SURYA TEMPLE at KONARAK
コナーラク
コナーラクのスーリヤ寺院
神谷武夫
コナーラク
東インド、オリッサ州、コルカタの南西約400km
1984年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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コナーラクのスーリヤ寺院は太陽神スーリヤに献じられ、太陽の運行を司るための巨大な石造の馬車としてつくられた。さまざまな伝説に彩られたこの装飾豊かな寺院が建立されたのは 13世紀前半のことであったが、寺院が完成していたのかどうかについては議論が分かれるところである。後世に残るようにと己の姿を石に彫らせた王の、これは最後の寄進であるとみられる。レカー・デウル(高塔)は崩壊して久しく、この「聖なる馬車」が保護されるまで、ここは石切り場になっていたのである。



さまざまな伝説

 コナーラクのスーリヤ寺院の聖室の上にそびえる高塔の建設は、高名な建築家ビシュ・モハラーナの努力にもかかわらず、思うように進捗(しんちょく)しなかった。やがて、この寺院の建設は、モハラーナの息子に任されることとなった。非凡な才能をもって知られたモハラーナの息子は塔を完成し、みごと期待に応えた。
 こうしてオリッサ地方の王ナラシンハデーヴァ1世は、ヒンドゥ教の太陽神スーリヤに献じられた比類のない寺院を手にすることができた。しかし息子が塔を完成させたことが、父モハラーナの功績を減じることになった。モハラーナは寺院の建造に失敗した建築家のレッテルを貼られたのである。息子は父の屈辱を悲嘆して、近くを流れる川に身を投げたという。
 また別の伝説もある。太陽神の寺院を建てたのは、クリシュナ神の息子で容姿端麗なサーンバであって、その建設には 万を超える職工が従事し、完成に 12年を要したという。
 あるとき、サーンバが義母の水浴を覗き見したのに激怒して、クリシュナは彼を癩病にかからせ、その端麗な容姿を台無しにした。途方に暮れたサーンバは、癩病を治すことのできる唯一の神スーリヤを頼った。スーリヤは太陽の神であるばかりでなく、病気治癒の神でもあったのである。12年間願いつづけたサーンバを哀れに思ったスーリヤは願いを聞き入れ、病を癒してやった。サーンバは感謝の意を表すために、コナーラクに寺院を建立したのだという。

       
スーリヤ寺院の平面図と、南壁面の中央に祀られたスーリヤ神像
(From "Monumental Legqacy, Konark" by Thomas Donaldson, 2003)


オリッサ型のヒンドゥ教寺院

 現在のオリッサ地方は、かつてカリンガ地方とよばれ、アショーカ王に征服された後もベンガル湾に面した豊かな地域として、独自の文化を発展させた。古代には仏教、ジャイナ教も栄えたが、中世にはヒンドゥ教の建築文化が大いに発展し、カジュラーホとならぶ北方型の代表作をつぎつぎと生んだ。その中心地は現在の州都のブバネーシュワルで、ここは寺院都市といわれるほどに多くのヒンドゥ教寺院を今に伝えている。
 カジュラーホ ではわずか 150年のあいだにほとんどの寺院が建立されてしまったが、それとは対照的に、オリッサの北方型寺院は 7世紀に始まり、13世紀まで発展しつづけた。そのあいだ いくつもの王朝が継起したが、それらは地方王朝であって、とくに強力な大王朝はなかった。
 古代から中世のインドには「シルパ・シャーストラ」や「ヴァーストゥ・シャーストラ」とよばれる建築技芸書が各地にあって、寺院や宮殿の規準や建て方を解説していた。東インドのオリッサ地方には、めずらしくラーマチャンドラ・バッターラカという建築家の著者名のついた『シルパ・プラカーシャ』という、棕櫚(しゅろ)の葉に書かれた古文書がオリッサ様式の詳細を伝えている。

  
朝陽をあびるスーリヤ寺院のマンダパの正面

 オリッサ地方のヒンドゥ寺院ではガルバグリハ(聖室)をデウル、マンダパ(拝堂)をジャガモハンとよぶ。そして聖室の上にシカラ(塔状部)が載った建物をレカー・デウル(高塔)、拝堂の上にピラミッド状の屋根が架かった建物をピダー・デウルという。コナーラクのスーリヤ寺院本体も、基本的には「ジャガモハン+レカー・デウル」で成り立っているのである。
 南インドでは5世紀頃からガンガ朝が興亡した。11世紀に東南インドに再興したガンガ朝は後期ガンガ朝とよばれ、東インドのオリッサ地方まで手中にした。この王朝はブバネーシュワルに栄えていた寺院建築様式を受け継ぎながら南方的要素ももちこみ、それぞれブバネーシュワルから数十キロメートル離れた海岸近くに、ふたつの巨大な寺院を造営したのである。
 それがプリのジャガンナータ寺院とコナーラクのスーリヤ寺院である。海上からこれらの寺院の塔を目にした船乗りからは、前者が「ホワイト・パゴダ(白塔)」、後者が「ブラック・パゴダ(黒塔)」とよばれて、航海の目印とされたものだった。


J・ファーガソンによる スーリヤ寺院の復元図
(From "The Illustrated Handbook of Architecture" by James Fergusson)


崩壊した レカー・デウル

 後期ガンガ朝の王ナラシンハデーヴァ1世(在位 1238〜1264)が、なぜコナーラクに大寺院を建立したのかははっきりしないが、一説によると、彼がまだ 18歳の王子だったときにイスラーム軍との戦争に勝利し、その記念にスーリヤ寺院を建てるよう、母に勧められたのだという。その 20年後に寺院が完成したときには、彼は王になっていた。
 この、オリッサ様式の絶頂期を飾るスーリヤ寺院のレカー・デウルが崩壊してしまった原因についても、さまざまな議論がなされている。構造的欠陥があったのではないかとか、大地震のせいではないかとか、未完成であったのではないかとさえ言われている。しかし少なくともある期間、本尊が据えられて礼拝されていたこと、シカラの一部が 1848年まで残っていたことなどから、本堂は完成されていたと推測されている。
 イギリスの植民地時代にはジャガモハンのほうも崩壊の危険にさらされたので、内部に石が詰められてしまった。このジャガモハンの高さが 38メートルもあるので、レカー・デウルが残っていれば少なくとも 60メートル、もしかすると 75メートルもの高さにそびえていたろうと思われるが、それを確かめるすべは今はない。

  
寺院の復元ズと、マンダパの屋根の細部


スーリヤ寺院の構成

 コナーラクの寺院は、天を駆けめぐるスーリヤ神の馬車(戦車)をかたどった石造寺院として広く知られている。太陽神スーリヤは古代の「ヴェーダ」時代からの重要な神で、その信仰はカシュミール地方に始まった。ヒンドゥ教の時代になるとその地位はヴィシュヌ神に取って代わられるが、コナーラクのほかにカシュミール地方のマールタンドや西インドのモデラーにも重要なスーリヤ寺院が造営されている。
 コナーラクのスーリヤ寺院は、塀に囲まれた 180メートルに 260メートルの広大な境内の中央に建ち、その前面にはナト・マンディルとよばれる堂が独立して建っている。ほかにも石造の小祠堂や独立彫刻が散在し、当時は巡礼者のための食堂や厨房も、ラテライト(紅土)や木で建てられていたものと思われる。寺院本体は、今はジャガモハンとその奥の崩壊したレカー・デウルの基部しか残っていないが、それでも膨大な壁面彫刻とともに、これはヒンドゥ寺院の傑作である。

  
壁面を埋め尽くす彫刻     24の車輪が基壇に並ぶ

 基壇には直径 3メートルもの車輪が 12対も彫刻され、その輻(や)にいたるまで綿密に装飾彫刻がほどこされている。寺院の先頭には、寺院を「引いて」今にも飛び上がらんばかりの馬が7頭彫刻されていた。
 壁面にはおびただしい数の人像群が刻まれており、そこにはカジュラーホの寺院のように、男女が抱擁しあう「ミトゥナ像」も多く見られる。これもタントリズムの影響で、男女の性的結合が一種の吉祥のシンボルであったのだろう。聖室の外壁面にはジャガモハン側を除く三方に壁龕(へきがん)があって、緑泥岩(りょくでいがん)による3体の端正なスーリヤ神像が安置されている。
 ジャガモハンの堂々たる屋根はピラミッド状をしていて、3段に分節化されている。その水平層のあいだには楽人が彫刻されていてアクセントとなっている。頂部にはアーマラカとよばれる大きな冠石(かむりいし)が載っているが、これは聖樹とされるアンマロクの実に似た溝つき円盤で、つねに北方型のシカラの頂部を飾る要素である。

  
スーリヤ寺院の前面に建つナト・マンディル


スーリヤ神の出発

 棕櫚の葉に書き残された古文書によれば、寺院の建立にあたってはバラモン階級の司祭が、建設の要所要所で重要な役割を果たしたという。建物の配置や日取りの決定、作業の障害を除くための儀式、屋根の頂部にカラシャ(壷状の頂華)を取りつけるときの立ち会いなどである。壁面の彫像の配置にも、彼らの意見が取り入れられていたことだろう。
 寺院の前面に建つナト・マンディルは上部が失われてしまったが、壁面下部と基壇には、寺院本体にも劣らぬ密度で彫刻がほどこされている。そこには楽士や踊り子が多く見られることから、これは神に歌舞音曲を捧げるための「舞堂」であったろうと推測されている。
 この舞堂と寺院本体とは一直線に並び、東西軸をつくっている。これは春分、秋分の日に、夜明けの陽光が門から舞堂と拝堂を貫き、聖室に安置されていた本尊のスーリヤ神の像をあかあかと照らし出す意図であった。この瞬間に、太陽神スーリヤは御者アルナと7頭の馬に引かれて天翔(あまが)ける、一日の天空の旅へと出発するのである。
 現在のコナーラクは小さな町にすぎないが、この寺院のおかげで全国から見物客がやってくる。毎年 11月には境内で舞踊祭も開かれてにぎわう。ここに1泊した人たちは、朝早く近くの海岸まで行って、ベンガル湾のかなたに昇る朝日を拝むのである。

境内の戦士と馬の像



遺跡

ミニ・エッセイ 『旅行人』 1999年 12月号

神谷武夫

スーリヤ寺院の廃墟、1976年の夜景、コナーラク

 遺跡というのは 何であれ人類の行為の跡をいうのだろうが、土地に密着した物理的な遺物がなければ遺跡とは呼ばない。建築家にとって それは、かつて絢爛と飾られた建物が何らかの原因で放棄され、無常なる荒れ果てた姿を今に残す「廃墟」なのであって、そのイメージは 昔の探検小説や冒険映画に出てくるような、南洋のジャングルの奥深く眠る 石積みの壮大な神殿建築でなければならなかった。
 ありし日には そのまわりに煌々と かがり火がたかれ、太鼓と銅鑼の轟く中を 松明を持った男たちが行進し、きらびやかな巫女たちが舞い狂うといった、オリエンタリズムを絵に描いたような場面に聳えたはずの神殿である。私が最初に訪ねたそんなイメージの遺跡は、インドのコナーラクに残る 太陽神の神殿(スーリヤ寺院)であった。
 今を去る 24年の昔、初めての海外一人旅の 不安な第一歩をカルカッタのダムダム空港に印してすぐ、その日の夜行列車でコナーラクの小村へと急いだのは、ヤシの木のジャングルに囲まれた広い境内に、本堂が崩れ去りながらも なお、おびただしい神々の彫刻と共に残る 壮大な拝堂の廃墟を見るためであった。
 森閑とした境内に立って その古代的な光景に恍惚としていると、はだしで真っ黒に焼けた 古代的な少年が声をかけてきた。彼はルピアと名乗り、料金は1ルピーでいいからと 境内の案内をし、別れ際に「ルピア・ガイドを忘れないで」と叫んだものだった。

 それから 20年後に 再び訪れたコナーラクには、もう かつての遺跡のイメージはなく、土産物屋が並ぶ騒がしい観光地に変じていた。暑いのに ネクタイをしめ 口髭をたくわえた中年紳士が、ガイドはいらないか というので、ふと「あんたはルピア・ガイドを知らないか」と尋ねてみたら、何と「ルピア・ガイドは私です」と言うのであった。


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