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JIA(新日本建築家協会)に握りつぶされた論文、『文化の翻訳、伊東忠太の失敗』は、新興建築雑誌の存在のおかげで、やっと印刷になって 刊行され、人々に読んでもらうことができました。『 at 』誌の 1992年 11月号です。執筆してから、すでに2年も経過していました。新興の『 at 』はマイナーな雑誌でしたから、購読者の数は まだ あまり多くは なかったでしょうし、この雑誌を知らない建築家もいたでしょう。それでも、この論文に目をとめ 注目してくれた人たちもいて、陰ながら 応援しても くれたのです。



デルファイ研究所の 『at』 1992年11月号
56〜61ページ、「 文化の翻訳ー伊東忠太の失敗」



ANNIVERSARY EVENT

『 at 』

1992年11月号、「 懸賞論文 '92 発表」優秀賞
文化の翻訳ー伊東忠太の失敗

神谷武夫

この記事は、『神谷武夫とインドの建築』のサイトにおける
「原術へ」のディヴィジョンの中の、
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 新日本建築家協会に「文化の翻訳−伊東忠太の失敗」を提出してから1年半近く たったが 、この論文をどう扱うのか、という意向さえも協会からは伝えられず、握りつぶされた ということが判然としてきた。これでは せっかく3ヵ月かけて書いた論文が 人々に読まれないままに消滅してしまう。当時は まだインターネットもなかった時代なので、ホームページに載せるというような方法もなく、マス・メディア以外に 発表の手段はなかったのである。
 もちろん いくつかの建築雑誌の編集者に 送ったり 手渡したりして、掲載を依頼してみた。当時の私は知らなかったのだが、マフィアからの圧力は すべての既存雑誌に行き渡っていたから、どの雑誌も 掲載しようとは しなかった。ある編集者に再び会ったときには、「あの論文は むずかしくて、よくわからなかったですよ」などと言われた。冗談ではない、一般の人にも わかるように、噛んで含めるように ていねいに書いた論文が、建築雑誌の編集者に理解できないわけがない。彼らは マフィアの報復を恐れて、そのブラック・リストに挙げられた建築家の作品や 学者の論文は雑誌に載せないのである。

 一体 どうしたものかと思っていた頃、『 at 』という、「デルファイ研究所」が3年前(1989)に創刊していた マイナーな雑誌で、創刊4周年記念に「懸賞論文大募集」をしていることを知ったので、応募してみることにした。
 翌月号に審査員の名が出て、審査委員長は宮脇檀氏であることがわかった。 宮脇氏は吉村順三を師と仰ぐ住宅作家で、旧建築家協会の 熱心な活動家でもあったが、大同団結の新協会になるや、建築家とは呼べない設計屋たちまでを加入させることに反対して、新協会に加わることを拒否した人である。常に 建築家としての筋を通して生きようとした人だった。数々の住宅の名作を残したのち、この6年後の 1998年に、いよいよ これから円熟するという 62歳の若さで ガンで亡くなってしまったのは、まことに惜しいことであった。

「文化の翻訳−伊東忠太の失敗」は 入選作に選ばれたのであるが、編集部には 懸念があったようで、審査員と相談の上であろうが、私の論文を 最優秀賞なしの 優秀賞 ということにし、授賞式やパーティなどの派手な行事は 一切行わなかった。創刊4周年記念のビッグ・イベントだ というにしては、不思議な話だったろう。

     (『原術へ』のページの「解題」を 1/3ぐらい 行ったところの、
      「『 at 』という建築雑誌の懸賞論文」の部分より 再録)