西アフリカの イスラーム建築 |
(マリ共和国のイスラーム建築)
神谷武夫
アフリカ大陸は、建築文化的には 北部の地中海に面した「アラブ・アフリカ」と、サハラ砂漠以南の「サブサハラ・アフリカ(ブラック・アフリカ)」とに二分される。アラブ・アフリカは 東から順に エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコの 5カ国で、マグリブ地方ともいわれる。7世紀以後 中東のアラブ・イスラーム文化が流入し、アラブ人が移住して ベルベル人などと混血し、アラビア語を主言語とするようになった。
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これに対して サブサハラ・アフリカ(ブラック・アフリカ)は 黒人の国々であり、20世紀の後半に ヨーロッパの植民地から独立しながら、今もなお 貧困や政情不安に悩む国が多い(黒人とは言うが、無彩色の黒人など 世界のどこにもいない。肌の色は 焦げ茶色である)。イスラームの浸透は中世に始まるものの、軍事的に征服されたわけではなく、交易活動を通じての 緩やかなものだった。イスラーム化が大きく進んだのは 19世紀からである。
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文化圏としては、歴史上 マリ帝国やソンガイ帝国をもった「西アフリカ」と、スワヒリ文化を中心とする「東アフリカ」とに区分される。地理的な呼称としては、アラビア語の「ビラード・アッ・スーダーン」(黒人たちの国々)に由来する「スーダン」が、サハラの南、大陸の東西にわたる全エリアに用いられた。現在のスーダン共和国は 東アフリカにあるが、かつてフランスの植民地にされた「仏領西アフリカ」(Afrique Occidentale Française) は「仏領スーダン」とも呼ばれた。その西部スーダンから 1960年に独立したのが、マリ共和国である。
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ブラック・アフリカは、木の文化圏や石の文化圏と異なる「土の文化圏」である。 古来、ほとんどすべての建物は 土、つまり「日乾しレンガ」(sun-dried brick) で建てられてきた。それはアフリカばかりでなく、世界中の建物の約 40%は 今も土で造られていて、世界の人口 68億の内、半数の 30〜35億人は 土の住居に住んでいると言われる。土は 最も安価な材料であり、人の住むどこでも入手可能であり、しかも保温性が高いので、雨量の少ない地域である限り、これは優れた建設材料だったのである。 ![]() エジプトの近代建築家で、第三世界の建築界のリーダーとなった ハッサン・ファティ(1900-89)は、当時の(現在も)アフリカの経済状態からいって、日乾しレンガ造による建物が その風土に最も適していると考え、生涯それを実践して、土による近代建築を設計し続けた。彼のニュー・グルナでの体験を著わした『貧者のための建築』 ("Architecture for the Poor") は、中東とアフリカにおける 若い建築家たちのバイブルであった。 とはいえ、土は降雨や洪水に弱く、また放置されれば ひび割れ、崩れ落ち、遺跡となるよりは 大地に還ってしまう、はかない材料でもある。かつての アッバース朝イスラーム帝国の首都として 栄華を極めた バグダードの都でさえ、放棄された後は 跡形もなく消え去ってしまった。建築史の書物は 石造建築や木造建築の歴史で構成され、土造建築が扱われることは ほとんどない。実際、ブラック・アフリカの中で最も建築的に知られている マリにおいてさえ、18世紀以前の古い建築文化は 何も残っていないのである。では、アフリカの土の文化を代表する、そのマリの「土造建築」とは、どんなものだろうか。
![]() ![]() ジェンネの民家
古いスタイルの民家が 最もよく残っているのは、ジェンネの町である。北部アフリカとスーダン南部の交易活動の 結節点として栄えた町なので、土造の家としては かなり装飾的である。ファサードに 付け柱を並べ、入口上部と建物コーナー部に 角(つの)状の突起を出し、窓には しばしば木製の装飾的なフレームを嵌めこむ。けれども壁面に彩色することは稀で、タイルなどを貼ることもないから、あくまでも 土のプラスター(アドビー)仕上げである。
![]() ![]() 日乾しレンガ
土の家といっても、海水浴の子供たちのように いきなり土を盛り上げるわけではなく、手で持って積み上げることのできるように、日乾しレンガをつくる。その製法は ごく簡単で、底の抜けたロの字型の木枠に、藁を混ぜて練った土(粘土が望ましい)を押し込み、すぐに木枠を抜いてしまう。これを太陽の熱で乾かしたものが 日乾しレンガである。これを火にかけて焼けば、石のように硬い「焼成レンガ」になるが、そのためには 貴重な木材を燃料にしなければならないので、特別な建物にしか用いない。最近は 都市内ではコンクリート・ブロック造の建物が増えてきたが、その上に土のプラスターを塗ると、見かけ上は 土造建築と区別がつかない。 ![]()
雨量が少ないので 勾配屋根にする必要が あまりなく、基本的に 屋根はフラットである。また土壁は 昼間蓄えた熱を夜 室内に放射するので、人びとは涼しい屋上で寝るのを好み、そのためにも 陸屋根が必要とされる。もちろん 農作業にも使われ、干草置き場にもなる。ただし 穀物倉は雨で崩れないよう、藁で とんがり帽子のような 簡易屋根を かけることが多い。
マリで 最も有名なモスクは、古都 ジェンネの 大モスクである。古都といっても 前述のように 古建築や遺構があるわけではなく、すべては 近代になってから建て直された土の建物が建ち並ぶ、人口 23,000ほどの 小さな町である。しかし 川で囲まれた街の構造は 古いままであり、約 2,000にのぼる家々は 古来のスタイルを伝えている。1988年には この町全体が ユネスコ世界遺産に登録された。なかでも 町の中央部に建つ大モスクが 土造のイスラーム建築を代表するものとして、世界に知れわたっている。
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ところが ジェンネに着いてみると、驚いたことに、ファサードに建ち並ぶ 3本の塔のうちの 左の塔が失われている。私が訪れる 1週間前の 11月6日に、乾季であるにもかかわらず 豪雨があり、崩壊してしまったというのである。建物の一部とはいえ、世界遺産の景観をなすモスクの塔が、こんなにも あっけなく崩れてしまうとは。 もちろん その分、再建も楽にはちがいないが、土の建築のもろさを いやというほど思い知らされたのである。
『イスラーム建築』(マフィアの圧力によって、どこの出版社も出版拒否をしているのであるが)に書いたように、近世のイスラーム世界を三分した帝国、オスマン帝国、ペルシア帝国、ムガル帝国において イスラーム建築が大発展し、周辺国にも多大の影響を与えたことから、モスク建築は古典的な「アラブ型」に加えて「ペルシア型」、「トルコ型」、「インド型」の 4タイプ に 大分類されることとなった。これに対して、限られた地域で 独自の形を造りだした マイナーなスタイルがある。これを「型 Type」 に対して「式 Style」と呼ぶなら、「中国式」モスクは その典型である。
![]() ![]() マリのモスクは 民家と同じようにフラット・ルーフであって、ドーム屋根は用いない。もちろんアーチは用いるし、ドームの工法が伝えられなかったわけではない。にもかかわらず、乏しい木材を使って陸屋根を造るのは、基本的に 日乾しレンガの建物だからである。雨で もろくも崩れ去ってしまう建物に 恒久性は期待できない。ドーム屋根を架けるためには、木材による 大々的な型枠や支保工が要るので、ドームが崩れるごとに 木の型枠や支保工を作って再建するのは、経済的にも労力的にも 大きな負担となるが、陸屋根ならば、崩れても その木材を使ってすぐに屋根を架けなおすことができるからである。
大きなモスクでは 内部に柱を立てなければ ならないが、村の小モスクには 柱の必要がなく、壁から壁へと 小梁を架け並べる。この ワンルーム空間の礼拝室と同じほどの広さの 前庭を備えるのが一般的で、それは 塀で囲まれるので、中庭と呼ぶほうが適切である。この中庭への入口には ドアがあるが、礼拝室への入口は、ドアを付けずに 開け放していることが多い。
外壁には何の装飾もなく、塗装もされない。唯一の装飾は 角(つの)状の突起である。ミフラーブの上に一番高く角を出し、建物の隅部に 小突起を出す。この、最も簡易な「顕示法」が、ジェンネの大モスクの塔へと発展していったのである。しかしながら イスラーム建築において、こうした造形上の垂直要素としては ミナレットを建てるのが一般的であるが、マリでは どんなに大きなモスクにも、独立したミナレットは無い。これも 構造的に、土の建築ゆえの 倒壊しやすさが理由であろう。
マリの最大のモスクは、ジェンネの大モスクである。その威容は 表現派的な外観とあいまって、工業化社会の建築家たちを驚かせるに十分な 視覚的効果をもっている。工業化製品のアセンブリッジでつくられる建物とは まったく異なった、手作りの塑像のような表現だからである。そしてまた平面図を見る時、その驚きは いっそう深まる。すべてが歪んでいる上に、礼拝室の内部が 柱で埋め尽くされているからである。
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創建は マリ帝国時代(13〜16世紀)の 1280年頃、イスラームに改宗した ジェンネの第 26代目の王、コイ・コンボロによってと伝える。自身の宮殿を取り壊した跡地に建てたもので、これが 19世紀に破壊されるまでは ずっと用いられていたという。西アフリカを植民地にしたフランスが 1893年にジェンネを占領した時、このモスクは すでに廃墟になっていた。 さて、川が氾濫した洪水時に モスクが損傷しないように、全体は 高さ2m強の基壇に載っているが(約 75m×75m)、この基壇が 正方形ではなく、平行四辺形のように歪んでいる。これに応じて モスクのプラン自体も歪んでいて、中庭は 完全に平行四辺形である。このモスクは 広場に面しているので、カイロのイスラーム建築のような 敷地上の問題は無かった筈だから、これらの歪みは、測量術の未発達が原因だったろう。平行線を出すのは容易であっても、大規模に直角を作図するのは むずかしかったのかもしれない。
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<礼拝室+中庭>という構成は 先ほどの 村の小モスクと同じだが、規模の違いが 種々の変更を生んでいる。まず 中庭を囲むのは 単なる塀でなく、回廊である。 そして西側の回廊が 女子用の礼拝スペースに当てられている。また、マッカ(メッカ)は マリからは東方にあたり、東側のキブラ壁に ミフラーブが3ヵ所設けられている(小部屋のようには なっていないが)。 その装飾というのは、屋上に突き出す角を コーナー部だけでなく、壁面の上部に連続させたこと、塔を3段にして、各段のコーナーにも角を出したこと、そして壁面全体に 椰子の木の棒(トロン)を突き出させたことである。これらの棒は 年に一度、モスクの壁面全体に土のプラスターを塗り直すときに 足場になるものであって、高い位置に必要となる。したがって 高さの低い村の小モスクには無かったのであるが、次第に これが 装飾要素として、低層のモスクにも 用いられるようになる。しかし これ以外には、世界のイスラーム建築の装飾の定番である カリグラフィーも ムカルナスも、植物紋も 幾何学紋もない。
![]() ![]() ![]() ジェンネの大モスク、塔、崩壊部、内部
ジェンネにおける 約 50m×26mの 幅広型の礼拝室内部は、ドーム屋根で覆われたトルコ型モスクの 対極に位置するもので、宇宙的な大空間どころか、室内の全体を見通すことさえ できないほどに、太い土の柱が 90本も林立している。これは まさにアラブ型の列柱ホール式モスクの、最も極端な例である。柱が林立するのは、ドーム屋根を用いずに 大面積のホールに陸屋根を架ける場合の宿命であるが、それが土の柱であるだけに、石の柱 よりも はるかに太くなってしまうのである。
![]() ![]() カイロのイブン・トゥ-ル-ン・モスク 平面図と内部
このプランの原形が どこにあったかといえば、エジプトに現存する最古のモスク、イブン・トゥールーン・モスク (876-879) であったろう。アッバース朝のアフマド・ブン・トゥールーン将軍は バグダードから派遣されてエジプトを征服すると、自ら トゥールーン朝を開き、故国のレンガ造の技術を持ち込んで 大モスクを建てた(エジプトには 石造建築の伝統があったのに)。以後の エジプトのモスク建築のモデルとなった アラブ型モスクで、そのプランが カイロから、マッカ巡礼路をへて ジェンネに伝えられたと見られる。あるいは、カイロから建築家を招いたのかもしれない。 ジェンネの尖頭アーチのアーケードは 土のアーチであるから、崩壊しにくくするために、カイロよりも ずっと尖っている。それだけ 天井を高くして、垂直性の強い空間としている。こうした縦長の通路状空間の並列のみで 成り立っているモスク空間というのは、土の文化圏以外では 決して見ることがない。また、イブン・トゥールーンと違って、マリでは独立したミナレットを建てず、ミフラーブ上の塔を それに充てたことは、見たとおりである。
![]() さて、マリで最も人口に膾炙(かいしゃ)した町は、「黄金の都」ティンブクトゥである。(西アフリカを植民地化したフランスは「ティン」の音をフランス語にもたない故に、「トンブクトゥ」(Tombouctou)と発音し綴ったので、それが現在にまで ヨーロッパでは流布している。)サハラ砂漠の南端と、湾曲するニジェール川の北端との接点に位置するので、北アフリカからのラクダの隊商と 南からの水上輸送との結合点にあたり、ジェンネと並ぶ交易都市として、14〜16世紀に とりわけ繁栄した。最も重要な取引は、北からの岩塩と 南からの金との交換であった。 マリ帝国の絶頂期の王(マンサ)・カンカン・ムーサーが 1324年から 1年半かけてマッカに巡礼した際、その道中 およびマッカで 金を湯水のごとくに使ったということから、「黄金の帝国マリ」の噂が ヨーロッパにまで広まった。その黄金を求めて、16〜19世紀の数々の冒険家が アフリカへ、マリへと旅して、ある者は途中で死し、ある者は黄金のかわりに さびれた貧しい街をそこに見出した。そうしたヨーロッパ人が ティンブクトゥに住んだ家には プレートが掲げられている。黄金はなかったけれど、ティンブクトゥは 15、16世紀に イスラーム世界の学問の中心地のひとつとして栄えた町でもあった。1988年に ユネスコ世界遺産に登録されている。
![]() ![]() ティンブクトゥの ジンガリ-ベル・モスク ティンブクトゥには 14〜15世紀の創建と言われる3大モスクがあるが、もちろん現在の建物は 当時のものではなく、何度も崩壊、修復、再建を繰り返してきたもので、どこまで原形を伝えているのかは わからない。最大のものは ジンガリーベル・モスクで、これはマッカ巡礼から戻る途次、カンカン・ムーサー王が カイロで大金を積んで 請うてマリに招じた、アンダルシア出身の建築家であり 詩人でもあった アブー・イスハク・アッサヒリに、1325年から 1330年にかけて建てさせた と伝えられている。 アッサヒリは ダマスクスの大モスクを手本にしたというが、現在のものは そう見えない。また 彼は王の宮殿をも建てたというが、これは まったく残っていない。 現存するジンガリーベル・モスクは、ミフラーブの上の塔が、突き出した多くの木の棒(トロン)によって目立ちはするものの、建築的に特別のものは 見出せない。外観の表現も控えめである。 礼拝室に 100本ほどの柱が林立するのは、ジェンネと同様。 大モスクでありながら、派手な三塔式ではなく 単塔式であるのが、古式を伝えているのだろう。その塔は 道路に面しているのではなく、中庭に面している。ということは、中庭は前庭ではなく、後庭なのである。また、このモスクのみ 焼成レンガで建てられているともいうが、筆者は未確認。後庭で工事をしている現場を見ると、野石を積んでいた。
![]() ![]() ティンブクトゥの サンコ-レ・モスクと シディ・ヤフヤ-・モスク
サンコーレ・モスクは ジンガリーベル・モスクよりも規模が小さいが、創建は 12世紀末というから、西アフリカ最古のモスクということになる。それだけに天井も低く、ミフラーブ上の塔が ピラミッド状をしているのも アルカイックな印象を与える。北側部分が近年の再建であるように、全体が どれほど古式を保っているのかは不明である。ここには 学校(大学)が併設されて、学問の中心地となった。 こうした 創建の古い大モスクとは対比的に、近世の大型モスクは ジェンネの大モスクを真似て、高さを上げ、ファサードを三塔式として、立派に見せようとする傾向がある。ニジェール川とバニ川の合流点に位置するモプティは マリ第2の都市で、首都バマコと ティンブクトゥ、あるいはガオとの中間に位置し、陸路、水路とも マリの交通の要衝となる繁華な商業都市である。この都市の発展とともに、ジェンネは交易上の重要性を失い、ローカルな歴史都市となっていったのだった。
![]() モプティのコモゲル・モスク 平面図 1933年に建てられた モプティの コモゲル・モスクは、ジェンネの大モスクを模している。しかし市街地の中で 敷地が狭いためであろう、中庭を備えていないので、車の行きかう街路に じかに面している。ジェンネと同じように アラブ型の列柱ホールであるが、現代のものであるだけに、屋根にはコンクリートのスラブを用いているらしく、柱はずっと細くなり、また上部はアーチになっていない。
![]() ![]() モプティの コモゲル・モスク(三塔式)
ジェンネと 何よりも ちがうのは、派手な三塔式のファサードを見せているにもかかわらず、それらの塔が ミフラーブと無関係なことである。今まで見てきたように、マリのモスクの塔は ミフラーブの屋上に立てた 角状の突起が発展してできたもので、ジェンネではミフラーブが3ヵ所あったがために 三塔式のファサードとなったのである。ところがモプティでは ミフラーブと関係なく、ただ繁華な通りに面する西側のファサードを立派に見せるためにのみ、三塔式に飾り立てた。ミフラーブは東側にあるのだから、これは一種の伝統の 皮相的な形式化である。
ティンブクトゥとモプティにおけるような対比は、ローカルなモスク建築においても見られる。ジェンネに近い シルム村のモスクは、村のモスクとしては大きく、特に幅が広い ダマスクス型をしている。外壁の上には 多くの角を立ち並べているが、しかしミフラーブは1ヵ所であり、塔も一つである。この表現派風の外観は、素直な建築の生成なのであった。内外とも装飾がなく、土一色で造られている。
![]() ![]() シルム村のモスク (単塔式) これに対して、村の小モスクであっても、派手な造形で 三塔式のものが 近年建てられるようになった。とりわけ目を引くのが、ドゴン族のモスクである。ドゴン族というのは、マリの中央部のバンディアガラ山系の麓に 点々と村を営む部族で、その壮大な神話体系と習俗、仮面の踊りなどで世界に知られている。かつては山の断崖の中腹に 土の集落を造って、狩猟採集の生活をしていたが、森林の減少とともに麓に降りてきて村をつくるようになり、現在では農耕生活を送っている。
![]() ![]() ドゴン族の断崖住居群と、バグル村 その文化の特異性から 世界の注目を集め、観光客がやってくるようになると、その観光収入をもとに、観光客を意識した、派手なモスクをつくるようになった。あまり観光客の訪れない 北方の村々のドゴン族は 昔ながらの部族宗教(アニミズム)を守っているが、南方のドゴン族は 急速にイスラーム化し、どこの村にも モスクがある。古いモスクは 前記の村々の小モスクと同様であったが、近年は 村の外側に 新しいモスクを建てるようになった。
![]() ![]() ドゴン族のテリ村のモスク(三塔式) テリ村や カニコンボレ村のモスクは、小モスクであるにもかかわらず、ミフラーブを3つ設けて後部に突き出させ、三塔式にしているし、外壁には「角出せ槍出せ」式に起伏をつけて「造形的」にしている。また、壁面から突き出る 木の棒にさえも 彫刻をするようになった。小モスクを過度に飾りたてると、まるで砂糖菓子のような印象となる。いわば、ヨーロッパにおける ロマネスクからバロックへの建築史の変化を、土でなぞっているかのごとくである。
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下の写真は、現地で購入した マリのドゴン族の彫刻であるが、どこか日本の埴輪と銅鐸を思わせるものがある。こうしたアルカイックな彫刻と同じような印象が モスク建築にもあって、というよりも、埴輪や銅鐸が弥生の造形だとするなら、マリのモスク建築は縄文の造形ではなかろうか。弥生的な繊細な装飾性には欠けるが、縄文土器や土偶のような、生命の発露のような 力強さがある。(縄文時代の土偶には、マリの彫刻と区別のつかないようなものもある。)
![]() ( 2009年 12月 2日) |