アーブ山の デルワーラ寺院群 |
神谷武夫
西インドのグジャラート州を旅していた時に風邪をひいてしまい、マスクをしてアフマダーバードの町を歩いていたことがあった。すると、すれちがう人々は驚いたように私を見つめ、無遠慮な若者たちは 私を指さして笑いころげるのだった。たしかに、風邪をひいた時にマスクをするのは日本人だけの習慣のようで、外国に行くとマスクなど買いたくてもまず手に入いらない。けれども彼らの過剰な反応は、そんな物珍しさからではなかった。バスで隣に座った中年の人は、遠慮がちにこう尋ねたものである。あなたはジャイナ教徒なのですか、と。そこで やっと私にも合点がいったのである。
西インドにはジャイナ教徒が多い。といってもジャイナ教徒全体で総人口のわずか 0.5パーセントしかいないのだから、少数派であることに変わりはない。そのジャイナ教の最大の教えは 「アヒンサー」 といい、「非殺生、非暴力」を意味する。非殺生の対象は人間ばかりでなく、あらゆる生きとし生けるものに及び、虫けらの命をさえ奪うことを避ける。 けれども在俗信者がそこまですることは、あまりない。アフマダーバードの若者達は マスクをしている私を見て、ジャイナ教にかぶれた外国人が あんなアナクロニズムをしている、と思って笑ったのである。ちなみに、このグジャラート州が生んだ最大の偉人がマハートマ・ガンディーである。ジャイナ教徒でこそなかったものの、彼はその影響を強く受け、インドの独立運動を進めていた間も 徹底的に非暴力の思想を貫いたのであった。
ヴィマラ・ヴァサヒー寺院の外観と、回廊の小祠堂の扉口
西インドのグジャラート州とラージャスターン州には多くのジャイナ寺院があるが、アフマダーバードの北方 170キロほどのアーブ (*1) 山には、最も有名なデルワーラ (*2) 寺院群がある。海抜 1,200メートルのアーブ山は、古来ヒンドゥのシヴァ派とジャイナ教徒から聖山として崇められ、特に この寺院群が建立されてからは、ジャイナ教徒にとってシャトルンジャヤ山と並ぶ 重要な巡礼地となった。
アーブ山のデルワーラ寺院群・平面図
おまけに各寺院の外周壁は あまりきれいではなく、多くが平屋であるから、聳える塔が見えるわけでもなく、まったく風采が上がらない。これが 有名なデルワーラ寺院群かと 目を疑うほどであるが、しかし寺院の内部に一歩足を踏みいれると、そこには アッと息をのむ別世界が存在する。
さまざまな意匠で 1本 1本が彫刻された柱群を通して、中庭からの光をあびた内外空間の貫入するさまを眺めるのは、目の祝宴である。「ヴイマーナ」(本堂)の建つ中庭を ぐるりと囲む「バマティー」(回廊)の天井もまた、すべての区画が 蓮華や神々や抽象パターンに彫刻され、回廊に面する「デヴァクリカー」(小祠堂)群には それぞれ祖師(ジナ)像が安置されている。 世界に 偉大な建築作品は数々あるけれども、その規模の大きさを誇るのでなしに、また 彫刻的な外観を顕示するのでなしに、むしろ 小さなスケールの内部空間を この上ない緻密さで彫琢したミクロコスモスとして、これはアルハンブラの「獅子の中庭(パティオ)」と 双璧をなすものであろう。アルハンブラが「地上の楽園」の実現をめざしたのだとしたら、このデルワーラ寺院は、解脱の後の浄土を 現前させたのでもあろうか。
ところで、インド建築の最高傑作は何かと問われたら、私は躊躇なく ラーナクプルのジャイナ教の寺院と答える。それは 17年前に初めて訪れた時の直観であったが、その後たびたびインドを旅して、約 2,000におよぶ古今の建物を撮影して歩いた今でも 変わらない。
そのラーナクプルよりも アーブ山のほうが有名なのは、前者が交通不便な山奥にあって、町も村もなく 宿泊もままならなかったのに対して、アーブ山は、19世紀の始めから 英国人が高原の避暑地(ヒル・ステーション)としたために 軽井沢のような町ができ、デルワーラ寺院も 多くの人目にさらされてきたからである。
ソーランキー朝 (*6) の治世に大臣をつとめたヴィマラ・シャーは、政治の上で殺生を犯したことの償いとして アーディナータ寺院を建立した。それゆえに ヴィマラ寺院とも呼ばれるようになったが、しかし この時建てられたのは「ガルバグリハ」(聖室)、「グーダマンダパ」(礼堂)、「トリカマンダパ」(前堂)のみであり、しかもその材料は 近くに産出する黒大理石であったという。したがって それはヒンドゥ寺院と何ら変わらない 普通の寺院建物であるにすぎなかった。それに近い姿を見せてくれるのは、未完成に終わったピッタルハラ寺院である。 しかし 12世紀になると 境内は回廊で囲み取られ、そして「ランガマンダパ」(会堂)が建てられて、3方の回廊と連続させられた。ここにおいて様相が一変し、中庭がインテリア化したのである。それまでのインド建築が、石窟寺院を別とすれば、ひたすら彫刻的な外観を作ることに没頭して、内部空間は貧弱なままであったのに対し、初めて、外部よりも内部を重視する建築を発展させた。しかもその材料は クンバーリアーの近くの石切場から、1,200メートルの山上に運ばれた白大理石で すべてが作られ、新しい様式を決定づけたのである。 13世紀になると、ジャイナ教徒にとってのメディチ家ともいわれる テジャパーラとヴァストゥパーラ兄弟によって、いっそう繊細な彫刻で飾られた ネミナータ寺院が、同じ様式で建立された(テジャパーラの息子ルーナシンハにちなんで、ルーナ・ヴァサヒーとも呼ばれる)。1311年には イスラームのハルジー朝の進攻によって 相当破壊されたが、その後も 絶えず修復され、19世紀に至るまで彫刻の精度が上げられ続けた(*7)。
ルーナ・ヴァサヒー寺院の主ドーム天井と小天井
こうして作られた 比類のない建築作品にも、難点はある。真のアーチを知らなかったインドの建築家や石工は 真のドームの工法をも知らず、放射状にではなく 水平に石を積み重ねていく「持ち出し構造 (Corbeling) 」のドームで これを作ったのである。したがって それは後のイスラーム建築のような 大スパンのドームを架け渡すことはできず、ヴィマラ寺院の最大のもので 直径が約7メートルであるにすぎない(ビジャープルのゴル・グンバズにおける イスラーム建築としてのドームは、直径 38メートルもある)。 デルワーラ寺院の最大の価値は、インド建築における 空間性の創出にこそあり、それは 我々現代の建築家に 最も共感される観点であろう。そして それが さらに発展するのは、カラタラ寺院に見られる 新形式を通して ラーナクプルのアーディナータ寺院 に発展するのであるが、それはまた 回を改めて見ていくことにしよう。
(『 at 』誌 1993年3月号)
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