一枚のミニアチュール(細密画)がある。 花々で縁取られ、インドの伝統的な技法で描かれているが、実はここに描かれているのはムガル朝の宮廷ではない。
宮廷人の衣装をまとって謁見をしている主な人物たちは 英国人である。1931年にマージョリー・シュースミスという英人女性が描いたこの絵は、19世紀後半以降の近代インドにおける 建築の歴史において、新しい建築の到来前夜、古い体制の最後の輝きを象徴している。
それがいかなる時代の終焉であるのかを、この絵以前と以後の建築の変遷を通して、簡略にスケッチしてみよう。
19世紀後半のインド建築
インドを植民地としていったイギリスは 19世紀後半に最盛期を迎えた。首都のカルカッタ(現・コルカタ)は、インド総督官邸を始めとするヨーロッパの新古典主義(新しい建物を古代ギリシア・ローマの建築様式に基づいて設計する傾向)の建物で飾り立てられていた。しかしカルカッタの夏は暑く、また非衛生的であったので、1865年以降は 避暑地のシムラが夏の首都とされ、ヘンリー・アーウィンの設計になる英国のカントリー・ハウス風の総督官邸が建てられた。
(左)シムラのインド総督官邸の外観
(右)同、エントランス・ホール、ヘンリー・アーウィン
これが示すように、英領時代の主要な建築は もっぱら英人建築家の設計になる「コロニアル建築」である。 インド人には設計が任されなかった というより、インドには建築家の養成機関もなかったのである。したがって絵画の領域におけるアバニンドラナート・タゴールのような、ナショナリズムの建築家もなかなか現れなかった。
一方、商業都市ボンベイ(現・ムンバイ) には 本国におけるゴチック・リバイバルに呼応して、教会堂ばかりでなく商業建築までも ゴチック様式で華麗に建てられ、大英帝国の勢威を顕示した。ジョージ・ギルバート・スコットの設計による ボンベイ大学の図書館や講堂はその代表である。
ボンベイ大学図書館、ジョージ・ギルバート・スコット
しかしながら、こうした西洋文明の一方的押しつけが 1857〜59年のインド大反乱(セポイの乱)をもたらしたという反省から、コロニアル建築にもインドの伝統的な要素を取り入れようという動きがおこり、とりわけムガル朝の建築様式を西洋建築に折衷させた「インド・サラセン様式」が1880年代から盛んになる。
インドの雨季に備えて石の板庇をつけ、飾りの小塔(チャトリ )を屋根に並べて ドーム屋根を戴いたスタイルは 燎原の火のように インド中に広まり、インド人にも好意的に迎えられた。すなわち 建築におけるインド人のナショナリズムを、英人建築家たちが代弁したのだと言える。
ハイダラーバードの市庁舎、ヴィンセント・エッシュ
コロニアル建築の終焉、ニューデリー
20世紀になると、カルカッタを中心にして 反英独立運動が高まる。危機感を強めた英国政府は、インドの中央に位置するデリーの南側に、カルカッタから遷都するための新都市を建設することを 1911年に宣言する。こうして呼び寄せられた建築家 エドウィン・ラチェンズと ハーバート・ベイカーは ニューデリーの都市設計をし、インド総督(帝国副王)官邸を始めとする主要な施設を設計した。ここでは英国の政策として インド・サラセン様式を薄め、ヨーロッパの古典様式への傾斜を強めた。
ニューデリーの政庁舎、ハーバート・ベイカー
この最後の大規模なコロニアル建築の 1931年における竣工引渡しをユーモラスに描いたのが、冒頭の ミニアチュール である。 総督官邸の模型を差し出しているのがラチェンズであり、国会議事堂の模型を捧げているのがベイカーであり、ニューデリーの都市計画図を手にしているのがチーフ・エンジニアのアレクサンダー・ラウズである。 背景にはラチェンズが設計した総督官邸とムガル庭園が広がっている。
この頃すでに ヨーロッパでは、19世紀の様式主義の建築を否定した 近代建築運動(モダニズム) が最盛期を迎えていた。
ニューデリーの建設工事の間、現場で監理をしたのは ラチェンズの助手の アーサー・ゴードン・シュースミスで、件(くだん)のミニアチュールを描いたのは その夫人の マージョリーである。彼女は 夫が現場に通っていた間に、絵師からムガル絵画の伝統を習ったのであろう。ちょうど ジョサイア・コンドルが 河鍋暁斎に日本画を習ったように。
若いシュースミスは モダニズムの旗手 ル・コルビュジエと1歳ちがいであり、ラチェンズの古いスタイルには 飽き足らないものを抱いていた。そして工事の監理中に セント・マーチンズ・ガリスン聖堂の設計の機会を与えられると、ほとんど装飾のない、レンガの力強いマッスで構成主義風の設計をした。インドにおける 最初の「近代建築」( A piece of Modern Architecture ) である。
セント・マーチンズ・ガリスン聖堂、A・G・シュースミス
独立後の建築
その 17年後の 1947年に 英国から独立すると、インドは様式主義に訣別して 一気にモダニズムの時代に突入する。その作風を決定づけたのは、パンジャーブ州の新州都チャンディーガルの都市と主要施設を設計したフランスの建築家、ル・コルビュジエである。
(左)チャンディーガルのカピトール、ル・コルビュジエ
(右)アフマダーバードのサンガト、ドーシ・アトリエ
パリのル・コルビュジエのアトリエで修行をし、西インドのアフマダーバードで活躍したバルクリシュナ・ドーシは この傾向を定着させ、この都市を インドにおけるモダン・デザインのメッカにした。
これに続くインド人の建築家たちは 次々と新しい建築を開拓していったが、とりわけラージ・レワルは 西洋の近代建築の技法を駆使しながら、インドの伝統的な集住形式や形態を シンボリックに現代化してみせた。
ニューデリーの STCビル、ラージ・レワル
これに対して 建築の形態操作よりも、もっと土着の技術や風土への適応を目指すヴァナキュラーな現代建築の流れがある。
この傾向に大きな影響を与えたのは 1917年生まれの英人建築家 ローリー・ベイカーである。彼は南インドのケーララ地方に定着して、熱帯の風土に適した、民衆のためのローテク建築を探求した。
(左)ティルヴァッラのセント・ジョン・カテドラル
(右)ジョードプル大学のレクチュア・ホール
こうした傾向を受け継ぐ ウタム・C・ジャインは、西インドの砂漠地方で乾燥地域に根ざした建築を創っている。
インドの現代建築は、欧米と緊密な関係を結ぶグローバリズムと、大地に棹さしたリージョナリズムとの二極の間に広がっているのである。
(「アート・トップ」第186号、芸術新聞社、2002年 6月)
日本建築学会の機関誌『建築雑誌』が 2002年に、「建築のアジア」
という連載をしました。アジア諸国を植民地にした宗主国が、現地の土着の建築様式をとりいれながら建てた「コロニアル建築」のシリーズです。
その2月号に、チャールズ・マントが設計して「インド・サラセン様式」を確立した 「メイヨー・カレッジ」を 紹介しました。
デリーの北部、オールド・デリーや デリー駅よりも もっと ずっと北に、かつて英領デリーの初期の都市部(カントンメント)があり、シヴィル・ステイションとか リッジ地区と呼ばれています。ここにヴィクトリア女王以来、歴代の英国王が インド国王を兼ねるための戴冠式が行われた場所があり、今は コロネイション・パークとして整備されていますが、日本からの観光客は まず訪れません。その中心のコロニアル・メモリアル・オベリスクに面して、高さ16メートルの 大きなジョージ5世 (在位 1910-36) の像がインド門の近くから移設されて 立っていますので、紹介しておきます。デリー駅の6キロメートルぐらい 北になります。
ジョージ5世は 1911年の12月12日に ここで盛大に 戴冠式典(デリー・ドゥルバール)を行い、首都をカルカッタから、新しく建設するニューデリーに移すことを宣言しました。
彼の跡を継いだジョージ6世 (在位 1936-52) が、映画『英国王のスピーチ』で描かれた吃音の国王で、最後のインド皇帝でもありました。その跡を継いだ娘が、在位70年で 昨年世を去った エリザベス女王です。
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