デリーのフマユーン廟 |
1565年、ムガル帝国の王妃ハージ・ベグムは、非運のうちに死んだ夫のために帝国で最大にして壮麗な廟をヤムナー河の近くに建設することを命じた。のちのタージ・マハル廟にも大きな影響を与えることになるこの廟建築は、ペルシア的な造形言語を基本にしながら巧みにインド化している。周囲の庭園もまた、ペルシア的な「チャールバーグ(四分庭園)」の形式の最初の大々的な実現であった。インドの首都において、これはムガル帝国の威光を最もよく伝えるモニュメントである。時代が下って、シパーヒー(セポイ) の反乱後、凋落したムガル帝国の終焉をフマユーン廟は象徴することになる。帝国の最後の皇帝はこの廟の中で捕らえられるのである。 |
中央アジアからインドにやって来て、のちに大帝国となるムガル朝を創始したのは、文人皇帝バーブル(在位 1526〜1530)であった。その息子である第2代皇帝フマユーン(在位 1530〜1540、1555〜1556)は 1530年に帝位を継いだが、あまり有能な統治者ではなかった。詩歌や葡萄酒を愛したものの、政治や軍事に十分な腕をふるったとはいえない。即位して10年もたつとフマユーンの皇帝としての権威はすっかり失われていた。
フマユーン帝の妃ハージ・ベグムはベグム・ベガともよばれるが、王の死後悲嘆に暮れて、それ以後の生涯をただひとつの目的のために捧げた。彼女は亡き皇帝の思い出のために、帝国で最も壮麗な廟をヤムナー河の近くに建設させたのである。ペルシャ人の建築家ミーラーク・ミールザー・ギヤースの指揮のもとに、贅を尽くしたその工事は皇帝の死後9年目に完成した。一説では、帝の没後9年目に工事が始まり、後継者アクバル帝(在位 1556〜1605)の治世の 14年目に完了をみたともいう。
廟の大イーワーンと、赤砂岩に白大理石を象嵌した壁面
それまでは簡素なつくりだったファサードも、ここでは赤砂岩に白大理石を組み合わせた華やかなデザインとなり、その上部には輝くような総白大理石の大ドーム屋根が架け渡されたのである。
フマユーン廟と四分庭園の平面図 フマユーン廟は、広大な正方形の庭園の中央に位置している。庭園は水路によって田の字形に仕切られ、その各々がさらに小さな正方形に分割されるという、純粋に幾何学的な構成をしている。これをペルシャに発する「チャハルバーグ(四分庭園)」とよぶが、そのインドへの最初の大規模な適用が、このフマユーン廟であった。もともと四分庭園には「楽園の思想」がこめられていて、中東の砂漠地帯で生まれたイスラーム教にとって、塀で囲まれ、日陰と水が豊富にある庭園は天上の楽園の写しだったのである。その後のムガル朝の廟建築ではこれを範として、数々のすばらしいムガル庭園を実現することになる。建築と庭園とは、常に不可分の関係にあった。
フマユーン帝の石棺は、四分庭園の中央に建つペルシャ的な造形の廟建築の中央墓室に安置されている。建物自体は一辺 90メートルの基壇の上に、中央墓室を 4つの正方形の墓室が対角上に取り巻く形で建っているが、それぞれが隅切りをされているので、全部で5つの八角形プランの組み合わせとみることもできる。すべては幾何学的につくられ、完全な点対称となっている。
高さ 38メートルの中央ドームは中央アジア的な二重殻ドームをなし、屋根をなす外側のドームは白大理石で覆われている。そのまわりに、柱で支えられた傘のようなチャトリ(小塔)が建ち並んでいて、インド風の印象を与える。外殻ドームの 12メートル下で内部を覆うドームは、中央墓室にとってほどよい高さの3分の天井となり、周囲の墓室や、四方のイーワーンとを結び付ける要の空間を作っている。
中央墓室と、3兄弟の墓室
ムガル様式の初頭を飾る建物であるフマユーン廟はまた、帝国の最も不運な時代を象徴してもいる。1857年、イギリス植民地軍の傭兵隊シパーヒー(セポイ)の反乱に際して、反乱軍側についたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世(在位 1837-1858)は、3人の王子とともにこの廟に避難した。ウィリアム・ハドソン将軍によって反乱が流血の内に鎮圧された後、フマユーン帝の石棺のそばで捕らえられた皇帝は、帝位を剥奪され終身の年金をあてがわれて、ミャンマーへ追放されてしまう。ヴィクトリア女王(在位 1837-1901)が「インド皇帝」の称号を宣言したのは、この 20年後の 1877年であった。 |