『 建設通信新聞 』の記事 1991年10月22日号
「北インド宗教建築の旅」第1回「明るい神性、アムリトサルの黄金寺院」



『 建設通信新聞 』

1991年10月 22〜24日号、
北インド宗教建築の旅

第1回「明るい神性、アムリトサルの黄金寺院」
第2回「石造と木造の融合、サラハンのビーマカーリー寺院」
第3回「密教の僧院、ラダックのティクセ・ゴンパ」

神谷武夫

『建設通信新聞』の神子さんから、インド建築について何か書かないかと
誘われましたので、今度は「北インド宗教建築の旅」を書きました。
この3回連続記事の 第1回分は、『神谷武夫とインドの建築』の
サイトにおける「世界建築ギャラリー」のディヴィジョンの中の、
「 黄金寺院(ハリ・マンディル)」のページに まとめていますので、
ここをクリック して ご覧ください。「明るい神性」という原題でした。


第2回の「石造と木造の融合、サラハンのビーマカーリー寺院」
および 第3回の「密教の僧院、ラダックのティクセ・ゴンパ」は、
下に書き写しておきます。『神谷武夫とインドの建築』の
サイトにおける「インドの木造建築」のディヴィジョン
よりも だいぶ古く、その元となったものです。






北インド宗教建築の旅 ー2

石造と木造の融合

サラハンのビーマカーリー寺院(ヒンドゥ教)

ビーマカーリー寺院(サラハン)18-19世紀

 シク教の聖都 アムリトサルを後にして、更に北方のカシュミール盆地にはいり、シュリーナガルの町から バスで二日かかって、ラダック地方のレーに行く予定であった。ところがカシュミールは、ムスリムによる独立運動のために 政情不安が続き、私の行く直前に 外国人旅行者が何人かゲリラに誘拐されて、そのうち一人が殺されるという事件が おこったために、外国人の入域が禁止されてしまった。そこで ラダックへは空路で行くことにして、ヒマラヤの麓から中腹にかけての ヒマーチャル・プラデシュ州を 先に旅することにした。毎日 曲がりくねった山道を車で行くので、あまり能率は あがらないが、下界のインド平原とは 気候も文化も異なっているのが 興味深かった。年間を通して雨量が多いので、乾燥した平原部とは違って 緑に包まれている。そのせいか、宗教は 同じヒンドゥ教でありながら、人々の性格は 下界よりもずっと温和である。

 モニュメンタルな寺院建築は、早くから下界の シカラ形式の石造建築が伝えられた。ところが気候条件を反映して、これらシカラ(塔)の頂部には、すげ笠のような木造の屋根が かぶせられるようになった。もともと山国では 寺院も民家と同じように切り妻の木造で建てられていたから、次第に木造と石造とが融合するようになっていく。地面に近い部分は 石造で造られ、この地方に産出するスレートで葺かれた木造屋根が その上に乗るのである。ところが その壁面は石と木でできていながら、組積造とも言えないし、軸組工法とも言えない。水平に木材を並べて 枠組みを作り、そこに切石を何段か積むと、また木材を並べて、といった繰り返しで 壁面を作るので、木骨的ではあっても、木の柱というものは 無い。ただ コーナー部は水平の木材が井桁状に組まれて その間に切り石が詰められるので、これは太い剛柱(ピア)の役割を果たす。外観上は 焦げ茶色の木部と白っぽい石とが層をなすので、マリオ・ボッタ風の縞模様となって 美しい。

 純粋な木造の寺院としては、ナガルのトリプラスンダリー寺院が興味深かったが、石との組み合わせという点からも、また規模の大きさや屋根造形の複雑さ という点からも、サラハンのビーマカーリー寺院が圧倒的であった。この 中国に近い山奥のサラハンに行くには、英国統治時代の夏の首都であったシムラから、バスで7時間かかって 北東のラーンプルという町へ行き、そこから更に 車で1時間半、山を登って行かねばならない。今は ひっそりとした サラハンの村も、かつては サトレジ川流域国の夏の首都であった。その城の部分が 今はすべて寺の境内となり、最上段の区画に2棟の大きな寺院本堂がそびえる。写真の左側に見えるのが旧堂で、これが老朽化したために 右側の新堂を建てたのだという。しかし 旧堂は取り壊されることなく、宝蔵として 今も使われている。

 この2堂も 周囲の建物も、壁面は 先ほどの 石造と木造の融合した作りであり、その高さは 旧堂では五層に及ぶ。新堂では3層目から木造部分が迫り出し、木部に 細かい彫刻が施されて、より装飾的になっている。カーリー女神を祭る祭壇に行くには、3階まで階段を登らねばならない。これほどまでに 寺院を高層化したのは、城の物見台の機能をも 持たせたのであろう。とりわけ目を引くのは スレートで葺かれた屋根の造形で、反りのついた入母屋を2つ並べたり 交差させたりして、更にその上に 小屋根を乗せた姿は、まるで日本の神社建築のヴァリエーションを見るようで、実に魅力的であった。






北インド宗教建築の旅 ー3

密教の僧院

ラダックのティクセ・ゴンパ(チベット仏教)

ティクセ・ゴンパ(ラダック)17世紀

 インド最北の地は、小チベットとも称される ラダック地方である。ヒマラヤ山脈の中に位置し、その標高は 3,000から 4,000メートル、中心となる レーの町が 3,500メートルだから、ほぼ富士山頂の高さにあたる。ここへは 前記のようにバスで行くことができなくなったために、コルビュジェの町 チャンディーガルから、一気にレーまで 飛行機で飛ぶこととなった。そうしたら 案の定、たちまち高山病にかかってしまい、毎日 頭痛や耳鳴り、息切れに苦しめられることとなった。こちらの僧院は だいたいが丘の上にあり、車はその麓までしか行かないので 歩いて登ることになるのだが、高山病の身には「登る」ということが 実につらい。インドの旅には つらいことが多いが、こんなにつらい旅をしたのは 初めてである。にもかかわらず、今回の旅では このラダック地方が、最も印象的で 驚きにみちたものであった。

 この高度になると、ヒマラヤの山々には一木一草も生えず、その麓は 砂漠のようで、実に荒涼たる風景である。しかし その谷間には一筋の堂々たる川が流れ、これが インダス川の上流なのであった。その流域には 諸所に水が涌き、小川となってインダスに注ぐ。そうした所には 村ができ、田畑が作られ、細長い緑地にヒマラヤ杉がそびえ立つ。周囲の荒涼たる自然と この緑地との対比が あまりにも鮮やかなので、そこは まさに楽園のように見える。晴れれば 空気はあくまで澄んで、遥かな雪山までが くっきりと見え、小川のせせらぎには 羊や牛が草を食んでいる。そして岩山の上に、あたりを睥睨してそびえ立つ チベット仏教の僧院の、なんと幻想的な姿をしていることか。

 仏教は 中世のインドから姿を消してしまったが、チベット圏では 密教の形で今に続き、俗に「ラマ教」とも呼ばれる。その生きた姿は 中国領となったチベットよりも、この西チベットのラダック地方に よく伝えられているので、ここは チベットよりもチベット的であると言われる。寺院(ゴンパ)は僧院となり、礼堂や仏堂の周囲に僧たちが住んで 修行生活を送るので、いくつもの建物が連なる丘の上の僧院は、イタリアの山岳都市のミニチュア版のような おもむきを呈する。

 中でも威容を誇るのは、レーの町から 17キロの地にある ティクセ・ゴンパである。丘の頂上から斜面にかけて建ち並ぶ 数多くの建物は、石積みの外壁に 黒く縁どられた窓がうがたれ、内部と屋根は木造で作られている。外壁は白く塗られるが、丘の頂にある仏堂や礼堂は 前庭から堂内にかけて 極彩色で塗装され、壁面の多くは 曼陀羅を初めとする密教教義の壁画で 埋めつくされる。堂内には たいてい、中央部の吹き抜けの上からトップライトの光が落ちてくるが、その陰となった暗部に ヒンドゥ教のタントリズムの影響を強く受けた チベット密教の、男女神が交合する壁画や彫刻が 浮かびあがると、これは日本の仏教寺院とは ずいぶん異なった、おどろおどろしい雰囲気である。シク教の グルドワーラー(礼拝堂)が「明るい神性」をもっていたとするなら、これら 密教のゴンパは「暗い想念」とでもいったものの上に 建てられているような気がしたのであった。