カジュラーホの寺院群 |
インド中部、今は小さな村にすぎない古都カジュラーホには、10世紀から 12世紀にかけてチャンデッラ朝の最盛期に建立された 85にのぼる石造寺院のうち、25の寺院が現存している。砂岩に刻まれたみごとな装飾彫刻は、当時の他の地の追随を許さない。 とりわけ、壁面を埋めつくす彫像群はその官能性で世界に知られている。 ここでは無名の彫刻家たちが清々しい無邪気さをもって、古代インドの性愛論書『カーマスートラ』の教えを不朽のものとしたのである。 |
5世紀以降、中央アジアから進出してきた種族と、西インドの土着の民とが融合して、ラージプートとよばれる尚武の氏族が形成された。彼らはヒンドゥ化して、古代クシャトリヤ(王族、武士階級)の子孫と称し、西インド各地に王国を打ち立てた。このなかには中部インドのブンデルカンド地方まで進出して、10世紀に強力な王国を打ち立てたラージプート族がいた。これがカジュラーホの壮大な寺院群を造営したチャンデッラ朝である。
ヴィシュワナータ寺院の壁面彫刻と、内部の周歩廊
イスラム教徒によるブンデルカンド地方の征服後 100年以上もたった 1335年に、モロッコのタンジール出身の有名な旅行家イブン・バトゥータがカジュラーホを訪れたときには、まだ燦然(さんぜん)と輝いていた寺院群を目の当たりにしたことだろう。しかしその後この地は忘れ去られ、鬱蒼(うっそう)と茂る植物に埋もれ、今世紀に再発見されるまで深い眠りについていたのである。
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院・平面図と外観(背面) 11世紀半ば
西群の奥にそびえるのは、11世紀半ばに建立された、カジュラーホで最大のカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院である。高さ 31メートルにも達する砂岩の塔はシカラとよばれ、その全体と相似形の小シカラが 84も積み重なった形をしていて、天を突くようにのび上がっている。インドの中世寺院は大きく北方型と南方型に分けられるが、カジュラーホの大寺院群は北方型の完成された姿を見せている。
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のミトゥナ彫刻
カジュラーホに現存する 25の寺院にほどこされたみごとな装飾彫刻は、中世を代表する傑出した一群の彫刻家たちの作品である。寺院の内外の壁面を埋めつくす男神や女神、あでやかな天女たち、空想上の動物、そして「ミトゥナ」とよばれる抱擁する男女を描いた官能的な彫像は、彫刻家たちの尽きることのない豊かな想像力の発露である。建築と彫刻の境界はしだいに失われ、寺院は複雑をきわめる彫刻の巨大な集合体となっていったのである。
西群で今もなお礼拝されて賑わうマータンゲシュワラ寺院には、シヴァ神の象徴である、高さが 2.5メートルもの石のリンガ(男根)が祀られている。この寺院は、まだ「カジュラーホ型」のスタイルが確立する以前に建てられた単室型をしていて、壁面彫刻は失われてしまった。その向かいにあるヴァラーハ寺院は、ヴィシュヌ神の化身であるヴァラーハ(野猪)を祀っている。
一方、東群には ジャイナ教の寺院群 の区画があり、3つの寺院と多くの小祠堂が建ち並んでいる。最大のものは第 23代ティールタンカラ(ジャイナ教の祖師)に献じられた パールシュヴァナータ寺院 で、西群の大寺院群よりも早い 10世紀半ばに建立された。ここにはバルコニーがないが、壁面を埋めつくす彫像は逸品ぞろいで、ある女性は手紙を書き、別の女性は服を着たり、花で自分を飾っている。チャンデッラ朝の盛期を代表する傑作のひとつに挙げられよう。
南群のチャトルブジャ寺院 東群のジャヴァーリー寺院の扉口
近代の観光旅行の始まりとともに、当局はカジュラーホが外貨をもたらす重要性に気づき、寺院群の修復を始めた。カジュラーホは、村自身の名がついた空港をもつインド唯一の村である。1910年に設立された博物館は、もう何年も前から手狭であると指摘されている。たえず発掘される彫刻や建築断片を収納するスペースは、もはや無い。一方、西群の大規模な寺院は保存状態がきわめて良好で、毎年3月には寺院を舞台にして伝統的な舞踊祭が催される。 |