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東インドのヒンドゥ建築
インドを舞台にした映画
近ごろ、インドを舞台にした新作映画を、続けて2本見た。『インド夜想曲』と『マニカの不思議な旅』である。前者は アントニオ・タブッキの小説を アラン・コルノー監督が映画化したもので、主人公が、インドで行方不明になった友人の消息をたずねて インド各地を旅する、というストーリーである。ところが映画が進むにつれて、その友人というのが本当に存在するのかどうか わからなくなってくる。探されている友人というのは、もしかすると探している主人公自身なのかもしれない、と思わせる不思議な結末で、難解な哲学小説の趣きもあり、その疑問を解明していくこと自体を映画にしたてるという、メタ映画の観もある。かつてのアンチ・ロマンの傑作、アラン・レネの『去年マリエンバートで』を思い起こさせる優れた映画であった。
一方『マニカの不思議な旅』の方は、それほど解りにくくはない。マニカというのは、南インドの漁村に住む 主人公の少女の名前である。マニカの通うミッション系の小学校には イギリスから来た若い宣教師がいて、マニカの中に多くの奇妙な点を発見する。彼女は、知っているはずのない 北インドの町の名前や そこの人々の様子、街の詳細に至るまで よく知っているのである。どうやらマニカは その町で死んだ ある女性の生まれ変わりであるらしい。キリスト教の世界では認められることのない「輪廻」に直面した若い宣教師は、悩みながらも マニカを連れて、その北インドの町へ 探求の旅にでる。インドという異文化、ヒンドゥーという異宗教との衝突の中で、彼は それまで信じてきたヨーロッパ文化とキリスト教とで それを断罪するのではない、別の価値観に目ざめていく。そして世界のさまざまな文化や宗教を お互いに尊重しながら、なお そこに共通する 普遍宗教とでもいうべきものを求める旅に、さらに出発していくところで この映画は終わるのである。
ヨーロッパやアメリカの知識人が、科学技術と経済合理性に基礎を置く自己の文明の行きづまりを感じ、その突破口として 東洋に目を向けるようになって久しい。それが 若者の大衆レベルで行われたのは 60年代のヒッピーたちの、インドへの参集であった。インドには、欧米からは失われてしまった 深い精神文化があり、誰もが哲学的な人生を生きている、などというのは あまりにも神秘化されたインドのイメージであって、実際には そんなことは まるでないのであるが、しかし欧米とは まるで異なって見える価値観があり、異なった生き方がある、というのは事実である。そしてまた 絶対的な貧しさや、強い生命力をもつ宗教生活に触れていると、人間の生と死について 思いめぐらさざるをえなくなるので、旅行者自身が哲学的になる、ということはある。
その若者たちの世代が年をへて、次第に文化の担い手となるにつれて、この『マニカの不思議な旅』のような娯楽的な映画にまで、そうした複眼的な視点が侵入するようになった。一元的な世界観で 世界と人間を測るのではなく、多元的な世界像を組み立てようというのである。世界が、お互いに異なった文化や宗教を尊重しあうようになることは、世界の平和にとって ぜひとも必要なことであろう。 そしてその第一歩が、さまざまな異文化に興味をもち、その理解に努める、ということであるのは 言うまでもない。そこで、私たち日本人(とりわけ建築関係者)が そうした態度をもっているのかどうか、ということを ここで考えてみたいと思う。
「世界名画の旅」
何年か前に、『世界名画の旅』という連載記事が、朝日新聞の日曜版に 長期間連載されていた。毎週 世界の名画を 1点選び、その絵にまつわる話を、記者が現地を訪ね歩いて読み物記事にする、という興味深い企画である。ところが、連載が進んで 単行本にまとめられ始めると、その「世界の名画」のほとんどが 欧米の名画から選ばれていることが 気になり始めた。そして その第 1集の 大きな広告を見るにおよんで(1985年)、ついに 朝日新聞の投書欄に 次のような投書をすることとなった。
「 新聞の夕刊に『世界名画の旅』という新刊本の 大きな広告があった。日曜版の連載を まとめたのだという。あの記事には いつも目を通しているのだが、この広告を見て 今更のように驚いた。その第 1巻の内容が 18点の絵画を取り上げている内、何かの間違いのように 敦煌の壁画が 1点あるほかは、すべてが欧米の絵なのである。
そのこと自体は 著者の趣味の反映であろうから 一向に構わないとして、理解しかねるのは『世界名画の旅』という タイトルの付け方である。一体 この著者にとっては、「世界」という言葉が「欧米」を意味しているのだろうか。インドや中東、その他の国々は 世界の内に入らないと考えているのだろうか。ここには明治以来の 欧米に対する劣等感と、第三世界に対する蔑視とが、この国際化時代といわれる現代においても、なお 抜きがたく染み込んでいるのが うかがわれる。『世界文学全集』しかり、『世界の音楽』しかり、世界と名付けられた多くのものが 第三世界を無視しているのである。
『西欧名画の旅』とでも題すべきシリーズに『世界・・・』の名を冠して恥じないような精神が、日本を代表する新聞社にまで 根強く存在している限り、この国は 真の国際国家になることは ないだろうと思う。」
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南インドのドラヴィダ建築
朝日新聞
朝日新聞に 前記のような投書をしたところ、これはボツになった。当時の朝日には、批判を受け付けないような体質があったようだ。それでも社会部から、一通の手紙が寄せられた。それを読んで、私は いささか あきれてしまったのであるが、そこには 次のように書かれていたのである。
「お手紙を拝見しました。投書の担当係から「参考までに」と 私たちに連絡があり、読ませていただく機会を得ました。ご指摘の点について、私たちでお応えできる範囲で、ご説明したいと思います。
出版された『世界名画の旅』第 1巻は、新聞連載の 1回目から 25回目までを( 18枚ではありません)収録したものですが、ご覧いただければ わかるように、西欧だけでなく、ソ連や東欧のハンガリー、ポーランドの画家も取り上げています。また、新聞連載は、すでに 50回を超え、いまも取材を続けていますが、メキシコや北アフリカへも足を伸ばしています。中東やインドも取材する予定です。
お手紙には「いったい、この著者にとっては『世界』という言葉が『欧米』を意味しているのだろうか」と 書かれていました。しかし、この連載は 一人の筆によるのではなく、10人余りの記者が取材し、書いています。また、できる限り 世界の各地に目を向けよう、というのが私たちの方針です。もとより、美術史の教科書ではないので、地域的な偏り があるかもしれません。しかし、決してアジアや第三世界を無視しているわけではありませんので、どうか、もうしばらく見守ってくださいますよう、お願い申し上げます。」
まず 18枚というのは、新聞の広告に 18枚のタイトルしか書いてなかったので、私は それがすべてであると 思ったまでであるが、調べてみると、そこにタイトルの出ていなかった、あと 7枚の名画というのも、これまた すべて欧米の絵であったのには 一層あきれてしまった。そしてその「地域的な偏り」は その後も 連載の最後まで貫かれたのであるが、その大幅な、欧米偏重という「地域的な偏り」に対する こちらの異議には答えることなく、著者が 1人ではなく 10人であるとか、「西欧」だけでなく「東欧」もあるとか、投書の趣旨とは関係のないことばかり書かれているのである。実にあきれたけれども、こうした態度は 朝日に限ったわけではない。おそらく 大多数の日本人の世界観が、世界を 日本と欧米の二元論で把え、第三世界を視野の外に置いているのである。
それでも、最近は日本人の意識も いくぶん変わってきた。海外旅行に出る人の数が年々増え続け、リピーターたちは 欧米だけでなく 第三世界にも足をのばすようになってきた。いまだ不十分としても、アジアの映画も公開されるようになり、特に岩波ホールは 第三世界の優れた映画を積極的に上映している。インドを初めとする世界の民族音楽は 多くのファンをもち、数年前に来日した シヴクマール・シャルマの超絶的なサントゥール演奏は、我々を圧倒した。我が国とは最もなじみのなかった、イスラム世界に関する書物も 次第に多く出版されるようになってきている。にもかかわらず、わが建築界だけは、明治以来 欧米に固定した視線を いっこうに改めることなく、第三世界の建築文化は 視野の外に置いたまま なのではないだろうか。
インドの建築
たとえば、ある人が インドに初めて旅行して、インドの建築に興味をもったとする。そこで、もっと詳しく インド建築について知ろうと思って 大きな書店に行き、インドの建築の写真集や インド建築の概説書をさがすのであるが、驚くべきことには そうした単行本が 1冊もないことを 知らされるのである。日本で出版されているインド建築関係の本といえば、『建築学体系』の中の『東洋建築史』の巻に、中国建築史と並んでインド建築史がおさめられているにすぎない。そこには 小さな白黒写真の図版が載せられているだけで、カラー写真もなければ グラビア印刷もない。これでは インド建築の魅力が伝えられるわけもない。また一般の人は こうした「学術書」を手に取ることもないだろうから、一度はインド建築に興味をもった人も、再び そこから離れていってしまうことになる。これは一体 だれの責任なのだろうか。
思い返せば、私たちの大学時代(今もなお そうであろうが)、建築史の講義は「日本建築史」と「西洋建築史」、そして「近代建築史」の 3本立てであって、それ以外の地域の建築の歴史は まったく教えられなかった。あたかも 日本と西洋以外には 建築文化が存在しなかったかのごとくに。我が国で最初に「日本建築史」と取り組んだのは、建築家の伊東忠太であった。そして彼は そこに止まることなく、中国へ、インドへ、トルコへと足をのばして、世界中の建築文化を 対等に理解しようとしたのである。その伊東忠太の精神を 次の時代の建築家や建築史家たちが受け継がなかったのは、日本の建築界の 大きな不幸だったのでは ないだろうか。
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北インドのイスラム建築
アジア蔑視
投書の件は そのまま忘れかけていたのであるが、その後しばらくして 朝日新聞のコラム『天声人語』に、例によって 格調の高い 政界批判が 書かれていた。戦前の日本が ヨーロッパ列強の帝国主義の仲間入りをして、アジアの国々を侵略した根底には、当時の政治家たちの、アジアの「遅れた」国々への蔑視があった。そしてそのアジアへの「さげすみ」は、現在の 好戦的な勢力にも連続していて、「人間集団の体臭のようなものは なかなか消えない」と書かれていた。それは まことにもっともな意見であって、全面的に賛同できるが、では、戦前に翼賛体制に協力した朝日新聞の、アジアに対する「さげすみ」は、現在にまで 連続していないのだろうか、という疑問をもった。そこで、天声人語子に 次のような手紙を書いて、先の投書と それへの返事の手紙のコピーを同封して 送ったのである。
「 12月 8日、日曜日の『天声人語』は 日本の好戦的な人々や勢力を批判していて、それらが 戦前から現在に至るまで連続していることを 指摘しています。このコラムを読んで共感し、正論だと思いながら、しかし 次のようなことを感じました。
「当時の指導者の多くが 他民族、とくにアジアの人々を さげすみきっていた」とありますが、これもまた 現在にまで連続し、しかもそれは「指導者」ばかりではない ということです。過日、投書欄に同封コピーのような投書をしました。朝日を批判した投書ですから 勿論ボツになりましたが、代わりに 社会部より手紙をいただきました。ところが そこには、「西欧」だけでなく「東欧」もある とか、著者は1人でなく10人である とか、投書の趣旨とは関係のないことばかり書かれていて、アジアを始めとする 第三世界への「さげすみ」に対する反省の弁さえも ありません。欧米以外の国々に目を向けるというのは 政治の分野だけの話ではなく、それを支えるのは「文化」を通じての 国民の意識の問題ではないでしょうか。本日の日曜版『世界名画の旅』もまた、フランスは パリのお話しです。アジアへのさげすみは、日本を代表するジャーナリストたちの意識にも根強く巣くっていて、「人間集団の体臭のようなものは なかなか消えない」と、私もまた思っています。」
天声人語子
この手紙に対する反応は 何もなく、やっぱりそうか、と思っていたら、それから1か月以上たって 忘れたころになって、天声人語子から 葉書をいただいた。印刷された 儀礼的な礼状の文句のあとに、次のような 短い手書きの文章が書き添えられていた。
「お便り ありがとうございました。ご返事をさしあげるのが おくれているうちに、年があらたまりました。
ご指摘の点は その通りだと思います。そういう体臭のようなものに、自ら顔をそむけたくなることもあります。偏見やら先入観から、少しでも前進しようとしているか、それともますます、それを強めているのか、ということが わかれ道になると思っています。」
組織が大きくなれば、さまざまな種類の人間が 同居することになる。同じ朝日の中にも いろいろな方向の対立があるのだろう。それは ある程度納得できる。けれど、これは推測だが、天声人語子も 私からの手紙を読むまでは、『世界名画の旅』の連載が アジアに対する蔑視だなどとは 思わなかったのではないだろうか。大多数の日本人が「世界の名画」と言われて 思いうかべるのは、ゴッホやルノワール、レンブラントやピカソの 西洋絵画であるからだ。毎年、美術館やデパートで開かれる おびただしい数の美術展も、その大半は 西洋の、それも印象派あたりの絵が中心となっている。政治や経済はともかく、文化の世界では いつまでも西洋を相手にしていればよい という考えが、抜きがたく浸透しているのである。この『世界名画の旅』の企画の顧問をつとめていた 高名な美術史家もまた、そういう考えなのであろう。
建築の世界もまた 例外ではない、というよりも、一層ひどく そうなのである。建築関係の雑誌や図書はあふれかえっているが、そのほとんど全てが 日本と欧米の建築を扱っていて、第三世界の建築文化は 無視されている。
アンリ・スチールランの『イスラムの建築文化』と ジョン・ブルックスの『楽園のデザイン、イスラムの庭園文化』とを 私が翻訳して出版したのも、そうした状況に対する ささやかな抵抗であった。ただ建築界の人々は 今のところ多忙すぎて、あまり読んでいてはくれないようだが。
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『イスラムの建築文化』と『楽園のデザイン』
アジアの建築
これまで アジアの建築に関する出版が あまりなされなかったのは、他の分野に比べて、日本の建築界の 学者、編集者、建築家の3者ともに 怠慢だったのではないかと思う。シンガポールに、コンセプト・メディアという出版社がある。ここで出している『ミマル』という季刊の建築雑誌は、第三世界の建築のみを扱う、カラー写真も美しい 英文の雑誌である。(ちなみに、ミマルというのは 建築家を意味するトルコ語である。)そしてまた、パキスタン建築史の本や、トルコの建築家 セダッド・エルデム、スリランカの建築家 ジョフリー・バワ、エジプトの建築家 ハッサン・ファティ等の 立派な作品集も出版している。
思うに、こうした活動こそ、アジア一番の経済大国となった 日本の出版界がなすべき仕事なのではなかったろうか。学者、建築家、編集者の協力のもとに、発展途上のアジアの国々の肩代わりをして、アジアの建築文化を世界に紹介する出版活動を展開するなら、それこそが 我が国の国際貢献として 世界に評価される道ではないだろうか。今のところは その逆で、アジアの建築について知りたいと思うなら、イギリスやフランスの出版物に 頼ることになるのである。
私の夢は、いつか将来、『アジアの建築』と題する 大型の建築全集を3期、全 30巻ぐらいで 国際出版することである。3期というのは、中国文化圏で全10巻、インド文化圏で全10巻、そしてイスラム文化圏でも全10巻ぐらいとして、ユネスコの協力もえて、10年ぐらいの年月をかけて 刊行しようというのである。たとえば インド文化圏でいえば、インドの建築に 4巻、インドネシア、カンボジア、ネパール、タイに各1巻、その他に2巻といったところだろうか。
学者ではないので 必ずしも私が執筆するわけではなく、その役割は 企画監修とでもいったところだろう。おそらく日本には それだけの研究者はそろわないだろうから、広く現地の学者や欧米の研究者まで動員して、執筆してもらわねばならないだろう。写真や印刷に関しては 日本の技術は素晴らしいので、日本から現地特撮班を派遣し、日本の出版界の優れた造本技術のもとに、日本語版と英語版の同時出版をするのである。その後 順次、中国語版やヒンディー語版、アラビア語版のような 各国語版も出せれば、なお望ましい。
これはまあ将来の夢として、今はまず、『イスラムの建築文化』と『楽園のデザイン』に続いて、インド建築の 写真を中心にしたビジュアルな本を 出版したいと思っている。たびたびインド各地を旅して 建築の写真を撮ってきているので、そのカラー・スライドが 約 6,000枚もたまっているのである。(インド建築の撮影旅行というのは 楽ではない。特に、日本の文化庁にあたる インド政府考古局の管轄下にある建物では、三脚の使用が禁じられている。しかし三脚を使った、正確で美しい写真が 世界に流布することのほうが、ずっとインドのためになると思うのだが。)
西インドのジャイナ建築
ジャイナ教の建築
インドというのは広大な地域であり、しかも 5,000年の歴史をもっているとなれば、その建築の全体像を1巻の本にまとめるというのは 難しい。なんらかのテーマごとに まとめた本を1冊ずつ出していきたい。とりわけ 私が興味をもって訪ね歩いたのは ジャイナ教の寺院建築である。ジャイナ教といっても ご存じない方が多いであろう。開祖マハーヴィーラは 紀元前5ー6世紀の人であるから、仏教の開祖 ゴーダマ・ブッダと ほぼ同時代の人である。その後 仏教は北へ南へと広がって 世界宗教となったが、そのかわりに中世の時代に インドから姿を消してしまった。
一方ジャイナ教は インド圏の外に出ることはなかったかわり、細々と現代にまで インドに生き残った。その信者の数は 人口の1パーセントにも満たないにもかかわらず、インドの建築と美術の歴史の上では 大きな役割を果たした。中部インドの山奥の ラーナクプルにある ジャイナ教のアーディナータ寺院は、おそらく インド建築の最高傑作であろう。また、今から 55年前に アーブ山のジャイナ教寺院を訪ねた 建築史家の天沼俊一は、こう書いている。
「 実際この建築は、いくら形容詞を用いて書いても、到底 その真相を伝えることは できない。空前絶後という言葉が 正に当てはまるのである。」
しかし、この程度の出版計画でさえも そう簡単なことではない。「建築」といえば 日本と欧米の建築のことばかりが頭に浮かぶ出版社や編集者にとって、インド建築の本など出しても 果たして売れるだろうか、という心配にかられて、おいそれとは 乗ってくれない。どこかの建築関連会社で、近ごろはやりの「企業メセナ」によって、この出版を援助してくれるところは ないものだろうか。
金持ちになった日本人は、セザンヌやゴッホを初めとする ヨーロッパの絵画を、何十億円もの金を出して買い集めているという。その一枚の絵のお金で、地方に「インド美術館」や「イスラム美術館」を設立して、次代を担う若者たちに親しんでもらうこともできるであろうに。その方が、どんなに日本の文化や世界の平和に貢献するか 知れないのであるが。
(『建設通信新聞』1991年8月5日〜8日号 )
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