ドア
ARCHITECTURE of TUNISIA

第1章
チュニジアの建築

神谷武夫


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チュニジアという国

 チュニジア は アラビア語ではトゥーニスと言う共和国である。ギリシア語やラテン語では 国名に「イア」をつけて呼んだので、イタリアやイスパニア(スペイン)などと同じように、チュニジアと呼ばれた。お隣のアルジェリアも同様で、それぞれの首都は チュニスと アルジェと、覚えやすい。アラブによって征服されたチュニジアとアルジェリア東部は 、中世には「イフリーキーヤ」と呼ばれた。ラテン語のアフリカに由来するアラビア語である。
 9世紀にアグラブ朝が支配すると、ローマ時代のカルタゴに代わって カイラワーンの都を首都とした。10世紀〜12世紀には この地で興った シーア派のファーティマ朝が対抗カリフを立てて、スンナ派のアッバース朝と対立した。13世紀から16世紀に ベルベル人のハフス朝が支配すると チュニスを首都としたので、後に そこから チュニジアという国名が できた。
 フランスやイギリスによる植民地支配から アフリカ諸国が独立する先駆けは、1956年の チュニジアとモロッコの 同年の独立であったが、モロッコが王国となったのに対して、チュニジアは最初(1956年3月)は王国であったが、翌年(1957年7月)に無血クーデターによって 大統領制の共和国となった(王国の存続期間は約 16カ月だった)。

地図
チュニジアの位置図

 チュニジアはマグリブ諸国の中では一番小さく、特に隣の広大なアルジェリアに比べると、国土面積は その 7パーセントぐらいである。人口は、東京都のそれより少ない 1,200万人くらいである。しかしながら、アルジェリアが 国土の大半がサハラ砂漠であるのに対して、チュニジアは 国土の半分が地中海に面した肥沃な土地なので、古来 多くの都市が栄え、歴史的建造物も 数多い。とりわけ古都の カイラワーンは、その宝庫と言え、日本の奈良にあたる。私は 1991年と2008年に訪れたが、いずれも アグラブ朝の貯水池の すぐそばにある コンチネンタル・ホテルを定宿として、快適に過ごすことができた。

地図
チュニジアの イスラーム建築地図

 近代には、何度も投獄されたのち 1956年にフランスからの独立を達成させた大政治家、ハビーブ・ブルギバ (19003-2000) が チュニジア共和国の 初代大統領となり、30年にわたる長期政権を維持した。その生前の 1963年に、彼の名を冠した大モスクと、ブルギバ家の廟が 故郷のモナスティールに建てられた。彼は西欧化を進めたことからも、トルコの ケマル・アタチュルクに比肩される。

ガリアーニ
ガリアーニ・ザーウィヤの中庭(カイラワーン)

 2010年に始まった 中東における「アラブの春」は、チュニジアの「ジャスミン革命」をきっかけに、エジプト、リビアでも市民革命が成就し、独裁政権が倒された。私が 初めてチュニジアに行ったのは 1991年の3月のことなので、同年の「湾岸戦争」の前でもあり、紛争に巻き込まれることなく、古都のカイラワーンをはじめとして、平穏に旅行することが できた。

 チュニジアの北部には、ローマ時代の広大な『ドゥッガの遺跡』があるが、『マグリブの建築』の 他の章と同じく、ローマ遺跡 およびキリスト教関係の建物は、本稿では扱わない。

ドゥッガ
ドゥッガの遺跡 地図(現地のパンフレット)



チュニス TUNIS


古代フェニキア人によって建設されたチュニスの町は、古代ローマによるカルタゴの近郊に位置し、古代にはチェニェスと呼ばれていた。 7世紀にはウマイヤ朝のイスラーム帝国がイフリーキーヤを支配して 首都 カイラワーンを建設したが、チュニスはアラブ人によって発展させられた。9世紀にはアグラブ朝が起こり、チュニスに港やザイトゥーナ・モスクを建設して、カイラワーンに次ぐ都会とした。 12世紀には 西方から侵攻したモロッコのムワッヒド朝の支配を受けたが、ハフス朝時代には首都となった。フランスによるチュニジア侵攻の結果、1881年にフランスの保護領となった。迷路のようなメディナ(旧市街)と、フランス時代の整然とした新市街とが 激しい対照をなす。

チュニス  チュニス
チュニスの カスバ広場と、イブン・ハルドゥーン像

地図

チュニスの 混沌としたメディナ(旧市街、黄)と、
フランスによる 整然とした新市街(赤)との対比、1893年の地図
(From "Histoire de l'Architecture en Tunisie" 2005, Agence MIM)





チュニスメディナ
MEDINA de TUNIS

チュニス  チュニス  チュニスの メディナ
チュニスの メディナのスーク

 チュニスのメディナは 7世紀にアラブにより建設が始まり、13世紀にイスラム都市として完成し、栄華を極めた。大モスク(ザイトゥーナ・モスク)周辺には 高級商品のスーク(市場)が形成され、なめし革業者や鍛冶屋のスークは、当時の郊外にある。フランス門と大モスクを結ぶメインストリート(ジャマア・アッジトゥーナ通りが 最も繁華なスークをなす。チュニスのメディナは 1979年に、ユネスコ世界遺産に登録された。それを機会に出版された フランスのデザイナーによる チュニスのメディナの 立体絵本 があり、見て楽しい。



大モスク (ザイトゥーナモスク)
Al Zaytuna Mosque, 9th, 10th, 15th c.

チュニス  チュニス

 チュニス    平面図 
ザイトゥーナ・モスクの平面図 (From website "ResearchGate")

 チュニスのメディナの中央に建つ大モスクは ザイトゥーナ・モスクと呼ばれるが、それ以前、最初は 698年の着工なので、カイラワーンの大モスク(シディ・ウクバ・モスク)に次ぐ、チュニジアで2番目に古いモスクである。アグラブ朝時代の9世紀に アブー・イブラーヒーム・アフマドが再建した時には、カイラワーンの大モスクを 手本にしたと言われる。ザイトゥーナとは オリーブの意だが、名前の由来は明らかでない。中世の旅行家のイブン・バットゥータ(1304-69)は、ザイトゥーナ・モスクには ザイトゥーナ(オリーブの木)が無いと 皮肉っていた と記憶している。
 規模は大きく、敷地面積が 5,000uに及ぶ。異教徒は 礼拝室に立ち入れないので 見ることが出来ないが、列柱ホールを構成する 184本の円柱の大部分は、カルタゴの遺跡からの転用だと言う。中庭の回廊からの ミナレットの眺めは、チュニジア一番の名勝と言えるかもしれない。



カスバモスクユーセフデイモスク
Kasbah Mosque, 1235 & Yussef Dey Mosque, 1616

  チュニス  平面図
カスバ・モスクと その平面図(From website "Mosqpedia")

 チュニス旧市街(メディナ)のカスバ門から出ると カスバ広場があり、その傍らに カスバ・モスクがある。ハフス朝の創始者、アブー・ザカリヤ・ヤフヤによって 1235年に 金曜モスクとして建てられた 古拙なモスクだが、きれいに修復された。当時の城塞(カスバ)の中心モスクだったので、こう呼ばれる。北アフリカ独特の角型ミナレットは モロッコ風の菱形模様で飾られ、ザイトゥーナ・モスクのミナレットの モデルとなったという。建築家の名は、アリー・ブン・ムハンマド・ブン・カーシムと伝えられる。

チュニス
ユーセフ・デイ・モスク

 カスバ・モスクと ザイトゥーナ・モスクの中間に建つ ユーセフ・デイ・モスクは それとは対照的に、チュニスで建てられた最初の 八角形プランのミナレットを備えている。ハフス朝のユーセフ王によって建てられた。下部は 単純な石造だが、上部の 木製屋根のあるバルコニーは、オスマン風に 華々しく飾られている。頂部には 緑のタイルで覆われた、ピラミッド状の屋根がある。最初のオスマン様式のモスクであるが、アンダルシアの建築家、イブン・ガリーブの設計という。



ハムーダパシャモスク
Hamuda Pasha Mosque, 1655

チュニス  チュニス
ハム-ダ・パシャ・モスクと廟

 ハムーダ・パシャ・モスクは ザイトゥーナ・モスクのすぐ近くにあり、チュニスのベイである ハムーダ・ベイ・アル・ムラディによって 1655年に建てられた。7身廊の礼拝室は3方をギャラリーに囲まれ、その外側3方に外庭が廻って、その一画に 彼の正方形の廟が建っている。パシャというのは、高官への尊称である。廟は ユースフ・デイ・モスクの廟と よく似た形式で、 パシャとその一族の墓がある、道路に面した そのファサードは、オスマン朝時代の 華麗な装飾法を よく見せてくれる。ミナレットは 下部がスレンダーな八角形で、上部には、これまたユースフ・デイ・モスクのミナレットに似た、豊かな造形のバルコニーが 張り出している。



スリマニア学院 (マドラサ)
Slimaniya Madrasa, 1754

チュニス  チュニス
スリマニア学院の入口と中庭

 スリマニア学院は、1754年に アブー・ハサン・アリー1世が、毒殺された息子、スレイマンを追悼して建てたマドラサで、ザイトゥーナ・モスクのすぐ近くにある。境内が 道路レベルよりも高いので、階段を上がるエントランス部の作りが 一風変わった魅力を持っていることで知られる。アブー・アル・ハサンは このほかに3つのマドラサを建立した。



アル・ベイ廟
Turbe al-Bey, 18th c.

チュニス  チュニス
アル ベイ廟、中庭と1、2の墓室
(From website "Discover slamic Art")

 アル ベイ廟は メディナの南部にあり、オスマン帝国に支配された時代のチュニジアの王(ベイ)たちの廟で、チュルベ・アル・ベイと呼ばれる。チュルベとはトルコ語で墓や廟、またその他の施設との複合体を言う。チュニジア最大の貴顕の墓所で、中庭を囲む8棟の建物の中に、フサイン朝の ベイやデイと呼ばれる地方の太守 および その家族や大臣の墓が 整然と並んでいる。アリー・パシャ2世 (1759-82) の時代に建設された。各棟のドーム屋根は、緑色の うろこ状タイルで覆われている。長円形のドームもある。

平面図
アル ベイ廟の平面図(From website "Discover slamic Art")
各棟の番号は、筆者が便宜上 付けたもの




ダールベンアブダラー(住居)
Dar Ben Abdallah, 1796

チュニス  チュニス
ダール・ベン・アブダラー

 ダール (Dar) とは「家」や「住居」、「館」を意味するアラビア語で、イスラーム圏で最も広く用いられる言葉で、そこから、ある領域全体をさす名前にも使われることがある。イスラームが領土とした全体を「ダール・アル・イスラーム Dâr al-Islâm」と言うがごときである。チュニスで最もよく保存された、宮殿のような大邸宅は メディナの南部に位置する「ダール・ベン・アブダラー」で、モハメド・エル・ブラダイによって1796年に建設された。とりわけ 大噴水のある、カララ産大理石で作られた 広い中庭は、目を奪う。現在は 19世紀のチュニスの伝統的な日常生活を伝える 民俗博物館として用いられている。



ダールオスマン (邸宅)
Dar Othman, 17thc.

チュニス  チュニス  チュニス
ダール・オスマンの玄関と中庭

 ダール・オスマンは、ダール・ベン・アブダラーの すぐ北にある保存邸宅で、1593年から1610年に君臨したチュニスのデイであるオスマン・デイ ( Othman Dey, 1594-1610) によって 17世紀初頭に 建てられた。この大邸宅の、道路に面したファサードは小さいものの、白大理石で見事に飾られ、そこを入ったエントランス・ホールは 色石とモザイク・タイルで華々しく装飾されている。現在は この邸宅も 博物館として 公開されている。

平面図
ダール・オスマン 平面図
(From Museum with no Frontiers " Ifriqiya" 2002, Electa)



バルドー地区 BARDO



バルドー博物館
Bardo Museum, 1956 open

バルドー  バルドー
バルドー博物館の入口と、モザイク展示室の例

 バルドーはチュニス市内だが、メディナの西方5キロメートルのところに、 名だたる バルドー博物館がある。展示品は、ローマ時代の各地の遺跡から集めて 保存修復した モザイク画を主とするが、建物も オスマン帝国時代に チュニジアを統治していたハフス朝のベイの 大規模な宮殿の連なりで、魅力的な空間や装飾が 次から次へと出てくる。しかし 美術館の常として、三脚使用の撮影は できないし、観光客が多いので、あまり写真が撮れなかった。

バルドー  バルドー
バルドー博物館の中庭と ホール

バルドー  バルドー  バルドー
ヴェルギリウスの間、カルタゴの間、スースの間のドーム天井

 バルドー博物館は、1888年に創設された アフリカ最古の博物館で、最初は13世紀の宮殿として建てられ、19世紀にはベグの宮殿として使われた。
 2015年の3月18日に「カリフ国」(ISIL)の戦士と見られる2人によって、観光客に対するテロ(銃乱射事件)が起き、22人の死者が出たが、その内3名が 日本人だった。



古住居ドア
Tunisian door, 20th c.

バルドー

 バルドーの、とある古住居のドアは、特別に重要なわけではないが、チュニジアの伝統的な入口周りの 典型的なデザインを見せている。 右下の 1/4が、通用口としての「くぐり戸」になっていることが多い。内陸部では黄色、沿岸部では青色が使われると言う。



カイラワーン QAIRAWAN (Kairouan)


 カイラワーンは 首都チュニスの南 160キロメートルにある古都で、現在の人口は 20万人弱である 。カイラワーンという名前は「キャンプ」「キャラバン」「休憩場所」を意味するアラビア語の Kairuwan、ペルシア語の Karavan(カールヴァーン)に由来すると言う。
 中東から来たアラブ人は 670年にはチュニジアを征服し、670〜675年に 北アフリカ支配の拠点都市(ミスル)としての カイラワーンを建設した。中世には、イスラム世界で マッカ、マディーナに次ぐ 第3の聖都とみなされたとも言う。
 カイラワーンはイフリーキーヤ地方の首都となったが、11世紀半ばに エジプトのファーティマ朝によって徹底的に破壊され、再起不能となった。1881年にフランス軍は首都チュニスをはじめとしてカイラワーンも占領し、チュニジアを保護領にしたので、カイラワーンの宗教色は 弱まって行った。都市はチュニスほどではないが、迷路のような旧市街(メディナ)と、フランスによる整然とした 新市街とが 対照をなす。



大モスク (シディ・ウクバ・モスク)

カイラワーン

● チュニジアで 最も重要な建築作品と言うべき
カイラワーンの大モスク(シディ・ウクバ・モスク)」は、
『イスラーム建築の名作』のサイトで 詳しく扱っているので、
ここをクリック して ご覧ください。





チュニス門
Bab Tunis (Tunis Gate) in Qairawan, 17th c.

門
堂々たる チュニス門

カイラワーンのチュニス門は、メディナの西側のチュニス広場に面した市門。塁壁はズィール朝の 761年以来のものだが、チュニス門は 17世紀のフサイン朝の建設と言われる。2本の大円柱の上に馬蹄形アーチが架かり、パラペットには 大柄な矢狭間が立ち並んでいる。



アグラブ朝 円形貯水池
Agrab Basins, 9th c.

貯水池  貯水池
アグラブ朝の円形貯水池
こうした貯水池が、かつては 14も あったという 。

7世紀に 首都カイラワーンを建設した土地は乾燥地だったので、都市に給水するための貯水池が いくつも建設された。貯水池は円形で、大小のペアにされた。小型のものが浄水用で、西方36キロの丘にあるワーディー・アッリールの谷川から引かれた水を 濾過してから 大型の方に流し移した。周壁のデザインにも円形を多用して、その巨大さに柔らかみを与え、類を見ない造形にしている。現在も4つが残り、修復されて、市民に 水を供給している。かつては 大プールの中央にパビリオンがあり、君主たちが そこで凉をとって楽しんだという。

貯水池

アグラブ朝の円形貯水池 航空写真(Google Maps より)
この右下(欄外)に、定宿とした オテル・コンチネンタルがある。
1991年に パンション・コンプレート(三食付き )で 4,800円だった。





三つ扉のモスク
Mosque of the three gates (Doors) , 866

3ドア  3ドア

アンダルシアの ムハンマド・ブン・ハイルーン・アルマーフリが建てた「三つ扉のモスク」は 小規模ながら、イスラーム美術の最も古い 浮彫り彫刻と装飾が施されたファサードを持つことで名高い。アッバース朝から独立した アグラブ朝時代 (800-909) の装飾様式をも示している。ファサードに、古代の建物から転用した円柱と柱頭で支えられた、3連の馬蹄形アーチがあることから、この名で呼ばれる。アーチは、内部のものも含め、すべて馬蹄形をしている。3連アーチの上のスパンドレルは ブドウの葉の彫刻で飾られ、その上には 4つの石の帯があり、下の帯には、モスクがハフス朝時代に修復されたことを示すクーフィー文字の碑文がある。さらに2つのカリグラフィの帯があり、碑文にはクルアーンからの数節が刻まれている。
 内部の礼拝室は 15世紀の再建で、9m × 8.6m の広さの、キブラ壁に平行な3廊式の小モスクである。

3ドア
三つ扉のモスクの内部




シディサハブザーウィヤ
Sidi Sahab Zawiya, 7th, 17th c.

シディ・サハブ  シディ・サハブ

 メディナの西方1.5キロほどのところに、カイラワーンで最も尊崇された聖者、アブー・ザマ・ベラウィの廟とモスクとマドラサ、それにハンマームや 巡礼宿などの大規模な複合体がある。彼は預言者・ムハンマドの友人(サハブ)だったことから、ここは「シディ・サハブ・ザーウィヤ 」と呼ばれる。「シディ」とは 聖人などに付けられる尊称で、聖者廟を中心とする複合体は「ザーウィヤ」と名付けられることが多い。
 もともとは7世紀に建てられた小廟だったが、オスマン朝支配から独立したムラード朝 (1613-1705) の時代に大規模な施設となり、ミナレットも建てられた。まず ベイの ハムーダ・パシャが ザーウィヤを建て直し、マドラサを増設した。彼の孫で ベイになった ムハンマド・ブン・ムラードが 回廊中庭を完成させ、廟のドーム天井なども改修した。

シディ・サハブ  シディ・サハブ  シディ・サハブ
シディ・サハブ・ザーウィヤ

シディ・サハブ  シディ・サハブ
シディ・サハブ・ザーウィヤの中庭と回廊

 施設は何次にもわたって拡張、改修されたので、全体計画は存在せず、軸線も無く、訪問者は斜めに 斜めにと 導かれる。逆にそのことが、意外性と驚きに富んだ体験を 味あわせてくれて、実に面白い。特にアプローチが興味深く、外周壁を入ると広大な、しかし平凡な 回廊中庭があり、隅のミナレットの横のエントランスから 長い参道のような部屋を通って エントランス・ホールに至り、そこを斜めに抜けると、最も美麗な 回廊中庭に出る。回廊の内側の壁面は 全面的に、繊細なモザイクで飾られて 壮観である。
 アブー・ザマ・ベラウィは ムハンマドの理髪師だったと言われ、彼は 預言者の髭3本を、常に持ち歩いていたという。奥の中庭の左の回廊に面する最奥の室に、大モスク(シディ・ウクバ・モスク)を設計したという 建築家の 墓が祀られている。

シディ・サハブ
大モスクを設計した建築家の 墓




シディガリアーニマドラサザーウィヤ
Madrasa and Zawiya of Sidi Abid al-Ghariani, 14th, 17th c.

ガリアーニ  ガリアーニ

 シディ・アビド・アル・ガリアーニのザーウィヤは、何度も増築や改修をされたので、全体のプランは不整形であり、建設過程もはっきりしないが、おおむね 14世紀に建設されたと考えられる。ザーウィアというのは、聖人の廟を主とする 宗教的複合施設を言う。 建設者は法官のアブー・アブダッラー・ムハンマド・アル・ジャディーディだったが、彼は マッカ巡礼中の1384年に没し、マドラサでの教育は 彼のリビア時代の弟子のアブー・サミール・ウバイヤド・アル・ガリアーニによって引き継がれたので、ザーウィヤは 彼の名で呼ばれるようになった。シディ・ガリアーニは ムラービト朝のスーフィーで、1402年頃に世を去った。

平面図
ガリアーニのザーウィヤ 平面図 (From website "Discover Islmaic Art")

 シディ・アビド・アル・ガリアーニのザーウィヤが現在の姿になったのは、17世紀の改修、増築によってだと考えられている。エントランス・ホールは、カイラワーンの伝統住居によく見られるような、2度曲がって中に行くような構成で、その壁面は タイルとスタッコで くまなく、華やかに飾られている。
 ここを抜けると、この建物の 見せ場である 実に端正な中庭があり、四方の回廊の3連アーチは 白黒だんだらの馬蹄形アーチであり、床には大理石で幾何学的な図形が描かれている。すべてが見事なプロポーションと調和をなしているが、諸国の イスラーム建築を見なれた目には 不思議なことに、中庭の中心に 水盤や噴泉が無い。もちろん緑も無い。日本人の「庭」感覚とは ずいぶんと違っている。重要なのは、あくまでも「幾何学」である。

ガリアーニ  ガリャーニ
ガリアーニのザーウィヤ、メインの中庭と墓室の天井

 この奥にキブラ壁と並行な3廊式の礼拝室(小モスク)があり、2列のアーケードは3連アーチから成る。中庭の東側には廟室があり、シディ・アビド・アル・ガリアーニと、ハフス朝のスルタンだった ムーライ・ハッサン (r. 1525-43) の墓が並んでいる。そこの木造天井は、豪華な金箔の折り上げ天井をなす。この奥にマドラサがあり、そこにも 先ほどと同様な 正方形の回廊中庭がある。



シディアモールアッバダザーウィヤ
Sidi Amor Abbada Zawiya, 1872

アモール  アモール
シディ・アモ-ル・アッバダのザーウィヤ

 シディ・アモール・アッバダのザーウィヤは、7つの白い、リブ付きのドームが並ぶことで目を引く。 このザーウイアは、予言の才能を持つ地元の鍛冶屋、シディ・アモール・アッバダの廟として 1860年に建てられた。そうした聖者や指導者は、マグリブでは マラブー(Marabout)と呼ばれる。彼は、カイラワーンの都市を大地に固定するという 巨大な錨を製造した(現在は殉教者広場の北に立っている)とされる。現在、ここは 謎に満ちた彼の、巨大で 非機能的な制作物群を展示する博物館になっている。



ビルバルータファーティマの手
Bir Barouta (Well)17th c.

井戸  バルドー
ビール・バルータ(井戸) と、ファーティマの手(ドア・ノッカー)

 ビル・バルータというのは、バルータの井戸 という意味だが、 ここにつながれたラクダが 円を描いて歩き、水車(ノリア)をまわして水をくみ上げる というだけの、17世紀からの施設である。井戸自体は カイラワーン最古で、8世紀末まで遡ると言う。この井戸が 聖地マッカ(メッカ)の、カーバ神殿の脇の 聖なるザムザムの泉と 地下でつながっている という伝承があるので、マッカ巡礼が困難な人々が その代替として、ここに お参りして、この聖水を飲むのである。このドーム屋根の建物が、建築的に優れているわけではない。

 イスラーム世界では、玄関ドアのノッカーを 右手の手のひらの形にして、邪視(悪意ある視線)から身を守り、幸運をもたらすシンボル(ハムサ)とするのを好んだ。ハムサとは数字の「5」を意味し、手の5本指を指している。ドアノッカーに限らず、この護符を「ファーティマの手」と呼んだ。ファーティマとは、預言者ムハンマドの娘で、正統カリフ・アリーの妻である。ユダヤ教では、これを「ミリアムの手」と呼ぶ。ミリアムとは、モーセの姉である。



カイラワーンスーク
Souk in QAIRAWAN

ドア  カイラワーン
スークの民家の扉と、商店天井

 カイラワーンのメディナにも多くのスークがあり、チュニスのスークよりも古いものが多く、落ち着いた雰囲気がある。ここを歩いていると、様々な面白いものや 珍しい建物にお目にかかる。インテリアの写真など 気軽に撮らせてもらえる。



スース SOUSSE


 スースは チュニジア第3の都市で、風光明媚なことから「サヘルの真珠」と形容される、人口約 43万の港町である。前9世紀ごろにフェニキア人によって建設された ハドルメントゥムを起源とし、7世紀にチュニジアを征服した アラブ人のイスラム軍が この都市を「スーサ(Susa)」と改名したが、その後すぐに アグラブ朝の主要港となった。18世紀には ヴェネツィア共和国とフランスに征服されて、「スース(Sousse)」というフランス風の名となった。



メディナカスバ
Medina(Casbah)9th c.

メディナ  メディナ
スースのメディナの全景と、カスバの城壁

市壁に囲まれた旧市街(メディナ)は、ユネスコ世界遺産に登録されている。メディナの南西隅の丘に、 城壁に囲まれたカスバ(城塞)があり、正反対の北東隅に 大モスクとリバートがある。メディナの中には、男子用のモスクが 12と 女子用のモスクも 12、あわせて 24のモスクがある。

メディナ  メディナ
スースのメディナの、通りとスーク




スースリバート
Ribat, 8th c.

メディナ  メディナ
スースのリバートの、正面と、見下ろし

キリスト教の修道院にも似たイスラームの修道施設を、修道場と呼ぶ。西ヨーロッパの修道院が くっきりとした建築的形式を獲得したのに比べると、イスラームの修道場は それほど明確な像を結ばず、時代により 地域により、さまざまな形をとった。修道場の起源と考えられるのは リバートである。イスラームの大征服時代に、征服地を統治するための 軍営都市(ミスル)が建設され、前線には 信仰の戦士が異教徒との聖戦(ジハード)を行った。こうした砦を 北アフリカでは リバートと呼び、ローマの 駐屯都市(カステルム)に倣って、半円形の櫓を並べる 強固な壁で囲った 中庭型の建物とした。一部は、隊商が休憩や商売、防衛を行うキャラバンサライとして利用されもした。

平面図
スースの リバートの 平面図
(From Andrew Petersen "Dictionary of Islamic Architecture" 1996)

 スースのリバートは、8世紀末にイスラーム軍による イフリーキーヤ地方征服の拠点として、ほとんど装飾の無い、質実剛健に造られた。上記の「ローマの 駐屯都市(カステルム)に倣った、半円形の櫓を並べる 強固な壁で囲った 中庭型の建物」である。修道士たちは 外周に並ぶ個室で 瞑想にふけり、クルアーンを学ぶとともに、聖戦(ジハード)のためには、勇敢な戦士となるのだった。2階にある礼拝室は 銃眼窓も備えている。

メディナ  メディナ  メディナ
スースのリバートの 中庭と内部




スース大モスク
Great Mosque, 851

大モスク   大モスク
大モスクの外観と中庭

 大モスクの建設は、アッバース朝支配下の アグラブ朝時代の 851年に、アブー・アルアッバース・ムハンマド・アルアグラビによってなされた。初期のイスラーム建築作品として重要である。あまり飾り気のない 禁欲的な建物だと言える。通常 大モスクは メディナの中央部に建てられたが、スースの大モスクは メディナの北端近く、リバートのそばに建てられたのは 異例である。モスクは その後何世紀にもわたって 何度も拡張された。当初 ここにはミナレットが無かったので、隣接するリバートの 物見党から 礼拝の呼びかけをしたのではないか と推測されている。
 敷地は不整形なので、中央に中庭のある整形のモスクを配し、東西の両脇を ジヤーダ(外庭)にしている。

平面図 大モスク
大モスクの 平面図と、鳥瞰写真
(From Creswell: "Early Muslim Architecture" 1989)

大モスク  大モスク
大モスクの礼拝室 内部



カラトアルクッバ
Kalat al Kubba,11th c.

ザーウィヤ  ザーウィヤ
カラト・アル・クッバ

 カラト・アル・クッバ というのは「ドームの城」という意味だが、もとは 11世紀末に建てられた フンドゥク(キャラバンサライ)である。アフリカで唯一の ジグザグの リブ付きドームが 非常に目立つことから こう呼ばれるようになった。その内側のリブ付きドーム天井も見事であり、ファサードのアーチも特異である(周囲の土地が高くなったので、下部は地下に沈んでしまった)。鬼才の意欲的な建築家が 手がけたのであろう。現在は民俗博物館に転用されている。



ザッカクモスクザーウィヤ
Zakkak Mosque & Zaouia (Kubba) 13th, 17th c.

ザーウィヤ  ザーウィヤ
ザッカク・モスクのミナレット

 ザッカク・ザーウイアはオスマン時代のもので、モスク、マドラサ、廟の複合体である。13世紀の、尊崇されたスーフィーの聖人で 宗教学者でもあった シディ・アリー・ ザッカクによって設立された。絨毯商人の店などが並ぶ 狭い通りに ひっそりと佇むこの施設は、17 世紀の表現主義風の八角形のミナレットが目立つ のに比して、ファサードは簡素なので 見失われて しまいがちである。入口の碑文には、後援者の名前と 建設年月日が記されている。八角形のミナレットは、実に繊細で 変化にとんだ、石彫とタイルの装飾を施されていて、類例が思い浮かばない。それでいて 装飾過多という風ではない、スッキリした形をしている。聖人の墓は 大きな白いドーム屋根に覆われている。



モナスティール MONASTIR


 モナスティールは前 960年にフェニキア人によって始められた町で、ローマ時代には ルスピナ (Ruspina) と呼ばれた。中世に スースと並ぶ大リバートが造られ、チュニジア防衛の一大拠点となった。モナスティール出身の ブルギバが長く大統領を勤めていた時代に、都市の近代化と美化が図られ、田舎の小都市から 面目を一新して リゾート都市となった。



モナスティールリバート
Ribat, 796, 11th c.

リバート
モナスティールのリバ-ト 鳥瞰

 モナスティールのリバートは 796年に ハルテマ・ブン・アーユンによって建てられ、その後何回か 増築がなされてきた 要塞修道場で、スースのリバートと並んで 規模が大きく、保存もよい(もっとも かなりな部分は 後世に増築されたものであるが)。最終的に2つの中庭をもつ4棟の建物となったので、あたかも2つのリバートが 並んでいるように見える。大きい方は、今は 博物館になっているので、自由に歩き回れる。中世のイスラームの要塞が どんなものであったか、よく解る。

リバート  大モスク
リバ-トの入口と中庭




モナスティール大モスク
Great Mosque, 9th c.

大モスク
モナスティールの 大モスク 鳥瞰

 リバートの南隣りにある大モスクは 中庭が無く、礼拝室とミナレットから成る小規模なモスクである。風光明媚な海辺に面した、単純な長方形プランの、愛らしいモスクと感じられた。9世紀にさかのぼる最初の段階では、礼拝室はドーム天井で覆われていたらしい。 11世紀に 南東に拡大され、ミフラーブの発展も始まった。ズィール朝時代のモチーフで飾られたミフラーブは、リブ付のスキンチで支えられ、クーフィー書体の碑文と 花のモールディングで飾られている。 ハフス朝時代に 正方形のミナレットが建設され、北西部に2つの身廊を追加するなど、拡張工事がなされた。モスクの完成は 18 世紀で、北側に7連アーチの優美なギャラリーが増設されたファサードは、スペインのプレロマンの聖堂を思わせる。ドーム屋根を持たない大モスクは、中世のイフリーキーヤでは かなりまれである。



ハビーブ・ブルギバ廟
Bourguiba Mosque, 1963

ブルギバ  ブルギバ
ハビーブ・ブルギバ廟、鳥瞰と正面

これは「大モスク」よりも はるかに立派なモスクに見えるが、フランスからの独立を達成させた チュニジアの国父、 ハビーブ・ブルギバ (19003-2000) の廟建築である。モナスティールは彼の出生地なので、ここにブルギバ家の廟とモスクが建てられた。廟の中央の金色のドームの下に ブルギバの墓が 祀られ、隣の緑色のドームの下には、一方にブルギバの最初の妻、マチルド夫人(Mathilde Lorrain)の墓、もう一方には彼の親族(両親や兄弟など)の墓がある。内部は 荘厳化よりも オープンな構成を取り、威圧的ではない。八角形の中央ホールを囲む2層のギャラリーは 観光客にも開放されている。前面の2本の塔は ミナレットではなく、いわば「飾りの塔」である。
 ブルギバ・モスクは ブルギバ廟の南、リバートにも ほど近くに、ブルギバ廟よりも早い 1950年代に建てられていた。

ブルギバ
ハビ-ブ・ブルギバ廟、墓室内部


マフディーア MAHDIA


 ムハンマドの娘のファーティマの血を引くと称した シーア派のファーティマ朝 (909-1171) が 最初に首都と定めたのが、この半島状の町、マフディーアである。スンナ派のアッバース朝に対する対抗カリフとしては、スンナ派が大半を占める都市 カイラワーンに対抗意識をもったのだろうが、60年後の 969年には エジプトを征服して、アル・カーヒラ(カイロ)を建設して遷都することになる。マフディーアの建設は 916年に始まり、初代ハリーファのウバイド・アッラーフ・アル・マフディー (Ubayd Allah al-Mahdi) が 921年に首都にした。この都市には、要塞化された市壁に加えて、ファーティマ朝の宮殿や大モスクがあったが、メディナは小規模である。



マフディーア大モスク
Great Mosque, c. 916, 20th c.

マフディーア  マフディーア
マフディーアの大モスク、入口部のある 正面

 マフディーアの大モスクは 916年に ファーティマ朝の初代カリフ、ウバイド・アッラーフ・アル・マフディーによって建設され、質実剛健なイスラームの精神を 体現していたが、1554年にスペイン軍に破壊され、現在見られるものは ほとんどが 1961年から1965年にかけて再建された レプリカである。しかし、初期のイスラーム建築の姿を伝えるものとして重要である。集団礼拝時でなければ、異教徒も中に入れる。ミナレットが無いのは、スンナ派への対抗心からと言われることもある(ミナレットは スンナ派のアッバース朝のもとで発展したから と)。

大モスク  大モスク
マフディーアの大モスク、中庭と 内部



スファックス SFAX


スファックスは、人口 40万人近くの、チュニジア第二の都市である。古代ローマ時代には小さな町だったが、9世紀から10世紀に発展して都市国家となった。その後シチリアによって征服されたり、スペイン帝国軍によって一時占領されたり、16世紀以降オスマン帝国に支配されるなど、紆余曲折を経て、1881年に フランス領となり、現在は チュニジアの商工業の中心都市となっている。メディナを囲む市壁は 11世紀のアグラブ朝時代に 建設が始まり、15世紀に ほぼ現在の形になった。今もよく残っている。



スファックスメディナ
Medina of Sfax, 849

スファックス  スファックス
スファックスのカスバとメディナ

 スファクスのメディナは 849年にカイラワーンのアグラブ朝のエミール、アブー・アッバース・ムハンマドの命令で、スファックスのカディ、アリー・ブン・サレムによって創設された、と 大モスクの正面の碑文が伝える。広いメディナは、今も9世紀のアグラブ朝の塁壁で囲まれ、中世の面影を残している。観光客は少なく、人々の日常生活が見られる、静かな、大きなメディナである。特に南端の隅部にあるカスバ(城塞)の城壁は 丈高く強固で、メディナを囲む市壁と連続している。現在のスークの数は 30という。

スファックス  スファックス
スファックスの門扉と スーク




スファックス大モスク
Great Mosque, 988, 1085

スファックス  スファックス
スファックスの大モスク

 スファックスの大モスクは、カイラワーンのシディ・ウクバ・モスクに倣った 初期のイスラーム建築作品で、最初は9世紀半ばに アグラブ朝の下で建設されたが、当初の部分は あまり残っていない。アグラブ朝時代の礼拝室は キブラ壁に直角な5身廊のみが残り、その南側に もっと長い礼拝室が増築され、西側には 中庭のある小モスクがつくられて一体化している。11世紀初めに建てられた 雄大なミナレットと、装飾的な東側ファサードは 今も見られる。

スファックスの大モスクの平面図 (From "Architecture
of the Islamic World", 1978, Thames and Hudson)




ダール・ジャルーリ(邸宅)
Dar Jaillouli, 17th c.

スファックス  スファックス
ダール・ジャルーリの中庭と 窓、スファックス

 スファックスのメディナに残る 伝統的な大邸宅のひとつで、最初は 17世紀にスペインで迫害された アンダルシアのムスリムがスファックスに移住して建てたものと言う。裕福な商人のジャルーリ家がそれを買収して住んだので、この名で呼ばれる。現在は「伝統芸術・民俗博物館」に用いられている。全館 繊細な装飾で満ちているが、最も美麗に飾られた中庭は ―方がアーケードで、他の3方には長方形の開口部が並ぶ壁面となっている。中庭は3層の高さがあり、2階には窓列、3階には木造の手摺・廊下が巡っていて、部屋数は 20ほどある。



マトマタ MATMATA



穴居住宅
Cave Houses

 ベルベル人の地下の穴居住居である。地表から地下に大きな穴を掘って中庭とし、この周囲に横穴の諸室を掘る。中庭に下りるには、長い斜路 またはトンネルを通っていく。そうした穴居住宅が、マトマタ周辺では、20軒から 30軒が一般公開されている。

穴居住宅  穴居住宅

(左)モフタール・ブン・ビルガッセンの家の 中庭
(右)アブダッラー・ブン・ヘレーンの家の 内部

 マトマタの穴居住宅は、大きな竪穴の中庭を囲んで 横穴の部屋が並ぶ。数家族から成ることもあり、中国のヤオトンにも似ている。スペインの グアディクスやイタリアの マテーラにもあり、古くはカッパドキアにも 盛んに造られた。


ブラ・レジア BULLA REGIA



地下住居
Underground Houses

 チュニスの西方 約150キロにある ローマ時代のブラ・レジアの遺跡には、地下住居のある都市がある。イスラームではないが、マトマタの穴居住宅の祖先として、ここに紹介する。ブラ・レジアは ベルベル人による古代ヌミディア王国の首都であったが、前1世紀に 古代ローマに併合された。ここの夏は酷暑であるので、住民が地下に住居を作って住み、冬は地上で生活した。地下住居の作り方は、中央に竪穴を掘って中庭とし、その周囲に部屋を設けたが、それらは穴居であるよりは、ローマ風の石造建築だった。特に、円柱の回廊で囲まれた中庭に降りると、地下住居とは思えないほど立派である。

地下住宅  地下住宅
ブラ・レジアの 地下住居群の 集落と、地下住居の 中庭

 町の地上部分の建物は ほとんどが崩壊しているが、地下住居は 6軒ぐらい残る。中庭その他の床面には、精巧なモザイク画が描かれていることが多い。主要なものは、剥がして バルドー博物館に収蔵して 展示している。


メドニン MEDENINE



穀物倉庫
Qsur(Grain Warehouses)

 メドニンは マトマタの東南 50kmほどにある小都市で、さらに南 20kmに タタウィンの町があり、この近郊に クスールの残る村が多い。フランス語ではメドニーヌ、タタウィーヌと言う。「ゴルファ Ghorfa」とは穀物倉庫のことで、ゴルファが集合したものを「クスール Qsur, Ksar」と呼ぶ。クスールの語を冠した村が チュニジアの砂漠地帯の 至る所にある。規模の大きなクスールは 砦として使われたところも ある。

クスール  クスール
クスール・ウレド・スルタンの クスール(集団穀物倉庫)

 日乾しレンガ造による集団倉庫が、北アフリカ各地の村にある。多くは ベルベル人の、穀物とナツメヤシの実の 倉庫である。防御のために 外側を閉じて、中庭を囲んで並ぶ 2層、3層の倉庫群は、キャラヴァンサライ(フンドゥク)に似ている。実用本位の建物であるから、装飾は まったく無い。1軒ずつ アプローチするために 外部階段が並んでいるのが 不思議だが、石で補強した、一種のコンクリートで キャンティレヴァーにしている。時には、この部分に 木材も用いられた。


ジェルバ島 JERBA ISLAND


 日本の淡路島よりもやや小さいジェルバ島は、今では 本土と道路が通じていて、あまり島の文化という感じがしない。町々のモスクは あまり装飾のない 荒い作りのレンガ造の建物を ホワイトウオッシュしただけのもので、特に個性的というほどの ものではないが、海岸寄りには「ゲララのモスク」など、粗放な作りのモスクが 印象的である。ジェルバ島の首都にあたるのが フームスーク(フーム・ストラ)



フームスーク(フームストラ)
HOUMT SOUK(Houm Stra), Zawiya Sidi Mahraz

フーム・ストラ
フーム・スークの シディ・マフレズ・ザーウィヤ
多数のドーム屋根が並んでいるのが特徴




マフブビーン
MAHOUBINE, Jama Fadloun Mosque, 14th c.

マフブビーン
マフブビーンの ジャマ・ファドゥルーン・モスク、14世紀
現在は一部が博物館になっている。




ゲララ
GUELLALA, Sidi Yati Mosque

ゲララ
ゲララの シディ・ヤティ・モスク






チュニジア建築を知るための本

● 専門家も一般の人も楽しめる、チュニジア建築の
ヴィジュアルな本を紹介しておきます。詳しい目録は
『イスラーム建築文献目録』の「 F. スペインとマグリブの建築 」のページを参照。




チュニジア

TUNISIA, IFRIQIYA
Thirteen Centuries of Art and Architecture in Tunisia
[ Islamic Art in the Mediterranean ]

(イフリーキーヤ、チュニジア)

Written by Jamila Binous et al., 2002, Electa & Museum with no Frontiers, Vienna, paperback 21.5cm-310pp. 2,400yen.
イフリーキーヤとは アフリカ北東部、主にチュニジアを指す。チュニジア各都市における イスラーム建築と美術の優れた案内書。 図版は小さいがオールカラー。 "INTERNATIONAL MUSEUM WITH NO FRONTIERS EXHIBITION CYCLES" の1冊で、チュニジアの文化省が出版に協力している。


チュニジア建築史

HISTOIRE de L’ARCHITECTURE en TUNISIE
DE L’ANTIQUITE A NOS JOURS
[La Bibliotheque Arabe Collections]

(チュニジア建築史)

Written by Leila Ammar, 2005, paperback 30cm-260pp. 3,150yen。
チュニスで生まれ育ち、国立建築学校で教鞭をとる女流建築家が書いた チュニジア建築史。 豊富な図版を挿入して 古代から現代まで記述。 本文仏文。


カイラワーン

The Great Mosque of KAIROUAN
[La Bibliotheque Arabe Collections]

(カイラワーンの 大モスク)

Written by Paul Sebag, translated by Richard Howerd (texte), André Martin (photo), 1965, Collier-Macmillan, London, 23.5 x 26cm-125pp. antique 2,100yen.
チュニジアの古都カイラワーンの大モスクの写真集。カラーは数ページで、ほとんどはモノクロ写真。仏語からの英訳版。


チュニスの メディナ

LA MEDINA DE TUNIS,
Une Promenade dans la Vill Arabe
[La Bibliotheque Arabe Collections]

(チュニスの メディナ)

Written by M. Ben Miled et V. Bettaieb (texte), Bruno Fourune (illustre), 1989, Alif, Editions de la Mediterranee, Tunis, 24.5 x 24.5cm-20pp. 1,900yen.
チュニジアのチュニスにおける メディナ(旧市街)の町並、建物、人々を フランスのデザイナーが A href="../15_kosho/xtunis.htm">立体的な絵本にして描く。チュニスのメディナが 1979年に、ユネスコ世界遺産に登録されたのを機会に 出版された。本文仏文。

(2025 /12/ 01)


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