ISLAMC ARCHITECTURE of BULGARIA
ブルガリア(東欧)
ブルガリアイスラーム建築

神谷武夫

ソフィア
ソフィアの バーニャ・バシ・ジャーミヤ


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2018年に丸善出版から、翌年秋に出版予定の『東欧文化事典』(編集代表:羽場久美子・青山学院大学教授)という本に、標記の原稿を依頼されました。翌年春に原稿を送りましたが(マフィアによる妨害もあったりして)、編集は遅れに遅れ、編集担当者も交替し、本の題名も『 中欧・東欧文化事典 』と変更になり、2021年9月になって、やっと本ができたようです。しかし執筆者は大勢なので、出版社としては一人一人に本を支給することは できないと言います。「抜き刷り」さえも 送ってきません。雀の涙ほどの原稿料よりも はるかに高い値段の本を買う気はないので、私は まだ本の現物を見ていませんが、私の原稿の内容は、この HP上の『東欧のイスラーム建築』のダイジェスト版といった趣の 短文です。『イスラーム建築の名作』のページに載せるのも いささか気が引けますが、『東欧のイスラーム建築』のサイトへの手引きとして、ご覧ください。    ( 2021 /10/ 01 )



 約500年間を イスラームのオスマン朝に支配されてきたブルガリアは、19世紀後半に 衰亡したオスマン帝国から独立すると、もともとのキリスト教(正教)に復帰してしまったので、それまでの長い間に建設された 膨大な量のイスラーム建築は遺棄され、破壊され、他の用途に改変されたりして、その大部分が失われてしまった。21世紀になって国情が安定すると、その歴史的遺産としての価値が 認識されるようになり、生き残った建物の修復や保存活動が 行われるようになった。しかしその量は、かつて建設されたものの 数パーセントにすぎないし、イスラーム時代のブルガリア建築史は あまり研究されていず、出版もされていない。今のところ、保存されたわずかな建物だけから 全体を推定するほかはない。

エディルネの セリミエ(トルコ)

ブルガリア建築のオスマン化

 トルコのオスマン朝が 1453年に コンスタンチノープル(現在のイスタンブル)を陥落させて ビザンツ帝国を滅ぼす以前、1361年に、ヨーロッパ側のアドリアノープル(現在のエディルネ)を奪取して、イスタンブルを帝国の首都とする以前は ここを首都とし、そこを基点に 東欧に勢力を伸ばしていった。エディルネは 今もトルコ共和国の最西部の都市で、ブルガリアとの国境までは わずか10kmの位置にあり、しかも オスマン建築の最高傑作、建築家(ミマル)シナン(Sinan)が設計した セリミエ(セリム2世のモスク)の所在地である。東欧への軍事的進撃とともに、ここから 建築的影響も広げていったので、ブルガリア建築のオスマン化は この頃に始まった。

プロヴディフの ジュマヤ・ジャーミヤ(金曜モスク)

 貿易を通じてや、スーフィー修行者の活動によって「下からの」イスラーム化をした 中国やインドネシアでは、イスラーム建築は 土着の建築的伝統に従って 新しいイスラームの機能の建物を建てていくことになるが,イスラーム国家によって征服された地域では 権力者による「上からの」イスラーム化が行われるので、建築もまた「宗主国」の建築様式で建てられることになる。ブルガリアのイスラーム建築は、トルコ建築と ほとんど区別がつかないほどに、オスマン化した。不思議なのは、通常 征服地では 初めのうちは 現地の建物を取り壊して、その部材でモスク(礼拝所)やマドラサ(学院)などを建設するので、その過程で現地の建築的伝統とイスラーム建築の原理が 融合していくものだが、それがブルガリアには あまり見られない。

 イスラームというのは 他宗教に対して 概して寛容な宗教であるが、ブルガリアでは特に そうだったのか、キリスト教徒に 改宗を迫らなかったし、異宗教の建物の破壊を あまりしなかったようである。また隣国であるから、トルコの建築家や職人の来住も 容易だったのであろう、インドにおけるような「ブルガリア風イスラーム建築」というのは 成立しなかった。またムスリム人口も多くなかったし、トルコからの独立宣言を行うような王朝も 興らなかったから、巨大なモニュメント建築というのも作られず、残されたものを見るかぎり、ブルガリアのイスラーム建築というのは オスマン建築のミニチュア版であると言って過言でない。

シューメンのトンブル・ジャーミヤ

イスラーム建築の遺産

 モスクは ブルガリア語ではジャーミヤと言い、最大のモスクは シューメンのトンブル・ジャーミヤ(1744)であるが,エディルネのセリミエの 半分ほどの規模である。純木造のモスクは残っていず、すべてのモスクは トルコ型のシングル・ドームで覆われ、鉛筆型のミナレットも ミフラーブも ミンバル(説教壇)も オスマン様式である。他の建築種別としては、城塞、ハンマーム(公衆浴場)、ベデステン(マーケット)、チェシュマ(泉亭)、そしてスーフィーのテッケなどがある。テッケというのは スーフィーの修道場であったが、聖人の廟のみが残る。珍しいのは、各地に残る近代の時計塔である。

オスマン・ババのテッケ、テケト



参考文献:A GUIDE TO OTTOMAN BULGARIA : Dimana Trankova,
Anthony Georgieff, Hristo Matanov, 2011, Vagabond Media




(執筆:2019/05/28, 『中欧・東欧文化事典』発行:2021/09/02, 丸善出版)




ブルガリアの建築について 詳しくは、
東欧のイスラーム建築」のサイトをご覧ください。


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