モスク (ジャマー・エル・ケビール)
Djamaâ el Kebir, 1136

大モスク  大モスク  大モスク

大モスクはムラービト朝の 1136年に、第4代スルタン、.ユースフ・ブン・ターシュフィーンよって創建された アルジェリア最古のモスクで、現在も最重要な参詣地である。広い前面広場に面しているが、威容を誇示しているわけではなく、礼拝室のキブラ壁である 2層のホワイトウォッシュされた建物が長く伸びた、拍子抜けするようなファサードである。13廊の幅広矩形の礼拝室の向こうに中庭があり、中庭の 対抗面 中央に 太い角型ミナレットが建つので、カイラワーン(チュニジア)の大モスク (シディ・ウクバ・モスク)を手本にしたモスクと言え、同じように 外観を飾り立てることを しない。長方形のプランの外郭の西側の角が斜めに削られているのは、創建時の市街地との関係だったろう。これによって、中庭は中央軸線とは 1廊分ずれている。

平面図    大モスク
 モスクの平面図          礼拝室内部
(From website "Discover Islamic Art")   (ミフラーブを見る)




シディベルハサンモスク
Djamaâ Sidi Bel Hasan, 13th c.

アーチ

トレムセンの中央広場に面した重要なモスクで、都市の博物館になっていたらしいが、この日は なぜか、中に入れなかった。



アガディールの塔シディヤークーブ廟
Minaret of Agadir, 9th c. & Sidi Yakub Tomb, 1900-10

アーチ  アーチ

8世紀の終わりに モロッコに起こったイドリース朝が イフリーキーヤ地方も支配し、イドリース1世が 今のトレムセン東部の アガディールに 大モスクの建設を命じた。そのミナレットのみが現在にまで残り、かつての栄華を伝えている。
アガディール地区には、近代になって建てられた 軍の司令官の廟が、レンガによる 廟建築の 原型のような姿を見せている。近辺には、ほかにも いくつかの 似たような墓廟がある。



シディハルウィモスク
Djamaâ Sidi Haloui, 1353

シディ・ハルウィ  シディ・ハルウィ

シディ・ハルウィ・モスクは、マリーン朝の君主アブー・イナーン・ファーリスによって、セビーリャ出身の出身の裁判官(カディー)であり、聖者と崇められたシディ・ハルウィ(お菓子の聖者の意)を祀って建設された。25メートルの高さのミナレットが特に見事で、このページのトップ にも用いた。

平面図
シディ・ハルウィ・モスクの平面図
(From website ”Discover Islamic Art")




メシュアール宮殿
Mechouar Palace, 13th c.

メシュアール  メシュアール

メシュアール宮殿は、1145年頃、ムラービト朝が創建し、1236年に成立したザイヤーン朝がこの地を都とし、本格的な宮殿として13世紀から14世紀にかけ、メシュアール(「相談の場」の意)が機能する城塞宮殿へと増改築した。私が訪ねた所は廃墟だったが、広い敷地の一部であったらしい。中心的な施設は 近年、国によって大々的に修復され、「アルハンブラ宮殿のように」美麗に整備されたらしい。(右の写真は ウェブサイトより借用)



ホテルズィアニード
Hotel Zianide 20th c. by Fernand Pouillon

プイヨン  プイヨン  プイヨン

シトー会の ル・トロネ修道院 を設計した修道士を描いた小説『粗い石 』(荒木亨訳、1973、文和書房)を書いた建築家、フェルナン・プイヨンが、 1973年に設計したホテル。外観は現代的だが、伝統的なデザインの中庭もある 快適なホテルだった。小説『粗い石 』は 日本の建築界でも大評判になり、大いに読まれた。

     Fernand Pouillon: プイヨン "Les Pierres Sauvages" 1964

 「フランスでこの僧院を有名にしたのは、ル・コルビュジエでもなく、エルヴェでもない。建築家のフェルナン・プイヨン その人である。彼は 雑草が生えるがままの、荒れ果てた この僧院を清め、実測し、これを モニュマン・イストリック(ほぼ 重要文化財の意)の指定にまで こぎつけた人である。後に ある建物の設計ミスで、実刑を受けて、マルセイユの獄中に一年間を過ごす 不幸に見舞われるのだが、この間に 書いたのが、和訳もされた、Les Pierres Sauvages( レ・ピエール・ソヴァージュ ) である。和訳では『粗い石』とされたが、Sauvages は「粗い」という意味ではなく、シトー派の戒律にある、「孤独を守る」とか、「外界と交わらない」というのが、本意である。
 ル・トロネの僧院には、実のところ「粗い」という感じが まったくないのである。その 石の単純な造形は、研ぎすまされた刃の如く 鋭敏である。残酷なまでに 洗練された、その単純な ディテールとスペイスは 冷たく、サディスティックですらある。その無装飾性と空間構成は ややもすると、現代建築の コンクリート構造の場合としばしば似ている。しかし、なぜこの僧院が 今日の花形であるのか、どうして これだけが 浮き上がるのか、という疑問が残るのである。短気を起こさず、全てを眺めれば、「プロヴァンスの三姉妹」全体が 現れてくるはずなのだ。私とて それまで、この三姉妹など 全然知らなかった。」
 ( 竹村真一郎:『白い僧院 西欧歴史建築記』1984、相模書房、p.11-12 より




新しいモスク邸宅
A New Mosque & a new Mansion, 20th c.

トレムセン  トレムセン

 どこの国でもそうだが、宗教建築は伝統的に、新興成金の住宅は 新旧折衷的に、デザイン されることが多い。日本でも、時たま 建築家が設計した「現代建築」としての新しい仏教寺院が建てられ、建築雑誌に紹介されたりするが、全国で新築、改築される寺院の大部分は伝統的なKい瓦葺き、大屋根の木造建築であり、そうしたものを専門に設計する設計事務所もあり、建設会社もある。イスラーム国においても同様で、新しいモスクの大部分は そのようにして建てられる。
 トレムセンでも そうした新しいモスクを見つけたので、中まで見せてもらった。緑色の瓦の下の3連アーチのファサードといい、斜め格子の装飾をもつ角型のミナレットといい、100年前のモスクだといわれても 信じてしまうであろうデザインである。

 トレムセンの、アル・ウバッド地区への道すがらに見た 竣工直前の邸宅も、伝統的なディテールや装飾を盛り込んだモダン建築であり、それは それなりに 興味深く見せてもらった。新興成金 (?) の建て主は、ここで快適に過ごせるだろうと思う。両者いずれでも、「創造力の欠如」ということに、沈んだ気分になるのは やむをえない。



アーチ新構法
how to make arches, 20th c.

アーチ

それに対して、アル・ウバッドへの道で見つけた 工事現場のアーチの構法は、非常に興味深いものだった。アフリカでは木材が高価なので、木による型枠を用いずに、一枚の合板をアーチ状に曲げて、これを鉄筋で支え、その上に軽い有孔レンガブロックを並べ、モルタルで接合するというものである。単純化による作業の簡易さが 図られているが、どれだけ強度を持ちうるのかは不明だとしても、いつでも 技術の進歩・発明は、意匠よりも先に進むものだと思う。


マンスーラ地区



マンスーラモスク
Djamaâ el Mansoura, 1303

マンスーラ  マンスーラ  マンスーラ

マンスーラの巨大なモスクは、モロッコのマリーン朝のスルタン、アブー・エル・ハッサン・アリーがアルジェリアやチュニジアまで支配して、1303年に建設した。かつてはその周囲に多くの庭園や宮殿、浴場や店舗街なども配されたらしいが、今は跡形なく、大モスクも廃墟となっていて、部分的な外壁と、半壊したミナレットのみが聳え立っている。ミナレットが中庭を挟んで礼拝室の正面中央に建っているのは、先述のベニ・ハンマードのモスクと同じであり、遡れば、チュニジアのカイラワーンの大モスク (シディ・ウクバ・モスク)に行き着くだろう。しかしその1階がモスクへの入口となっていて、その中央アーチが 華やかに3重に飾られるなどというのは、このマンスーラ・モスクのみで見られる。今は廃墟になっているので、このアーチ開口を通して 遠くの糸杉が眺められるというのも、大いに気に入った。

 平面図  マンスーラ
マンスーラ・モスクの平面図 (From website)と、ミナレットの壁面




市壁
City Wall of Al Mansura, 1299

マンスーラ

マンスーラの近くには トレムセンの市壁が 多く残る。特に マリーン朝の第6代君主、アブー・ユースフ・ヤークーブが 勝利のキャンプとして建設した アル・マンスーラ地区の塁壁は 壮大で、四角い櫓の塔が 立ち並んでいる。


アルウバッド地区



シディブーメディエーヌ廟
Mausoleum of Sidi Bu Mediene 14th c.

トレムセン  トレムセン

いかにも古い佇(たたず)まいの地区に、廟のほかにアル・ウバッド・モスク、マドラサ、ハンマームなどがあるが、広場もなく、全体を貫く軸線も無く、狭い曲がりくねった道に面して 建っている。マリーン朝の 14世紀半ば(1339年頃)に スルタン、アブー・アル・ハサンによって大規模な複合施設として拡張されたと言う。

トレムセン
シディ・ブー・メディエーヌ廟 複合体の配置図
(From website "Archnet")

トレムセンの西北2kmの郊外にある アル・ウバッド (El Eubbad / Al-'Ubbad) 地区は、トレムセン郊外にある歴史的遺産の地区で、丘の上の宗教施設複合体(ザーウィヤ)をなしている。 かつては村だったが、今ではトレムセン市に組み込まれている。マグリブ地方で特に崇敬された スーフィー聖者、 シディ・シュアイブ・アブー・マディヤン(Sidi Shu’ayb Abu Madyan, 1120−1197)の墓があるので、古くからの巡礼地となっていて、多くの参詣者が訪れる。フランス語ではシディ・ブーメディエーヌと言う。
彼は 1126年にセビーリャで生まれ、1198年に、ムワッヒド朝のスルタン、アブー・ユースフ・ヤークーブ・マンスールに呼ばれてマラケシュに行く途上、トレムセンで没した。
村はすでに シディ・アルアバッド(Sidi al-Abbad)の墓によって巡礼地となっていたが、シディ・アブー・マディヤンの墓が 12世紀末に建てられるに及んで 一層重要な聖地になった。
モスクの東側には、浄めの水場やトイレ、ハンマームがあり、今も機能している。
廟の中庭は入口よりより数段下ったレベルにあり、メノウの円柱の馬蹄形アーチのアーケードで囲まれている。廟のドーム天井はタイル屋根で四角形に覆われている。

この複合施設は、マグリブにおけるマリーン朝建築の特に優れた例であり、アンダルシア・ムーア様式の建築の至宝とされている。精巧な装飾が施された高さ7メートルの記念碑的な門、漆喰の彫刻、ムカルナス(鍾乳石飾り)のドーム、杉材に彫刻された扉などが特徴。



アルウバッドモスク
Djamaâ el Eubad, 1339

トレムセン  トレムセン  トレムセン

特にアル・ウバッド・モスクは、マリーン朝の建築の代表的作品のひとつと見なされている。1339年に スルタン、アブ−・エル・ハセヌによって建立された。正面入り口は7メートルの高さがあり、華麗なムカルナス・ドーム天井を戴く半外部のエントランス・ホールの階段を上がって木製の彫刻された古式ドアを通って中庭に至る、劇的な構成をしている。
中央に浄めの泉水がある中庭を囲むギャラリーには 二つの、女子用 中2階スペースがある。
角型のミナレットはレンガ造で、頂部の扱いは マラケシュのクトゥビーヤの塔に似ている。

トレムセン  トレムセン


モスクの後部に、裕福で信心深かった商人で法学者だった アブー・アルハサン・アリー・アルマリニ(Abu Ali Hassan al-Mani'i)が築いた 11世紀の城郭の遺跡がある。

トレムセン  トレムセン



ムザッブの谷 MZAB Valley


広大なサハラ砂漠の中、首都アルジェの南方約 600キロの地に、ベルベル系のムザッブ人の オアシス集落群がある。彼らはイスラーム教の「イバード派」を形成し、厳格な宗派であることから「イスラーム教徒の清教徒」と形容される。多くの町が集まるのが標高 300mから 800mの「ムザッブの谷」で、中心の町は ガルダイアである。各地を転々としたムザブ人が 11世紀頃、ガルダイアを中心に エル・アットゥーフ、ベニ・イスゲン、ブヌラ、メリカの町を築いた。5つの町の中でも 特に有名なのが 聖都 ベニ・イスゲンであり、他にメリカと エル・アットゥーフがよく知られ、これら5つの町が「ムザッブの谷」として、1982年に ユネスコ世界遺産に登録されている。

地図
ムザッブの地図(Google Maps 利用)




ガルダイア
Ghardaia, since 11th c.

ガルダイア  ガルダイア
ガルダイアの都市の全景

ムザッブの谷の中心都市、ガルダイアの市街地には10万人以上の住民が住んでいて、行政機関や商業施設が多く集まるので、町と言うよりは 小都市と言える。中央広場には 毎日、市が立つ。

ガルダイア  ガルダイア  ガルダイア
ガルダイアの中央広場と市街、ミナレット

どの町も モスクを中心に形づくられ、町の防御上の望楼を兼ねるミナレットが高くそびえて、町のシンボルとなっている。モスクもミナレットも 日干しレンガで造られ、土のプラスターを塗られているだけなので、近くに寄れば、特に 建築的に見るべきものは無い。

ガルダイア  ガルダイア
老舗のホテル、オテル・ロスティメード




メリカ
Melika since c. 1500

メリカ  メリカ

メリカには、イバード派の シディ・アイサと その一族の墓があり、その素朴な造形が 白く塗られて 目を引く。




ベニイスゲン
Beni Isugen c.1500

  ベニ・イスゲン
聖都 ベニ・イスゲンの全景

ベニ・イスゲンは、「ムザッブの谷」で 最も保存状態の良い 城塞都市(クサール)である。町の名はベルベル語で「信仰を守る者たちの息子」を意味すると言う。ムザブの谷の中でも 特に信仰心の厚い町として知られる。

ベニ・イスゲン  ベニ・イスゲン
ベニ・イスゲンンの市街とモスク




エルアットゥーフ
El Atteuf

アットゥーフ  アットゥーフ  アットゥーフ
エル・アットゥーフの町の入口広場と市街

エル・アットゥーフは 1013年に、ムザッブの谷に 最初に設立された町である。エル・アットゥーフ にあるシディ・イブラヒーム・モスクは 白塗りされた 土のモスクで、ル・コルビュジエは このモスクの内外にインスピレーションを得て、ロンシャンの聖堂 を設計したという。

アットゥーフ  アットゥーフ
エル・アットゥーフのシディ・イブラヒーム・モスク








アルジェリア建築を知るための本

● 専門家も一般の人も楽しめる、アルジェリア建築の
ヴィジュアルな本を紹介しておきます。




トレムセン

TLEMCEN, [Les Villes d’Art Celebres]
(トレムセン、美術館都市)

Written by Georges Marçais, 1950, Librairie Renouard, Paris, 26cm-104pp. antique 3,600yen.  
アルジェリアの古都 トレムセンの都市と建築遺産を ていねいに概説する。モノクロ写真 48ページと若干の挿図をいれる。


ムザッブ

LE M’ZAB, UNE LEÇON D’ARCHITECTURE
[La Bibliothèque Arabe Collections]

(ムザッブにおける 建築の探求)

Written by André Ravéreau, 1981, Sindbad, Paris, 23 x 20.5cm-280pp.
5,000yen.  
アルジェリアのムザッブ地方における 土の建築の探求と分析。 カラーを含む豊富な写真と フランス人建築家の著者によるスケッチ多数。 本文仏文。


アルジェのカスバ

LA CASBAH D’ALGER ET LE SITE CRÉA LA VILLE
[La Bibliothèque Arabe Collections]

(アルジェのカスバ)

Written by André Ravéreau, 1989, Sindbad, Paris, 23 x 20.5cm-230pp. 5,000yen. 
アルジェリアの首都アルジェのカスバ(旧市街)の建築的探求と分析。 著者のアンドレ・ラヴェロは アフリカで設計と研究、保存を続けたフランス人建築家。 本文仏文。 同著者による前掲書の姉妹編。


アルジェの戦い
アルジェの戦い (映画)
( LA BATAILLE d'ALGER )

これは本ではなく、アルジェリアの独立戦争を描いた映画の DVD
1966年, イタリア + アルジェリア,モノクロ・スタンダード
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ,主演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン
原案:ヤセフ・サーディ,音楽:エンニオ・モリコーネ
惹句:「アルジェリア 1200万人のエネルギー爆発!」
   「流血の歴史的瞬間を描く 空前のドキュメント!」

(2026 /02/ 01 )


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