トルコのイスラーム建築 |
(セルジューク朝と オスマン朝の建築)
神谷武夫
インドのイスラーム建築が、大雑把に言って デリーを本拠とする中世のスルタン諸王朝の時代と、近世のムガル帝国の時代の建築に二分されるように、トルコのイスラーム建築も、アナトリア地方に展開した 中世のセルジューク朝の時代と、近世のオスマン帝国の時代の建築に二分される。それぞれ、前者の時代には地方ごとに独自の様式を打ち立てたが、後者の時代には中央集権の大帝国下、建築の様式も見事に統一された。技術的にも美学的にも高度なものになるのだが、ちょうど近代建築における「インタナショナル・スタイル」のように、全土で統一されすぎて、個々の建物が お互いに似かよってしまい、やや面白みに欠けることになる。それぞれ 前者の時代のほうが、「初期近代建築」と同じように ヴァラエティに富み、開拓精神や独創性が より強く感じられる。
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アナトリア地方というのは 現在のトルコ共和国のアジア側部分、ということは 国土の 大部分(97パーセント)であり、ヨーロッパ側部分は エディルネ市を含む、残りの わずか3パーセントにすぎない。「アナトリア」とは、もともとギリシア語の「日の昇る地」を意味した。その西半分は アジアからヨーロッパに突き出た 巨大な半島のように見えるので「アナトリア半島」という呼び名も用いられたが、東半分は半島のように見えないので、今では 全体を「アナトリア地方」と呼ぶのが一般的である。トルコ語では「アナドル」と言う。
![]() ![]() トルコの子供たち アナトリア・セルジューク朝の首都だったのは 中央部のコンヤで、12世紀から13世紀にかけて大いに繁栄し、トルコの初期イスラーム建築の名作をいくつも残し、またメヴラーナ 修道院(旋舞教団のテッケ)も抱えている。アナトリア・セルジューク朝の最盛期を築いたスルタンのひとり カイクバード1世は、国内の交易路(キャラヴァン・ルート)の整備を計った。とくに内陸部のカイセリからアクサライや首都のコンヤを通って地中海沿岸に至る街道には、今も多くの隊商宿(キャラヴァンサライ)が残っている。なかでもアクサライ近くのスルタンハヌとカイセリ近くのスルタンハヌは最も堅固で 規模も大きく、いずれも カイクバード1世の寄進になる。 トルコ人は もともと中央アジアの遊牧民であったから、農耕定住民のようには 建築文化を発展させず、技術の持ち合せもなかった。それが アナトリアに定住して建設活動を始めるのだから、現地(征服先)の建築家や 地場の技術をもった職人に頼らざるをえなかった。中東で 最も石造建築を発展させていたのは シリアとアルメニアである。そしてアルメニア人は 戦乱で祖国を失い、離散の民となって中東に流亡していた。この建築の民が、新興セルジューク朝の建設活動を担ったのは 必然だった。世界で最初にキリスト教を国教とし、高度な教会建築を発展させていた アルメニア人が主導したからこそ、アナトリア各地に建てられた セルジューク朝のキャラヴァンサライは、アルメニア聖堂のような姿をしているのである。
![]() ![]() トルコの典型的な街並み、アフヨン 初期のイスラーム建築はアラビア、シリア、イラン、エジプトといった亜熱帯の少雨地域で発展したので、屋根は あまり防水を考慮せず、木造の根太と板の上に土を盛って踏み固めた 陸屋根を主としていた。ところが それを移入したトルコは寒冷地であり、降雨量も多いので 陸屋根には問題が多い。伝統的民家は勾配屋根を架けるのが普通である。そこで近年は 初期の陸屋根のアラブ型モスクの上に、浅い勾配屋根を架けるようになった。その典型は、アフヨンの ウル・ジャーミ に見られる。 一方 オスマン型のモスクは、メフメト2世が征服して首都としたコンスタンチノープル(イスタンブル)に建つビザンティンの 聖ソフィア大聖堂に深く影響されて、大きなドーム屋根で礼拝室を覆うようになる。ここに「アラブ型」とも「ペルシア型」とも違う、「トルコ型」のモスクが打ち立てられたが、ドームのような曲面屋根を瓦葺きにするのは むずかしい。またトルコのドーム屋根は中央アジアからインドで広く行われたような二重核ではない。一枚の被膜のようなドーム屋根とするには 完全な防水が必要である。そこで採用したのは、展延性のある鉛で葺くことだった。オスマン朝のトルコのモスクのドーム屋根は すべて鉛で葺かれたので、防水は完全になったが、そのかわりに外観上は黒っぽいグレー一色になり、ややグルーミーな印象を与えることになった。 また、亜熱帯のアラブやペルシア型の住居は中庭型であるのに対して、寒冷地のトルコの住居は防寒のために中庭に開かれてはいず、閉じた独立家屋型である。同様にして 大モスクの庭も、回廊で囲まれて中庭風ではあるものの、礼拝室とは遮断されているので、むしろ前庭と呼ぶのがふさわしい。
![]() ![]() 聖ソフィア大聖堂とスレイマニエ
イスラーム圏の中でも トルコにのみ頻出する「ウル・ジャーミ」とは何かというと、イスラーム教の礼拝堂はアラビア語でマスジドと言い、これが なまって 英語でモスクという。キリスト教では 安息日の日曜日にミサをあげるのに対して、イスラーム教では 金曜日に集団礼拝を行うので、都市の大部分の住民が集まって 集団礼拝を行う大きなモスクを ジャーミ・マスジド(金曜モスク)という。
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シナンのパトロンは、オスマン帝国の絶頂期を築いて 46年もの長きにわたって皇帝(スルタン)であったスレイマン大帝(位 1520-66)であって、終生変わらずに シナンを宮廷建築家の主任として遇したから、シナンの活躍の場は 国家の権力と財力を背負って 絶大なものだった。そしてオスマン朝は 世俗的権力と宗教的権力を 併せもっていたから、ヨーロッパにおける 皇帝とローマ法王との対立抗争のようなものも トルコにはなかった。 ヨーロッパのカテドラルが完成までに数十年、時には百年以上もかかったのに対し、スルタンの信任を受けているかぎり、シナンはどんなに巨大なモスクも 10年以内に完成させることができ、ヨーロッパの建築家よりも はるかに多作でありえた。しかも彼は 100歳近くまで生き、90代まで活動し続けた巨人であった。 ところで このサイトや 私の本で、Sinan を「スィナン」ではなく「シナン」と表記している理由は、写真の Film フィルム が フイルムと発音されるようになってしまったごとくに、Sinan が スイナンと発音されるようになるよりは、シナン の表記、発音の方が良いと思うからである。(スィトー会ではなく シトー会と表記するように)
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以下の作品解説において頻出する、トルコ建築史で重要な概念の「キュリエ」の説明を、『バヤジト II 世のキュリエと宮殿』のページから再録しておこう。 ( 2020 /09 /01 ) (1075-1308)
ウル・ジャーミ(大モスク) Ulu Cami (Grand Mosque), 1092. かつてはアミーダと呼ばれたディヤルバクルは 紀元前に遡る歴史をもつ古都であったが、地理的に絶えず外敵の攻撃にさらされる位置にあり、ローマの植民地、ペルシア領、ビザンチン帝国領、アラブ帝国領と、有為転変をけみした。 ウル・ジャーミは、639年にイスラーム軍が都市を奪うと、キリスト教の聖トマス聖堂をモスクに作り直したのが始まりで、1091年にセルジューク朝のスルタン・マリク・シャーが現在のモスクに建て直した。マリク・シャーはダマスクスのウマイヤ・モスクを修復したことがあるので、その建築を手本にさせたという。トルコで最古のモスクのひとつと見なされているが、当時は まだトルコ族が東方から移住する以前であったから、むしろシリア圏の都市であったと言える。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの
ディヤルバクルの市壁は ローマ帝国時代の7世紀に始められてからオスマン朝時代まで改修が続けられ、現存の城壁としては世界最長規模のものである。前長 5.5kmに及び、72の櫓が建ち並んでいる。市門の中では、南側のマルディン門が最も保存が良く、石彫で飾られている。 ウル・ジャーミ(大モスク)Ulu Cami (Grand Mosque), 1170-75 ウルファのウル・ジャーミは ディヤルバクルと同じように、ダマスクス型の幅広矩形のモスクで、礼拝室を敷地の南側に全部寄せて、奥行き3スパンに対して 12スパンもの幅にしている。広い前庭に面する前面には 同じ長さだが 14スパンの柱廊を備える。全体に飾り気がなく質実剛健な、初期のモスクである。近年 石が磨き直されて白くなった。もとはキリスト教の聖堂が建っていたところにアラブが建てた初期のモスクで、八角形のミナレットが珍しい。
![]() ![]() (From "Eastern Turkey" vol.3 by T. A. Sinclair, 1987) アラー・アッディーンのモスク Ala Addin Camii, 12-13th c.
アナトリア・セルジューク朝の最初のモスク、アラー・アッディーン・モスクは不思議なプランをしているが、順次増築された結果だと思われる。12世紀半ばから13世紀半ばにかけて、アナトリア・セルジューク朝のスルタン、アラー・アッディーン・カイクバード1世(位 1219−31, Alâ ad-Dîn Kayqubad)のために建設された。中庭の礼拝室側に 二つのアルメニア風の廟(キュンベット)が建っていて、その間の一番奥にフラーブとドーム屋根がある。左の廟がクルチ・アルスラン2世廟で 12世紀半ばから 1170年代と推定される。トルコの初期の廟は中央アジアの影響を受けた二重墳墓で、地下に本棺を置く墓室、地上が摸棺(セノターフ)を置く礼拝室となっていて、別々の入口を設けている。 ![]() (From "Turkish Art and Architectue" by Oktay Aslanapa, 1971) ウル・ジャーミ(大モスク)Ulu Cami (Grand Mosque), 1196/7
シヴァスのウル・ジャーミ(大モスク)は、アナトリアで最も古いモスクのひとつ。平屋で、キブラ壁に直角の 10列の石造アーケードに 木造の垂木を載せて 屋根をかけた、列柱ホール式モスクである。ダニシュメンド朝のクトゥブ・アッディーン・マリクシャー (Qutb al-din Malikshah) の支配下で、クズル・アルスラン (Kizil Arslan) が建立したという。これとは不釣り合いに高い レンガ造のミナレットが印象的である。このスレンダーなミナレットは 1213年に建てられた。 Çifte Minareli Medrese, 1271 & Kaykavus I's Tomb, 1219
チフテ・ミナーレとは一対のミナレットの意で、正面入り口のピシュタークの上に 背の高いミナレットが立つことから こう呼ばれる。エルズルムにも同名のマドラサがある。ミナレットの形態を始め、シヴァスの建築家たちは装飾意欲が旺盛だったと見える。それを許容するほどに、13世紀のシヴァスの町が繁栄していたのだろう。しかし、このマドラサは本体が失われ、ミナレットの立つピシュタークだけが残る。 Gök Medrese, 1271
ギョク学院も 同様に、ピシュタークの上に一対のミナレットが立つ。ミナレットに用いられている青いタイルから、名前が付いた。スルタン、ギヤーセッティン・カイヒュスレヴ (Giyasettin Kayhüsrev) の大臣、サヒービ・アタ (Sahib-i Ata) の命で建てられた。 四イーワーン型の中庭の中央には 大きな泉水があり、左右には柱廊があるが、きわめて幅が狭く 通路の役をしないので、飾りアーケードと言ったほうが良い。ミナレットの形態を始め、シヴァスの建築家たちは装飾意欲が旺盛だったと見える。それを許容するほどに、13世紀のシヴァスの町が繁栄していたのだろう。
ウル・ジャーミ(大モスク)と 病院 中央アジアにいたトルコ族が 10世紀頃から南下してイスラーム化すると、11世紀にペルシアを中心とするセルジューク朝帝国を打ち建てた。やがてアナトリア地方もその支配下におかれ、ディヴリイの近辺は メンギュジュック朝という小王朝が支配して イスラーム化を進めた。シヴァスの東方のディヴリイにはバロック的な彫刻装飾で名高いウル・ジャーミがあり、その 南側に病院が接続して建てられた。アミール(総督)アフマド・シャーが 1229年に建築家の フッレムシャーに建てさせたのが ウル・ジャーミであり、その妃が 慈善事業として 数年後に同じ建築家に建てさせたのが 病院(癲狂院)である。その歴史的古さと建築的価値のゆえに ユネスコ世界遺産に登録されている、稀有な病院のひとつである。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの キャラヴァンサライ(隊商宿) Cararvanserai (Han), 1229 スルタンハヌは コンヤとカイセリを結ぶ街道上の、アクサライの近くにある。カイセリを超えた先にも 同じスルタンハヌと称するところに、規模もプランも非常によく似たキャラバンサライがあるので、混同されやすい。スルタンハヌというのは、スルタンが設立したハーン(キャラバンサライ)ということなので、いわば「王立隊商宿」であって、スルタン、交易を推進した カイクバード1世が 1229年に建設した。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの キャラヴァンサライ(隊商宿) Cararvanserai (Han), 1230-6 かつてシルクロードに代表される交易路が、イスラーム圏各地を網の目のように結んでいた。鉄道のできる以前、大量の荷を積んで長途の旅に耐える動物は、まずラクダ、そしてラバ、馬であった。盗賊団から身を守るために、護衛つきの数十頭から数百頭の隊伍を組んだ隊商は一日に平均30kmを行進する。町と町の間には、彼らが安全に宿泊できるよう、30kmおきに隊商宿が必要となる。これを確保して都市に物資を供給させるのは為政者の任務であったから、主要な街道には民間の隊商宿のほかに王立の施設も設けられた。政府のものは隊商が無料で利用できることが原則であった代わりに、隊商宿以外の機能も担っていた。役人の視察の旅や政令の伝達、さらには軍の移動宿舎としての利用などである。その軍事的ネットワークがまた民間の交易活動の保護機関でもあった。コンヤ〜カイセリ街道には、アラー・アッディーン・カイクバード1世が建立した これら二つのスルタンハヌを始め、多くのハーン(キャラバンサライ)が残っている。
![]() 交易路におけるキャラヴァンサライは、何よりも堅固な防御体制が求められるので、石またはレンガ積みの高い塀で囲み、コーナーには櫓を設け、砦のような姿とした。これはイスラーム初期のリバートに似てくる。通常、入口は1ヵ所だけで、そこだけはムカルナスなどで華やかに飾られ、一日の行程に疲れた隊商を明るく迎え入れた。中庭は荷降ろし場であり、周囲に荷置場と厩舎、ラクダ舎、事務所、厨房が配され、正面の扉口の奥が宿泊所となる。中庭に水場が設けられるのはモスクやマドラサと同様であるが、そこにはしばしば小礼拝所(メスジト)も建てられ、運搬者たちの礼拝に充てられた。
![]() ![]() 城塞(シタデル)、城壁 Yogn Burç in the Citadel, 1212
カイセリはアナトリア中央部の都市で、多くのセルジューク朝時代の建物を残している。都市の起源はヘレニズム時代に遡り、カエサレア(カエサルの町)と呼ばれた。セルジューク朝が奪ったのは1082年だが、城塞(シタデル)は6世紀から続き、コンヤに次ぐこの枢要都市を守った。城壁には19の櫓が建ち並び、円筒状のヨーウン・ブルチュは1212年の建立という。
キュリエ(The Mahperi Huand Hatun Complex)のモスクとマドラサは アナトリア・セルジューク朝のスルタン、アラーアッティーン・カイクバート (Kayqubad)1世(位 1219-37)の夫人 (Hunat Mahperi Hatun) が建立した。ハートゥンとは夫人の意。隣りのハンマーム(公衆浴場、トルコ語では ハマム)が先に建っていた。マドラサ1237年に建てられ、その翌年にモスクが建てられたというから、 モスクは完全にマッカの方向に向いてはいないかもしれない。不思議なのはフナト・ハートゥンの廟が1250年頃にモスクの一隅を取り壊して建てられ、マドラサから出入りするこようにしたことである。外からは姿が見えない。
![]() カラタイ学院 Büyük Karatay Medresesi, 1251
大宰相(ビュユク・ヴィジエ Büyük Vizier)のジェラレッディン・カラタイ (Celaleddin Karatay) が寄進したことから こう呼ばれる 高等教育機関であった。現在は陶器の博物館に転用されている。プランは左右対称であるが、中央ドームの前に二つの小ドームがあり、その左側ドームが入口となっているので、前面ファサードは 珍しく非対称になっている。内部は中央ホールの奥に広いイーワーンの部屋があり、その左右の同規模のドーム室とともに 大講義室に使われていたのだろう。ドーム屋根はセルジューク時代から鉛で葺かれることが多かった。
カラタイ学院に勝るマドラサを意図して、大臣サーヒプ・アタ・ファフレティン・アリ (Sahip Ata Fahrettin Ali) が設立した。インジェ・ミナーレとは「ほっそりしたミナレット」の意で、1901年に落雷で崩壊するまでは 現在の3倍の高さがあったという。現在は木と石の彫刻博物館に用いられている。正面中央に入口ホールがあり、そのファサードが全面的に石彫で飾られている。しかも、そこには4本の太いカリグラフィの帯があって『クルアーン』のメッセージを伝えているのが特異である(アラビア語を解さない人には 単なる模様にしか見えないが)。設計した建築家の名は、アブダッラー・ブン・ケリュク (Abdallah ibn Kelük) という。
三つの廟(ウチ・キュンベットレル)
ウチ・キュンベットレルとは「三つの廟」の意。廟はアラビア語でクッバと呼ばれるが、それはドームの意で、廟には通常 ドーム屋根がかけられたことによる。クッバがトルコ語に転訛すると キュンベット(Kümbet)になった。アナトリアにおける初期のイスラーム建築の担い手はアルメニア人だったので、ドーム天井の上を アルメニア風の円錐形の屋根とした。セルジューク時代には これが廟建築のスタイルとなるが、オスマン時代にはドーム屋根となり、キュンベットに代わってチュルベ (Türbe) と呼ばれるようになる。 チフテ・ミナーレとは一対のミナレットの意で、シヴァスにも同名のマドラサがあることは すでに見た。ファサードのピシュタークの上に、2本のミナレットが聳える。ハトゥニエ学院とも呼ばれた こちらのマドラサは、スルタン、アラー・アッディーン・カイクバード (Ala al-Din Kaikobad) 2世が建立した。通常の中庭型のマドラサの奥に、少し離れて建つ 大型のハトゥニエ廟があり、中庭から 奥行きの深いイーワーンを通ってしか 行けないようにしているプランが 独特である。廟はカイセリにあるのと同じようにフアンド(フナト)・ハートゥン廟であるが、カイクバード2世が 1255年に 娘たちのために建てたものという。
![]() モンゴルのイル・ハーン朝、ウルジャーイトゥの将軍 ホジャ・ジェマレッティン・ヤクート (Hoca Cemalettin Yakut) が建設した。ここにも背面の外壁に接して円錐屋根のヤクート廟 (yakutie Kümbeti) があり、マドラサの内部から参拝する。正面入り口の両脇の壁にほどこされたレリーフ彫刻が愛らしい。円形ミナレットは下部が石造だが、上部はレンガで、壁面の幾何学装飾が凝っている。現在は民俗博物館として公開されている。
ドーネル廟と アラジャ廟
初期のキュンベット(廟)で 最も有名なのが、カイセリのドーネル・キュンベットである。ドーネル廟は、あたかも回転する(ドーネル)塔のように見えたことから、「回転廟」と呼ばれるようになった。単独に建っていたのが、都市計画道路の中央分離帯に取り残されたことから、却って目立つことになった。カイクバート1世が 娘のシャー・ジハン・ハートゥン (Şah Cihan Hatun) のために造営した。上記のハトゥニエ廟と同じく12角形のドラムで
、外壁には繊細な彫刻が ほどこされている。こちらには 地下墓室はない。
セルジューク朝の墓地と 墓廟群 アフラトは アナトリア東方のヴァン湖に南面する ローマ時代からの古都で、大アルメニア王国時代にはケラトと呼ばれた。11世紀にはセルジューク朝の支配を受けたが、アルメニア風の文化を 色濃く伝えた。広大なセルジューク朝の墓地には 石彫を施した墓石が、すべてマッカの方向を向いて並んでいて、アルメニア墓地のようなたたずまいである。町の各所には 全部で11のアルメニア風円錐屋根の廟(キュンベット)が散在している。最大のものが ウル・キュンベットで、上記のドーネル廟と同時代。高さは約20メートル、二重墳墓で、半地下にドーム天井の墓室がある。
![]() ![]() ウル・ジャーミ(大モスク)Ulu Cami (Grand Mosque), 1272
アフヨンは ヒッタイト時代から続く古都で 古城塞の遺址があるが、ここを訪れるのは トルコの 現存最古の木造モスクである ウル・ジャーミ(大モスク)を見るためである 。13世紀の創建で、1341年に修復された。9廊式で 40本の木造柱が林立する 列柱ホール型の大モスクである。外壁は石造で、中央身廊の奥に ミフラーブがある。柱は どれも円柱で、大きなムカルナス柱頭を頂いている。建築家の名はエミール・ハジ・ベイ (Emir Hac Bey) と伝える。レンガ造のミナレットもセルジューク時代のもの。鳥瞰写真は こちら 。 エシュレフォール・モスク Eşrefoglu Camii, 1296
ベイシェヒール湖の ほとりのベイシェヒールは、13世紀に セルジューク朝のアミール、エシュレフォールによって開かれた。その息子のスレイマーン・ベイ(位?〜1302)によって創建されたエシュレフォール・モスクは、トルコで最も保存のよい 木造の大モスクである。アフヨンと同じく 外壁は石造であり、ミナレットおよび ミフラーブ前のドームはレンガ造である。エントランスは道路に面しているが、礼拝室はマッカに向けられているので、45度 角度変換をしている。内部は7廊式のモスクで、45本の松材の木造柱が立ち並ぶ。中庭の変形と見なせる 中央のベイには屋根がなく、内部に十分な明るさを与えている。その床には雨がおちるので 水槽として、手摺で囲っている。そのミフラーブ寄りには ディッカ(応唱台)が設けられている。エントランス・ホールの2階は、1階を見下ろせる 女子用の礼拝室である。 ![]() ![]() 平面図 (From "Turkish Art and Architectue" by Oktay Aslanapa, 1971) おそらく 当初の敷地が三角形だったのであろう。そこに マッカに向けた最大限の礼拝室をとり、西側に スレイマーン・ベイの廟(キュンベット)を、南側に 入口とミナレットを配して、敷地を有効に活用したと思われる。
![]() ![]() マフムト・ベイのモスク Mahmut Bay Camii, 1366 アンカラの北方、カスタモヌ (Kastamonu) の北 17kmの寒村に、すばらしく保存のよい木造モスクがある。ジャンダロール・マフムト・ベイ・ジャーミイ (Candaroglu Mahmut Bey Jamii) と呼ばれ、ごく小規模ながら 空間構成が変化に富み、かつて全面的に彩色されていた木造架構が、アルカイックな美しさをたたえている
![]() ![]() イヴリ・ミナーレ・モスク Yivli Minare (Fluted Minaet) Camii, 1373 紀元前から続くアンタルヤの港町には ローマ時代の遺跡もあるが、町のシンボルとなっているのはセルジューク時代のミナレットである。名前のイヴリ・ミナーレとは「溝付きのミナレット」の意で、高さ38メートルに聳える赤レンガの、8本の丸いリブがついたミナレットは 町のどこからも 見える。このミナレットが属するモスクは セルジューク朝のスルタン、アラー・アッディーン・カイクバード によって1230年に建てられたが 戦乱で破壊され、1373年に再建された。モスクだけでなく マドラサやタブハーネなども併設したキュリエだったという。オールド・タウンには 伝統的な街並みや、今も営業している 13世紀のハンマーム(公衆浴場)も残る、のどかで快適な都市である。海岸風景も美しい。
![]() ![]() ![]() イーサー・ベイのモスク Isa Bey Camii, 1374 エフェソスの広大なローマ遺跡で名高いセルチュクには、遺跡のあるアヤスルク (Ayasuluk) 丘のすぐ下に、セルジューク朝末期の君侯国のひとつ、アイドゥン・エミール国 (Aydin Emirate) のイーサー・ベイが14世紀に建てたモスクがある。セルジューク様式からオスマン様式への過渡期のモスクだと言える。ダマスクス型の巾広矩形の礼拝室の手前に 回廊で囲まれた中庭があり、その礼拝室側に2本のミナレットを建てた、シンプルで力強いモスクである。東側のミナレットと 回廊の大部分は失われたが、2棟の切妻屋根と2つのドームで覆われた礼拝室は よく保存、修復が行われ、そのユニークな姿を伝えている。モスク全体のプランは正方形に近く、33 × 36メートルである。建築家は、ダマスクス出身の アリー・ブン・アル ディミシュキー (Ali ibn al-Dimishqi) と伝える。
![]() ![]() (From "Turkish Art and Architectue" by Oktay Aslanapa, 1971)
(1299-1453)
オルハン・ガージーのモスク
オスマン朝の最初の首都ブルサには多数のモスクやマドラサ、廟、ハーンが残るが 、最古のモスクとされるのがオルハン・ガージーのモスクで、もともとはイマーレトとして1339年に建てられた。1413年にカラマン朝の襲撃で焼失し、1417年にバヤジト・パシャ (Beyazit Pasha) によってモスクが再建された。19世紀には地震で大きな被害を受け、フランス人建築家によって修復されたという。
オスマン朝で現存最古の大きなモスク。北西郊外のチェキルゲ (Çekirge) にある。ムラト1世はオスマン朝の第3代スルタン(位1413−21)で、そのモスクが最終的に完成したのは 1385年のことだった。これは モスク、マドラサ、廟、ザーウィヤ、イマーレトなどを含むキュリエの先駆で、モスクはマドラサを一体化しようとしている。外観は 2階にマドラサの個室が並ぶ特異なものである。1階は これも「逆T字型プラン」をしているが、ミフラーブ前はドームではなく、半円筒形ヴォールト天井である。
ハジ・ウズベク・モスク と イェシル・ジャーミ(緑のモスク)
イズニク湖のほとりのイズニクは、4世紀のキリスト教の宗教会議で名高いニケーア(ニカイア)で、ローマ時代・ビザンツ帝国時代の遺跡も多い。オスマン朝の第2代スルタン、オルハン・ガージー(位1326-62) が1331年に征服して 首都ブルサに次ぐ都市としたので、小規模ながら 最初期のオスマン朝の建築遺構が いくつもある。ハジ・ウズベク・モスク と イェシル・ジャーミ(緑のモスク)は後に大発展するオスマン様式の萌芽をなすもので、ドームで覆われた礼拝空間を主とし、セルジューク型からオスマン型への過渡期のミナレットを建てる。
ムラト1世の母親である ニリュフェル・ハートゥーンの名を冠したイマーレト(救貧食堂)であるが、もともとは ザーウィヤ(スーフィーの修道場)であったという。5つの小ドームが載る 前面のポルティコ(柱廊)が堂々としている。内部は「逆T字型プラン」である。現在は ニリュフェル・ハートゥーン・イマーレティ博物館として用いられている。 ユルドゥルム・バヤジトのキュリエ(公共施設複合体)
イスラム世界では 王侯や貴族が民衆のための宗教・福祉施設を多く建設したが、とりわけトルコのオスマン朝は大規模な公共施設複合体を各地に寄進し、これをキュリエと呼んだ。
![]() (From "A History of Ottoman Architectue" by Godfrey Goodwin, 1971)
首都ブルサのバーザール地区に建つ大モスクで、14世紀の末から15世紀の初めにかけて建設された。56 × 68メートルの広い室内に20のドーム天井が架かり、12本の剛柱が支える アラブ型モスクである。各ドームのドラムに窓があるので、堂内は明るい。シンプルで剛毅な礼拝室の中央に、大きな水盤と噴泉があるのが 印象的である。中庭はなく、19世紀のレンガ造のミナレットが2本、コーナーに建っている。 メフメト1世のモスク、通称イェシル・ジャーミイ(緑のモスク)と、メフメト1世の廟、通称イェシル・チュルベ(緑の聖廟)、マドラサ(現・トルコ・イスラーム博物館)、ハンマーム(浴場)、イマーレト(救貧食堂)から成る このキュリエは 「イェシル・キュリエ」と呼ばれたが、この北東にある ユルドゥルム・バヤジトのキュリエと同じく、やや全体計画に乏しく、建物相互をつなぐ軸線も存在しない、初期のキュリエである。 ![]() ![]() ![]() ![]()
メフメト1世のモスクは、礼拝室のミフラーブと腰壁に緑色のタイルが使われていることから、イェシル・ジャーミイ(緑のモスク)と呼ばれている。メインのドーム空間を二つ前後に並べた、いわゆる「逆T字型プラン」の最高作とされる。中央の大ドーム室に泉水があるのを見ると、中庭タイプの発展形だということがわかる。 メフメト1世のマドラサは中庭型のマドラサで、メフメト1世が1420年に建設を始めたが、建設途上で没したために、2階建ての予定が平屋に変更されたという。現材は「トルコ・イスラーム博物館」に転用されている。
![]() ![]() ![]() Han, Bedesten, Çarşi, 14th-15th c. ブルサの中心部の商業地域には、オスマン時代のハーンやベデステン、チャルシが多く残っている。ハーンとはキャラヴァンサライ(隊商宿)のことだが、街道沿いのものと違って都市内のものはキャラバンの出発点であり終着駅である。広い中庭は荷物をほどき、売買をする場所であり、周囲の2階建ての建物はそのための事務所群と宿泊所、および物資の倉庫である。中庭の中央には小さな2階建ての礼拝所(メスジト)が設けられていることが多い。ブルサで最も保存のよいのがコザ・ハーンで、現在はショッピングセンターと カフェテラスに転用されている。
![]() イーサー・ベイ学院 Îsa Bey Medresesi, 1385 マルディンは神戸のような斜面の町で、その高みにイーサー・ベイ学院(スルタン・イーサー学院ともいう)がある。斜面を水平に走る道に面して立派なピシュタークが建つが、引きがなくて写真が撮りづらい。そのムカルナス天井の石彫は優れている。ここから内部に入って階段を上ると、中庭型のモスクとマドラサがあり、町の下方がウル・ジャーミ (1176) まで見渡せる。広間には三角状のリブで覆われた石造ドームが架けられている。もっと古いウル・ジャーミから受け継いだようだが、トルコではマルディンにしか見られないようだ。防水上問題があったのかもしれない。それが、オスマン朝のドームを鉛で覆う 完全防水を生んだのではないかとも思われる。
![]() (From "The Art and Architecture of Turkey" by Ekrem Akurgal, 1980) バヤジト・パシャのモスク Beyazit Pasa Camii, 1414-19 アマスヤは紀元前からの長い歴史をけみする古都で、イェシル川の両側に多くの遺産を抱える美しい町である。このモスクはアミール、バヤジト・パシャによって 1414年に建てられた。オスマン朝の最初期のモスクのひとつで、主ドームを前後に2つ並べた礼拝室の両側に 付属室を配し、手前に5スパンのアルカイックなポルティコを設ける。プランは定形の「逆T字型プラン」である。ジャーミでありながら ミナレットが無いが、この町の多くのモスクと同様、前面に角錐屋根の泉水堂が建てられている。
![]() (From "A History of Ottoman Architectue" by Godfrey Goodwin, 1971)
バッタル・ガージーのテッケ(デルヴィーシュの修道院) エスキシェヒールの東南43kmの丘の上に、バッタル・ガージーのモスクと廟、テッケ(修道院)の複合体(キュリエ )がある。8世紀にビザンツ軍と戦って殉教したイスラームの聖人、セイイト・バッタル・ガージーを記念して 1208年に創建され、13世紀にベクタシー教団のスーフィー修道院が加えられ、オスマン時代の1511年に、セリム1世が修復・拡大して 現在の規模と形にした。中庭を囲んで 多数の建物や回廊が不整形に立ち並ぶ姿には 不思議な魅力があり、トルコのムスリムの重要な巡礼地になっている。
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メヴラーナ 修道院(旋舞教団のテッケ) 神との精神的合一を探求する修行者たちは スーフィーと呼ばれ、理論や形式を尊重する多数派の諸学派とは別に、各地に教団を形成した。現代では そのほとんどが禁圧されているが、トルコで最も盛んになったのは、ジェラーレッディン・ルーミー(Celâleddin Rumi, 1207-73, 「我らの師」を意味するメヴラーナとも呼ばれた)を始祖とするメヴレヴィー教団である。特に旋回舞踊によって一種のトランス状態になることが有名で、トルコばかりでなく 中東各地に旋舞場の建物が残っている。中心地はコンヤであって、ルーミーの廟がある メヴラーナ修道院の施設は、今では博物館として保存されている。建物の古さは まちまちだが、緑色のタイルで包まれたルーミーの廟だけがセルジューク朝時代のもので、あとはオスマン朝時代の増築である。
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エスキ・ジャーミ(古モスク)
エディルネは 古名をアドリアノ―プルと言い、イスタンブルに遷都するまでのオスマン朝の首都だった(1367−1453)。最も古いモスクがエスキ・ジャーミで、15世紀初頭に建てられた。アミール、スライマーン・チェレビーによって着工され、スルタンとなった弟、メフメト・チェレビーによって完成された。前面に5スパンのポルティコ、その両側にミナレットを建てる。中庭は無い。大きな単一ドーム屋根ではなく、9つの小ドームが並ぶ形式は ブルサのウル・ジャーミを受け継いでいるとも言えるが、ドラムの窓が小さく少ないので、ブルサと違って 内部は薄暗く、いかにも古式を感じさせる。建築家コンヤ出身のハッジ・アラー・アッディーン (Hajji Ala al-Din) と伝える。 エディルネのベデステン(屋根付き市場)は、上記のブルサのものとも同じく ベデステンに典型的なプランをしていて、中央のドーム天井が並ぶ大ホールと、その周囲の事務所・倉庫列、そして外周の小店舗列から成る。 エスキ・ジャーミのワクフの一要素で、ここの賃貸料が モスクの維持に使われた。メフメト・チェレビーの寄進である。大きさは 41× 78メートルで、現代の大都市における デパートのような役割を果たした。ハーン(キャラバンサライ)と違って、中庭を持たない。ブルガリアの ヤンボルの ベデステン と比較されたい。
![]() (From "Early Ottoman Art" Museum with No Frontier, 2002)
ムラト2世は 1435年に ムラディエ・モスクをエディルネに建てていたが、人口増加にともなって もっと大きな金曜モスクが必要となり、大規模なウチュ・シェレフェリ・モスクを建立した。ウチュ・シェレフェリとは、3つのバルコニーの意で、一番高いミナレットが3段のバルコニーを持つことから、こう名付けられた。ドームの直径が12.5mのエスキ・ジャーミの2倍もある24.1mという巨大なものをメインにした。その支え方はいささか変則的なもので、太い剛柱を2本建てて前後の壁内の柱と横断アーチで結んで六角形を作り、それを円形に移行させている。礼拝室自体は幅広矩形であるが、後の単一大ドーム型モスクに道をひらくものであった。 ![]()
(1453-1850)
ファーティフ・ジャーミイ(征服者のモスク)
コンスタンチノープル征服後、メフメト2世 (位 1432-81) は「ファーティフ(征服者)」という称号で呼ばれた。ヨーロッパにまで勢力を広げ、大帝国の基礎を築いた。イスタンブルに建てたファーティフ・ジャーミイは 元々は十二使徒教会があった場所で、後のイスタンブルから見るとずいぶん西寄りの場所である。
![]() (From "The Art an Aarchitecture of Turkey" by Ekrem Akurgal, 1980)
設計者の名はアティク・シナンと伝えられているが、アティクとは「古い、昔の」という意味で、後の大建築家シナンと区別するために付けられた呼び名である。コンスタンチノープル陥落前から活躍していた、クリスチャンの建築家であったらしい。壮大なキュリエの構想は素晴らしいが、単一大ドームのモスクとしながら、後面のみを半ドームで支持させた アンバランスな構造計画が 命取りになった。 イマーレト・モスク Imaret Camii, 1472 アフヨンは 上述の 木造のウル・ジャーミのある都市だが、ほかにも多くの建築遺産がある。市の中心部にあるイマーレト・モスクは ブルサにおけるような2連ドームのモスクで、ゲディック・アフメト・パシャ (Gedik Ahmet Paşa) が 1472年に建設した。ブルサにおけるような床高の差は無い。前面に5連ドームのポルティコを備え、RC造の泉亭と向かい合っている。ミナレットの斜めストライプの意匠が印象的。中庭はなく、周囲は 緑の多い市民公園として整備されている。
ウル・ジャーミの近くには、古い木造住宅が多く残っている。
バヤジト2世の キュリエ(公共施設複合体) エディルネに遷都するまでの オスマン朝の重要都市アマスヤには、バヤジト2世モスクのキュリエがある。メフメト2世の息子のバヤジト2世は アマスヤで育ち、統治していたので、スルタンになるとすぐに 自身のモスクとマドラサなどのキュリエを設立した。お抱えの宮廷建築家 ハイレッティン・アーが、エディルネのキュリエに先立って設計した。イェシル・ウルマク(緑の川)に面して、大モスクと、左のL字形平面のイマーレト、右のマドラサ(今は古文書館)のみが残る。樹々が生い茂っているので、エディルネのキュリエにおけるような 全体を貫く幾何学的秩序は見出しにくい。モスクは、ブルサにおけるような2連ドームのモスクで、前面に5スパンの柱廊を設け、井戸のある 浄めの泉亭と向かい合わせているが、中庭はない。
![]() ![]() (From "A History of Ottoman Architectue" by Godfrey Goodwin, 1971)
トルコには珍しい 八角形プランのマドラサ。カプ・アー学院ともいう。バヤジト2世のハレムの宦官長、ヒュセイン・アー (Hüseyin aga) の寄進という。中庭に立つと、回廊が円形に見える。大きなドームは 礼拝室 兼 大講義室。シナンはこのプランに触発されて、後にイスタンブルに 八角形プランのリュステム・パシャ学院を設計した。
アマスヤにも、イェシル川の周囲に 伝統的民家が多く残る。邸宅のことは「コナウ」 (Konagi) と言った(インドのハヴェリー、英語のマンションに相当する)。 バヤジト2世はアマスヤのキュリエの2年後に、新しいキュリエ(公共施設複合体)を エディルネの 広い敷地に設立した。設計は アマスヤと同じく、宮廷建築家の ハイレッティン・アーである。 モスク、療院と癲狂院、医学校、そして救貧食堂が、完全な幾何学的秩序のもとに 見事な石造建築のアンサンブルを形成している。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの
バヤジト2世は、1486年にアマスヤに 自身のモスクを中心とするキュリエを作ったあと、1488年にエディルネに、そして1501年にはイスタンブルにも キュリエを設立した。生涯に自分の名を関した大モスクを3つも建てたスルタンは 彼一人である。 まだ修行期だったシナンは いずれにも関与していず、彼が仕えたのは 次のスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世の3代のスルタンだった。 ![]() (From "Ottoman Architectue" by Dogan Kuban, 2007)
モスクは、父のファーティフ・ジャーミイの構造的失敗の轍を踏まないよう、聖ソフィア大聖堂にならって、大ドームの前後を 半ドームで支える構成にした。礼拝室の両側に エディルネのモスクと同じように タブハーネを設け、中庭(前庭)は 礼拝室と同じ大きさの 正方形にしている。
コンスタンチノープルを陥落させたメフメト2世は、この 都市を破壊せずにオスマン朝の首都として、宮殿の建設を始めた。門(カプ)に大砲(トプ)が備えられていたことから 後にトプカプ宮殿と呼ばれることになる。「宮殿」は アラビア語やトルコ語で「サライ」というが、この言葉は時代により 地域により 広い意味をもち、隊商宿のような宿泊所をも サライという。宮殿として最も名高いサライは、このトプカプ・サライである。ところがここを訪れて意外なのは、大帝国のスルタンの宮殿だというのに、ヨーロッパのヴェルサイユ宮殿や ホーフブルク宮殿のような 巨大性や シンボリックな威容が まったく見られないことである。敷地は広大であっても、建物は いずれも小規模で、あたかも コティッジが散在する 牧歌的な別荘地でもあるかのようだ。かつてテントで移動していた遊牧民としての トルコ人の出自を反映しているのかもしれない。
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![]() ![]() 宗教と政治と軍事の すべての権力を併せもったスルタンの宮廷には、それぞれの機能に応じた さまざまの施設が必要とされた。外国の使節の謁見から 公衆の裁判まで執り行う外政の場には 公謁殿(ディーワーニ・アーム)や 各種の役所が、内政の場には 高官や官吏と接見する 内謁殿(ディーワーニ・ハース)から 政務室、文書館、近衛兵の宿舎までが、そして後宮(ハレム)には 王母と王妃、それに側室たちの生活の場、それを支える宦官や女官たちの寝所があった。さらに全体のサーヴィス部門として 厩舎や厨房、警護所などがあり、それらすべての建物の 機能的な配置と造営には 一種の都市計画が必要となる。
![]() (アンリ・スチールラン 『イスラムの建築文化』 1987 より) そうしたイスラームの宮廷地区の計画を、現存する建物群によって最もよく示しているのが、オスマン朝のトプカプ・サライと、アーグラをはじめとする ムガル朝の諸宮廷地区である。中でもトプカプ宮殿には、政治にも多大の影響力をおよぼしたハレムの諸施設が 完全に残されていて、スルタンの居所から 女官たちの浴室や病院にいたるまでが 明らかになっている。ところが、このハレムにも トプカプ宮全体にも、施設配置の基準になるような「軸線」というものがまったく無い。あたかも すべての建物は そのつど、空いている土地に、必要に応じて 建て増されていった結果である、とでもいうように。スルタンは、モスクやキュリエの造営には シナンのような宮廷建築家を起用したのに、宮廷の建築には 彼らの才能を欲しなかったのだろうか。
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イスラーム文化は中東の亜熱帯地域で出発したが、ずっと後に 近世の宮廷を発展させた トルコやインドは砂漠地帯ではなく、むしろ十分な降雨量のある、変化に富んだ自然の土地である。個々の建物や庭園は イスラームの刻印を押すべく 幾何学に基づいたとしても、都市計画や住区計画、そして宮殿配置は、むしろ日本のそれにも似て、小規模な施設の分散配置を選ぶ ことのほうが多かった。宮廷地区は 国家権力の表現としてのモニュメンタルなものであるよりも、住み心地のよい住居の延長として 構想されたのであって、ヴェルサイユ宮殿やシェーンブルン離宮のような巨大な建物は 忌避されたのである。
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19世紀後半に 新しいドルマバフチェ宮殿が 北方の新市街に建設されて スルタンが転居すると、トプカプ宮殿は「旧宮殿」となり、荒廃していった。1924年以来修復され、博物館として一般公開されている。
キョシュキュとは、ペルシア語のクシュク(kuşk)がトルコ語に入って キョシュキュ(köşkü)となったもので、離宮や園亭の意である。チニリ・キョシュキュはトプカプ宮殿の第1庭院にあり、メフメト2世が建てたという。タイル貼りのファサードの手前の柱廊は 18世紀の火災後の新設だが、優美なプロポーションのファサードを作っている。本体は 十字形プランの中央ホールの 対角上の四方に部屋をつくり、インドの五堂形式のようになっている。中央軸上の奥には、八角形の半割りの部屋を外に突き出している。建物は 今は考古博物館の別館として用いられていて、ここに アレクサンドロス大王の石棺や リュキアの石棺がある。
「グランド・バーザール」の名で観光客を集める伝統的な中央市場は、15世紀半ばに メフメト2世が設立した「イチ・ベデステン」(現在のグランド・バーザールの中心部で「オールド・バーザール」と呼ばれる)が始まりで、時代が進展するにつれて 巨大な市場になった。基本的には格子状の通路パターンを成しているが、小さな店が立ち並んで 群衆の熱気のあふれる全体は 迷路のような趣を呈している。 Sultan Selim I (Yavuz) Mosque & tomb, 1522-1527/8
スレイマニエ大帝は、父で第9代スルタンだったセリム1世 (位1512-1520) のために モスクと廟をイスタンブルに建設した。ヤウズ(冷酷者)と称されたセリム1世のモスクは、シナンの前任者である、ペルシア出身のアラーアッディーン( アジェム・エシル・アリ)の設計とされる。ハイレッティンによるエディルネのバヤジト2世(セリム1世の父)のモスクを手本として、単一ドームのキュービックなモスクとなった。モスクの両側に、エディルネと同じプランのタブハーネを設けている。全体に 内外とも装飾が過度でなく、むしろ禁欲的であるのが好もしい。しかし その派手さの欠如と、市の中心部から離れていることで、あまり参拝者や観光客は訪れない。天井の写真は、このページのトップの タイトル に使っている。 シェフザーデ・ジャーミイ(王子のモスク) ![]() シェフザーデとは「王の息子」の意。シナンの最初の大規模なモスクは、スレイマン帝の早世した王子、メフメトを記念する「王子のモスク」(シェフザーデ・ジャーミイ)だった。全体はキュリエをなし、モスク、廟、学院、隊商宿、イマーレト、タブハーネなどから成る。モスク自体は、聖ソフィア大聖堂が 中央ドームの前後に半ドーム天井を設けて、アプスに向けて非常に奥行きの深い空間にしていたのに対して、ここではシナンは中央ドームの 四方に半ドームを従えさせて正方形プランの礼拝室となし、構造的に安定させた。礼拝室の背後を墓地として、21歳で天然痘で死んだメフメトの廟を建てた。このキュリエは、もともとはスレイマン大帝自身のキュリエとして計画され、着工し、途中から息子メフメトのキュリエに変更したとも言われている。
![]() ![]() ![]() ![]() シナンは、次いで スレイマン帝自身の大モスクを イスタンブルの一番高い丘の上に建てることを命じられる。彼は4本のスレンダーなミナレットを 従えた大小のドーム屋根によるアンサンブルで 首都の頂部に聳える一大モニュメント「スレイマニエ」を実現し、イスタンブルの都市景観を決定したのである。モスクの周囲には 多くの学院や病院、修道所、救貧院などを配して、キュリエと呼ばれる一大公共施設群に 統一したデザインをほどこしている。パトロンであったスレイマン帝は このスレイマニエの完成の7年後に死去したので、シナンはモスクの後庭に、すでに世を去っていた王妃のハセキ・ヒュッレムの廟とともに、スレイマン帝の廟を建てた。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの ![]() Haseki Hürrem Hamam, 1556
イスラームの都市や建築に欠かせない要素に、浴場がある。身体の清潔を重んじたイスラームでは、とりわけ礼拝の前に体を浄めるべきことを『クルアーン』は繰り返し説いていて、それはモスクの中庭の浄めの泉となった。浴場(ハンマーム)の施設は、ムスリムが征服していった古代ローマ領地の各地に見出し、その方式を採り入れたと考えられる。
![]() (From "A History of Ottoman Architectue" by Godfrey Goodwin, 1971) ![]() Rüstem Paşa Camii, 1561
リュステム・パシャは大宰相で、スレイマン大帝の娘婿だった。モスクの竣工の前年に死去したので、妻のミフリマフ・スルタンが引き継いだという。この密集市街地タイプのモスクは イスタンブルの繁華街のエミノニュにあるので、1階は店舗と倉庫にあて、その上の6メートルの高さに「人工土地」を作り、そこを礼拝室の床と 前面の広いテラスにしている。参拝者は まずここに上がって、アーケードを通して市街を眺めおろしながら 礼拝室に入る、という構成が特異である。逆に 下の喧騒の街からは 外観が ほとんど見えないので、内部に意匠がこらされ、特にタイル装飾の見事さで知られる。 ![]() Mihrimah Sultan Camii, in the 1560's
このミフリマフ・モスクは、イスタンブルの西側の市壁の エディルネ門の近くにある。もう一つのミフリマフ・モスクは、ウスキュダル(アジア側のイスタンブル)にある。区別するために、両者はエディルネ・カプ・モスクとイスケレ・モスクと呼ばれることもある。どちらもシナンの設計。ミフリマフ(1522ー1578)はスレイマン大帝とハセキ・ヒュッレム妃の娘で、大宰相 リュステム・パシャの妻である。
![]() ![]() (アンリ・スチールラン『イスラムの建築文化』1987 より)
リュステム・パシャのキャラバンサライ
シナンが設計したキャラバンサライ(隊商宿)で、現在はホテルに転用されている。
ヒュスレヴ・パシャのモスク
ヴァンの郊外(オールド・ヴァン)に シナンが設計した 小モスク、キョセ・ヒュスレヴ・パシャ・モスクと、その近くに建つ カヤ・チェレビ・モスク(別の設計者による)。どちらも特に優れたモスクというわけではないが、単独に建つ単一ドームのモスクの典型として、ここに掲げる。東欧、特にブルガリアのモスクの原型のようなモスクである。どちらの外壁もミナレットも 石の色によるストライプ模様になっているのは、シリア建築の影響であろう。2006年の撮影当時、内部は非常に荒廃していたが、今は修復されていることだろう。
セリミエ(セリム2世のモスク) スレイマン帝の跡を継いだセリム2世は、自身に関係の深いエディルネの町の丘の上に、スレイマニエに匹敵する大モスクを建てることを 80歳になるシナンに命じた。セリム2世はその完成の前年に死去してしまうので、シナンは モスクの完成を見せられなかったが、次のムラト3世のモスクをマニサに設計することになるので、一度も失脚することなく、スレイマン大帝以下3代のスルタンに仕えたことになる。衰えることのない創作意欲を持ち続けたシナンは、大ドームの さまざまな架構法を試み続けてきたが、セリミエにおいては 8本の柱に架かる8つの連続アーチによって、ついに聖ソフィアを凌駕する 直径 32メートルの大ドーム屋根を 軽やかに支持したのである。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの
ミフリマフ・スルタンのモスク イスタンブルのアジア側をウスキュダル Üsküdar という。ヨーロッパ側から船で行って、船着き場の向かいにあるのが、シナンの晩年の作品、ミフリマフ・スルタン(スレイマン大帝の娘)のモスクである。もう一つのミフリマフ・スルタンのモスクは前述のように、イスタンブルの正反対側、西のエディルネ門の近くにある。どちらもシナンの設計で、こちらのキュリエはモスク、マドラサ、廟、寺小屋から成る。
![]() ミフリマフ・スルタンのモスク 平面図 (From "A History of Ottoman Architectue" by Godfrey Goodwin, 1971)
ムラディエ(ムラト3世のモスク)
シナンの最後の作品は イスタンブルのずっと南、イズミールの近くの地方都市マニサにあるムラディエ(ムラト3世のモスク)である。シナンが最後に仕えたスルタン、ムラト3世 (位 1574-95) は セリム2世の息子で、そのあとを継いで第12代スルタンとなると マニサを首都としたので、ここには 古建築の遺構がいくつもある。ムラディエもキュリエをなしていて、 隣にマドラサがあり、さらに隣には宿泊所があったという。シナンが老齢だったので、セデフカル・メフメト・アー (Sedefkar Mehmed Agha) が完成させた。モスクは三方に 半クロイスター・ヴォールト天井をかけるが、前面は 入口からすぐに主ドームの空間に入るので、幅広矩形の礼拝室となっている。ミフラーブまわりの装飾が華々しい。
スルタン・アフメトのモスク(ブルーモスク)
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スルタン・アフメト・ジャーミイ(アフメト1世のモスク)は そのロケーションの良さから、観光客には「ブルー・モスク」の名で、イスタンブルで最もよく知られるモスクとなった。しかしミナレットを6本も建てるような巨大趣味は、かならずしも高度な芸術的達成を生まなかった。とりわけ、大ドームを支える4本の剛柱の造形上の鈍重さは、耐え難い。設計は メフメト・アー。 ![]() ![]()
正しくはイェニ・ヴァーリデ・モスクだが、単にイェニ・ジャーミと呼ばれている。スルタン・ムラト3世の妻でメフメト3世の母にあたるサフィーエ・スルタンによって1597年に建設が開始されたが、数度のスルタン位の継承によって、完成までに半世紀以上も要した。イスタンブルの商業中心(シルケジ)に、シナンの弟子のダヴト・アーの設計によるが、1599年に彼が死んだあとは ダルジチュ、アフメト・チャヴシュによって引き継がれた。1660年の大火で損傷を受け、スルタン・アフメト4世の母によって 1663年に再建された。中央ドームの四方に半ドームを架けて推力を受けるシェフザーデ・モスクの型だが、各部のプロポーションの良さと 天井の見事な装飾とあわせ、トルコ型モスクの中で、天井見上げの姿が 最も調和のとれた美しい造形になっている。 イスハク・パシャ宮殿 Ishak Paşa Palace, 1685-1784
ドウバヤズトはトルコとイランの国境沿いの町で、陸路で国境を超えるときには、 たいてい その郊外の イスハク・パシャ宮殿を訪れる。これはオスマン朝の宮殿ではなく、クルド系の地方領主の宮殿で、オスマン朝の都からは遠く離れた地のゆえに 戦争にあうこともなく、独立を保ち、よく保存されている。 山上に孤立して 幻想的に建つ、この セルジューク朝の伝統をひく イスハク・パシャ宮殿は、アルメニア人とジョージア人の工匠の手によるであろう石造建築と彫刻の 手技を見せてくれる。門をはいると2つの中庭が継起し、奥の中庭にはミナレットを備えたモスクが面し、さらに奥に小型のハレムがある。 アフメト3世の泉亭 トプカプ宮殿の表敬門 (Bab-i-Hümayun) の前面に独立して建つ ピクチュアレスクなチェシュメ(泉亭)。四面の中央に吐水口があるが、四隅に格子のはいった3連の窓がサビール(給水所)で、中の係員がここからも人々に水を与えた。大屋根には5つの小堂が立っていて、インドの五堂形式(パンチャーヤタナ)を思わせる。イスタンブルのアジア側であるウスキュダルに残るものは同規模であるが ずっと簡素で、大屋根の上の塔も、四隅のサビールも無い。
![]() リズヴァニエ・モスク Rizvaniye Mosque, 1721
預言者アブラハムゆかりのバルクル・ギョル (Balikli Göl) 池に面して建つ 近代のモスクで、池の大きさは約 30m × 50m、トルコにおける水辺の建築の最良の作例である。このモスクの窓からは池が眺められ、水辺のテラスは親水空間になっている。この背後に 中庭を共有するマドラサがあり、その奥には庭園がある。池の対面側にはハリーリュッラフマン・モスクがあり、全体として大きなキュリエをなしている。この周囲は広大な公園になっていて、ウルファ市民の最大の憩いの場である。 ![]() バルクル・キュリエ 平面図 (From the website "TDV Islâm Ansiklopedisi")
伝統的民家保存修景都市
トルコで最も多くの伝統的木造民家が残るのは、アンカラの北方のサフランボルで、伝統的民家保存修景都市として、1994年にユネスコ世界遺産にも登録されている。都市の名前は、サフランの花の産地であることから、サフランボルと名づけられた。どこの都市の古い町並みとも同じように、家々の壁は白く塗られ、屋根は赤茶色の瓦で覆われている。 内部が保存公開されている民家も多くある。ホテルになっている古民家に泊まるのも楽しい。
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![]() 木造民家を研究した美麗な本。 カラーを含む図版多数。
ヌルオスマニエとは「オスマンの光」の意で、スルタン、オスマン3世(位1754-57)が建立した。欧風化した18世紀の、トルコで最初のバロック様式のモスクと言われるが、中庭が矩形でなく 半円弧を描いていること以外は、バロックの本質とも言える「歪んだ美学」の印象は少ない。正方形プランのキュービックな空間の四面のファサードに大きなアーチを描いている外観は シナンのミフリマフ・モスクの踏襲と言える。以後のバロック的モスクは 皆 これに倣うことになる。 ![]() 平面図 (From "A History of Ottoman Architecture" by Godfrey Goodwin)
トルコで 最も ヨーロッパのバロック様式に近い外観の建物で、ナクシディル・ヴァーリデ・スルタンの廟。ヴァーリデとは母の意で、マフムト2世(位 1808-39)の母にあたる。廟とサビール(給水所)の間が 境内への門になっている。ファーティフ・モスクの近くにある。
![]() ![]() ![]() 19世紀のバロック期のモスクを代表する2作品で、どちらもアルメニア人の建築家一家、バルヤン家のメンバーの設計(オルタキョイ・モスクはニゴアヨス ・バルヤン、ドルマバフチェ・モスクはガラベト・バルヤン)。前者は水辺の繊細なデザインであり、後者は大胆な造形のファサードが印象的である、どちらもバロック・ロココ風のインテリア・デザインをしていて、古典的なオスマン・モスクを見慣れた人は 目を見張るだろう。正方形プランのキュービックな礼拝空間の四面の壁を垂直に立ち上げ、大アーチを架けるのはミフリマフ・モスクから続いてきた方法だが、それを支える四隅の剛柱まわりの複雑な形態が、これら二つのモスクでは完全に単純化されている。こうした方法を発展させたのが、バルヤン家の建築家たちであった。
![]() ![]() 19世紀のネオ・バロックの宮殿(サライ)。インドの近世のマハーラージャたちと同じように、19世紀から20世紀にかけてのスルタンや王族たちは 西洋風の生活に慣れ親しみ、ヨーロッパ風の宮殿を建てた。ボスフォラス海峡に面する このオスマン朝の大宮殿も、トプカプ宮殿とはまったく異なった フランスやドイツの宮殿スタイルで、ヨーロッパ帰りのバルヤン家の建築家の設計という。1843年にオスマン帝国、第31代皇帝アブデュルメジト1世(Abd-ul-Mejid I, 1823-1861)の命により着工され、1856年に完成した。私が訪れたのが休館日にあたってしまい、内部の写真は撮れなかった。ドルマバフチェとは「庭園で満ちた」という意味。
(1923− )
ケマル・アタチュルク廟(アヌト・カビル)
トルコ共和国は政教分離を基本にしたので、共和国建国の父 ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881-1938)の廟もイスラーム建築とは言えないが、戦時中の 1941年に国際コンペで選ばれた設計はトルコ人建築家のエミン・オナト (1908-61, Emin Onat) とアフメト・オルハン・アルダ (Ahmet Orhan Arda)による。アンカラの中心部にある丘の上に建てられ、RC造をトラバーチンで仕上げた。造形的には 伝統への寄りかかりを排し、近代建築としてシンプルな幾何学的形態をとっているが、内部には ガラス・モザイクなどの古典的装飾を新しい美学で施している。 高さ27m。葬儀計画を立てたのは、ブルーノ・タウトだったという。
トルコの建築家の第一世代では セダッド・エルデムが名高いが、モスク建築に新紀元を画したのは、第二世代のアルトゥー、ベフルーズ 父子(Behruz & Can Çinci)グループが設計した、国会議事堂の付属モスクである。 ![]() 平面図 (From "Architecture for a Changing World" 1996, FISA) ここでは伝統の再解釈が試みられ、ステレオタイプのトルコ風モスクとはまったく異なる 意欲的な設計となった。まず 屋根はドームではなく 階段状に盛り上がる陸屋根とし、ミナレットは塔ではなく2段の四角いテラスとした。極めつきはミフラーブで、半円形の壁のニッチとはせず、背後の庭園に開かれたガラス・スクリーンで構成されている。ミフラーブというのは祭壇を置く場所ではなく、その意味するところが 来世への門だとすれば、楽園としての庭園に向かう開口部としてデザインするのは 理にかなっている。こうした革新的なモスクを実現しているにもかかわらず、21世紀の東京に建てたモスク(東京ジャーミイ)が オスマン・トルコ風のリバイバル様式であったのは、ずいぶん後ろ向きの姿勢だと言わねばならない。
![]() これらはイスラーム建築ではなく、トルコの現代デザイン。20年前のイスタンブル各地で見かけたものだが、ATMブースも トラム(市街電車)も、デザインが 日本より ずっと優れていた。当時のトルコはドイツと関係が深かったから、モダン・デザインも ドイツの影響が濃かった。
詳しい目録は『イスラーム建築文献目録』の「 I. トルコと東欧の建築 」のページを参照。
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THE ART AND ARCHITECTURE OF TURKEY Written by Ekrem Akurgal, 1980, Rizzoli, New York, 31cm-270pp. 古代から近世までのトルコの美術と建築を手際よく概説した美術書。 Leo Hilber のカラーおよびモノクロの写真もよく、図面も多く収録している。ハードバックなのに 糸綴じでなく 無線綴じなのが難。
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TURKISH ART AND ARCHITECTURE Written by Oktay Aslanapa, 1971, Praeger, New York, 29cm-420pp. やや古いが、中世から近世までのトルコのイスラーム建築と美術を、歴史順に詳細に解説した書。 写真はモノクロが多いが 豊富で 大きく、図面も多く収録していて、有用な本である。オスマン朝の建築よりもセルジューク朝時代の建築を詳しく扱っているのは普通と違うが、それが逆に有用である。
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CONSTANTINOPLE, Istanbul's Historical Heritage Written by Paul Deschampt, 1964, Zodiaque, L'Abbeye Sainte-Marie de la Piere-Qui-Vire, Yonne, 22cm-328pp. キリスト教時代のコンスタンチノープル、すなわちイスラーム時代のイスタンブルの、建築を中心とする文化遺産を 古代から歴史順にたどるオールカラーの豪華本なのに 値段が安い、一般向けの本。
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OTTOMAN ARCHITECTURE Written by Doĝan Kuban, translated by Adair Mill, photography by Cemal Emden, 2007 Turkish ed, 2010 English ed. Antique Collector’s Book, 32cm-720pp. オスマン建築を集大成した記念碑的出版。トルコ建築史の碩学 ドアン・クバンによるトルコ語版 “OSMANLI MIMARISI” の英訳版。57章、720ページにわたって時代順にオスマン建築を総覧し、すべてハイレベルのカラー写真と図面を付して詳述する。重さが4キログラムもある大部の本だが、オスマン建築を愛する人の座右の書である。
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SOLIMAN et l'Architecture Ottomane Written by Henri Stierlin, Office du Livre, 1985, 25 x 25cm-220pp. 『イスラムの建築文化』を書いたアンリ・スチールランの新しいシリーズ「大建設者の軌跡」の1冊で、オスマン・トルコを絶頂に導いた皇帝スレイマンと、それを支えて幾多の名作を設計した建築家シナンの歩みを 豊富なカラー写真と図面を添えながら叙述する。本文仏文、スレイマンは仏語でソリマンという。
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THE AGE OF SINAN, Architectural Culture in the Ottoman Empire Written by Gülru Necipoglu, 2005, Princeton University Press, Princeton and Oxford, 29cm-592pp. シナンの作品を芸術的達成としてだけでなく、オスマン朝の皇帝をはじめとする諸パトロンの要請にしたがっ て機能的、社会的、経済的に実現していった軌跡を、パトロンごとに分けて、膨大な文書を参照しつつ探求した、トルコの ギュルル・ネジポールによる浩瀚な著作。 挿入された大量の写真(Reha Günay)や平面図、アクソメ図も質が高く 充実している。
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THE MIRACLE OF DIVRIGI An Essay on the Art of Islamic Ornamentation in Seljuks Times, written by Dogan Kuban, translated by Nancy F. Ozturk, 2001, Yepi Kredi Yaynlari, istanbul, 34cm-230pp. セルジューク朝時代のトルコ建築を代表する建築作品、ディヴリイのウル・ジャーミ(大モスク)と病院の複合体を紹介し、その特異な装飾を論じる大型本。ドアン・クバン著、カラー写真をはじめとする図版満載。
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SAFRANBOLU HOUSES and Tradition of Turkish Houses Written by Reha Gunay, 1998, Yapi-Endustri Merkei Yayinlari, paperback, 30cm-360pp. ユネスコ世界遺産に登録されている サフランボルの町の木造民家を研究した美麗な本。 カラーを含む図版多数。トルコの伝統的住宅建築を知る上で必須。 ( 2020 /09/ 01 )
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