ブルガリアのイスラーム建築 |
神谷武夫
トルコのオスマン朝が 1453年に コンスタンチノープル(現在のイスタンブル)を陥落させて ビザンツ帝国を滅ぼす以前、1361年に、ヨーロッパ側のアドリアノープル(現在のエディルネ)を奪取して、イスタンブルを帝国の首都とする以前は ここを首都とし、そこを基点に 東欧に勢力を伸ばしていった。エディルネは 今もトルコ共和国の最西部の都市で、ブルガリアとの国境までは わずか10kmの位置にあり、しかも オスマン建築の最高傑作、建築家(ミマル)シナン(Sinan)が設計した セリミエ(セリム2世のモスク)の所在地である。東欧への軍事的進撃とともに、ここから 建築的影響も広げていったので、ブルガリア建築のオスマン化は この頃に始まった。
貿易を通じてや、スーフィー修行者の活動によって「下からの」イスラーム化をした 中国やインドネシアでは、イスラーム建築は 土着の建築的伝統に従って 新しいイスラームの機能の建物を建てていくことになるが,イスラーム国家によって征服された地域では 権力者による「上からの」イスラーム化が行われるので、建築もまた「宗主国」の建築様式で建てられることになる。ブルガリアのイスラーム建築は、トルコ建築と ほとんど区別がつかないほどに、オスマン化した。不思議なのは、通常 征服地では 初めのうちは 現地の建物を取り壊して、その部材でモスク(礼拝所)やマドラサ(学院)などを建設するので、その過程で現地の建築的伝統とイスラーム建築の原理が 融合していくものだが、それがブルガリアには あまり見られない。 イスラームというのは 他宗教に対して 概して寛容な宗教であるが、ブルガリアでは特に そうだったのか、キリスト教徒に 改宗を迫らなかったし、異宗教の建物の破壊を あまりしなかったようである。また隣国であるから、トルコの建築家や職人の来住も 容易だったのであろう、インドにおけるような「ブルガリア風イスラーム建築」というのは 成立しなかった。またムスリム人口も多くなかったし、トルコからの独立宣言を行うような王朝も 興らなかったから、巨大なモニュメント建築というのも作られず、残されたものを見るかぎり、ブルガリアのイスラーム建築というのは オスマン建築のミニチュア版であると言って過言でない。
モスクは ブルガリア語ではジャーミヤと言い、最大のモスクは シューメンのトンブル・ジャーミヤ(1744)であるが,エディルネのセリミエの 半分ほどの規模である。純木造のモスクは残っていず、すべてのモスクは トルコ型のシングル・ドームで覆われ、鉛筆型のミナレットも ミフラーブも ミンバル(説教壇)も オスマン様式である。他の建築種別としては、城塞、ハンマーム(公衆浴場)、ベデステン(マーケット)、チェシュマ(泉亭)、そしてスーフィーのテッケなどがある。テッケというのは スーフィーの修道場であったが、聖人の廟のみが残る。珍しいのは、各地に残る近代の時計塔である。
参考文献:A GUIDE TO OTTOMAN BULGARIA : Dimana Trankova, (執筆:2019/05/28, 『中欧・東欧文化事典』発行:2021/09/02, 丸善出版)
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