日本建築学会機関誌『建築雑誌』1995年7月号 特集「 建築家・そのあるべき姿と ありうる姿」
「 あいまいな日本の建築家、アーキテクトの訳語をめぐって」 神谷武夫

   

日本建築学会 機関誌 『 建築雑誌 』 1995年7月号
特集 「 建築家・そのあるべき姿とありうる姿」の扉と、
「 あいまいな日本の建築家、アーキテクトの訳語をめぐって」
16〜17ページ  神谷武夫


EQUIVOCAL ARCHITECTS IN JAPAN

『 建築雑誌 』

1995年7月号 特集「建築家・そのあるべき姿とありうる姿 」
あいまいな日本の建築家、アーキテクトの訳語をめぐって

神谷武夫

ヨーロッパで形成された アーキテクチュアという抽象的概念と、それを体現する アーキテクトというプロフェッションは、明治以降、我が国にも移植されてきました。 ところが日本には そうした伝統がなかったために、それらの概念は正しく理解されず、本来の理念とは異なった、あいまいな形に定着されてしまいました。 そのプロセスと現状を、主としてアーキテクトの訳語の変遷を通して検証し、その打開を提言します。 これで、 プロフェッション、アーキテクチュア、アーキテクトの「 翻訳論3部作 」が 揃うことになりました。

「あいまいな日本の建築家」という題名は、この前年の、大江健三郎のノーベル文学賞 受賞記念講演「あいまいな日本の私」を もじったものです。

この記事は、『 神谷武夫とインドの建築 』のサイトにおける「 原術へ 」のディヴィジョンに、「あいまいな日本の建築家」(アーキテクトの訳語をめぐって )として 掲載していますので、ここをクリック して ご覧ください。




 

● この「あいまいな日本の建築家 ―― アーキテクトの訳語をめぐって」 の中で、最も刺激的だったのは、

「こうして明治以来の経過を たどってみれば わかるように、「建築家」という言葉は、日本のアーキテクトたちが 本来望んだ名称ではない。「建築士」という言葉が 西欧的なアーキテクトの理念とは 大きく くいちがってしまったために、建設業者や材料業者には属さない フリー・アーキテクトのみが、それまで俗語にすぎなかった「建築家」という名称を 用いることにしたのである。それは、公的な保証が何もない、苦渋の選択であった と言うべきであろう。 ところが「建築家」という言葉が アーキテクトの訳語として普及するにつれて、建設業の設計部の人達までが「建築家」を自称するようになったのは、大きな矛盾なのである。」

という部分であったろう。編集委員会から求められた「建築家・アーキテクト・建築士の違いは何か」について書いていけば、当然こういう帰結になる。そして 特集の中には、ゼネコン設計部の立場を代表して、鹿島建設・副社長の中島隆氏が「国際的プロジェクトの参加経験から学ぶ」という原稿を書いている。その中で

「一方、資格の問題については、現行の建築士法の枠組みを 大幅に変更する必要は ないのではないかと考えている。・・・・・ 建築の生産過程にかかわる者の 共通の基礎的資格として、一級建築士が位置づけられる。」

と述べている。つまり、田中角栄・村松貞次郎 路線に立脚する ゼネコン設計部として、建設業者や材料業者が「一級建築士」という資格の ビルダーを 社員として雇えば、自由に建物の設計をしてもよい という、現行の「建築士法」で十分だ というのである。したがって、これに反対する立場のフリー・アーキテクトが 勝手に名乗ってきた「建築家」という名称は 建設業の設計部員には必要ない、ということを主張していることになり、上記の私の論旨を 肯定する文脈となる。

しかしこれは、大手建設業 設計部で働く 若手の設計員たちにとっては、晴天の霹靂(へきれき)であったろう。なぜなら、大学の工学部で成績優秀な学生が 大手建設会社に入社できるのであって、設計を志す優秀な学生が 給与のよさもあって、就職先として 設計事務所よりも建設業を選ぶ場合も多い。しかし彼らは学生時代に、アーキテクトの 概念も歴史も、日本と世界のシステムの違いも よく知らなかったのだから、自分は建築家になる というつもりで建設会社の設計部にはいり、毎日設計をやっている。それがある日、自分たちは「一級建築士」ではあっても「建築家」ではない、と知らされたら、これはショックであったろう。要するに、日本の大学では「 建築家のプロフェッション論 」が まったく教えられていないことが 問題なのである。


今回は マイナーな雑誌でなく、日本建築学会の権威ある雑誌に 如上のような内容の記事を 巻頭に載せたのだから、マフィアからは一気に、あからさまな攻撃となってきた。この当時 私の主な仕事として、横浜で建設中の建物がひとつ(塩川屋ビル)と、執筆・編集中の本が 2冊(『インドの建築』と『インド建築案内』)あった。これらに 一気に圧力が かかったのである。本の編集はストップしてしまい、杳(よう)として進まない。そして横浜の現場では、準大手建設会社の主任現場監督・Wによる 敵対姿勢が始まった。

     (『原術へ』のページの「解題」を 2/3ぐらい 行ったところの、
      「建築学会の機関誌『建築雑誌』の特集」の部分より 再録)