BRIHADISWARA TEMPLE in THANJAVUR
タンジャーヴール
ブリハディーシュワラ寺院

神谷武夫

南インド、タミルナードゥ州、チェンナイの南西約 290km
1987年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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11世紀の初め、チョ−ラ朝中興の王ラ−ジャラ−ジャ 1世によって、新首都タンジャーヴールに南インドで最高のヴィマーナ (本堂) をもつブリハディーシュワラ寺院が造営された。これは古代から 13世紀にいたるまで南インドのタミル地方に栄えた、ドラヴィダ人の王国チョーラ朝の覇権を後世に伝えるものである。 ヒンドゥ教の二大神のひとり、シヴァ神に献じられたこの寺院のヴィマーナで厚い漆喰層の下から 1930年に発見されたのは、魅惑的な天上界の舞姫や楽士たちを描いたチョーラ朝時代の壁画であった。



神に捧げる巫女の舞

 11世紀の初め、チョーラ王国の都タンジャーヴールに、シヴァ神を祀るブリハディーシュワラ寺院が完成すると、祭司たちは、デーヴァダーシーとよばれる巫女(みこ)にするための、未婚の美しい少女を探して全国をまわった。「神の召し使い」の意味をもつデーヴァダーシーは寺院に所属し、主神シヴァ神に踊りを捧げる役割を担うため、よい家柄の出であり、もちろん処女でなければならなかった。というのも、彼女は教育を終えると、シヴァ神との婚姻の儀式を迎えることになるのである。選ばれたデーヴァダーシーたちは、思春期を迎える前にこの大寺院に入り、舞踊術を身につけ、未来の夫を敬いながら日暮れに灯明を捧げ、讃歌を歌って神を楽しませたのである。
 1930年代にブリハディーシュワラ寺院のヴィマーナで発見された創建当時の壁画には、天上界で踊るアプサラス(天女)たちが、宇宙の維持者であるヴィシュヌ神とともに描かれている。この驚くほど保存のよい壁画のように、当時からデーヴァダーシーが伝えた優美なバラタ・ナーティヤムの踊りは、今ではタミル地方を越えてインド中で踊られている。


近世のナーヤカ朝時代の回廊の壁画

 この壁画が発見されたのは、聖室をとりまく繞道(にょうどう)である。 経文を唱えながら聖所の周囲を右回りにまわる道筋を繞道とよぶが、この寺院の繞道の壁と天井には 17世紀のナーヤカ朝時代の絵が描かれていた。その絵の下から、はるかに古い 11世紀の壁画が現れて、再び人の目に触れることになったのである。
 繞道の南側の壁面には聖樹の下で教えを説くシヴァ神、北側には3つの都に住む魔神を退治するシヴァ神、さらに西側にはヒマラヤのカイラーサ山で聖者を迎えるシヴァ神が描かれている。8本の腕をもつシヴァ神は創造の神ブラフマーが率いる戦車に乗り、あるいはまた首と上腕に蛇を巻いて、虎の皮の上でヨーガの修行をする。そのほか西側の壁画のなかには、ラージャラージャ1世 (在位 985〜1014) がそのグル(師)であるカルーヴル・デーヴァルと並ぶ姿もある。これらの壁画は長い時を経ているにもかかわらず、漆喰(しっくい)で塗り込められて外気から守られていたために良好な状態が保たれており、唯一残るチョーラ朝時代の絵画としてきわめて貴重である。


ブリハディーシュワラ寺院の全景


ラージャラージャ1世による国家事業

 1010年頃、ベンガル湾に注ぐカーヴェリ川下流域につくられた新首都タンジャーヴールの南西部に、チョーラ朝のラージャラージャ 1世が建設していたブリハディーシュワラ寺院が完成した。当時は王の名をとって、ラージャラージェーシュワラ寺院とよばれ、その後を継いだラージェンドラ1世がガンガイコンダチョーラプラムに首都を移して造営したラージェンドラ・チョーリーシュワラ寺院と並んで、チョーラ朝期の寺院の双璧をなす。これらは南インドにおけるチョーラ朝の覇権を示す一大国家事業であった。
 タンジャーヴールを要(かなめ)として扇形に広がるデルタ地帯は「南インドの庭園」とよばれる肥沃な穀倉地帯で、古くから開けた土地であった。ヒンドゥ教に帰依した歴代の王たちは、この地に多くの寺院を建設したが、そのなかで最大のものがブリハディーシュワラ寺院である。 ラージャラージャ1世は弱体化していたチョーラ朝を再興し、南インドからスリランカの一部、インド洋のモルディヴ諸島、はてはアラビア海のラカディーヴ諸島までも勢力を伸ばした。


ブリハディーシュワラ寺院の平面図
(From "The History of Architecture in India" by Ch. Tadgell)

 わずか 7年で完成したというブリハディーシュワラ寺院は約 120メートルに 240メートルの境内を回廊で囲まれ、さらにその外側を、タンク(貯水池)も含めて約 350メートル四方の広さにレンガ塀で囲まれている。境内には、ナンディ堂、ふたつ連続した広大なマンダパ(拝堂)、アンタラーラ(前室)、そして上部に塔がそびえるヴィマーナが、東西軸上に一列に並んでいる。レンガ塀と回廊には、やはり中軸上の東側中央に初期のゴプラ(寺門)があり、ここが境内への唯一の入り口となっている。どちらも彫刻で飾られて華々しい造形となっているが、後世の南インドの大寺院におけるゴプラと比べると、ヴィマーナが高いだけよけいに、ずいぶんと背が低く見える。


両側に守門神が彫刻された第2ゴプラ

 回廊に設けられた第2ゴプラは幅、高さともに約 24メートルと第1ゴプラより小振りだが、ここにほどこされた彫刻は第1ゴプラを凌ぎ、扉口の両側には巨大なドゥヴァーラパーラ(守門神)が取りつけられている。境内を囲む回廊にはシヴァ神の象徴であるリンガ(男根)が並び、その背後の壁面にはナーヤカ朝時代の壁画が描かれて参詣者の目を楽しませてくれる。
 花崗岩とレンガでつくられたブリハディーシュワラ寺院は、その規模の大きさと完成度の高さにおいてガンガイコンダチョーラプラムの大寺院とならび称され、ドラヴィダ様式(南方型)の最高峰をなすものである。マハーバリプラムに始まった南方型の石造寺院の発展はここに絶頂期を迎えた。タンジャーヴールのブリハディーシュワラ寺院は、同じチョーラ朝期に建てられる南インドや東南アジアの寺院の模範となった。
 ところがチョーラ朝が 13世紀に滅んだ後、南インドの寺院様式は急旋回を遂げる。もはや巨大なヴィマーナはつくられず、大寺院は境内ばかりを広げて何重にも塀で囲み、その四方にゴプラを建てるようになるのである。ゴプラの高さは外側にいくほど高まり、ついには 60メートルを超すゴプラも現れて、本堂と門との高さ関係は完全に逆転してしまうのである。その意味でも、このタンジャーヴールの大寺院は、正統的な南方型寺院の代表作といえよう。


ナーヤカ朝の時代に加えられたポーチ内部


森羅万象の中心 − ヴィマーナ

 ヒンドゥ教社会において社会的にも文化的にも中心的存在をなす寺院建築には、神性の宿る山や、生命を育む母胎が象徴的に取り込まれている。聖なる山としてとくに重要視されるのは、シヴァ神の住まいであるカイラーサ山と、宇宙の中心とされる伝説の山、メール山(須弥山、しゅみせん)である。人間界において神々が訪れる場所である寺院は聖なる山々を地上に再現したもので、人と神が交わる場であり、森羅万象の中心でもある。
 天に向かってピラミッド状にそびえ立つヴィマーナの頂部には、人間界と神界のあいだの境界として、半球形の冠石(かむりいし)が置かれる。北インドでは聖室の上の塔状部全体をシカラと呼んだが、南インドではこの冠石のみを指してシカラ(山頂)とよぶのである。
 ブリハディーシュワラ寺院のヴィマーナの頂にも巨大な単岩のシカラが置かれ、その重さは 80トンにもなると推定されている。この花崗岩のシカラがどのようにして 60メートルもの高さに持ち上げられたのかは今も謎である。一説には斜面の足場が架けられたといい、その長さは6キロメートルにもおよんだという。このシカラは吉兆を表す八角形の聖杯の形をし、その上に金箔でおおわれた銅による壷形のカラシャ(頂華)をいただいている。


頂部にシカラの載るヴィマーナの塔状部

 また、ヴィマーナ内部のガルバグリハ(聖室)の「ガルバ」が子宮を意味することからもわかるように、洞窟に似たこの聖所は母胎を象徴している。シヴァ神に献じられた寺院の聖室においては神像の代わりに、シヴァ神の象徴であるリンガが祀られる。ブリハディーシュワラ寺院に祀られたリンガもまた巨大なもので、これに潅水(かんすい)するために足場を要した。インド全域でも最大のリンガとみられている。
 ブリハディーシュワラ寺院のヴィマーナは平面がおよそ 25メートル四方の正方形で、聖室の上にピラミッド状の高大な塔をもつ。13層の塔は鋭角的にのび上がり、南方型の階段状でありながら大きく分節化されることなく、その輪郭線は直線的である。下の外壁は2段に分けられ、南方型に特徴的な付け柱や壁龕(へきがん)で凹凸をつくって、広い壁面を区切っている。 各面の中央部には窓が設けられ、その上部に祠堂をかたどった屋根が一段と高く彫刻されて、この奥に聖室があることを示している。
 外壁の壁龕にはヒンドゥ教の神々の彫像が飾られているが、その多くはシヴァ神である。下段の南面には宇宙の踊り手として、108の型をもつバラタ・ナーティヤムのポーズをとるシヴァ神が、舞踏王ナタラージャの姿で描かれている。
 基部にはヤーリとよばれるライオンに似た空想上の動物の彫像が、本堂をぐるりと囲んで一列に並んでいる。要所にはマカラとよばれるワニのような姿をした怪獣の大きな口から、チョーラ朝の権力を支えた戦士たちが姿を現している。塔を構成する各層には、チョーラ朝に先立つパッラヴァ朝期の様式によるミニチュア祠堂が整然と並び、最上層の四方の角には、シヴァ神の忠実な供である牡牛ナンディの石像が1対ずつ見られる。


ブリハディーシュワラ寺院のヴィマーナの基部


碑文が語るもの

 ブリハディーシュワラ寺院の基部には、創建者ラージャラージャ1世の偉業をたたえるばかりでなく、この「寺院都市」ともいうべきタンジャーヴールの町の社会組織についても記録した碑文が刻まれている。
 11世紀初頭のタンジャーヴールには数百人の祭司のほかに、寺院の踊り子、笛吹きや太鼓手、ヴィーナ奏者に法螺貝吹き、天蓋持ちや散水係、ランプ係や洗濯係など 600人を超える人々が住んでいた。こうした人々は寺院での仕事に半日を費やし、残りの時間はラージャラージャ1世から無償で貸与された耕地で農作業に従事した。寺院との契約は石に彫られ、耕地使用の代償として、寺院の建設に手を貸し、祭礼にはきらびやかに飾られた山車(だし)を引くのが義務であった。
 この碑文のおかげで、寺院がいかに多くの金、銀、宝石類を所有していたかも知ることができる。寺院は造船業者や村の共同体、同業組合などに融資し、最高で 30パーセントまでの利子を得たのである。チョ−ラ朝が衰退期を迎える頃になってからでさえ、ブリハディーシュワラ寺院は拡張と装飾のための資金を潤沢に提供された。


スブラフマニヤ祠堂の壁面

 このようにして境内には、寺院本体のほかにさまざまな施設が建てられた。13世紀には東西軸と直交してシヴァ神の神妃であるデヴィーの祠堂が、17世紀にはヴィマーナの右手後方に、きめの細かい花崗岩の彫刻で飾られたスブラフマニヤ祠堂が建造された。やはり後世のガネーシャ祠堂の近くには、およそ2万冊のサンスクリット語の写本が収められた寺院図書館もあった。
 また、ナンディのためには独立したナンディ堂が建てられた。この堂内のナンディの彫像は、長さ6メートルに高さ4メ−トルの黒い花崗岩製で、インド最大のものである。 遠い昔から、人々はこのナンディ像に毎日油をたっぷり塗りつづけてきたので、今日では、あたかもブロンズ像のような光沢を放っている。


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