GALLERY of WORLD ARCHITECTURE
モヘンジョ・ダーロ(パキスタン)
モヘンジョ・ダーロの考古遺跡
神谷武夫
モヘンジョ・ダ-ロ
パキスタン・イスラーム共和国、シンド州、カラチの北約300km
1980年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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 1920年代の初め、ひとりのインド人考古学者の好奇心が、インダス河流域の丘陵に埋まっていた青銅器時代の都市遺跡、モヘンジョ・ダーロの発見へとつながった(現地の発音はモエンジョ・ダーロ)。 それは整然とした都市計画にのっとった、ハラッパー文化ともよばれるインダス文明の最大の都市であった。 モヘンジョ・ダーロの発見後、インド史は書きかえを余儀なくされた。 これらハラッパーとモヘンジョ・ダーロのふたつの都市に代表されるインダス文明が、いわゆるアーリヤ人の侵入以前にさかのぼることが判明したからである。 この文明を破壊したのがアーリヤ人だという可能性も、捨て去ることはできない。



忘れ去られた都市

 あの大きな丘の下には何が埋まっているのだろうかと、インド人考古学者 R.D.バネルジーは、シンド地方のインダス河近くにそびえる丘陵を想うとき、好奇心に身を焦がしたものだった。最初の発掘は 1922年に始まったが、ほんのわずか掘っただけで壁の遺構が出てきた。その途方もない規模に、学界は色めきたった。

 バネルジーの発見したものが、ハラッパーと並んで 4500年前に始まったと推定されるインダス文明を代表する遺跡であることが、ほどなく判明した。その都市は「死者の丘」を意味するモヘンジョ・ダーロとよばれた。インダス文明が最盛期を迎えるのは紀元前 2300年頃から前 2000年頃にかけてであるが、モヘンジョ・ダーロはその時代に、整然とした都市計画と高度な技術によってインダス河流域に建設された大都市のひとつである。しかしこの広大な遺跡の発掘は、今日にいたってもまだ 3分の 1しか行われていない。

モヘンジョ・ダーロ
ハラッパー のインダス文明遺跡

 20世紀になってインダス河流域で行われた発掘のうち、モヘンジョ・ダーロほど印象の深いものはない。発見された時点では、遺構がまだかなり良好な状態に保たれていた。そしてこの遺跡発見とともに、従来の説の誤りがわかった。それまでは、文学や美術、そして建築の分野におけるインドの古代文明の発祥は、中央アジアから南下してきたアーリヤ人の到来後と信じられていたからである。

モヘンジョ・ダーロの発掘地図

 モヘンジョ・ダーロはバネルジーの手で忘却の淵からすくいあげられた。しかし依然として数多くのインダス文明の謎が解明を待っている。放射性同位元素の炭素 14による年代測定法のおかげで、1950年代にさまざまな分野で有機物の年代を知ることが可能となった。だがこれまでのところ、インダス文字や記号を解読して当時の宗教や政治や社会について知ろうとする試みは、どれも中途で挫折している。

衛生的な市街地区

 モヘンジョ・ダーロでは、この文明のほかの発掘都市と同じように、東を市街地、西を城塞が占めている。市街地のほうが古く、丘陵の下の広範囲に広がる。ここでは道路が整然と碁盤目状をなし、大通りが南北に 3本、東西に 2本が直交していた。そしてレンガ造の建物が四角いブロックごとにまとめられている点は ハラッパーの都市と同様である。ちなみにハラッパーのレンガ造の建物は、1857年に行われたラホールとムルターン間の鉄道敷設工事の際、遺跡の煉瓦が敷き砂利として奪い取られ、すっかり破壊されてしまった。

  
モヘンジョ・ダーロ HR地区の発掘平面図と細街路

 特筆すべきことは、よく整備された下水道網が建物のあいだにはりめぐらされていたことである。また一定間隔で排水口が設置され、ごみで溝がふさがらないようにもなっていた。さまざまな形の住宅が何百と混在することからすると、社会構造は複雑だったにちがいない。住宅の建ち並ぶ区画は、多くが 2階分の高さの厚い壁に守られていた。大通りに面する壁面には開口部がなく、入り口はどれも小路側に設けられていた。各戸は専用の井戸をそなえていることが多く、また出土品からは、中庭に面する窓にアラバスターや粘土製の格子がついていたと考えられる。

 当時からすでにインダス河の氾濫(はんらん)は恐れられていた。低地の市街では氾濫に対応すべく、日乾しレンガを積み重ねて壇をつくり、その上に焼成レンガで建物を建てていた。それでもなお、雨季には通常の 16倍にもふくれあがる河水は、河岸近くの一帯をくりかえし浸したらしい。これはインダス河本流近くの「第 1大通り」とよばれる通りの建物が、そっくりそのままの形で残っているおかげで推測することができる。

モヘンジョ・ダーロ
早朝のモヘンジョ・ダーロ遺跡

丘の上の城塞地区

 8ヘクタールを占める西側の人工丘の城塞には、モヘンジョ・ダーロの公共の建物が並んでいた。しかし壮大な王宮や墓廟、神殿といったものは見出せない。おそらく強大な王権というものが存在せず、住民の福祉のほうが優先されたということが、インダス文明の大きな特徴である。
 城塞においても建物を建てる際には、まず日乾しレンガと泥土で壇が設けられ、それを囲むように焼成レンガの壁がつくられた。都市の上層階級は、この城塞に住んでいたのかもしれない。調査が進むにつれ、城塞は当時インダス河から 30メートルの高さにあったらしいことがわかってきた。

   
モヘンジョ・ダーロ 城塞部と大 沐浴場 平面図

 城塞には「大沐浴場」とされるプールがある。これは 7メートルに 12メートルの大きさで、5つの矩形(くけい)のテラスに囲まれていた。沐浴場の北側と南側の中央には、それぞれ水面に降りるための 9段の階段がついている。沐浴場の壁はレンガを密着させて精巧につくられていたが、その裏には防水用のタールが 3センチメートルの厚さに塗られていた。プールの下には下水道がとおっていて、この沐浴場もまた、都市全体の下水道網につながっていた。これは一般信者用だったに違いない。祭司用には近くに別の沐浴場があって、こちらは考古学者が学問所とよぶ建物と並んで、いわば宗教エリート用であった。

  
城塞部の 大 沐浴場と、HR地区の井戸のある住戸

 大沐浴場の西側には 27個のレンガ・ブロックを並べた台があり、その上には大きな矩形の建物が建っていた。これは穀物倉庫だったとみてほぼまちがいない。風通しをよくする工夫がなされていて、貯蔵された穀物が腐るのを防いでいた。4,000年前のインダス河流域の気候は、今より気温が低くて雨量が多く、農業生産がより豊かだったらしい。また城塞の南側には、会堂と考えられる大きな建物もあった。その内部は 4列の柱によって 5廊式になっている。

多様な美術工芸品

 考古学者たちは城塞からの出土品によって、インダス文明の解明が大いに進むものと期待したが、ぬかよろこびに終わった。最も重要な発見は、額に細い布を巻き、マントをつけた高位の人物の凍石像である。メソポタミアの国王像との類似や、聖なる印である三つ葉紋様のついた衣服をまとっていることから、この像は「神官王」と名づけられた。

モヘンジョ・ダーロ
モヘンジョ・ダーロ発掘の神官王レプリカ

 インダス文明は広い範囲にわたり、北はヒマラヤ山麓から南はキャンベイ湾、西はマクラーン地方から東は現在のデリー付近までがその影響下にあり、インド亜大陸における都市文明の発展をもうながした。しかしながら彫刻作品ということになると、その芸術的遺産は貧弱といわざるをえない。十字形や格子状や車輪形の装飾品、あるいは動物をモティーフとした作品がわずかながら発見されてはいるが、これらからインダス文明が美術的にすぐれた文明だったというわけにはいかない。
 だが発掘された宝石のすばらしさについては、イギリス人考古学者のジョン・マーシャルも感嘆を禁じえず、こうもらしたという。「じつにみごとに加工・研磨されていて、ロンドンの宝石店からもってきたといってもおかしくない」。
 ここでは、愛の女神イシュタルの姿を彫ったシュメールの印章も発見されている。この地の商人が各地に散って、広範囲に交易を営んでいたことを物語っている。また発見された金の小片は、重量がほぼ正確に 100ミリグラム、250ミリグラム、300ミリグラムになっている。モヘンジョ・ダーロで十進法が知られていたことは、まずまちがいない。

文明の滅亡と遺跡の保存

モヘンジョ・ダーロの都市が滅びた理由は、まだよくわからない。大洪水の跡がみとめられる一方、前 15世紀頃に侵入してきたアーリヤ民族による破壊ということも考えられる。無理な姿勢をとった人骨群や切り傷のある頭蓋骨が発掘されていることや、インダス文明には存在しないはずの斧や矢や槍が出土していることは、大虐殺のあったことを示す証拠といえるかもしれない。

 モヘンジョ・ダーロはパキスタンにある世界遺産のうち、最も崩壊の危険性が高い。城塞については発掘されてまもなく、壁に付着していた塩分が空気と雨の作用をうけて結晶化を始め、レンガが崩れだした。また 1932年にインダス河から引かれた灌漑設備は、周囲の地下水の水位を上げ、そのためこれ以上深く発掘することもできない状態になっている。

モヘンジョ・ダーロ
モヘンジョ・ダーロ遺跡 修復風景

 傷んだレンガを新しいものに取り替えていったにもかかわらず、1960年代の初めには遺跡の崩壊は不可避と思われた。そこでパキスタン政府の訴えによって、ユネスコが各国に支援のよびかけを行った。こうして集められた資金で、地下水位を下げるための設備がほどこされ、また稲作の禁止区域も決められた。しかし今もなお崩壊の危機は去っていない。

アーリヤ人

 「アーリヤ人」とはインド・ヨーロッパ語系諸族の一派で、インドおよびイランに定住した民族をさす。原住地がどこなのか、正確にはわかっていない。彼らによるインド最古の文献である『リグ・ヴェーダ』の讃歌では、自分たちのことを「アーリヤ」すなわち「高貴なる者」と呼んだ。「ヴェーダ」文献では主神インドラを、敵である悪魔の集団ダーサに対する勝利者として描いているが、これはアーリヤ人が褐色の肌の先住民を征服し、奴隷化したことを意味する。後代、学者によって想像され、一般にも広まったアーリヤ人の姿は、今日のイランにあたる地域に住んでいた長身で色白の牧人というものであって、これは「ヴェーダ」の記述に基づいている。

 アーリヤ人は前 1,500年頃に今のパンジャーブ地方に侵入し、しだいにガンジス河流域地方にまで進出して混血、定住した。一説では、インダス文明を滅ぼしたのは彼らであり、南インドに逃れた先住民が今のドラヴィダ人であるという。その確証はないものの、まったく否定することもできない。のちの中世に発展した寺院建築では、北インドと南インドではっきりとした違いが生じ、南方型は「ドラヴィダ式」ともよばれる。そこで、インド建築史を初めて体系化したJ.ファーガソンは、北方型を「インド・アーリヤ様式」と民族名で名づけたのだが、これは今では用いられない。

 「アーリヤ」という名称自体、すでにとまどいの種である。というのも太古の民族は、自分たちのことを「人々」とか「われわれ」と称するのが普通であって、「高貴なる者」などと自称するのは例外である。「アーリヤ」という言葉は、現在ではおもに言語について用いられる。インド・アーリヤ語族は、インド・ヨーロッパ語族の一語派であるインド・イラン語派に属し、インド亜大陸ではヒンディ語、ウルドゥ語、ベンガル語、パーリ語、シンハラ語などがそうである。

(『ユネスコ世界遺産』インド亜大陸 1997 講談社)


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