HUMAYUN'S TOMB in DELHI
デリー
デリーフマユーン廟
神谷武夫
フマユーン廟
北インド、首都デリ-市内の東南
1993年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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1565年、ムガル帝国の王妃ハージ・ベグムは、非運のうちに死んだ夫のために帝国で最大にして壮麗な廟をヤムナー河の近くに建設することを命じた。のちのタージ・マハル廟にも大きな影響を与えることになるこの廟建築は、ペルシア的な造形言語を基本にしながら巧みにインド化している。周囲の庭園もまた、ペルシア的な「チャールバーグ(四分庭園)」の形式の最初の大々的な実現であった。インドの首都において、これはムガル帝国の威光を最もよく伝えるモニュメントである。時代が下って、シパーヒー(セポイ) の反乱後、凋落したムガル帝国の終焉をフマユーン廟は象徴することになる。帝国の最後の皇帝はこの廟の中で捕らえられるのである。



非運の皇帝 フマユーン

 中央アジアからインドにやって来て、のちに大帝国となるムガル朝を創始したのは、文人皇帝バーブル(在位 1526〜1530)であった。その息子である第2代皇帝フマユーン(在位 1530〜1540、1555〜1556)は 1530年に帝位を継いだが、あまり有能な統治者ではなかった。詩歌や葡萄酒を愛したものの、政治や軍事に十分な腕をふるったとはいえない。即位して10年もたつとフマユーンの皇帝としての権威はすっかり失われていた。
 1540年には、東インドのビハール地方を支配していた総督が、その領地の独立を唱えて反乱を起こし、ムガル朝との 2度の戦いにも勝利をおさめて、シェール・シャーの名のもとにスール朝を始めた。いったんペルシャに落ちのびたフマユーンは、その 15年後にペルシャの大軍の援助のもとに帰還してスール朝を打ち破ると、1555年にムガル朝を再建した。その際、亡命先から大勢の法官や職人、芸術家などを伴ってきていた。
 しかし、この非運の皇帝が勝利の美酒に酔っていられる時間は短かった。 というのも、フマユーン帝は 1556年 1月、宮廷の図書館の階段から落ち、あっけなく死んでしまったからである。

四分庭園への西門


ムガル帝国の廟建築の原型

 フマユーン帝の妃ハージ・ベグムはベグム・ベガともよばれるが、王の死後悲嘆に暮れて、それ以後の生涯をただひとつの目的のために捧げた。彼女は亡き皇帝の思い出のために、帝国で最も壮麗な廟をヤムナー河の近くに建設させたのである。ペルシャ人の建築家ミーラーク・ミールザー・ギヤースの指揮のもとに、贅を尽くしたその工事は皇帝の死後9年目に完成した。一説では、帝の没後9年目に工事が始まり、後継者アクバル帝(在位 1556〜1605)の治世の 14年目に完了をみたともいう。
 インドに初めて大規模に建てられたこのイスラームのモニュメンタルな廟建築は、1世紀後の タージ・マハル廟 において絶頂に達することになるムガル建築の、初期の代表作といえよう。ムガル朝以前にデリーに継起したイスラーム王朝を一括して「デリーのスルタン朝」とよぶが、そのなかのローディー朝によって建てられた墓廟群と比べると、フマユーン廟は柱や梁、腕木(うでぎ)といったインドの伝統的な建設技法を一掃して、イスラーム建築の尖頭形のアーチをくりかえし用いて全体をつくった。スルタン朝時代の廟建築に見られる無骨な印象は消え、きわめて洗練された造形となっている。

  
廟の大イーワーンと、赤砂岩に白大理石を象嵌した壁面

 それまでは簡素なつくりだったファサードも、ここでは赤砂岩に白大理石を組み合わせた華やかなデザインとなり、その上部には輝くような総白大理石の大ドーム屋根が架け渡されたのである。
 職人たちは、ペルシャ風の象嵌細工もとりいれた。ペルシャではよい石材に恵まれないことから、基本的な建設材料にはレンガを使用して、その仕上げにタイルや石を用いたのだが、富裕なムガル帝国では自然石をふんだんに用いて、美しい象嵌細工をほどこしている。つまり、クッワト・アルイスラーム・モスク以来 350年にわたるスルタン朝時代の技術的発展が、ムガル朝のフマユーン廟において、ほとんど完成の域に達したのである。

フマユーン廟と四分庭園の平面図
( アンリ・スチールラン「イスラムの建築文化」より



チャハルバーグ (四分庭園)

 フマユーン廟は、広大な正方形の庭園の中央に位置している。庭園は水路によって田の字形に仕切られ、その各々がさらに小さな正方形に分割されるという、純粋に幾何学的な構成をしている。これをペルシャに発する「チャハルバーグ(四分庭園)」とよぶが、そのインドへの最初の大規模な適用が、このフマユーン廟であった。もともと四分庭園には「楽園の思想」がこめられていて、中東の砂漠地帯で生まれたイスラーム教にとって、塀で囲まれ、日陰と水が豊富にある庭園は天上の楽園の写しだったのである。その後のムガル朝の廟建築ではこれを範として、数々のすばらしいムガル庭園を実現することになる。建築と庭園とは、常に不可分の関係にあった。

チャハルバーグ(四分庭園)の一隅

 フマユーン帝の石棺は、四分庭園の中央に建つペルシャ的な造形の廟建築の中央墓室に安置されている。建物自体は一辺 90メートルの基壇の上に、中央墓室を 4つの正方形の墓室が対角上に取り巻く形で建っているが、それぞれが隅切りをされているので、全部で5つの八角形プランの組み合わせとみることもできる。すべては幾何学的につくられ、完全な点対称となっている。
 建物の 4面は同一の形をしていて、それぞれに3つの大アーチが並んでいる。 中央のアーチが最も大きく、その内側は半ドームで覆われた半外部空間となり、これをペルシャでは「イーワーン」とよんだ。このイーワンがペルシャでは中庭を囲んで4基が向かい合うのであるが、ここでは4基のイーワーンが背中合わせとなり、全体をひとつの彫刻的な造形物としているのである。これは、あらゆる造形美術のなかで最も彫刻を好むインド人に合わせた工夫であった。

フマユーン廟の白大理石のドーム屋根


二重殻のドーム

 高さ 38メートルの中央ドームは中央アジア的な二重殻ドームをなし、屋根をなす外側のドームは白大理石で覆われている。そのまわりに、柱で支えられた傘のようなチャトリ(小塔)が建ち並んでいて、インド風の印象を与える。外殻ドームの 12メートル下で内部を覆うドームは、中央墓室にとってほどよい高さの3分の天井となり、周囲の墓室や、四方のイーワーンとを結び付ける要の空間を作っている。
 この廟には、およそ 150人もの死者が埋葬されたとされている。フマユーン帝に加えてその王妃のハージ・ベグム、王子のダーラー・シコー、そして重要な宮廷人たちであって、彼らの支配した時代に、インドのイスラーム建築はまさにその栄光の頂点に達したのである。ただし、それぞれの石棺がどのように配されたのかは分かっていない。
 この廟が竣工したアクバル帝の治世に、芸術の都としてのデリーの地位もまた確立した。もっとも、厳しい経済政策によって知られるこの皇帝は、フマユーン廟の内部の装飾を簡素なものにした。中央ドーム天井にはほとんど装飾がなく、むしろ前室の小ドーム天井のほうが豊かに飾られている。18世紀の半ばにデリーを訪れたウィリアム・フィンチは次のように記している。「広い内部空間には高価な絨毯(じゅうたん)が敷かれていた。石棺は白い布で包まれ、その上には天蓋がある。手前には故人の書籍や剣、そしてターバンと靴があった。」

  
中央墓室と、3兄弟の墓室


ムガル朝最後の皇帝

 ムガル様式の初頭を飾る建物であるフマユーン廟はまた、帝国の最も不運な時代を象徴してもいる。1857年、イギリス植民地軍の傭兵隊シパーヒー(セポイ)の反乱に際して、反乱軍側についたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世(在位 1837-1858)は、3人の王子とともにこの廟に避難した。ウィリアム・ハドソン将軍によって反乱が流血の内に鎮圧された後、フマユーン帝の石棺のそばで捕らえられた皇帝は、帝位を剥奪され終身の年金をあてがわれて、ミャンマーへ追放されてしまう。ヴィクトリア女王(在位 1837-1901)が「インド皇帝」の称号を宣言したのは、この 20年後の 1877年であった。
 現在、すっかり修復されたフマユーン廟は、800万の人口を数える首都デリーでも、とりわけ多数の人々が見物に訪れる場所である。



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