CLASSIFICATION of ISLAMIC ARCHITECTURE
イスラーム建築の種別ー10

公共施設複合体(キュリエ)

神谷武夫

キュリエ
ブルサの メフメト1世のキュリエ(トルコ)


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公共施設 複合体 (キュリエ)

 イスラーム圏においては、住民の福祉のための公共施設の建設が 中世から盛んであった。前述した学院や病院、公衆浴場や隊商宿、後述する市場や救貧院、水路や給水所など、市民が社会生活を営むうえで不可欠の施設が、他のどんな文明よりも 多く見られる。キリスト教では 教会が学校や病院を併設することがあったが、イスラームには教会制度がないので、モスクがそうした施設の出資者となることはない。また近代では 行政が税金によって公共建築を維持・建設するのだが、イスラーム社会では 必ずしも国家が公共建築を運営したわけではなかった。

 では、何が かくも多くの施設を可能にさせたかというと、それは ワクフとよばれる寄進制度である。王侯貴族に限らず、個人の 資産のある人なら誰でも、その私財や収益を慈善的目的に用いるために 一種の財団を設立し、私権を永久に停止、放棄することができた。ワクフの語は本来「停止」の意で、所有権や譲渡権の放棄を意味し、また慈善施設の財源や 運営組織をさしても用いられた。多くの場合、寄進者あるいはその子孫が 管財人(ムタワッリー)となるので、財産を分散させない、あるいは均分相続による細分化を避ける という利点もあった。

キュリエ
スルタン・ムアイヤドのキュリエ、1420年(エジプト)

 通常は 特定の慈善目的に用いられるが、寄進財産が多ければ 施設は大規模となり、また異なる機能の施設を 併設することにもなった。とくに 王侯が自身の廟を建てる場合、前述のように、墓廟は本来 イスラームの教義に矛盾するものであるから、これをワクフとして 宗教的施設を併設することによって、社会に受け入れられやすくすることもできた。カイロのバルクーク廟の複合体は その典型である。

トルコの キュリエ

キュリエ
バヤジト2世のキュリエ、15世紀、エディルネ

 そのようにして、他の文明には あまり見られない公共施設複合体が、多くの場合 モスクを中心としながら イスラーム圏の諸所に建設された。これをトルコ語で「キュリエ」といい、とりわけオスマン朝において 大発展することになる。最初のキュリエといわれる ブルサのバヤジト1世の施設(14世紀末)では、モスク、学院、廟、浴場、隊商宿、修道所が、並列して建てらたという。次のメフメト1世のキュリエも 同じく分散型で、緑色(イェシル)のタイルで飾られたことから、イェシル・キュリエと呼ばれている。

平面図

分散型のイェシル・キュリエ 平面図(ブルサ)
(U ・V・ギョクニル『トルコ』美術出版社 「世界の建築」 1967 より

 やがて これらの施設は、より有機的に結合された グリッド・プランの上の複合体となる。これを代表するのが、前節でも見た エディルネの バヤジト2世のキュリエで、宮廷建築家のハイレッティンが設計した。ここには スルタンの廟はなく、モスクと病院、医学校、宿泊所、救貧食堂から成る。全体のプランは左右対称ではないが、すべてが格子のグリッドと、交差する軸線の上に乗って、まるでプレキャスト・コンクリートのプレファブ建築のように、アーチ、ドーム、尖塔が リズミカルに反復し 伸び広がっている。イスラームの 幾何学的精神というものを、これほどよく示す建築アンサンブルは ない。

キュリエ
イスタンブルのスレイマニエ・キュリエ、1557年(トルコ)
キュリエ全体の平面図は ここ

 シナンの手になる セリミエのキュリエでは、弟子のダウド・アーが バーザール(店舗街)を設計して 付加した。現代の目からは、公共建築と商業建築との複合というのは 奇妙に映るかもしれない。しかし、ムハンマドが もともとは商人であったことが示すように、イスラームというのは きわめて実際的な宗教であって、商業施設とモスクとは 何ら矛盾なく共存していた。というより、ワクフにとっては 施設維持のための財源として、バーザール、ハンマーム、ハーンといった要素は必須であった。最初の寄進財産は 建設費に用いられ、商業施設の賃貸料や使用料が 維持費に充てられる。管財人は慈善事業の遂行とともに、そうした 収益をあげる経営手腕をも 期待されたのである。

エジプトの キュリエ

キュリエ
カイロの スルタン・カラーウーンの複合体、1285年(エジプト)

平面図

スルタン・カラーウーンの複合体の 図式化した平面図(カイロ)
(From MAMLUK ART [Islamic Art in the Mediterranean] :
Mohamed Hassam El-Din, 2001, Electa, Vienna)

 トルコと並んで、マムルーク朝のエジプトにおいても、ワクフによる公共施設の複合体が 多く建てられた。スルタン・カラーウーンの複合体は とくに有名で、廟と学院に 大規模な病院が併設された。今は 病院部分が失われているが、数百人の医師や従業員が ここで働いていたと考えられる。道路に面するファサードは 廟と学院の一部だけで、病院は まったく外観というものがなく、カイロ建築の常のように 中庭から採光・通風をとった。進入路は 廟とマドラサにはさまれた所にあり、この通路の奥で3つの施設に分岐した。ワクフの根本は宗教的慈善であるので、学院と廟を マッカの方向に向けるために、進入路から 180度の方向転換をしている。

( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)


● カイロの『バルクーク廟の複合体』(エジプト)については、
「イスラーム建築の名作」のサイトの「バルクーク廟+修道場 複合体 」を参照。

● イスタンブルの『スレイマニエ』と、エディルネの『セリミセ』(トルコ)については、
「イスラーム建築の名作」のサイトの「スレイマニエ と セリミエ 」を参照。

● エディルネの『バヤジト2世のキュリエ』(トルコ)については、
「イスラーム建築の名作」のサイトの「バヤジトII世の キュリエと宮殿 」を参照。


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