第1章
WOODEN ARCHITECTURE IN LADAKH
ラダク地方木造建築

神谷武夫


インダス河の上流に沿った、ラダックへの道

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インドの木造文化圏

 インドは広大な国である。ヒマラヤの寒冷地から西インドの大砂漠、ガンジス河の流域平野から南インドの熱帯雨林に至るまで、その広さは西ヨーロッパ全体に匹敵し、さまざまな気候風土を見せている。そしてまた 4,000年の歴史をけみし、古代から現代まで多くの宗教を生んだ国でもある。
 それらを反映して建築的にも多様な展開をとげ、各地に莫大な数の建築遺産を残した。なかでも古代の石窟寺院や石彫寺院、神々の彫刻で満ちた中世の石造寺院、近世の文化が爛熟したムガル朝の廟やモスクなどは、われわれの目を驚かせるに十分なものがある。
 そのインドには「ユネスコ世界遺産」に登録された文化遺産が 16ヵ所あるが、すべて石造、またはそれに準ずるものであって、木造建築は一件もない。木造は朽ちやすく燃えやすいので、古代や中世のものはほとんど残っていず、現存する建物はおおむね近世以降のものである。古いものほど歴史的価値が高いとするなら、インドも木造建築は石造建築に劣るということになるだろう。

ムールベックの近くの大きな民家

 しかし、壊れやすいもののほうが保護を必要とするなら、インドの木造建築の分布や内容を明らかにして保存の対策を講じる必要がある。インド建築史の研究はもっぱら石造建築に向けられてきたので、木造建築が十分に明らかにされたとはいえない。そして近年の経済自由化は、伝統的な家をとりこわして実用本位のコンクリートの箱に建て直す傾向があり、伝統的な景観を破壊しつつある。

 実際にインドを旅した人でも石造建築ばかりを目にしてくるので、インドにも木造文化圏があるということはあまり知られていない。古代では今よりも樹木が豊富であったから、インド全体にわたって木造建築が主流であったのだが、しだいに乾燥化が進んで樹木が減少し、モニュメンタルな建物は石材で建てられるようになったのである。
 ところがインドの石造建築は木造的な柱・梁構造で建てられることが多く、それはインド建築の出発点が木造にあり、当時の人々が木造的な技術と美学に慣れきっていたことを示している。

  
  レーの古王宮と街並み    古王宮の入口

 そうした国土の中で一貫して木造文化を保ち続けた地域というのは、要するに雨が多く、それゆえに木材資源が豊富な地域に他ならない。それは北のヒマラヤ地方と、インド最南のケーララ地方である。アラビア海と西ガーツ山脈に挟まれた細長いケーララ地方は、海からの風が山脈にぶつかって大量の雨を降らせるので木造文化圏となっている。
 このほかに西インドのグジャラート地方にも木造建築が見られるが、これは地元に樹木が多いわけではなく、むしろ逆に、少ないがゆえに木造への憧れがあり、木材を輸入して木造の寺院や住宅を建ててきたのである。
 最も木材の豊富なヒマラヤ地方は、インド最北のジャンム・カシュミール州からヒマーチャル・プラデシュ州、そしてネパールからシッキム、ブータンへと続く山岳地帯である。これらの地域はお互いに関連があるものの、時代や宗教により異なった建築的伝統をつくってきた。
 インドの最北部では、それは3つの地域に分けて考えることができよう。最も海抜の高いラダック地方はチベット仏教の文化圏に属していて、その西側のカシュミール地方はイスラム圏であり、南側のヒマラヤ中腹地方はヒンドゥ教を主とする。それぞれの風土と宗教に応じた建築的相違には興味深いものがあり、まず今回と次回はラダック地方を採り上げることにしたい。

レーの町並みを古王宮から見下ろす


ラダック地方の風土

 ラダックは中国との国境地方にあり、中印紛争などのせいで長いこと外部の人々に閉ざされてきた。それに海抜が 3,000mから 4,000mと高いので、インドからの交通も容易ではなかった。カシュミール地方のシュリーナガルの町と、ラダックの主都であるレーを結ぶ街道も冬は雪で閉ざされてしまい、6月から9月までしか通じない。そうした孤立性のために、ラダックはインドとはずいぶんと異なった文化を育んできた。
 宗教においてはラマ教とも呼ばれるチベット仏教に帰依し、各地にゴンパ(僧院)を建てて密教期の仏教を純粋に保っている。そしてチベット本土が中国領となってしまい、活仏ダライ・ラマがインドのダラムシャーラーに亡命し、文化大革命で多くの寺院や僧院が破壊されて以来、古来のチベット文化はチベット本土よりもむしろ、ラダックにおいて保存されているともいわれるのである。

ラカン・ソーマ(新堂)の壁画、アルチ

 1974年から外国人の入域が許可されるようになると、「秘境」の僧院とその内部に描かれた密教の壁画が一躍クローズアップされた。しかし建築的研究はまだ十分に行われていないので、寺院の実測もあまりなされていない。
 西チベットとも呼ばれるラダック地方は、平均して富士山の山頂ぐらいの高度なので、山々には一木一草も生えず、砂漠のような景観を呈している。しかしそこに一筋の谷川が流れ、その細長い流域のみが緑化している。
 これがインダス河の上流であって、冬季の山上の降雪がとけて湧き水となって川に注ぐ。周囲の荒涼たる山肌とは鮮やかな対照をなし、ポプラの木が生える緑豊かなこの流域に村々と耕作地があり、そして僧院が点々と連なっている。唯一の都市であるレーもまた流域の盆地状の平地にあり、かつてはヒマラヤの交易都市として栄え、現在は人口約 25,000の町である。

ストックの新王宮

 レーの町を睥睨する北山の上には印象的な王宮が聳えているが、今は廃墟となっている。チベットのラサの王宮をモデルにしたとも言われているが、この古王宮を建てたのは 17世紀始めに即位したナムギャル朝のセンゲ・ナムギャル王で、彼はムスリムを母としながら最も熱心な仏教徒の王となった。 写真からもわかるように、古王宮は石と日乾しレンガで建てられ、土のプラスターで仕上げられている。しかしそれは外壁だけのことであって、内部は木造である。
 レーから 14kmのストックに 1822年に建設された新王宮も基本的には同じことで、77室もある 4階建ての建物が、岩山の上に石・土造と木造の混構造で建てられている。こうした建設方式は宮殿も一般住宅も、そしてゴンパでさえも同じであって、外壁を石や土にしたほうが木材が少なくてすむためである。さきほど木造文化圏というのは雨が多くて木材が豊富な地域だと書いたが、実はラダック地方は雨がほとんど降らず、木材に乏しい地域なのである。

ケイロンの民家、2階平面図


ラダック地方の木造建築

 ラダック地方とその南側のザンスカル、ラホール、スピティ地方の民家形式はだいたい共通している。石や日乾しレンガを積んで外壁を 1層分つくり、その上に木造の梁と根太を架け、次いで2層目の外壁を立ち上げ、また木造の梁と根太を架ける。床および屋根は薄い板張りの上に土の層を固めた土間床に仕上げられる。
 雨がほとんど降らないので防水の必要がなく、屋根はフラット・ルーフである。部屋の大きさが小さければ、梁は壁から壁へと架け渡されるが、スパンが大きくなると大きな断面の木材が無いだけに、途中に柱が必要となる。ゴンパの勤行堂のように大きな部屋になると柱が林立することになり、通常3メートル前後のスパンを標準とする。

ケイロンの民家、室内

 民家は1階が家畜小屋として使われ、2階が家族の居室や台所、寝室、仏間となり、大きな家では3階建てとなる。木材はポプラを主とし、その上に載る小材としては柳の細枝が使われる。住宅ではポプラが丸太のまま使われるが、宮殿やゴンパ(僧院)では四角く製材されたり、柱頭や柱脚に凝った彫刻がほどこされ、華やかに彩色される。

 さて、ラダック地方で最も古い木造形式を残しているゴンパ(僧院)は、レーの西方 66kmにあるアルチ・ゴンパである。チベット仏教再興のために大きな役割を果たし、チベット語への仏典の翻訳に努めたのがリンチェンサンポ (958〜1055) であり、アルチのゴンパは彼による創建と伝えられる。
 ここにはいずれも小規模ではあるが、11世紀から 13世紀の5つの堂がほぼ 1列に並び、後世にさらに多くの堂やチョルテン(ストゥーパ)が加えられたので、広い外部空間というものがない。インドの多くの事例と同じように全体計画の概念が希薄で、その都度ひとつずつ堂を敷地の残部に加えていったものと思われる。

  
アルチ・ゴンパの三層堂のファサードと、ポーチの木組み

 奥から文殊堂(マンジュシュリ・ラカン)、翻訳官堂(ロツァワ・ラカン)、大日堂>(ドゥカン)、三層堂>(スムツェク)、新堂(ラカン・ソーマ)と並ぶうち、最も興味深いのは 11世紀の三層堂であろう。 約7メートル角の堂を基本として、その三方に背の高い弥勒菩薩、観音菩薩、文殊菩薩の像を容れる仏龕が張り出し、前面には2層のポーチが設けられている。
 内部には4本、ポーチには2本の柱が立ち、梁で結ばれている。内部中央には白いストゥーパが祀られ、その上部3層が吹き抜けているので三層堂と呼ばれる。目を奪うのは内部の壁面を隅々まで鮮やかに彩る壁画であって、金剛界マンダラだけで 10以上もあり、密教美術の宝庫となっている。

 建築的に最も興味深いのはポーチの木構造とその彫刻である。1層目は2段構成となり、上段では柱の両脇に添え柱をつけ、梁の中央には仏像を飾り、3弁アーチと三角形で枠取っている。こうした造形は明らかにカシュミール地方の建築や美術の影響である。
 そしてカシュミールには、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によってもたらされたヘレニズム文明が、ガンダーラ地方を経由して伝えられていた。それがさらに時代と宗教を超えて、遠くラダックにまで影響を及ぼしていたのである。アルチの三層堂では柱にギリシャ風の溝彫りがあり、柱頭にはイオニア式の渦が彫刻されている。文明が伝播していく足跡というものを、これほどよく示す例も少ないだろう。


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