チベット仏教の ゴンパと村落 |
神谷武夫
ラホール地方のケイロンをあとにすると、ジープはナショナル・ハイウェイを東へ進み、標高 4,550mのクンズム峠を越えてスピティ地方に入る。峠のあたりは一木一草も生えない、まことに荒涼たる風景で、月世界もかくやと思わせる。 中心の町であるカザに泊って翌朝起きると、高山病の頭痛がし、歩くと体がフラフラするが、澄みきった空気の中に広がる渓谷の姿は絵のように鮮やかである。ここにはヒンドゥ教は存在せず、チベット系の人々が仏教を信仰して住んでいるので、建物も基本的にチベット式であり、見るべきものは村とゴンパ (僧院) である。
スピティ地方で最大、最古のゴンパとされるのがキー・ゴンパで、山の上に僧坊と礼拝堂が積み重なるように建つ姿は、イタリアの山岳都市のようなゴンパの典型と言えよう。しかし、このゴンパは何度も戦乱で破壊されてしまって、古い堂はほとんど残っていない。中心になるドゥカン(勤行堂)も 一昨年ダライ・ラマがここでカーラチャクラ灌頂をしたのを記念して、アメリカ人の寄進によって建てられたものである。
キーから北西の山奥へ 6kmばかり進むと、スピティで最もピクチュアレスクな キッバル村 に着く。土一色の背景の中に、白く塗装された家々が紺碧の空をバックにして階段状に建ち並ぶ姿は美しい。
家々はこれを破れ目地に積んでいくので、土のプラスターを塗って白く塗装したあとも、高さ 15cm間隔に水平線が残る。屋根はフラットで、パラペットにタマリクスの小枝を積み重ねること、窓廻りを黒く塗装することなど、チベットやラダックと同様である。しかし 最近の家は一見伝統的なスタイルだが、よく見るとコンクリートの柱に鉄骨の梁を架けている。こんな僻遠の地にも、近代化 (?) の波が押し寄せているのである。
ラダックやスピティなど西チベットに仏教が栄えるのは、10世紀末にグゲ王国がカシュミールに留学生を送って当時の大乗仏教(密教)を学ばせてからである。 その中心人物となったのが、大量の仏典をチベット語に翻訳したので「大翻訳官」と呼ばれるリンチェン・サンポ(958ー1055)であった。
タボの一番大きなツグ・ラカン堂は 996年の建立なので、6年前の 1996年に盛大な千年祭が行われ、ダライ・ラマが カーラチャクラ灌頂を行った。しかし建築的な興味はアルチに劣る。すべての外壁は日乾しレンガの上に厚く土のプラスターが塗られ、装飾のない土のかたまりと化しているから、まるでモロッコのカスバを原始的にしたもののように見える。
タボで私が驚いたのは、キルカン(曼荼羅堂)の内部に立つ2本の柱で、その柱頭に、昨年パキスタンの上スワート地方で見た木造建築のライトモチーフと言うべき、左右に3つの渦を持つ 柱頭 とそっくり同じ形が彫刻されていたことである。 タボのゴンパの華麗な内部空間を更に凝縮して見せてくれるのは、スピティ川の支流のリンティ川を遡った、小さなラルーン村のゴンパである。これもまたリンチェン・サンポによる創建と伝えられるが、かつてあった9堂の内の ほとんどが破壊されて、今はセルカン堂のみが残る。本来はフラット・ルーフなのだが、雨漏りによる壁画の汚損を防ぐために、最近トタンの勾配屋根が架けられた。
ラル-ン・ゴンパのセルカン堂 若い僧に案内されて入口をはいると 細くて暗い通路があり、突き当たりには 垂らされた幕がトップライトで照らされている。その後ろのドアをあけて一歩堂内に入ると、アッと驚いた。この劇的な効果の堂内には、中央の釈迦三尊像を取り囲むように周囲の壁面の隅から隅まで、後背をもつ丸彫りの小仏像がびっしりと取り付けられ、極彩色と金色で荘厳されているのである。窓は入口の上部に小さな高窓が一つあるだけなので暗く、闇の中に仏像群が幻想的に浮かび上がる光景は、バロック的というよりも、霊気の漂うような異形の空間であった。
ところで、ジープがタボの村に夜の8時に着いた時、村は停電で真っ暗であった。懐中電灯の光をたよりに ゲストハウスに部屋を得、裏の食堂で そそくさと食事をすませると さっさと寝てしまったのだが、ちょうどその頃、ニューヨークで同時多発テロが起き、世界中の人が テレビの前に釘付けになっていたのだった。それを知ったのは2日後のロールのホテルに着いた時で、その映像を見ながら、昔読んだアナトール・フランスの『ペンギンの島』という、100年前の小説の 終章を思い出していた。 文明が爛熟して末期的になったペンギンの島には「ダイナマイター」たちが現れて 高層ビルを次々と爆破し、世界は滅びの道へと突き進むのである。この予言の書のように、いよいよ 欺瞞に満ちたこの現実の世界にも 最後の審判が下ったかと思ったのは、取り越し苦労であったろうか。
(『建築東京』2003年5月号)
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