ブルゴーニュ・ロマンの代表作
フランスのロマネスクの中でも、とりわけロマネスクらしい、くっきりとした建築と彫刻の姿を見せてくれるのは 山国のブルゴーニュ地方と オーヴェルニュ地方であろう。そのブルゴーニュ・ロマネスクの中でも、ヴェズレーのラ・マドレーヌ聖堂は 大きすぎもせず、小さすぎもせず、訪れる人の身丈にあったスケールの 清澄な内部空間と、珠玉のロマネスク彫刻とで迎えてくれる。
その昔は 聖ベルナールが第2回十字軍を結集させて ここから出発させた地であり、またスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラへの 巡礼の旅の出発点の一つでもあったが、今では小さな丘の上に ひっそりとたたずむ、人口が千人にも満たない小村にすぎない。
村は丘の峰に沿って長く延び、村の建物は メイン・ストリートにつく房のように立ち並んでいる。その中には、若き日に読んで感動した「ジャン・クリストフ」の著者 ロマン・ロランが最晩年をすごした家もあり、その旨を書いたプレートが取りつけられている。この道を丘の頂まで登りつめると、周囲の谷を見晴らす台地に、このラ・マドレーヌ聖堂が聳えている。
ラ・マドレーヌ聖堂のファサード
創建は9世紀に遡り、マグダラのマリア(仏語で サント・マリー・マドレーヌ)の遺体を祀っている と称したために 多くの巡礼者を迎えた。1120年に火事で焼失し、ただちに再建されたのが現在の建物で、身廊の完成後にナルテックス(玄関廊)の部分が付け加えられた。
後に、本当のマドレーヌの遺体は他の地にあると知れて凋落し、19世紀半ばには ほとんど崩壊寸前の状態となっていた。これを修復したのが 若き建築家、のちにフランスのゴチックの権威となる ヴィオレ・ル・デュクで、そのおかげで 我々は 現在も この高貴な聖堂を見ることができるのである。
ナルテックスの扉口と ロマネスクの身廊
ナルテックスから身廊へ
聖堂のファサードは 左の鐘楼が失われている上に、ほとんど全体が再建に近い修復なので、我々が彫刻を賞味するのは 内部に入ってからである。三廊式の聖堂なのに 奥行きが異常に長く、全長は 120mにも及ぶ。ナルテックスに3スパンもの奥行きがあるのも異例であるが、ここから身廊への入口部分にロマネスク彫刻の最高傑作の一つと言われる タンパン彫刻がある。
タンパンとは ギリシア建築に由来し、切妻の三角破風の部分(彫刻パネルで飾られていた)のテュンパヌムという名称が フランス語になったもので、ロマネスクでは 扉口上の 半円アーチで囲まれた部分をいう。洗礼者ヨハネが立つ中央柱の上に、キリストを中心にした聖霊降臨の構図が描かれ、神の祝福を受ける さまざまな生き物が彫刻されている。
平面図 (From "Bourgogne Romane" Zodiaque, 1974) と、クリプト
この堂々たる扉口を くぐって中に入ると、そこには奥行きの深い、安定感に満ちた身廊が延びている。その安定感とは、左右の柱を結ぶ横断アーチが 半円形をしていることによるが、そのアーチが 濃淡二色の石による だんだら模様をなしていて、これが繰り返されることによって 軽やかなリズムが与えられている。
この だんだら模様の起源は イスラム建築、さらには それに影響を与えたビザンチン建築にあり、それがスペインのコルドバのモスクを通って、はるばると 北フランスのヴェズレーにまで伝えられたのである。
ゴチック様式の内陣部
ロマネスクからゴチックへ
この身廊の清澄感は また、通常のロマネスクの暗さとは異なった 十分な明るさからもくる。両側の側廊の上をギャラリーにせずに 外部にしたことによって、高窓から直接外光をとっているからである。ところが、それよりも もっと明るい光に満ちた空間が一番奥に見える。それは 数十年後に増改築された内陣部が ゴチック様式で作られたからである。
その数十年の間に、パリを中心とするイル・ド・フランス地方では、石造技術の発展によって、尖頭アーチ とトレーサリーを用いた 大きな窓開口を連続的にとる ゴチック様式が開花していた。
ヴェズレーでは 早くもその初期ゴチックを ロマネスクに接続させたのだったが、そのことが 既存の身廊を損なうものではなく、逆に 両者のほどよいコントラストによって この聖堂の内部空間に、単一の様式を超えた調和的な美がもたらされたのは 僥倖であった。
( 2004年8月 "EURASIA NEWS" )
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