学院(マドラサ、メデルサ) |
イスラームの教育機関には初等教育を受けもつ「クッターブ」と、高等教育を担う「マドラサ」があった。前者は日本の寺子屋に相当し、読み書き算盤(そろばん)とクルアーンの暗誦を旨とする。エジプトでは給水所(サビール)の上階に設けられることが多く、町のいたる所に サビール・クッターブ がある。後者のマドラサ(学院)はクルアーン諸学やハディース学の学習と研究を主としながら、言語学や哲学、数学、天文学なども教授されたので、ヨーロッパで発達する大学に相当する。時には医学を教える専門学校(医学校)なども設けられた。
制度としてのマドラサが発達したのはイラン東部のホラーサーン地方である。アッバース朝の10世紀頃のことであるから、ヨーロッパの大学よりもだいぶ早かった。それまでは(あるいはその後も)モスクが教育の場に用いられた。
アレッポのザーヒリーヤ学院 (From "Islamic Architecture", R. Hillenbrand, 1994)
このように ペルシア圏で発達したことによって、マドラサの建築形式は ペルシア型モスクに倣った 四イーワーン型式をとるのが基本となった。中庭を1層または2層の回廊的な小部屋群が囲み、それぞれの辺の中央にある イーワーンの半外部空間が、中庭を介して向かい合う。小部屋群は 教授と学生の寮室で、ほとんどのマドラサは 全寮制であった。内部の教室のほかに イーワーンも主要な講義の場で、背を壁に もたせかけて座る教授を 学生たちが取り巻いて床座した。4基のイーワーンは、スンナ派の四法学派(ハナフィー、マーリク、シャーフィイー、ハンバル)を表していると、しばしば こじつけ的な説明が行われている。 現在も多くのマドラサが残るのは 中央アジア、シリア、モロッコ、エジプトで、それぞれに建築のスタイルが異なっている。中央アジアのブハラ、ヒヴァ、サマルカンドでは、モスクよりもマドラサのほうが 数が多いくらいである。とくに天文学者でもあった ティムール朝のウルグ・ベク(1394-1449)は、学芸を保護して 多数のマドラサを建てた。すべてのマドラサはレンガ造で、正面に堂々たるピシュタークを構えた四イーワーン型のマドラサは、彩釉タイルでカラフルに飾られている。 シリアでは 12世紀にザンギー朝の君主ヌール・アッディーン(1118-74)が 十字軍に対抗するための精神的基盤をつくるために、多くのマドラサを アレッポやダマスクスに建設したので、これらを ヌーリーヤ学院と総称する。それより少し時代が下るが、ここに掲げる アレッポのザーヒリーヤ学院に見られるように、シリアに移植されたマドラサは 石造となり、四イーワーン型式は やや崩れることになる。 モロッコのマドラサは イブン・ユースフ学院で見たように、壁面が腰壁のタイル、中間のスタッコ、上層の木部と3層構成をとる。四イーワーンは ペルシアのような奥行の深い半外部空間をもたずに フラットな開口部となり、奥のイーワーンが 礼拝室の入口となる。 エジプトでは最大規模の スルタン・ハサン学院 が 変形四イーワーン型式で聳え立っているが、多くのマドラサは モスクや廟など、他の用途の建物と組み合わされていることが多い。トルコのキュリエの場合もそうであって、エディルネのバヤジト2世のキュリエ には 癲狂院と組み合わせた医学校が設けられている。これらすべては アーチとドームを連ねて、厳格な幾何学で組み立てられた。
( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)
● マラケシュのイブン・ユースフ学院(モロッコ)については、 |