クリュニー会とシトー会
エジプトに始まった共住修道院は、キリスト教世界に広く定着するにつれて、修道士の生活を律する会則(戒律)が作られた。東方キリスト教では聖バシレイオスの会則、西方キリスト教では聖ベネディクトゥスの会則が最もよく用いられ、後者の修道院をさして ベネディクト会と呼ぶようになる。
それを組織化して巨大な修道院王国としたのは、フランスのクリュニーに本山を置く クリュニー会であった。ヨーロッパ中に 1500 もの分院を作ったといわれる クリュニーの大修道院には 富が集積し、修道士たちは肉体労働から離れて、ひたすら典礼にいそしみ、修道院の建物は きらびやかに装飾された。
聖堂の身廊から側廊を見る
こうした あり方に異議を唱えたのが、11世紀も後半のフランスの修道士、ローベルトゥスと その同志である。「完徳」の生活を求め、華美をすて、生成りの白い僧服に身を包んで、寂寥の地 モレームに、そして シトーに修道院を建てたので、これをシトー会と呼ぶことになる。 彼らは「祈り、働け」の標語のとおり、農業による自給自足の生活をしながら 禁欲的な修道に身を挺した。 修道院の建物からは一切の装飾を追放し、彫刻や壁画のない、厳格な石の建物を求めた。
フォントネー修道院 平面図
(From "L'Art Cistercien" by Pere M. Dimier, 1984, Zodiaque)
単純・簡素・無飾の修道院建築
この改革修道院は クリュニーに対するアンチ・テーゼとして、急速にフランス中に、そしてヨーロッパ中へと広まり、各地に無装飾の修道院建築を建てたのである。
その最も古いものの一つで、ブルゴーニュ地方に今も残るのは、フォントネー修道院である。その飾り気のない聖堂は、まるで農家の大きな納屋のように見える。石の厚い壁、小さな開口部、厳格なアーチの連なり、そうした禁欲的な秩序で構成される建物は、写真で見ている限り、特に素晴らしい建築作品のようには見えない。ところが、実際に訪れてそこに身を置くと、その幾何学的秩序と ほの暗い内部空間、そして回廊で囲まれた中庭(クロイスター)は、訪れる人に深い精神的充足感を与えてくれる。
宗教(信仰心)と建築との、これほど幸福な結合を見せてくれる宗教建築は、シトー会の修道院をおいてない。それは、ロマネスク建築の一つの典型を形成した。
集会室のステンドグラス
だが、本当に ここには一切の装飾がないのだろうか。実用性と構造的必要だけで成立しているのだろうか。
そうではあるまい。どんなに厳格な条件を課そうとも、人間の表現意欲や美への欲求を根絶することはできない。そうである以上、単純、簡素、無飾性をめざしたシトー会の修道院にも 芸術がしのびこむ。
彫刻や壁画を禁じられた修道士 建築家たちの造形意欲は、したがって建築に集中したのである。精緻に刻まれた切石で 完璧に組み上げられた石のマッスに囲まれた空間は、小さな窓から差し込む光の反射で照射されながら、深い内面的な美を生み出したのである。
クロイスター(回廊で囲まれた中庭)
そこには極めて抑制された装飾、もっぱら建築的モチーフによる装飾がある。たとえばクロイスターの回廊は、剛柱から剛柱へと架け渡されたアーチの列からなるが、その大きなアーチの各中央に円柱を1本立て、2連の小アーチを挿入している。これは実用性に基づくわけでもなければ、構造的に必要なわけでもない。回廊を美しくするための装飾である。
しかし、それが自己顕示的な彫刻や絵画でなく、円柱やアーチといった建築的モチーフによってなされているが故に、装飾とは気づかれないだけである。「宗教建築」を最も宗教的に見せるのは、この「抑制された」美の表現、ということではあるまいか。
( 2004年3月「中外日報」)
< 付言 >
シトー会の厳格な修道院も、何世紀もたつうちに 次第に規律がゆるみ、建築も装飾的なものへと変っていった。19世紀、そのシトー会に改革運動を起こして 初心に戻したのは、フランスの ラ・トラップの修道院長 ランセと その弟子たちであった。
このトラップ系の 厳律シトー会の修道院は 男子のものを トラピスト修道院、女子のものを トラピスチーヌ修道院と呼び、日本では函館に設けられている。その修道院建築と そこでの修道士たちの姿は『トラピスチヌ大修道院』(間世潜、1954、トラピスチヌ写真刊行会)に見ることができる。
● 「古書の愉しみ」のページに、「ラ・ニュイ・デ・タン叢書」の『シトー会の修道院』について書きました。
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