CHAMPANER-PAVAGADH ARCHAEOLOGICAL PARK
チャンパーネル
イスラーム都市と その建築
神谷武夫
チャンパーネル
西インド、グジャラート州、アフマダーバードの東南約90km
2004年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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グジャラート地方の アフマド・シャーヒ朝

 13世紀の初め、デリーに最初のイスラーム政権が誕生すると、次第に北インド全体が その支配に服していくことになる。地方にはまた、そこから分枝して独立したイスラーム政権も生まれ、それぞれの地の伝統をとりいれた 個性的なイスラーム建築を育んでいった。中でも力強い発展をしたのは、西インドのグジャラート地方である。
 15世紀の初めに アフマド・シャー(在位 1411-42)が政権をとると、自分の名を冠した新しい首都 アフマダーバードを建設した(アーバードというのは 都市の意の接尾辞)。このアフマド・シャーヒ朝は グジャラート地方に栄えたヒンドゥ教やジャイナ教の建築伝統(とりわけソーランキー朝のもとで高度に発展した寺院建築の技術)を借用しながら イスラーム建築の原理を盛り込み、後のムガル朝のアクバル大帝が作った「アクバル式」と並んで、インドとイスラームを最も巧みに融合させた建築様式を展開していったのである。

  
チャンパーネルの都市壁と北の市門


パーヴァーガル城の奪取

 アフマダーバードの南東約 110kmの平原に パーヴァーガルという山が屹立している。その山上には起源が紀元前にまで遡ると言われる都城が 難攻不落を誇り、山の足元には チャンパーネルの町が広がっていた。15世紀の終わり近く、イスラームのアフマド・シャーヒ朝のスルタン(王)、マフムード・ベガラ(在位 1459-1511)は このヒンドゥ王国を攻囲し、20ヵ月を費やして、ついに 1484年に陥落させた。
 それだけ力を尽くして獲得した地であるのと、この地方を支配するための地の利、さらにはその土地柄が気に入ったベガラは、ここにイスラーム都市を建設して アフマダーバードから首都を遷移することを決定する。ヒンドゥ時代とは異なった、西方伝来の水利施設やイスラームの都市計画技法をもとに、モスクや宮殿、町並みを建設するのに四半世紀を要し、16世紀初めに遷都した。
 彼の名をとって マフムダーバードと呼ばれたこの都市の繁栄は、しかしそれほど長くは続かなかった。マフムード・ベガラが 1511年に没すると 勢力は衰え始め、1536年に ムガル朝のフマユーン帝に攻め落とされて、放棄されてしまうのである。したがって、この都市が住まわれたのは、建設に要したのと ほぼ同じ 四半世紀の間に過ぎなかったことになる。

  
金曜モスクの礼拝室中央部と 外壁バルコニー


チャンパーネルの都市遺跡

 略奪された都市は ジャングルに覆われていき、その帰属も ムガル朝からマラータ王国、さらに大英帝国へと移っていった。インドの独立後、近年になって やっと都市遺跡としての公園整備や発掘が行われてきたが、遺跡の全貌を記述するような調査報告書は まだ出版されていない。ユネスコ世界遺産の登録名称は「チャンパーネル・パーヴァーガル考古遺跡公園」となっているが、かつてカーリーマート寺院が頂部に聳えていたパーヴァーガルの城砦には めぼしい物が残らず、見るべきものは 主としてチャンパーネルの都市遺跡であり、とりわけ グジャラート様式の4つのモスクと 周囲の小廟群である。

 都市全体は、高さ9mあまりの堅固な市壁に囲まれ、街道からの入口には広壮な門が築かれた。東門のすぐ近くにあるのが、最も規模の大きな金曜モスク(ジャーミ・マスジド)で、荒廃していた建物が すっかり修復されてよみがえった。私が初めて訪れた 1985年には、まだ修復中で撮影禁止だったが、今は完全な姿で人々を迎え入れている。
 そのスタイルは、これより 75年前に建立された アフマダーバードの金曜モスクに強く影響されているが、より洗練された姿を見せている。特に礼拝室正面に2本のスレンダーなミナレットが立ち、大アーチの上に装飾的な出窓が設けられて、優美にして力強いファサードを作っている。

平面図 (規模は 53m×65m)
(From "Muhammadan Architecture" A.S.W.I. Report vol. VI, 1896)

 中庭を囲む回廊の外側には 三方に入り口があり、東側正面に建つエントランス・パヴィリオンは、とりわけ印象的である。正方形プランで 四方に開口があり、尖頭アーチの内側には ジャーリ(石の格子スクリーン)が嵌められている。 雨季のあるインドのイスラームらしく、壁の上には四方に チャッジャ(石の板庇)張り出し、今は崩壊してしまったが、かつては頂部にドーム屋根を戴いていた。そしてこの全体と相似形のようなチャトリ(小塔)が 屋根の四隅を飾っている。
 これらすべては、西方のイスラームには見られない インド独特の建築要素であり、このエントランス・パヴィリオンだけで一個の廟建築に匹敵する。事実、チャンパーネルには これとそっくりの形式の廟が、半壊しながら散在しているのである。

  
金曜モスクのエントランスと 礼拝室ドーム天井


グジャラート様式の性格

 金曜モスクの内部は、176本もの柱が林立する アラブ型の列柱ホールである。 しかしそこには イスラームのアーチ構造が用いられず、インドの伝統建築から受けついだ 石造の柱・梁構造による 直角的なジャングル・ジムを形成するのが、グジャラート様式の大きな特徴である。相並ぶドーム屋根も イスラームの真のドームではなく、ジャイナ寺院で用いられているような「持ち出し構造」のドームであるが、中央の三層吹き抜けの上に載るドーム屋根だけは イスラームの半球ドームとなっている。
 このドームのすぐ下の階は 吹き放しの柱廊となっていて、ここから下へ十分に外光が注ぎ込むので、礼拝室はアフマダーバードのモスクよりもはるかに明るく、開放的な空間となっている。

 このほかに ナギーナ・モスク、ボラー・モスク、ケーウラ・モスクと その周辺の墓廟群が、かつてのチャンパーネルの繁栄をしのばせながら、諸所に堂々と建っている。全体に印象深いのは、出窓を支える腕木(ブラケット)その他が、ヒンドゥ寺院のそれのように 肉付き豊かに彫刻されていること、礼拝室内部のスレンダーな柱のデザインが、ヒンドゥ建築と違って 装飾過剰に陥らずに、洗練された姿を見せていることである。

  
ボラー・モスクのファサードと ナギーナ・モスクの柱

 インドとイスラームを巧みに融合させた建築のうち、アクバル大帝のものは、ムガル帝国を維持していくために ヒンドゥとムスリムを融和させようという アクバルの意志が建築にも反映されたものであったが、グジャラートの場合には 為政者の意志というよりは、ソーランキー朝のもとで高度に発展した ジャイナ教やヒンドゥ教の建築を作った職人たちの 同業者組合の力が強かったためだと考えられる。
 政治や軍事の上では イスラームがグジャラート地方を制覇したが、建築の上では 既存勢力を一掃することはできず、むしろ実際に仕事をする建築家や職人の伝統技法に頼らざるをえなかったのである。ただ ヒンドゥやジャイナの建築とちがって、そこには偶像彫刻が一切ないのであるが。

( 2005年 2月 「中外日報」)


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