TANKS AND HAMMAMS
インド圏イスラーム圏
タンクハンマーム
神谷武夫
ケルマーン
19世紀の版画による チャールオール浴場、イスタンブル

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「トルコ風呂」と、インドの「ガート」

 「トルコ風呂」という言葉が本来の意味とは異なった、いかがわしい風俗営業に用いられる状態に抗議の声が起こって、この言葉が日本から追放されることになったのは、やっと昨年のことである。けれど この言葉があれほどに普及したのは全くいわれが無いわけではない。つまりトルコの公衆浴場というのは、世界の浴場建築史の中でも とりわけ高度に発展し、トルコ帝国中に遍く建てられたことによって、世界中にその名を高めたからである。そうしたトルコ風呂を含めて、インドとイスラム文化圏における浴場建築の諸相を、実例を訪ねながら、以下に概観してみたいと思う。

ヴァーラーナシー(ベナレス)のガート

 さて 我々が「入浴」と言えば、それは「温水浴」を意味していようが、世界中で常にそうであるわけではなく、「冷水浴」もまた入浴である。日本のように寒い国では、外気から遮断された浴室で 湯を浴びるのが一般的だが、インドのように熱い国では、古来水浴びが入浴の中心となってきた。水を浴びる場所は、近くに海や河川、湖沼があれば そこを用いる。有名なヴァーラーナシー(ベナレス)の都は ガンジス河に沿って細長く伸び、どの道も階段状になって河へと連なっていて、この段状テラスを「ガート」と呼ぶ。人々は夜明けとともに ガートへと降りてゆき、対岸に昇る朝日(それはスーリヤ神である)を拝み、川に入って口をすすぎ、歯を磨き、体を洗い、着ているものを洗濯し、聖なる水を壺に汲んで 家へと戻っていく。この風景を眺める者は、さながら タイムカプセルで数千年を遡(さかのぼ)り、古代世界へと運ばれたかのような 錯覚を覚えるだろう。

モヘンジョダーロの大浴場

 自然の水源から離れている土地では、人工の池や湖を築いて「沐浴場」とする。これらは「タンク」と呼ばれるが、この周囲にも 階段状のテラスが作られ、湖のように大きなタンクで 日がな一日洗濯をする女たちの姿が見られる。そうしたタンクの 最古の実例は、インダス文明の都であった モヘンジョ・ダーロの遺跡の中央部に位置する「大浴場」である。13m×8mに、深さ 2.7mのプールは 焼成煉瓦で造られ、防水が施され、排水設備も完備している。世界の古代文明の中でも、インダス文明はエジプト文明と際立った対比的性格を見せていて、現在我々が見る古代エジプトの遺跡は ほとんど総てがファラオの募廟や神殿であるのに対して、モヘンジョ・ダーロには 決定的に神殿や宮殿とみなされるものが 全く無い。発掘されたものは 街並みであり、庶民の住居群であり、井戸や穀倉であり、整った下水施設である。とは言え、ここに 宗教が無かった筈もないから、この五千年前のシンボリックなタンクは 単なる浴場ではなく、宗教的儀式に用いられた浴場であろうと推測されている。

スーリヤ寺院の タンク、モデラー(インド)

 こうした性格の浴場は 後のヒンドゥ文化時代にも受け継がれ、大きな寺院は その境内に 美しく作られたタンクを備えるのを常とした。つまり、神の前に額づくには 身体の清浄を必要とするので、沐浴場が七堂伽藍の一要素とも見られるのである。これらのタンクには屋根が無いので、これを堂と呼ぶわけにはいくまいが、その代わりに 四周から水面へと降りていく石造の階段が 造形的な工夫の対象となる。そうしたタンクの中で 最も華々しいのは、モデラーのスーリヤ(太陽神)寺院に献じられた寺院に 付属するタンク(この地方では「クンダ」と言う)であろう。これは寺院本体の規模に比して 甚(はなは)だ大きく(約 30m×50m)、その階段は まっすぐに水面に向かうだけでなく、直角方向に降りたり テラスを作ったりし、随所に小祠堂を嵌め込み、神像を安置するといった、実に手の込んだ「建築作品」に仕立てられているのである。

チダンバラムの ナタラージャ寺院(インド)

 南インドには、タンクの造形自体は それ程高度でなくとも、周囲の伽藍と密接に からみ合いながら、今なお 生き生きと用いられているものが多い。上図は チダンバランの大寺院のタンクであるが、南インドに一般的な回廊で囲まれ、背後には9層に聳え立つ ドラヴィダ様式のゴプラ(寺門)が 我々にエキゾチックな印象を与える。乾季の乾燥したインドを旅する時、こうしたタンクの水面に接すると ホッとするような安堵感を覚えるものである。

蓮華浴場(王の浴場)12世紀、ポロンナルワ(スリランカ)

 寺院の付属ではない浴場としては、スリランカの古都ポロンナルワに残る『蓮華浴場』が挙げられよう。見事な切り石が 八弁の蓮の花を象(かたど)るこの小浴場は、12世紀に パラクマバフー1世の建造になるものという。ここにも屋根は無いが、王侯が入浴するときには 周囲に幔幕を張ったことでもあろう。

イランのハンマーム

 インドに屋根付きの温浴場が 建物として作られるのは、イスラム文化の流入以後である。アラビアの地では ヘレニズム文明の影響も受け、早くから 浴場建築を発展させていた。その根拠となるのは、イスラム教の聖典『コーラン』の第5章6節である。

「信ずる人々よ、おまえたちが礼拝にたつ時には、顔を洗い、肘まで手を洗い、頭を拭(ぬぐ)い、くるぶしのところまで 足を洗え。おまえたちが 身の穢(けが)れの状態にあるならば、とくに身を浄めよ。」

 イスラムのモスクでは 前庭や中庭に必ず 石造の泉が備えられていて、礼拝に来た信者たちが そのまわりに腰かけて 身を浄めているのが見られる。これは 日本の神社の手水(ちょうず)のような 形式的なものではなく。まるで風呂に入ってでもいるかのように、コーランに書かれている順序で 体をゴシゴシと洗うのである。

ケルマーンの ガンジェ・アリ・ハーン浴場(イラン)

 イスラムの町に不可欠の要素は、まず礼拝の場であるモスク、教育施設であるマドラサやクッターブ、市場としてのスークやバーザール、それに「ハンマーム」と呼ばれる公衆浴場である。もともとは コーランの要請で出発したハンマームも、次第に日本の銭湯にも似た「娯楽場」、あるいは「社交場」という機能をも併せて 津々浦々に建設された。特に社会的自由度の少ないイスラム女性にとっては、1~2週間に1度行くハンマームは 大きな楽しみで、今でも 着替えのほかに 弁当まで持って お喋(しゃべ)りをしに行くらしい。


カーシャーンにある ハジ・サイイド・フサイン浴場の平面図
( From "Architecture de l'Islam" by Henri Stierlin, 1979 )

 建築史の上で特に名高いハンマームを、ペルシアとトルコを比較しながら見てみよう。イランのケルマーンに残る『イブラーヒーム・ハーン浴場』は、近年すっかり修復されて 文化財となっている。上図はカーシャーンにあるハジ・サイイド・フサイン浴場の平面図であるが、ケルマーンのものとほぼ同一で、典型的な ペルシア型ハンマームを示している。入口は 屋根付きバーザールの商店街に面しているが、これ以外は 周囲を街の雑多な建物に囲まれてしまっているので、建築の外観というものを見ることがない。

トルコのハンマーム

  
ハッセキ・ヒュッレム浴場、1556年、イスタンブル(トルコ)

 一方、トルコのハンマームとして、イスタンブルの『チャールオール浴場』のほかに ここに選んだのは、16世紀の トルコ史上最大の建築家・シナンが設計した『ハッセキ・ヒュッレム浴場』である。これは甚だ大規模なもので、全長75mにも及ぶ。ハンマームは通常 同じ建物を時間帯、あるいは曜日によって 男性と女性の使用を分離しているのだが、ここでは初めから「男湯」と「女湯」を背中合わせに並列させているのである。男湯は 堂々たる柱列のポーチを備え、ここから直径15mの大ドームが高さ20mに架かる 大ホールへと入る。ここには番台があり、四周のベンチは 入浴後のコーヒーを飲む休憩所となり、また脱衣も ここで行う。ただしハンマームでは、人は全裸にならない。必ずパンツと腰巻きをつけて「入浴」するのである。中央の泉では タオルが洗われて壁際に吊るされる。

ハッセキ・ヒュッレム浴場、1556年、断面図と平面図
( From "Soliman et l'Architecture Ottomane" by Henri Stierlin, 1985 )

 次の3連ドームの細長い部屋は 暖かい中間室で、この背後に 便所がある。更に奥へ進むと「発汗室」(蒸し風呂)で、中央ホールを囲んでア ルコブや個室が並ぶ。総ての床やベンチは大理石で作られているが、中央の壇は特別豪華に 色石のモザイクで飾られていて、この上に横たわって 湯夫(三助)に垢をとってもらったり、マッサージをしてもらったりする。勿論イスラム社会であるから、男湯には男の湯夫、女湯には女の湯夫しかいない。男湯から女湯にかけて 背後にある細長い部屋は 風呂の焚き口(炉室)である。

 これほど立派ではなくとも、トルコ式公衆浴場は オスマン帝国の拡大に伴って東欧やアフリカにまで 広く建設された。今でも使われている有名なものとしては、ハンガリーのブダペストに残る『ルダス浴場』が知られている。19世紀には 西欧におけるオリエント趣味が 多くの「トルコ風呂」の絵を生んだが、ルーヴル美術館にかかるアングルの絵などは、現実とは いささか遠いと言わざるをえない、

スペインとマグリブのハンマーム

アルハンブラ宮殿の "王の浴場"(スペイン)

 イスラム文化圏は、かつては遠くスペインにまで拡がっていた。ダマスクスのウマイヤ朝が亡ぼされた時、その末裔はスペインに逃れ、ここに典雅な「イスパノ・モレスク文化」を花開かせたのである。それを代表するのが、グラナダの町を見下ろす『アルハンブラ宮殿』であって、ここに作られた「王の浴場」は、おそらくイスラム世界で最も華麗なハンマームであろう。上図は その浴場の休憩コーナーで、トップライトからの光を受けながら、石のベンチの上のマットレスを置き、侍女たちにかしずかれながら マッサージの疲れをいやしたのであろう。内装材としては、下の写真で石の素地が見えるのは 床と円柱の大理石だけであって、腰から下はタイルのアラベスク、上部はスタッコ彫刻で覆われ、彩色されている。

ロンダの アラブ浴場(スペイン)

 ロンダの町に残る「アラブ浴場」は 保存が良いとはいえ、ほとんど仕上げが失われてしまった。ここで興味深いのは、この写真が示す空間が まるで三廊式のバシリカ式教会堂のように見えることである。トップライトの存在によって かろうじて浴場であることがわかるのだが、これはイベリア半島における、イスラム文化とキリスト教文化との交流の一側面を示している。

フェスの街角の 泉(モロッコ)

 上図は、スペインの南隣のモロッコの町々における 無数の泉の一つである。街角ごとに備えられた こうした泉は、市民の生活に欠かせない施設で、人々は水を飲んだり、物を洗ったり、ロバに水を飲ませたりするが、モスクの泉と同じように、ここでも人々は体を浄める。ハンマームに行くお金のない人は、ここで体を洗って済ませもしたことだろう。砂漠地帯で生まれたイスラム文化は、水の確保とその供給、そして水面で町や建物を飾り立てるということに 常に意を用いてきた。

チュニス旧市街の、ハンマーム入口(チュニジア)

 グラナダのアルハンブラ宮殿を訪れる人は、建物の外観が まるで飾り気のない 荒い石積みであるのに、一歩内部に足を踏み入れるや、まるで別世界のような 華麗できらびやかな部屋々々や中庭が展開するのに驚いてしまう。こうしたイスラム建築の性格は、先ほどのペルシアのハンマームにも よく表れていた。彼らは 建築の外観に威容を与えるよりも、内部の 人間に接する部分をこそ 美しく快適に作り上げたいと願うのである。
 これは実はペルシアというよりはアラブの傾向であって、同じイスラム建築でも、タージ・マハル廟に代表されるような インドやトルコの建築とは 性格を異にしている。イスラム文化圏は あまりに広いので、地域ごとの多様性を抜きにして それを語ることはできない。けれど ハンマームの歴史をたどってみると、イスラム世界全体が どれだけ水を大切にしてきたか、日常生活における快適さや便利さを重視する 世俗的文化であるか、ということが良くわかる。そこでは砂漠の民の、「緑陰に絶えることなく泉水が流れる 楽園」への憧憬が横たわっているのである。

( 1986年6月『ストーンテリア』6号 )


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